弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2011年3月19日

『日欧文化比較』

著者 ルイス・フロイス、    出版 岩波書店

ルイス・フロイスの日本覚書
1. ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔 が犯されないことである。日本女性は処女の純潔を何ら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。
29. ヨーロッパでは、夫が前方を、そして妻が後方を歩む。日本では、夫が後方を、そして妻が前方を行く。
30. ヨーロッパでは、夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分の分け前を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。
31. ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。日本では、望みのまま幾人でも離別できる。彼女たちはそれによって名誉も結婚も(する資格)も失わない。
32. (ヨーロッパでは)墜落した本姓にもとづいて、男たちの方が妻を離別する。日本では、しばしば妻たちの方が夫を離別する。
33. ヨーロッパでは、ひとりの親族が(女)が誘惑されても、(その奪還のため)一族全部が死の危険に身をさらす。日本では、父母兄弟が見て見ぬふりをし、そのことをあっさりと過ごしてします。
34. ヨーロッパでは、娘や処女を(俗世から)隔離すること、はなはな大問題であり、厳重である。日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも、ひとりで行きたいところに行く。
35. ヨーロッパでは、妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の女性は、夫に知らされず、自由に行きたいところに行く。
38. ヨーロッパでは堕胎は行われはするが、たびたびではない。日本ではいとも普通のことで、20回も堕胎した女性がいるほどである。
39. ヨーロッパでは嬰児が生まれた後に殺されることなど滅多にないか、またはほとんどまったくない。日本の女性たちは、育てることができないと思うと、嬰児の首筋に足をのせて、すべて殺してしまう。
45. 我らにおいては、女性が文字を書く心得はあまり普及していない。日本の貴婦人においては、もしその心得がなければ格が下がるものとされる。
54. ヨーロッパでは、女性が葡萄酒をのむなど非礼なこととされる。日本では(女性の飲酒が)非常に頻繁であり、祭礼においてはたびたび酩酊するまで飲む。

どうでしょうか。戦国時代の日本女性について、ヨーロッパの人々が大変驚いたことがよく伝わってきますよね。

(1991年11月刊。6600円)

2011年3月17日

室町幕府論

著者  早島 大祐、    出版  講談社選書メチエ
 この本を読むと、本を読み続けることの大切さを改めて認識させられます。というのも、たとえば足利義満は日本国王に取って代わろうとしたという(王権簒奪論と呼ばれる)学説が有力だと私は思っていました。ところが、この本によると、この王権簒奪説は現在では成立しない学説だというのです。
 足利義満が国内的に日本国王号を使用した形跡はない。当時の幕閣たちのあいだで、明(中国)に臣下の礼をとる日本国王号には反発が強かった。そして、日本国王号は九州方面の戦略上の必要に過ぎなかった。
 足利義満は、どのような手段を用いても明との交易を行いたかった。通交の名義は明側の要請に応えただけであって、義満はあくまでそれに合うように行動したに過ぎなかった。明と貿易さえ出来れば、「征夷将軍」でも「日本国王」でもなんでもよかった。足利義満は天皇になろうとしたわけではなく、また日本国王として権力を行使しようともしていなかった。
足利義満の権力を日本国王と表現するのは、果たして妥当かという根本的な批判が加えられている。明から与えられた日本国王号が内政に直接影響を与えたとは言えないというのが今の学会の共通理解である。なーるほど、そうなのか・・・と思いました。
  遺明船のもたらした財貨はきわめて莫大であった。それによって義満は京都に七重塔という100メートルを超える塔を建てた。応永6年1399年のこと。義満の建てた相国寺大塔は、天下を象徴する塔であると当時、認識されていた。
 義満は、大胆さと繊細さを兼ね備えた人柄であった。応永14年に明からの使節がやって来たとき、義満は唐人の装束で使節を歓待した。義満は当時の規範から自由に、自分がふさわしいと思うかたちで衣装を選んでいた。
 大塔や北山第の造営にみられるように、義満の権力は、まことにスケールの大きいものだった。北山殿として、過去のあらゆる院を超えた権力を手中にした義満であったが、その築き上げたものは、息子義持によって、ばっさり仕分けられてしまった。完成間近だった再建・大塔は、放置され、明との通交も停止された。
 室町幕府を考え直すことの出来る本でした。
  
