弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2016年12月20日

モンゴル帝国と長いその後

(霧山昴)
著者 杉山 正明 、 出版  講談社学術文庫

チンギス汗の建てたモンゴル帝国は短い帝国だったようで、実は、その影響は実に息の長いものだったことを示している文庫本です。
中国の元朝、大清国は、その後の大発展をふくめて、一貫して名実ともに満蒙連合政権であり続けた。
チムール帝国のあとに第二次チムール朝たるムガル帝国が誕生した。このムガルとはモンゴルのこと。タージ・マハルは第5代ムガル皇帝が17世紀に造営した宮殿。
チンギス・カンの風姿を伝える記録は、なぜか、まことに少ない。孫のフビライの肖像画を下敷きにして今あるチンギス・カンの肖像画が描かれたのではないか。
小柄な人が多かったモンゴル遊牧民のなかで、チンギス・カンは並みはずれた巨軀だった。そして猫のような目をしていて、ただものでは全くなかった。
モンゴル騎馬軍団は、耐久力はあるがスピードの出ない小型のモンゴル馬に乗る。よく飛ぶ短弓で短矢を射る。長弓も大小の弩(ど)も使い、馬上で槍を操る部隊もあった。馬と弓矢の軍団にすぎなかった。
モンゴル遊牧民たちは、きわめて淳朴にして、勇敢で、命令・規律によく従った。モンゴルの第一の強みは、その組織力・結束力にあった。次に、周到すぎるほど周到な計画性がある。外征に先立ち、チンギス・カンこと周辺は、自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については、これまた徹底した調査と調略工作をおこなった。たいてい、2年をかけた。できれば、戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向けた。逆に、敵方への下工作や現地での根回しが不十分なまま敵軍と向かいあったときには、しばしば敗れた。
チンギス・カンは猪突猛進のアレクサンドロスのような戦場の勇者ではなかった。見切りの良さと、ころんでも動じない冷静さをもっていた。沈着・平静な組織者であり、戦略眼のたしかな老練の指導者だった。質朴・従順で、騎射の技倆にすぐれた機動軍団を率いていた。
モンゴルは、チンギス・カンの高原統一のころから、既に、どちらかというと戦わない軍隊だった。情報戦と組織戦を重視して、なるべく実戦しない。世にいう大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージは、モンゴル自身が演出し、あおりたてていた戦略だった。誰であれ、自分たちと同じ「仲間」になれば、それでもう敵も味方もない。
モンゴル軍は、実は、それほど強くもなく、自分たちでも、そのことをよく知っていた。モンゴル西征軍は、ほとんど自損も消耗もせずに西征を続けた。
モンゴルは、モンゴルたる人の命を徹底して大切にした。モンゴル軍における自軍の戦死者をできるだけ回避しようとする態度の徹底ぶりには、驚くものがある。
モンゴル帝国には、あからさまな人種差別はほとんどなかった。能力、実力、パワー、識見、人脈、文才など人にまさる何かがあれば、どんどん用いられた。まことに風通しのよい時代だった。モンゴルは、さまざまな人々が共生する「開かれた帝国」だった。
「モンゴル」なるかたまりが多重構造であっただけでなく、システムとしての帝国も、大カアンの中央ウルスとその他の一族ウルスからなる多元の複合体だった。
イラクのバグダードとは、ペルシア語のバグ(神)がダード(与えた)地だった。アラビア語では「平安の都」と呼んだ。モンゴルのバグダード・イラク統治は、基本的に間接支配をつらぬいた。
チンギス・カンのモンゴル帝国の内実と、ヨーロッパに向けた西征の実態を再認識させられ、大変勉強になりました。
(2016年4月刊。1150円+税)

