弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2022年8月18日

続・新中国に貢献した日本人たち


(霧山昴)
著者 中国日中関係史学会 、 出版 日本僑報社

1945年8月15日、日本敗戦後、ソ連軍の次に満州に入ってきた八路軍(中国共産党の軍隊)は、日本人に次のように言った。
「日本に帰るまで八路軍に入りませんか。腹いっぱいご飯が食べられるし、時期が来たら必ず帰国させます」
翌日、数十人の日本人が八路軍に加わることにした。それは脅しに屈したというより、腹ペコの毎日だったので、食べさせてくれるのなら、それでいい。あとは帰国の日を待つだけだと考えたことによる。八路軍の共産思想に共鳴したからでは決してない。だいいち八路軍とはどういう軍隊か知らないし、共産思想については怖いというイメージしかなかったから。
ところが、八路軍とともに行動するなかで、多くの日本人が民衆を尊重し、共に戦うという点を文字どおり実践している八路軍に共鳴し、本心から八路軍を支えるように変わっていった。そして、それは多方面にわたった。多くの医師・看護婦が中国に残った。あたかも日本人経営の病院であるかのように...。工場の技術者として、また鉄道技師として...。新聞を発行し、映画製作にもあたった。
それだけでなく、中国人とともに最前線で八路軍の兵士として戦う日本人も多数いた。中国空軍のパイロット養成にも大きな力を発揮した。器材が乏しいなかで飛行機を飛べるようにしたうえで、中国人飛行士を養成していったというのです。すごいですね。
少なくない日本人が勤勉であり、創意・工夫に長(た)けているという特色を生かして毎日のように奮闘していたとのこと。
八路軍では階級の上下の差を少なくし、集団討議を重んじ、教育・学習の優先順位が上位にあった。ある日本人医師は連隊長級の待遇を受けて、毎月230万元をもらっていたとのこと。これは当時の日本のお金で3万円に相当し、日本人にとってもかなりの高収入を意味した。
日本敗戦後、中国の戦後復興は、国共内戦もあって本当に大変だったと思いますが、そのなかで少なくない日本人が新中国の建設に寄与していた事実を知るのはうれしい限りです。私の叔父(父の弟)も八路軍の要請に応じて紡績工場の技術員として戦後8年間、中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。
(2005年11月刊。税込2900円)
 お盆休みは遠出することなく、天神へ出かけて韓国映画「キングメーカー」を見ただけでした。庭にブルーベリーの青い実がぎっしりなっているのを摘み、夕食のデザートとしました。玄関脇の朝顔がとてもきれいで、自然に「お早よう。がんばってるね」と声をかけたくなります。雨も多いので、あっというまに雑草だらけになってしまいますので、雑草とりもしました。
 子どもたちがいなくなった子ども部屋を書庫としていますが、どうしても捨てられない愛着のある本、資料として残しておきたい本を選んで、この基準にあわないものは捨てるようにしています。そして、ジャンル別にまとめつつありますが、これが楽しい作業です。もう少ししたら、「私の本棚」シリーズとして私の個人ブログにジャンル別で紹介していくつもりです。
 お盆前まで、孫たちが来ていました。来てうれしい、帰ってうれしい。孫たちが来るたびにそう思います。「柱のキズ」を測ったら、この2月から半年間で3センチも身長が伸びていました。私のほうは身長が縮んでいくばかりです。
 室内でフワフワボールのキャッチボールをして遊んでもらったり、絵本を読んでやったりしました。今回は、「ダンプ園長やっつけた」が大人気でした。