(2010年12月刊。1800円+税)

2011年1月23日

戦国合戦の舞台裏

  著者 盛本 昌広、  洋泉社 歴史新書y出版
 
戦国時代の人々の暮らしぶりが伝わってくる本です。知らなかった言葉がたくさん出てきて解説されているのも、うれしいことです。
重説(じゅうせつ)は、再度の情報のこと。戦国時代、敵味方の消息を知るのは必須不可欠ですが、虚報の心配もあります。そこで、二重チェックが必要となります。
注進状とは、一般に敵の動きや合戦の結果といった軍事情報や機密情報を記した文書のこと。注進状は、戦国時大名が出陣するのに不可欠な情報であった。
蝕口(ふれくち)は、出陣を決断したとき陣触(じんぶれ)が出されるが、その陣触を伝える役職をさす。触口の下に小触口がいて、この小触口が実際に侍や村落に出向いて命令を伝える。このつたえる役目を果たしたのが定使(じょうし)であった。
 着到(ちゃくとう)とは、古代以来使われていた言葉で、到着したことを意味する。炭鉱でも、同じく着到という用語がつかわれていました。
小荷駄隊(こにだたい)は、編成された兵糧運搬部隊のこと。
腰兵粮は、腰につけた当時の携行食糧である乾飯(ほしいい)のこと。
 後詰(ごづめ)は、味方の城を包囲している敵を後方から攻めるために出陣すること。
信長が兵糧自弁の原則から一歩ふみ出せたのは、兵糧を大量に購入するだけの資金を持っていたから。信長は各地を攻略していき、財政基盤となる直轄領を設定し、同時に堺など有力な都市も支配下に置いて資金を吸い上げた。また矢銭(やせん。軍用金)の納入の強制なども資金源であったと考えられる。
備場(そなえば)は合戦の場のこと。そこでは高声(こうしょう)や雑談(ぞうたん)が禁止されている。兵卒のおしゃべりは禁止されていた。声高は大将が軍勢を指揮するときに発する声のこと。
 仕寄(しよせ)とは、城攻めの手だてを尽くし、徐々に城の中心に迫っていく状況をあらわす言葉。
自落(じらく)とは、自らの意思で城や屋敷から退くこと。
落武者狩りとは、単なる物取りではなく、敵方の通行を封鎖せよという命令を受けて行われていた。
 まだまだ世の中は知らないことばかりですね。
(2010年10月刊。860円+税)

2011年1月13日

「秀吉の御所参内、聚楽第行幸図屏風」

 著者 狩野 博幸、   青幻舎 出版 
 
 昨年(2009年)秋に、新潟県は上越市で初公開された屏風絵が秀吉や秀次そして聚楽第などを描いているというのです。とても珍しい屏風絵なのですが、著者はそれをこと細かく実証しつつ解説してくれます。眺めて楽しく、読んでうれしくなるような本です。
 京都の御所を出て進んでいく行列の中央に天皇しか乗ることの出来ない鳳輦(ほうれん)が描かれている。その輿の上には金銅製の鳳凰が飾られている。なるほど、白装束の者たちが鳳輦をかついで進んでいます。そして、反対側からは、多くの武士たちに守られて進む牛車が描かれている。その牛車には、桐の紋がはっきり見える。
後陽成天皇が聚楽第(じゅらくだい)に行幸したのは天正16年(1588年)4月14日のこと。秀吉が聚楽第をつくったのは京都における政庁を作るためだったが、天皇の行幸もその視野に入れていた。
 秀吉は、天皇の行幸のとき、室町将軍のときの先例を無視して、内裏に御迎(おむかえ)に参上した。そして秀吉は桐紋の牛車に乗って、天皇の乗る鳳輦と向かいあう形で進んでいった。このあたりは、この本に解説とともに屏風絵が拡大されていますので、よく分かります。
秀吉の参内、天皇の行幸は華やかさのなかにも、恐るべき緊張の下に進められた。厳重な警固が張られ、行幸にあたっては、内裏から聚楽第までわずか15町ほどのあいだに6千余人の武士が張りついて警備していた。屏風絵に描かれた武士たちは、いずれも脇差しさえも着していない。
 この屏風絵は、儀式は儀式として描き尽くしながらも、それとは無関係に当時の市中に生きる人々の姿をこと細かに描いている。当時の女性たちが夫の諒解を得ることなく、勝手に外出している様子も描かれている。外国からやって来た宣教師たちが驚いた光景である。宣教師たちは、女性の貞操観念の低さにも呆れている。女性は自由だったのである。日本の女性こそ、世界でもっとも自由な存在であったと知るべきなのだ。女性だけでなく、子どもたちも伸びのびと生きていました。うらやましい限りです。
このようにきらびやかな素晴らしい屏風絵が最近まで広く世に知られていなかったというのは惜しい限りです。一見、一読の価値ある本としておすすめします。
 