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2016年10月21日

日中映画交流史

(霧山昴)
著者 劉 文兵 、 出版  東京大学出版会

 私にとって李香蘭(山口淑子)ってピンと来ない存在ですし、自民党の国会議員になったことから、どうせ自己中心のスターだろうという感じです。
 ところが、中国人にとっては、李香蘭というのは、日中のあいだに横たわる歴史問題の複雑さを物語るシンボリックな人間であり、また日中文化交流の歴史を語る際に欠かせない存在だというのです。
 李香蘭は、日中戦争のさなかに、日本人であることを伏せて中国人の映画スター歌手として活躍し、中国・日本はもとよりアジア諸国で抜群の知名度を得ていた。
満州生まれの日本人で、満州の日本人小学校を卒業したあと、華北の女子中学校に学び、満映に入社した。
 戦後、山口淑子として再出発してからは、中国に対して繰り返し謝罪し、日本の政治的指導者による靖国神社への参拝には断固として反対した。そして、日中友好に尽力し続けた。
日本映画が満州国の民衆に広く受け入れられたとは言い難い。そして、満州国の統治者側も、中国人向けの日本映画市場の開拓を積極的に行っていたとは言い難い。
満州国では、「協和語」という、中国語と日本語とが混在した奇妙な言語が流通していた。文法をまったく無視した「簡易な日本語」、中国語の単語を日本語の語順で並べる「和製中国語」である。
戦後、日本映画が中国に入った。 『二十四の瞳』は、『芙蓉鎮』の謝晋監督が演出を学ぶべき手本とした。
 小津安二郎、木下恵介、山本薩夫、山中貞雄、山村正樹といった多くの日本の映画人、は戦時中に一兵卒として中国戦線に出征した経験をもっていた。
文化大革命が終わった中国では、空前の日本映画ブームが起こった。
 『君よ憤怒の河を渉れ』は野外に巨大なスクリーンが張られ、正面の一等席に1万人が陣取り、スクリーンの裏側にも8千人の人々が裏返しで映画をみた。
これは髙倉健の主演する映画です。残念ながら、私はみたことがありません。
 この映画は、1978年に封切られて、北京だけで2700万人の観客動員を達成した。中国の人々はいまだ見知らぬ資本主義世界をスクリーンまで疑似体験した。そして、文革のなかで失脚した人々が無実を証明しようとする人々の気持ちにもぴったりのストーリーだった。
 1979年、日本映画『愛と死』は中国で熱狂的に歓迎された。ヒロインの栗原小巻は中国で絶対な人気を呼んだ。
そして、1980年には、『砂の器』が中国の観客に大きな衝撃を与えた。いやあ、これはいい映画、すごい映画でしたね。加藤剛の熱演が忘れられません。
当時の中国人観客にとって衝撃的だったのは、長期にわたって中国映画においては、善でも悪でもないキャラクターの描写はタブーとされていたから。それまでは善玉と悪玉が明確に分かれている図式の映画ばかりだった。
日本での中国映画ブームもすごいものがありました。私の好きなのは、なんといっても『芙蓉鎮』と『初恋のきた道』です。
 中国生まれで、今は日本に住んでいる中国人による、本格的な日中映画交流史です。貴重な労作でもあります。
まだ見ていない映画、見たい映画がこんなにあるのか・・・と思いました。ぜひ時間をつくってみたいものです。
 
(2016年6月刊。4800円+税)

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2016年9月15日

歌垣の世界

                                          (霧山昴)
著者 工藤 隆 、 出版 勉誠出版 

古代日本に歌垣(うたがき)という風習があることは知っていましたが、現代中国に山奥の少数民族が今も歌垣の風習を残しているところがあるというのです。すごい発見です。
8世紀の『古事記』や『風土記』に歌垣のことが書き記され、筑波山での歌垣が紹介されている。時期は春の農耕開始の前、秋の収穫のあと。足柄山より東側の諸国の男女が集まる大規模な歌会(うたかい)だった。
歌垣は酒を飲みながらの宴会とは違うもの。若い男女の場合には、配偶者や恋人を得るという実用的な目的が最優先であり、そのために真剣に歌い続ける。
歌垣を性の開放の場と結びつけるのは正しくないというのが著者の考えです。
歌垣の現場は、見物人もいる公開の場であり、相手の歌が終わるか終わらないうちに定型の音数にあわせて即興の歌詞を延々と繰り出し続けるから、むしろ冷静で知的で抑制的な空気が流れているのが普通。
著者は1995年8月、中国の雲南省でぺー(白)族の生きている歌垣を目撃しました。
歌垣で歌を交わすためには、韻の踏み方、言葉の選び方、歌垣を持続させるための表現技術その他の「うたのワザ」の修練が必要。そして、長時間にわたって歌をかけあうには、歌の言葉の膨大な蓄積と、その場に応じた当意即妙の受け答えの、勘のようなものが具体化されていなければならない。
即興の歌詞を間髪を入れず交互に出し続けるためには、一人の歌い手がじっくりと冷静な頭脳の状態を維持しなければならないので、集団で踊りながら歌うのも難しい。
歌垣の歌の本体部は、個人がその場の状況、相手の雰囲気にあわせて紡ぎ出す膨大な量の即興的な歌詞にある。文字の歌のように、じっくり考えて推敲する時間はない。間があかないように歌をつないでいくことが重要なのである。
 歌の中心はあくまで歌詞にあるのだから、楽器はなくてもかまわない。ときには10時間にも及ぶ長時間を、神経を張りつめて相手の歌詞を聞き、それへの自分の返歌を考え、途絶えることがないように、さまざまな「歌のワザ」を工夫する。これは、酒に酔っていては出来ないことだし、その場で一気に性関係に至るなど、起きようがない。
歌垣は、台湾や古代朝鮮半島には認められない。日本では、かつて奄美・沖縄には認められた。
 古代日本の「歌垣」を、現代中国の少数民族の歌垣と対比させながら論じた興味深い本です。
(2015年12月刊。4800円+税)