2022年8月 5日

新中国に貢献した日本人たち


(霧山昴)
著者 中国中日関係史学会 、 出版 日本僑報社

ただいま、叔父(父の弟)が応召して満州に渡り、戦後も8年のあいだ八路軍(パーロ。
 中国共産党の軍隊)の要請にこたえて紡績工場の技術者として働いていたという手記の 裏付けをとろうとしています。その関係で大阪の石川元也弁護士の推薦で読み始めた本です。
 中国の周恩来首相は1954年に「多くの日本軍人が、日本終戦後武器を捨てたのち日本へ帰国することなく、中国人民解放軍に参加した。病院の医師と看護婦、工場の技師、学校の教官。・・・立派に働いて我々を助けてくれた。我々は深く感謝している。これが友情であり、これこそが真の友情である」との感謝の意を表明した。
 叔父は紡績工場の技師として、新工場の立ち上げに関わり、その運営が軌道に乗るように8年ものあいだ頑張ったわけです。そのころ叔父が日本の実家に送った手紙が残っていますが、千人の工場に日本人は叔父ただ一人だったそうです。いやぁ、よくぞがんばりました。 それでも、悪いことばかりではありません。同じように静岡から満州に夢をもってやってきた若き日本人女性と知り合い、結婚することになりました。同じ紡績工場で働いていたのです。
 この本を読むと、そんな日本人の青年男女が大変多かったことを知ることができます。
 私がもっとも驚いたのは、日本軍航空部隊の隊長だった人が中国空軍のパイロット養成の重責を担い、見事やり遂げていたという事実です。なにしろ、まともに飛べる飛行機もないなかで、残っていた部品を寄せ集めて、なんとか飛べる飛行機にして、それでパイロットを実地養成していたというのです。飛行中に故障が起きても脱出する落下傘もないのに空を飛んでいたというのですから、その勇気には呆れ、かつ圧倒されます。なんと、空では無事故だったというから、信じられません。
 医療分野でも、日本人は医師として、看護師として、大いに貢献したようです。負傷した中国人患者のためには、同じ血液型だと分かれば、すすんで献血もしていたというのです。本当に頭が下がります。
 北部の炭鉱でも大勢の日本人が労働者として働き、石炭増産の先頭に立っていたといいます。いやぁ、すごいですよね・・・。
 このような新生中国の誕生を助けた日本人の歩みはもっともっと広く今の私たちも知っていていいことだと思いました。三光作戦とか、帝国主義日本は中国大陸でさんざん悪業の限りをつくしたわけですが、もう一方では、こんなに良いことをした日本人もいたことを、両方とも、しっかり認識しておきたいものです。
(2006年10月刊。税込3080円)

2022年7月28日

沙飛(さひ)


(霧山昴)
著者 加藤 千洋 、 出版 平凡社

「中国のキャパ」と呼ばれた戦場写真の先駆者、沙飛の生涯を明らかにした本です。もっとも有名な写真は、八路軍の聶(じょう)栄臻(えいしん)司令官が4歳の日本人少女と手をつないでいるものです。
この女の子は、八路軍の百団大戦によって襲撃された炭鉱につとめていた両親とともに生活していたのですが、父とは生き別れ、このとき母は殺されて一人になったところを八路軍兵士に救われ、聶司令官の所へ運ばれたのでした。聶司令官は撤退するときに手紙を添えて日本軍に送り届けるよう手配し、少女は無事に救われたのです。そして、戦後40年もたって日本のマスコミが少女の現在を探しあてました。宮崎で生活していた女性は、そんな幼いころの記憶は何もなかったのです。
さて、問題は、この写真をとったカメラマンです。「沙飛」という名前のカメラマン。どんな経歴なのか、よく知られていませんでした。
沙飛は魯迅(ろじん)の生活最後の写真をとり、また毛沢東が高く評価したことで有名なベチューン医師の手術中の写真もとっています。
沙飛の本名は司徒傳。司徒は、中国では数少ない二文字の姓。1912年5月5日に生まれ、1950年3月に38歳で亡くなった。しかも、それは日本人主治医を射殺し、銃殺刑になったのだった。精神錯乱状態に陥って、八路軍に協力していた日本人医師を妄想にかられてピストルで射殺した。
1937年7月7日の盧溝橋事件のあと、8月に国共合作のなかで八路軍が誕生した。
総指揮は朱徳、副総指揮に彭徳懐。第115師団(林彪・師団長)、第120師団(賀竜・師団長)、第129師団(劉伯承・師団長)の3師団態勢で、総兵力は3~4万人。
第115師団で政治委員をつとめる聶栄臻はフランスに留学し、ベルギーの大学に学び、カメラの趣味もあった。なので、カメラマンの沙飛を部下として認めたと思われる。
「4歳の女の子」は、1980年7月に訪中し、北京の人民大会堂で、聶栄臻元帥と対面した。そして、「4歳の女の子」を助け出した元八路軍の兵士まで本人が名乗り出たことによって判明したというのです。生きのびていたのですね。百団大戦のときは17歳の兵士だったとのこと。そして、写真をとったのが沙飛という中国の戦場カメラマンだということも判明しました。
「4歳の女の子」を手紙とともに受けとった日本軍指揮官は聶司令官あてに返信を送ったというのです。ええっ、本当でしょうか...。
「子どもは確かに受けとった。貴部隊の人道主義精神に感謝する。将来、平和時に面会した際、謝意を伝えたい」
いやあ、立派な内容ですね。この日本軍指揮官の氏名は判明していないのでしょうか...。
百団大戦のあったのは1940(昭和15)年8月から11月にかけてのこと。炭鉱を守備していた日本軍は全滅したようです。「4歳の女の子」はトーチカで震えているところを八路軍兵士に救出されたのでした。名前を訊かれたとき「母ちゃんは死んだ」、「死んだ」と答えたので、「死んだ」を「しん」と聞いた八路軍の兵士が女の子を「興子」(しんこ)と名づけたというのです。なんとも泣けてくる名前です。
沙飛に殺された日本人医師は、津村勝という内科主任の医師(41歳)。河北省の石家荘の和平病院には、100人の医療スタッフをふくめて200人ほどの日本人がつとめていたのでした。これが、「留用者」と呼ばれる、日本敗戦後しばらく八路軍の求めに応じて中国にいた人たちです。医療関係者が断然多かったようです。
私の叔父(父の弟)は紡績工場のたちあげと技術指導する技術員として8年ほど中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。八路軍の三大規律・八項注意の素晴らしさを聞かされたものです。今、その叔父の中国における歩みを文章化しています。
(2022年4月刊。税込3080円)