(2010年10月刊。2500円+税)

2010年12月31日

戦国鬼譚・惨

 著者 伊東 潤、 講談社 出版 
 
 うまいですね、すごいです。やっぱり本職、プロの作家は読ませます。日本IBMに長く勤めたあと、外資系の日本企業で事業責任者をやっていた人が執筆業に転じたというのです。異色の経歴ですが、きっと金もうけなんかよりも自分の好きなことをしたいと思って転身したのでしょうね。見事な変身です。賛嘆します。私も見習いたいのですが・・・・。
 武田信玄以後の武田家に仕えていた武将たちの、それぞれの生き方が短編の連作として描かれています。どれもこれも、さもありなんという迫真の出来ばえです。
 戦国時代の末端の武士の頭領たちに迫られた決断の数々が、豊かな情景描写とともに再現されていますので、読んでいるうちに、たとえば木曽谷に、また伊奈谷に潜んでいる武将にでもなったかのような緊迫感があり、身体が自然と震えてくるのです。まさに武者震いです。
 武田信玄が追放した父親の信虎が登場し、また、信玄が死んだあとの勝頼も登場します。しかし、この本の主人公は、武田家を昨日まで支えてきて、主君勝頼を見限って裏切っていく武将たちです。そして、それはやむをえない苦渋の選択だったということを理解することができるのです。戦国時代の武将の心理を考えるとき、なるほどそういうこともありうるかなあ・・・・と、参考にできる小説だと思いました。
 ただ、読み終わったときちょっと重たい気分になってしまうのが難点と言えば難点です。でも、戦国武将の気分にどっぷり浸ってみたいという人には強くおすすしますよ。 
(2010年5月刊。1600円+税)

2010年12月22日

村人の城、戦国大名の城

 著者 中田 正光、 洋泉社歴史新書 出版 
 
 北条氏照(うじてる)の領国支配と城郭。こんなサブタイトルがついています。氏照は、今の八王子に城を構えていたようです。そして、村人の城のほうは有名な黒沢明監督の『七人の侍』をイメージするといいとのこと。この映画は時代考証がよく行き届いていて、戦国期の村人の生活や風習が実によく再現されているそうです。
 北条早雲は、実は本人は「北条」を名乗ったことがない。北条を名乗ったのは、二代目の氏綱から。北条早雲は、江戸時代につくられた名前である。実際に呼ばれていたのは、伊勢盛時(もりとき)とか、伊勢宗瑞(そうずい)であった。うへーっ、そうなんですか・・・・。
早雲は一介の素浪人から一国の主にのし上がったというのは間違いで、実際には歴とした家柄であり、中央政府で将軍に仕えて、「申次(もうしつぎ)」という外部の仲介役をつとめていた役人だった。なんと、なんと、思い込みというのは恐ろしいものですね。
滝山城のかつての雄姿が図解されていて、よくイメージが伝わってきます。
 戦国時代、平百姓でも苗字をもった者がいたことは既に知られている。日本人は、昔から識字率も高く、名なしの権兵衛を嫌ったのですね。
武田信玄が信州志賀城を攻め落としたときのこと。城内の兵を攻め立て三千人を討ちとり、その首を志賀城の周りにことごとく晒した。そして城内に残された婦人、子ども、老人を生け捕りにし、意気揚々と甲州へ引き上げた。帰陣してから人身売買市を開き、2貫、3貫、5貫、10貫という値段をつけて売りさばいた。要するに、身代金を得る場になった。捕らわれた者の親類が身代金を支払って生け捕りにされた人たちを買い戻した。これが当時の戦いの現実だった。相手を殺し、領主から名誉の感状を受けるより、生け捕りにして身代金を獲得した方が得だということ。殺さないで身代金を手にすれば、現実の生活は豊かになっていく。
 当時の合戦の実態は、相手の領国に侵入して田植え時の苗代を踏みあらしたり、収穫時の稲を刈り取って強奪することが多かった。さらには、民家に押し入って金目になるものを手当たり次第に盗み、奪い去った。
 当時の戦場は、うまくすれば人身売買で身代金を手に入れられる、大金が入ってくるうれしい稼ぎ場でもあった。二男三男たちが家長(長男)から離れ、積極的に戦場に赴いていった背景には、こうした事情があった。うむむ、そういう実情があったのですか。『七人の侍』も、そんな前提でみると、また認識が深まりますよね。
 ルイス・フロイスは、『日欧文化比較』のなかで、「日本では、ほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うために戦っている」としている。つまり、当時、合戦する狙いは食糧を奪うことにあるといっているのです。
 一乗谷の朝倉氏の支配は100年間続いたが、伝染病の記録がない。いかに一乗谷が衛生的に管理されていた都市であり、住民がすぐれた衛生思想の持主であったか理解できる。城内は馬小屋に至るまで常に清潔が保たれていた。私も、朝倉の一乗谷に行ったことがあります。戦災にあって消滅した町屋が復元されていて、当時の生活を実によくしのぶことが出来ます。
 中世の城が図解され、とても分かりやすく読める本です。
(2010年4月刊。840円+税)