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2016年6月 9日

南シナ海

(霧山昴)
著者  ビル・ヘイトン 、 出版  河出書房新社

 「中国の脅威」があおりたてられています。その実体を紹介している本です。
 世界の海上貿易の半分以上がマラッカ海峡を通じて行われている。世界の液化天然ガスの半分、原油の3分の1がここを通って運ばれている。その船の流れが止まったら、それほどたたないうちに世界のどこかで明かりが消え始める。ことほどさように、南シナ海は世界貿易のかなめであり、衝突のるつぼでもある。
 かつて、南シナ海は「日本の湖」だった。この状態は1945年1月まで続いた。
 領土紛争において、国際法の体系では、近さよりも発見者の権利のほうが優先される。国際法は、長らく過去数世紀のあいだ、征服者や探検家にとって有利な規則だった。
資源量と埋蔵量は雲泥の差がある。資源量とは、地下に存在する量のこと。埋蔵量とはそこから取り出せる割合のこと。一般に技術的に採掘可能なのは、資源量の3分の1ほど。採掘して商業的に採算がとれるのは10分の1ほどにすぎない。
 マレーシアの人口の4分の1を中国系の人々が占める。シンガポールでは、国民の4分の3を中国系が占めている。
 カンボジアのフン・セン首相の3人の息子は全員がアメリカで軍事訓練を受けている。そしてこのフン一族を中国が大枚をはたいて「買収」しつつある。
「中国の脅威」は、なるほど数字だけを見ると、空恐ろしい。いまの中国は、海軍力は世界第二位、軍事費も世界第二位。中国の2012年の防衛費は1660億ドルで、前年比12%増。
 ところが、中国の艦船は、アメリカに比べて、二、三世代も遅れている。中国は狂ったように軍艦を建造してるが、1990年代のアメリカの水準にも達していない。中国の航空母艦「遼寧」は、航空機を射出するカタパトルを持たず、スキージャンプ甲板を使っている。したがって、艦載ジェット機J-15は、射程の短い軽いミサイルしか搭載できず、燃料満タンで発艦するときには、電子妨害措置を搭載できない。
 中国海軍は近代的な海軍になったとは言えない。ほとんどの兵士がろくな教育をうけていない。下士官兵は主として小農の子で、14歳以降に教育を受けてきた者はほとんどいない。士官にも大卒者は3分の1もいない。新兵補充は、今も徴兵制だし、兵役はわずか2年なので、高度な技術を身につける機会もない。
 中国の人民解放軍海軍は、すべての面において、現代戦の経験をもたない。対潜水艦船や長距離ミサイル攻撃はまったく経験していないし、掃海艇すら十分に保有していない。現在の中国海軍は、ほとんどアメリカの脅威になっていない。
 外国の政府では、中国軍の戦力増強ばかりが話題になっているが、当の中国軍内部では自軍の相対的な弱さばかりが話題になっている。
 南シナ海で大々的な撃ちあいが始まったとしたら、おそらくベトナム海軍が最強だろう。中国海軍にとっては、リスクが大きすぎる。ベトナム海軍には、新型の対艦ミサイル「バスチオン」があり、攻撃できる潜水艦があるうえ、損傷したら、すぐに基地に戻れる。ところが、中国海軍は損傷したら1000マイル先まで戻るしかない。
 中国海軍って、見かけほどでもないんですね・・・。
 緊張の続く南シナ海問題には、簡単な解決法はない。どちらの側も武力対決は望んでいない。しかし、領有権の主張で譲歩して、緊張を緩和したいとも考えていない。
 中国の領有権の主張には歴史的な「根拠」はないけれど、その「理由」はたしかにある。そのあたりが分らないと、南シナ海問題は理解できないし、ましてや解決の糸口すら見つけられないだろう・・・。
 なーるほど、問題の一端が、よく分かりました。