2022年7月12日

草原に生きる


(霧山昴)
著者 アラタンホヤガ 、 出版 論創社

内モンゴル遊牧民の今日(いま)。これがサブタイトルの写真・エッセイです。
内モンゴルはモンゴル国ではなく、中国の一部。満蒙開拓そしてノモンハン事件の舞台。
内モンゴルは日本と同じく、四季がはっきりしている。冬と春は寒くて、風が強く、雪が降る。夏は暑く、朝晩の温度差が大きいけれど、乾燥しているので風が爽やかで、日本より過ごしやすい。秋は草刈りの忙しい時期で、家畜が一番太り、売買される、収穫の秋。
内モンゴルには遊牧の生活をしている人はほとんどいなくなり、定住しながら牧畜を営んでいる。定住牧民だ。
文化大革命のとき伝統文化が否定され、1980年代の土地改革によって牧草地が分配されて遊牧民は移動できなくなり、さらに政府が定住化を推進したことで、生活様式が遊牧から定住に変わってしまった。
カルピスは、内モンゴルの馬乳酒が本家。馬乳酒はお酒ではなく、馬の乳を発酵させた飲み物で、老若男女、誰もが飲む。ビタミンCの補給、胃腸や血液中の脂肪分を排除する働きがある。
内モンゴルの子どもは、小学1年生からモンゴル語と中国語を同時に学び始め、3年生からは英語の学習が加わる。
1980年代から内モンゴルでは土地改革は行われ、牧草地が各家庭に分配された。この分配は平等ではなく、お金持ちや権力者が土地を広く鉄条網で囲み始めた。早い者勝ちだった。弱い者も借金しながら、わずかな土地も残さず鉄条網で囲んだ。わずか5年もしないうちに、日本とほぼ同じ面積のシリンゴル草原は鉄条網に囲まれていない草原は存在しなくなった。この鉄条網によって、家畜が移動できず、同じ場所で放牧するため、育つ植物が貧弱になり、草原の草が食べ尽くされてしまった。
草原が貧弱になったため、春になると、少しの風でも砂嵐が起きるようになった。
以前は、季節ごとに家畜が食べる草が決まっていて、季節ごとに移動しながらのサイクルができていた。あるところの草を食べ尽くす前に次へ移動する。そこに新しい草が育ち、来年にはまた豊かな牧草地に生まれ変わっていた。このサイクルがなくなり、草原の砂漠化がすすんでいる。鉄条網は、草原を分断しただけでなく、モンゴル人の文化、地域コミュニティを分断し、心まで閉じさせた。
夏に雨が少なくなり、遊牧民は深刻な打撃を受けている。高利貸から高い利息で借金して牧草を買うしかない。
ラクダは、走り出すと速い。時速40キロ以上で走る。足が長いため歩幅が大きく、速く走ることができる。
内モンゴルの大草原が鉄条網によって、分割・分断されていること、その結果、砂漠化が進行していることを初めて知りました。日本に20年以上住んでいる著者による写真とエッセーです。知らない世界がそこにありました。
(2022年4月刊。税込2420円)