2010年11月 9日

信長が見た戦国京都

 著者 河内 将芳、 出版 洋泉社歴史新書  
 
 この本を読んで最大の収穫があったと思ったのは、本能寺の変についての見方です。著者は次のように述べています。
 信長は光秀に殺されたというよりもむしろ、京都に殺されたといったほうがよいのではないかと思われる。御座所の本能寺に信長が6月3日まで滞在していることが明らかなうえ、その御座所の警固もほとんどなきに等しい状態であったならば、光秀でなかったとしても、信長を討ち果たすこと自体は、それほど困難ではなかったと考えられる。信長の無防備さについては、当時から「御油断」とか「御用心なし」と指摘されていた。信長にとって、京都はそれだけ安全な場所と認識されていたことを意味する。しかし、それは、あくまで信長の認識であって、実際に京都が信長にとって安全だったのかどうかとは別問題であろう。
 信長には元亀争乱以降に身につけていった自らの武力への自信と、その武力を後ろ盾とした支配に対する過信というものがあった。信長が予期もしないほどに「御油断」していたところにこそ、このとき信長が京都で死ななければならなかった最大の原因があったように思われる。
 本能寺の変のあと、京都の人々は光秀のことを主君を殺した謀判人とはとらえていなかった。しかし、ふたたび戦乱の世になることを恐れ、当時、洛中でもっとも安全だった「禁中」(内裏)の中へ逃げ込み、避難小屋を建てて日々を過ごしていた。
 戦国時代の京都は、今と違って天皇の住まいである内裏のすぐそばまで麦畑が迫っていた。かつての市街地には麦畑などの農地の中に上京と下京という二つの市街地が浮かんでいた。左京を洛陽、右京を長安といった。洛陽の中だから、洛中という。
 信長は本能寺をずっと利用・宿泊していたのではない。むしろ、もっと多くは、日蓮宗寺院である妙覚寺を利用していた。信長は洛中に拠点を構えるという意思が薄かった。信長は、延暦寺焼き打ちなどによって京都の人々から恐れられる存在となった。しかし、恐れられる存在となったことは、信長とその軍勢にとって、また京都の人々にとっても決してプラスに働くことはなかった。
 暴力への反動、そして過信した「独裁者」への哀れな末路を思い起こさせる貴重な指摘です。これだから、本を読むのは止められません。
(2009年2月刊。1600円+税)