(2015年12月刊。2900円+税)

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2016年1月17日

人間・始皇帝

(霧山昴)
著者  鶴間 和幸 、 出版  岩波新書

 西安郊外にある兵馬俑博物館に二度行くことができました。その壮大なスケールは、まさに度肝を抜くものがあります。
 日本の博物館にやってくるのはせいぜい数十個の立像です。それでも相当の迫力はありますが、現地で8000もの立像に接すると、そのものすごい物量には思わず息を呑んでしまいます。まさしく地下に大軍団が勢揃いしているのです。
 どうして、こんな大軍団を地下につくったのか、またつくれたのか、世界の七不思議のひとつではないのでしょうか。この本は、秦の始皇帝の実像に迫っています。
 始皇帝は、その名を趙正といい、13歳にして即位した。まだ小男子と呼ばれる子どもにすぎなかったから、国事は大臣に委ねられた。
 秦では、庶民においては、子どもか大人かの判断は実年齢よりも身長を基準にした。男子は150センチ、女子は140センチ以下が子どもであった。また、17歳になったら一人前の男子として扱われた。
 始皇帝陵の地下宮殿の深さは30メートルある。ところが15メートルも掘ると地下水が浸透してくる。そこで、地下深くに排水溝を設けた。そして地下宮殿が完成すると、この排水溝は埋めて地下ダムとした。
 すごく高度な水利技術が発達していたのですね。それにしても、ユンボなどの重機がない時代に、どうやって地下30メートルまで掘り下げることが出来たのでしょうか・・・。
 始皇帝が親政を始めるきっかけとなった内乱の起きたころ、ハレー彗星があらわれていた。
 始皇帝が33歳のとき暗殺未遂事件が起きた。暗殺者は荊軻である。
 秦の法律では、戦場で逃げた兵士の歩数の違いが処罰に反映し、異なっていた。
 湖南省にある古井戸から15万枚という大量の木簡が発見された。
 皇も帝と同じく、天を意味している。大臣たちは帝より皇を選んだ。秦王はそれに対して帝号にこだわり、皇と帝を組み合わせて皇帝という称号を自ら選んだ。
 秦は軍事ではなく、祭祀を通して統一事業を浸透させていこうとする立場だった。中央で統一を宣言するだけでは、とうてい治まりきれないほど秦帝国の領域は広大だった。そこで、始皇帝は自ら何度も地方を巡行していたのだ。始皇帝は全国を統一したあと、5回も地方巡行している。
 始皇帝は、秦帝国の周縁に 夷を置き、中華と蛮夷の世界を対置させた帝国を築き上げようとした。
 秦皇帝では、行政文書、度量衡、車軸の規格の一元化などが進められ、違反した官吏は法で厳しく罰せられた。
 始皇帝は天文の動きをかなり重視していた。皇帝も庶民も変わらず、古代の人々にとって、天文は日常の生活と結びついていた。
 始皇帝陵は、3キロ離れた驪山(りざん)の乙地点を中心とした視界に入る連峰と一体化した景観をもっていた。2200年前の北極星の位置が真北だった。
 偉大な始皇帝の業績を最新の研究成果をもとにしてたどることのできる新書です。

(2015年10月刊。800円+税)

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2015年11月28日

中国人の頭の中

(霧山昴)
著者  青樹 明子 、 出版  新潮新書

  かなりの日本人がアベ政権のあおりたてる中国脅威論に惑わされて「中国って、何となく怖い国だ」と思い込まされています。そのため、観光目的で中国へ行く日本人が激減しています。ところが、中国人の訪日はすごいものです。「爆買い」という目新しいコトバまで出てきました。日本って、安心、安全な国だというのです。そして、日本製品への高い信頼感から、ベビー用品、炊飯器、ウォシュレットまで、日本で買い込んで中国へ持ち帰るのです。日本の景気回復に中国人の「爆買い」は今、大きく貢献しています。福岡でも、連日、港に大型客船が入港し、県内中にある観光バスが出迎え、キャナルその他の店へ送迎しているのです。大変な経済効果です。
  本書は日本人と中国人との相互不信を取り除きたいと頑張ってきた日本人女性の体験にもとづく本です。なるほど、そういうことだったのかと、思わずひとり納得することが多々ありました。
  日中文化交流をすすめるキーポイントは、一流のもの、最新のものを送っていくこと。
  採算を度外視して、日本映画を中国に紹介し続けた日本の映画人たちがいた。
  これってすごいですね。心から敬意を表します。
中国製も、それなりに高性能だ。しかし、日本製は、本当に高性能。日本製の炊飯器を使った中国人は一様に驚く。米が水を吸収し炊き上げていく過程は、まさしく先進科学。実に精密にできている。炊き上がったご飯は、ふっくらしていて、やわらかくて、おいしい。そして、使い勝手が中国製と段違いだ。中国製は、炊き上がると周りに水が漏れる。日本製は、もちろん水漏れしない。日本製だと内釜にお米の粘りが残らないから、洗うときにラク。主婦として、この差は無視できない。
  日本製品は、正規の保証書さえあれば、どこでも修理してくれる。中国製は、アフター・サービスの点で、かなり劣る。日本製の驚くべき点は、保証書と領収書があれば、きちんと修理してくれること。しかし、もっと驚くべき点は、壊れて修理したという話を、あまり聞かないこと。
  2015年春節の爆買いでブームになったのが、日本製便座。中国製シャワートイレは、日本製と似て非なるものの典型。中国製シャワートイレは、いきなり熱湯が出た。しばらく噴水のように熱湯がトイレ中にあふれて、床が水浸しになった。
  水温、マッサージ、節電機能、すべてにおて至れり尽くせりの日本製は、中国では入手できない。
  なーるほど、そういうことだったのですね・・・。
  そして、食。食に対する中国人の不信感は、日本人の想像をはるかに上回る。一定レベル以上のレストランで食事をしても、知らないうちに粗悪な食材が口に入ってきてしまう。事態は深刻だ。ニセモノの羊肉。ネズミやキツネの肉を、ゼラチン、亜硫酸塩で加工し、これにカルシウム酸という着色料をつけて完成させる。こんなとんでもないニセ羊肉が、上海の自由市場を経由して大手レストランにも大量に流通していた。トホホ・・・ですね。
  日本では、水も空気も、安心かつ安全。食べるものも安心、安全。何を買っても安心、安全。だから、日本に行きたい。いつまでも、そんな日本でありがたいものです・・・。
  日本と中国の裏の裏まで知り尽くした日本人女性の体験レポートです。
  久しく中国に行っていませんが、近いうちに中国に行ってみたいなと思いました。

(2015年9月刊。700円+税)

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2015年8月12日

流(りゅう)

(霧山昴)
著者  東山 彰良 、 出版  講談社

 著者は台湾に生まれ、9歳のときから日本に移り住んでいます。
 著者が台湾で生まれたとき、私は大学2年生で、東京にいました。大学紛争に突入した年のことです。
 この本の主人公は、著者よりひとまわり上の世代、すなわち父親の歩みを追っています。
 1975年4月、蒋介石総統がなくなったとき、主人公は高等中学校(日本の高校です)の2年生、17歳だった。
 反共教育を学校で徹底してたたき込まれていたから、共産党は殲滅すべき憎き悪であり、毛沢東の頭には角が生えていると信じこんでいた。
 そして、主人公の祖父がある日、無惨な姿で殺されているのが発見された。物盗りより強盗殺人は考えられず、顔見知りによる犯行説が浮上した。なぜ祖父は殺されたのか。いったい祖父は戦前、どこで何をしていたのか、それが次第に明らかにされていきます。
主人公は軍隊に入らなくてすむよう画策しますが、ついに軍隊に入ります。
 規律や愛国心、厳しい上下関係をたたき込むために、陸軍軍官学校では先輩による後輩いびりが日常的に行われていた。この学校で学ぶのは、絶対服従の精神、ともにいじめを耐え抜いた仲間たちに対する連帯感と帰属意識だ。
 そして、次の世代へと受け継がれるのは、怒りの鉾先を何の恨みもない人たちへとすりかえる、その巧みな自己欺瞞である。進級したら、次は、後輩をいたぶる側にまわる。
日本の防衛大学校でも、実は、ここに書かれているのと同じ理不尽ないじめが確固たる伝統として根付いているそうです。防大のいじめ裁判を担当した弁護士から教えてもらいました。もし、それが本当なら、防衛大学校なんかに私の身内は絶対に行かせたくありません。
 主人公は、腹にめりこむ軍靴や容赦ない平手打ち、えんえんと終わらない腕立て伏せに辟易してしまったことから、半年で自主退学することにした。
なんたる人生のムダづかい。とてもじゃないけれど、耐えられなかった。
今も徴兵制のある韓国では、同じように考えている若者と親世代が多いようですが、なかなか徴兵制は廃止されません。残念です。徴兵制って、柔軟な思考力を型にはめ、自分の頭で考えないように訓練するというのですから、国の発展力がそがれてしまいますよね。
 そして、祖父のいた中国大陸へ主人公は出かけていき、そこで終戦直後に何が起きていたのかを知り、殺人事件の真相にたどり着くのでした。
 圧倒的な筆力によって、ぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。さすが全員一致で直木賞を受賞しただけはある本です。中国大陸の国共内戦、そして台湾独立後の国民党支配に至って、それが安定するまでの歴史状況をふまえた推理小説というべきものでしょうか・・・。
(2015年7月刊。1600円+税)