 秋は春咲きの球根を植え付ける季節です。せっせと庭を掘り返して、チューリップなどを飢えています。これまで畳3枚分ほど、250本は植えたと思います。目標は500本ですので、まだまだです。チューリップ以外にも、ラナンキュラスやフリージア、クロッカスなども植えつけます。周囲にビオラを植えました。パンジーよりも小さな花で、可憐さに惹かれる花です。
 初夏に植えていたピーマンが実をつけていました。すごく固かったのですが、ゆでると美味しくいただけました。日本の食糧自給率はもっと高めるべきですよね。

2010年8月18日

山本五十六

 著者 田中 宏巳 、吉川弘文館 出版 
 
 日本海軍の連合艦隊司令長官として有名な山本五十六提督の実像を仮借なく暴いた衝撃的な本です。この本を読むと、山本五十六っていう海軍提督がなぜ、東郷平八郎と並んで有名なのか、わけが分からなくなります。
 たしかに真珠湾攻撃で華々しい戦果をあげたが、4ヶ月のあいだ勝ち続けたあとは、じりじり後退する一方であり、日本が劣勢に立たされはじめたところで山本提督は早々に戦死したため、敗戦の将にならずに死んだ。だから、山本の名声の根拠は不明なのである。
 ロンドン軍宿会議の当時、日本政府は、国民の存在が視野に入っていたとはとても思えない。うへーっ、なんだか、これって今の日本政府とまるで同じですよね。
強い軍備によって国を守るのも国家のためだが、国の財政負担を軽減させることも国家のためであり、どちらも国家のために欠かせなかった。海軍軍人は軍備にしか関心がなかっただけでなく、軍縮が外国との約束事であり、これを破れば国家間の対立を助長しかねないにもかかわらず、海軍軍人が国際通という一般論とは裏腹に、意外なほど国家間の関係に無節操だった。
日本においては、陸海軍におよる航空機開発がまったく別個にすすめられた。これは世界的にみても特異な現象であった。アメリカでさえ国家をあげてやっとB29を完成させたのに、日本では、同じような性能をもつ大型攻撃機の開発を別々にやろうとした。このとき、陸軍が支配的になることを山本五十六が嫌ったため、空軍として独立できなかったし、研究開発が一本化できなかった。山本五十六は歴史の流れに背を向けた。空軍を独立させたとき、その指導権を陸軍出身者がとり、陸軍の用兵思想にもとづく空軍になることを山本たちは危惧した。要するに、組織の縄張り争いであり、人数の多い陸軍にはかなわないが、指導権を取りあげられたくないというのが山本の考えだった。そもそも、山本は海軍航兵隊だけで戦えると錯覚していた。
日本海軍は、日露戦争の教訓をあたかも絶対的公理のように扱い、もっとも近い第一次世界大戦の教訓を究明しなかった。このため、海軍では戦訓研究の発展が妨げられ、戦略戦術思想の研究が停止状態になった。
 日本海海戦から40年たつのに、この海戦の勝利の戦訓を取り入れた「海戦要務令」は高い価値をもつとし、軍機として厳しい秘密扱いを続けた。日進月歩の軍事技術の進歩と古色蒼然たる「海戦要務令」の軍事思想とが矛盾なく整合することはありえなかった。
 山本五十六は革新性にみちた軍人ではなかった。艦隊決戦で大勝利すれば、日露戦争のように講和の機会が訪れると海軍軍人が抱いていた極楽トンボに近い楽観論に近い考えを山本五十六も持っていた。つまり、艦隊決戦にアメリカ海軍を引き込み、これに大勝すれば和平の機会があると山本も日本海軍も考えていた。総力戦では、途中の和平が不可能なことを山本は理解していなかった。
 日本海軍における艦隊決戦主義は宗教の教義みたいなもので、情勢や環境がそんなに変わっても信じられ続けた。技術の進歩や兵器の変化を認めながら、それを駆使する思想を変えようとしない矛盾に気づかない海軍軍人が多すぎた。
 山本五十六が辞職をちらつかせて要求するからハワイ作戦(真珠湾奇襲)にお付きあいはするが、本当は南方作戦が主作戦だから、ハワイ作戦で空母を損傷して南方作戦に支障が出てはたまらないというのが海軍軍令部の本音だった。だから、せっかくのハワイ奇襲も、軍令部や南雲・草鹿らによって肝心な点が骨抜きにされてしまった。真剣に勝利の機会を探し続けた山本が気の毒なほどだ。うへーっ、そうだったのですか・・・・。
昭和17年3月の珊瑚海海戦で、日本海軍が敗退した。このとき、世界初の空母機動部隊戦だった。しかし、歴史に学ばない、戦訓に学ばない日本軍人の性向が、日本の運命を左右することになった。珊瑚海海戦は、日本海海戦のように並行する戦艦中心の敵と味方の艦隊が打ち合う近代海戦を過去のものとし、空母機が相手の艦隊に対して爆弾、魚雷を放つ、新しい戦闘形態に切り替わる転換点だった。
このころ、山本五十六の声望は頂点に達しており、その一言一言がまるで神の声であるかのように海軍内にこだましていた。周囲のそんな雰囲気に山本自身も冷静な観察眼を失っていた。部下たちが浮ついていても、その雰囲気を戒め、失敗を客観視する冷静さこそ司令官の責任だったが、このころの山本には、これが欠けていた。
山本だけでなく、連合艦隊の指揮官に欠けていたのは、歴史の教訓に学ぶ姿勢、時間軸をたどって物事を考える態度であった。
山本五十六がラバウルへ飛行機に出かけるのをアメリカ軍は暗号解読で察知していたのは有名ですが、そのとき日本軍の打った電文は長く、なんと二回も発信したのでした。巡視の準備(たとえば、服装など)まで電文にしていた。これは最前線の緊迫感が欠如していたことの反映である。
なるほど、ですね。山本五十六提督と日本海軍の実像を初めてしっかり知った気がしました。