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2015年4月 8日

中国国境・熱戦の跡を歩く


著者  石井 明 、 出版  岩波書店

 中国が周辺諸国と戦闘した、その現場を足で歩いて調べた貴重な本です。
 1949年、国共内戦の最終段階、中国共産党は台湾解放の準備を急いだ。劉少奇は台湾解放を楽観視していたが、毛沢東のほうは、それほど楽観視してはいなかった。
 実際には、1949年10月に始まった国共内戦では、金門島に向かった人民解放軍9000は全滅した。4000名が戦死し、5000名が捕虜となった。
 この金門島の戦闘については、日本軍の元将校が国民党軍を指導していたようです。
今や、台湾と中国大陸は平和的な共存関係の確立を模索している。
 朝鮮戦争が始まったのは1950年6月25日。中国軍が人民志願軍として参戦したのは、同年10月25日から。そして、1951年4月、中国人民志願軍は、第五次戦役を発動した。ところが、中国軍60軍180師団は壊滅状態になった。全師団1万人のうち7000人を失い、5000人が捕虜となった。60軍をふくむ第三兵団は失踪者1万5000人を出し、あとの停戦交渉で中国軍捕虜の帰還問題が大きな問題となった。
このとき、アメリカ軍は、中国人民志願軍は1週間分の食糧を背負って攻勢をかけてくると読んでいた。そこで、志願軍に付きまとって離れず、志願軍得意の不意打ちなどの運動戦にもち込むのを防ぐ戦術をとって中国軍を圧倒した。
 1969年3月、中国は珍宝島地区でソ連に向けて戦いを起こした。人民解放軍は緻密な事前の準備のうえで、「自衛反撃戦」に出た。
 毛沢東が対外的な危機をつくり出して、中国人民の気持ちを外敵に向けさせて一つに団結させ、そのエネルギーを対内的な政治目標の達成に向けて、方向づける政治手法が認められる。
毛沢東は「反ソ」をつかって、文化大革命による混乱を収拾し、国内の支持を取りつけようとした。中国全土でのデモと抗議集会への参加者は4億人をこえた。これは中国史上、例のない大規模なものだった。「反ソ」の高まりのなかで、「団結の大会」、「勝利の大会」を演出する必要があった。
 長らくアメリカの主要敵とみなしてきた中国には、新たな脅威であるソ連と二正面作戦を戦う力はない。そのため、その後、中国はソ連に対抗するため、アメリカに接近していった。
アメリカのベトナム侵略戦争のとき、中国はベトナムに支援部隊を送っていた。のべ32万人。最多時には17万人を送っていた。高射砲部隊、鉄道建設、通信線の敷設等の任務を担った。中国兵の死者も1100人ほどいた。
 そして、中国は1979年2月、22万5000の戦闘部隊でベトナムに攻め込んだ。10年戦争の始まりだった。中国軍は、1万人以上が戦死した。中国軍に作戦指導の誤りがあった。
 1990年9月、江沢民総書記とグエン・バン・リン書記長が密かに会談し、関係の正常化が図られた。
中国での国共内戦と朝鮮半島での朝鮮戦争の二つは、今なお、最終的に終結していない。
そこで、著者は、この二つの戦争を終結させるために平和を回復したことを確認する二つの平和協定を結ぶことが必要だと提言しています。なるほど、と思いました。
中国という国がどのような国であるか、歴史的にかつ地理的に解明した貴重な基本的文献だと思います。
(2014年8月刊。2400円+税)

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2015年3月26日

人民解放軍と中国政治


著者  林 載桓 、 出版  名古屋大学出版会

 中国の文化大革命と中国軍(人民解放軍)との関わりについて、大変興味深い分析がなされていて感嘆しながら読みすすめていきました。
毛沢東の最大の目的は、通常の独裁者と同じく権力の維持、つまり政治的存続だった。死ぬまで「挑戦不可能な権威」として毛沢東は君臨し続けたが、かといって国内外に競争相手のいない安泰な状況が保証されていたわけでもない。毛沢東は意思決定過程への支配力を保持することに格別の注意を払っていた。
 毛沢東は、権力の維持とともに、あるいは、それを通じて中国社会の全面的変革を図ろうとした。
 毛沢東は過度な抑圧によって大衆を政治から遊離させることを決して望ましく思わなかった。単なる服従ではなく、社会の積極的な協力にもとづいた統治を好んでいた。スターリン流のテロと人殺しは、毛沢東にとって、あくまで最後の手段だった。
 1969年に発生した中国とソ連の武力衝突、珍宝島事件は、中国側の周到な「仕掛け」の結果だった。対外的に「適切な」危機をつくり出し、国内動員の挺子にしようとする毛沢東の政治的意図が色濃く反映されていた。
 戦備体制の構築の大前提として、各地で派閥闘争の即刻の解消、とりわけ「武闘」の無条件停止が求められ、同時に軍内部の団結、軍政団結、軍民団結の強化が強く訴えられていた。なかでも、駐留部隊に対する大衆団体の攻撃・批判の厳禁、違反行為に対する厳しい処分が強調された。
 文化大革命による社会の混乱を収拾するため、中国とソ連の「武力衝突」が利用されたというのです・・・。
 林彪勢力の組織基盤の強化には、毛沢東が直接に関与していた。そして、林彪勢力が政権を簒奪する「陰謀」を企図していたとか、その影響力が「膨脹」していたという実態は疑わしい。では、なぜ、林彪は排除されなければならなかったのか・・・?
 毛沢東の林彪勢力への攻勢は、現に実在する脅威を対象としたというよりは、将来の情勢変化に対する一種の予防策としての性格を帯びていた。林彪事件は、独裁者による後継者の否定に、その本質がある。
林彪の突然の死は、毛沢東にしてもほとんど予期できなかった出来事だった。毛沢東は、林彪を「消滅」させようとまでは思っていなかった。
 この林彪事件のもたらした衝撃により、毛沢東は、国政全般で一定の妥協を迫られた。毛沢東は林彪を「極左」ではなく「極右」批判とした。「極左」批判の高まりが文革の全面否定につながることを恐れたのだろう。
毛沢東は、人民解放軍を自らのイデオロギーの宣伝と実践に忠実な組織にすべく、直接の軍統制を妨げる制度的、人格的爽雑物を取り除くことに細心の注意を払ってきた。それは、制度的には、軍を党の党勢から切り離すことを意味し、その過程で党と軍にまたがる、あるいは国家と軍をつなぐ制度的立場にあった多くの軍幹部が犠牲になった。前者の典型は羅瑞卿であり、後者は楊成武である。
 1973年12月の八大軍区司令員の相互移動は、政治における解放軍の影響力の縮小を最大の課題としていた。同時に、毛沢東は鄧小平の政治局と中央軍委入りの、総参謀長への任命を公表した。
 1975年に、省指導部における軍人の割合は一気に20%台へ減少した。
1979年2月から3月までの中国のベトナム侵攻作戦は中国軍の惨敗で終了した。
 中越戦争は、大規模な軍事動員とは対照的に、国内ではほとんど宣伝されず、およそ秘密裏に行われた戦争だった。人民解放軍(中国軍)は、適切な戦術を通じて、大規模な兵力を運用できなかった。
 ランソンをめぐる戦闘では、ベトナムの一個連隊が中国側の2個軍を相手に1週間も抗戦に成功している。中国軍は、とても効率的な作戦が行える状態ではなかった。その原因は、解放軍による統治活動の長期化にあった。
 鄧小平は、それにもかかわらず、権力の維持と強化に成功した。それは、対ベトナム戦争の遂行を軍改革の「プロセス」のなかに明確に位置づけることに成功したからである。
 中国軍を毛沢東は思うように操っていたこと、しかし同時に必ずしも思うようには中国軍が動かなかったことが明らかにされています。複雑・怪奇な中国政治の断面を鋭く分析している本として、中国軍と文化大革命との関わりに関心のある人には強く一読をおすすめします。
(2014年11月刊。5500円+税)