(2010年6月刊。2100円+税)

 ディジョンから車で1時間ほどかけてフラヴィニ・シュル・オズランという村へ出かけました。フランス映画『ショコラ』の舞台となったちいさな村です。フランスの美しい村の一つに選ばれているというので行ってみました。陸の孤島にポツンと浮かんでいる本当に小さな村でした。小さなスーパーが一つ、カフェが一つしか見当たりません。周囲には平穏な牧草地が広がっています。ところどころ白い牛たちが固まって点在して、いかにものどかな風景です。大きな古い納屋が食堂になっていて、人々が詰めかけ満員盛況でした。私はカフェでワインを一杯飲んでゆっくり休憩しました。
 ここで日本人夫婦とばったり出会いました。やはり同じようなことを考える人はいるものなんですね。

2010年8月14日

日本の城

著者 西ヶ谷 恭弘・香川 元太郎、出版 世界文化社

 日本の城の多くが、カラー国判で詳しい解説とともに紹介されています。見て、読んで楽しい、日本の城の大国鑑です。
 みなさんに、ぜひ一度は現地に行くことを私がおすすめするのは、安土城と一乗谷城です。
 一乗谷(いちじょうだに)は、越前の朝倉氏の本拠地でした。ここは戦国時代に織田信長に滅ぼされ、そのときの戦火にあったまま埋もれていたのです。現在、大々的な発掘調査が進行中です。私が現地に行ったのは、もう10年ほども前になります。ぜひ、もう一度行ってみたいと思います。
 現地には、朝倉義景(よしかげ)の館が発掘されています。また、被官の屋敷が立ち並び、さらには町屋も軒を連ねています。 
 中世の町並みをほうふつさせる貴重な発掘状況です。
 安土城には2度行ってみました。なにしろ、あの織田信長の居城となった安土城です。ルイス・フロイスの「日本日記」にも紹介されている、豪華けんらんのお城です。
 本丸御殿には、天皇を迎えるための御幸(みゆき)の間とあいました。
 羽柴秀吉邸跡とみられる場所もあります。
 天主に向かって幅広い直線一本道の大手門もあります。豪壮な天主閣を仰ぎながら多くの将兵そして町民たちが朝に夕に登り降りした道です。
 天守の跡が頂上に残っています。私は、案外に小さい、狭いと思いました。でも、少し離れたところに天主の一部を原寸で復元した建物があります。それを見ると、やはり壮大な建物だったようです。 
 織田信長が安土城に移る前に居城としていたのは岐阜城です。ここは完全な山城です。ここで、信長は、ルイス・フロイスと3時間も話し込み、世界各国の話を聞いて、大いに満足したといいます。 
 今は金華山とも呼ばれ、昔は稲葉山城とも呼ばれていました。「まむしの道三」が支配する城でした。木下藤吉郎が攻め落としたことでも有名です。
 私もこのお城に登りましたが、あまりに急峻な名山城なので、驚きました。
 「のぼうの城」で有名になった埼玉県行田市にある忍(おし)城には一度行ってみたいですね。石田光成の水攻めに耐えた壁城です。日本のお城めぐりも楽しいですよね。そのときのガイドとして大変役に立つ本です。
 