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2015年2月19日

日本人の値段


著者  谷崎 光 、 出版  小学館

 日本人の技術者が中国へ数千人ほど渡って、中国企業で技術指導している実情をレポートしている本です。
 韓国では年俸5000万円というように高給だけど、スキルと情報だけを取り出したら日本人技術者は、使い捨てされる。これに対して、中国は、もう少し長いスパンで見る。
 中国企業で働く日本人の車のエンジニアで年俸3600万円(200万元)という人は少なくない。多いのは2700万円(150万元)ほど。ただし、これに加えて、高級マンションが用意され、通訳と送迎がつく。年に数回の日本への帰国費用も会社が負担する。
 設計図や断面図を見て、ここで問題が発生すると分かるようになるまでには何十年もかかる。成功体験は意味がなく、不具合をどれだけ経験しているかが、エンジニアのレベルを決める。こういう技術者を中国企業は求めているのです。
 日本人は、みんなで力をあわせて開発することにはバツグンに強い。
日本のエンジニアは、信頼性に命をかけている。中国人の安全意識は極端に低い。車の品質由来による日常の事故は、圧倒的に中国産の車が多い。
 中国の金持ちは、中国の純国産車には乗らない。国家のリーダーの乗る国産高級車(紅旗)も、エンジンとトランスミッションは日本製である。外観は中国製だが、中身は日本製というのは、北京の地下鉄や高速鉄道のように、けっこう多い。ちなみに、日本車では、日産のほうがトヨタより人気があり、売上げも多い。
 中国で高級車に乗っているのは、一党独裁を最大限に利用して、大バクチを打って巨額のお金をつかんだ人々である。中国の金持ちは、日本車の客に合わせたような従順な感じを嫌う。だから日本車は選ばない。
 中国の会社は、どこでも全部門に不正のチームがはりめぐらされている。
 中国のあらゆる組織、あらゆるお金とモノとサービスが動くところ、不正のないところはない。低価格の部品へのすり替え、製品の横流し、処分品の横領、仕入れ先からのバックマージンなど以外に、サービスセンターなら修理費のごまかし、製品の消耗品の転売、おまけの販売など、さまざまな手口がある。
 日本の企業には、必ず基礎研究と開発研究の両方がある。これに対して、中国の研究所は、買ってきたものをバラして単に設計する場所でしかない。
 ところが、家電のような身近なものでも、分解して研究し、そのまま再現できるかというと、そうではない。同じものを安定した品質で何万個もつくるのは難しい。開発は、技術のない中国には、不可能なのである。そこで、技術者の引き抜きに走る。一番安上がりである。
 技術とは、設計図や一つの工程の特殊な作業だけではなく、総合力が必要であり、それが生産技術なのだ。日本は、これが強い。
 中国へ進出している日本企業は、2012年時点で1万4000社以上。
 中国の企業にいる日本人技術者は3000人以上。そして、中国からの日本人技術者への求人は増える一方なのである。
 中国で暮らしていると、モノの品質の良し悪しを決めるのは、最後は素材だということが、良く分かる。優秀な部品をつくる素材の基礎技術は買えない。
 日本人技術者は、相手に合わせて、うまく調節できるから、中国企業から非常に評判がいい。柔軟な日本人は、実はタフなのかもしれない。
 日本の中小企業は、たしかに中国から撤退している。しかし、大企業は引くに引けない。日系の企業数は減っているが、一社あたりの社員数は増えている。
 中国において日本人技術者がひっぱりだこだという実情を知ると同時に、その理由も分かりました。いろいろ勉強になる本です。
(2014年12月刊。1300円+税)
 東京は有楽町の映画館で「ミルカ」をみてきました。2時間半の長大作ですが、映像にひきずり込まれ、あっという間でした。
 インド映画につきものの歌と踊りはほとんどありません。どうやら監督が嫌いのようです。
 1960年のローマオリンピック。陸上競技400メートル。インド代表のミルカはトップを走っていたのに、ゴール寸前で後ろを振り返ったため、4位になってしまった。なぜ、うしろを振り返ったのか。その謎が映画の進行とともに解明されていきます。
 ミルカは、ミーク教徒です。頭の上で、長く伸びる髪を丸くまとめているのが、ちょんまげのようでユーモラスです。日本にもミーク教徒が2000人ほどいて、寺院も東京と神戸にあるとのこと。
 インドからパキスタンが分離・独立したときの悲劇がかかわっています。
 ミルカの子ども時代の少年も可愛いらしいのですが、大人のミルカ役はなんと本職は高名な映画監督だというのです。その鍛え抜かれた肉体美には圧倒されます。
 人生を考えるうえで参考になる映画でもあり、大いに一見に値しますので、機会があればぜひご覧ください。

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