(2009年6月刊。2800円+税)

2010年8月 7日

長篠の戦い

著者:藤本正行、出版社:洋泉社新書

 長篠(ながしの)の戦いは、戦国時代の日本史に関心のある人で知らない人はいないでしょう。
 1575年(天正3年)5月21日、三河の長篠城外(現在の愛知県新城―しんしろ―市)で、織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍を大敗させた。このとき、信長は、鉄砲隊3千を3段に分け、千挺ずつの一斉射撃を行うことによって、精強を誇る武田の騎馬軍団を撃破した。これが「通説」である。
 この本は、その「通説」がまったく根拠のないものだということを改めて(初めて、というのではなく)実証したものです。私も、改めてなるほど、と思いました。
 この長篠の戦いのとき、信長は42歳で、勝頼は30歳だった。
 通説が誕生したのは、戦前の陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』シリーズによるものだと知って驚きました。
 織田信長には、直属の銃兵のほか、大小の家臣たちが所有する銃兵がいた。つまり、信長直属の常備鉄砲隊があり、このほかに臨時編成の鉄砲隊がいた。常備鉄砲隊は、装備もととのい、火薬などの消耗品も潤沢に支給され、集団訓練も受け、強力だった。しかし、信長だけが鉄砲の威力を理解していたわけではない。鉄砲隊にも二種類あったなんて、初めて知りました。
 信長の「三千挺、三段撃ち」を初めて言い出したのは、江戸初期の儒医であり、作家であった小瀬甫庵(おぜほあん)である。
 しかし、火縄銃を等間隔で連続して射撃することは、一人でも容易なことではない。これが複数になると、等間隔の連続射撃は、いっそう困難になる。まして、実戦の場で3千人が千人ずつ、交替で連続射撃することなど、空想の産物以外の何ものでもない。著者は火縄銃の構造もふまえて、このように断言します。
 火縄銃は、発射準備が、人により、銃により一定しないのである。
 長篠の戦いにおいて、信長は自軍の大兵力を隠そうとしていた。そして、別働隊を勝頼軍の背後にまわした。
 長篠の戦いのとき、柵から押し出したのは徳川勢であり、信長の軍勢は、みな柵の内にひきこもって一人も出なかった。
 要するに、織田信長の「三千挺三段撃ち」というのは、完全な創作なのである。これを実現するには、銃兵のなかから誰一人として死傷者が出ないこと、何発うっても銃の調子が変わらないこと、戦線の端から端まで敵が一斉に射程距離内に入ること、戦線の端から端まで射撃開始の命令が連続して届くことなど、奇跡に等しい諸条件が整わない限り、絶対に不可能なのである。
 この本は、敗戦後の勝頼の行動についても紹介しています。「先衆が少々敗れただけ」というのでした。実際には、大損害だったわけですが・・・。それに対して、信長のほうは、勝頼を誇大に宣伝しています。さすがです。
 この本では、長篠の戦いで信長が勝ったことについて鉄砲は勝因の一つに過ぎないと強調しています。
 背後を強力な別働隊に占領されたうえ、退路を川でふさがれ、左右への迂回路はなかった勝頼が、他に選択する余裕のないまま圧倒的な兵力で堅固な陣地に拠った織田・徳川軍を正面から攻撃して勝てるはずはない。要するに、信長の作戦勝ちだった。 
 この長篠の戦いから鉄砲が急増したということもない。鉄砲が一挙に増加したのは、束の間の平和で軍備を整える余裕ができ、明と朝鮮の連合軍との激戦が展開された朝鮮出兵のころのことである。
 著者の本は、大変に実証的だと、いつも感嘆しています。
(2010年4月刊。840円+税)

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