2022年6月24日

中国の現代化を担った日本


(霧山昴)
著者 西原 哲也 、 出版 社会評論社

私の叔父(父の弟)は日本の敗色濃いなか、丙種合格だったのに徴集され、25歳の2等兵として中国・満州に送られました。トンネル掘りなどをさせられているうちに日本敗戦となり、やがてやってきた八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)に招かれて、紡績工場で技術員として働くようになりました。満州に進軍してきたソ連赤軍は引き揚げるとき、大量の日本人元兵士とともに工場内の機械・設備類を根こそぎソ連に運び去ったのでした。なので、満州の工場を再建するのに、中国は日本人技術員の力を借りなければいけなかったのです。といっても、叔父は日本では百姓をしていましたので、根っからの技術屋ではありません。ところが、八路軍の将兵に文盲が多く、叔父は貴重な存在だったのです。高給優遇されました。といっても、生活に困らなかったというレベルで、貯金して、それを日本に持って帰ったというのでもありません。戦後8年たった1953年6月に帰国し、それからは農業一筋に生き、98歳過ぎてもすこぶる元気でした。
現代中国では、現在の経済的繁栄を支えている産業そして技術は中国が独自に開発し、発展させたものということになっていて、その開発・発展に日本が大きく寄与したことがまったく没却・無視されている。ここを調査・発掘した貴重な成果が本書で紹介されています。
中国側で、日本企業を受け入れたときに活躍したのが、戦後の日本に留学し、日本語ペラペラという中国人が実は中国に多数存在していたのです。一番の大物は、早稲田大学に留学していた廖承志。そして、それを周恩来が背後からリードしていた。
はじめは、中国特産三品目しか日本は中国から輸入できなかった。漢方薬、生漆そして甘栗。
日本の大手商社はダミー商社をつくって、中国との取引をすすめた。それは、台湾との取引を続けるためにも必要だった。
中国は、日本企業の一貫生産プラントをそのまま発注せず、基本設計を導入して自前でつくろうとした。しかし、それはどれも失敗した。ボーイング七〇七を分解して、見よう見まねで同じような旅客機をつくってみたものの、それが空を飛ぶことはなかった。そんなエピソードが紹介されています。ありえることですが、これって本当なのでしょうか...。
そして1966年ころから文化大革命の厳しい大波に中国はさらされ、日本企業もさんざんな目にあうことになります。日系商社マンも次々に逮捕されました。
やがて文革がおさまり改革開放がすすむなかで、新日鉄を中心とした宝山製鉄所の建設が始まった。
ガマン強く、誠実に対応した日系企業はついに生き残り、中国経済の復興に大きく寄与した。これは本当のことだと私も思います。
売った商品に欠陥があれば、無償できちんと直すという態度を多くの日本の商社・メーカーがとった。このことが日系企業への中国側の信用を積み重ねていった。
なるほど、そういうこともあったんだよね、そう思いながら、誠実そのものだった叔父を偲びつつ読みすすめました。
(2022年1月刊。税込1980円)

2022年6月21日

モンゴルはどこへ行く


(霧山昴)
著者 窪田 新一 、 出版 論創社

私は相撲にはまったく関心がなく、テレビで見ることもありませんが、日本の相撲はモンゴル人力士が支えてきましたよね。そのモンゴルの今を多角的に追究している本です。
モンゴルの首都のウランバートルで、日本車は多く、目立つ。しかし、モンゴルで大きく成功した日本企業はあまり多くない。ウランバートルには日本の5大商社の事務所があるが、それほど目立つ存在でもなさそう。モンゴルでのビジネスのハードルの高さは想像を絶している。
モンゴルにおける最大の問題は、政治とビジネスの癒着。政治家や高級官僚が自身の立場を利用して鉱山利権や土地の許認可に影響力を行使している。
癒着・腐敗が、国会に議席をもつ既成政党のなかでキャリアアップするために構造化されている。
国内産業が十分に発達していないため、税収の多くを鉱山に依存しているモンゴルの財政は常に脆弱(ぜいじゃく)で、政治家や公務員の給料は高くない。ほとんどの政治家や高級官僚は、家族・親族の名義で企業を経営させており、それらの企業が不正の舞台となる。
モンゴルでも若者の投票率は50%ほど(日本は33%)。政治に期待がもてないというあきらめから、投票所に足を運ばない。日本と同じ。でも、それは腐敗した権力者を喜ばせるだけなんですけれど...。
戦前の帝国日本は、ロシアと3回も密約をとりかわし、モンゴルにおけるロシアの特殊利益を承認していた。
日本敗戦後、大量の元日本兵がソ連軍によってシベリアへ連行されるが、その一部(1万4千人)はモンゴルへ廻されて、首都ウランバートルの建設に従事させられた。
モンゴルは、国土の7割以上が草地・牧草地。モンゴルは降水量が少ない。
遊牧は、現在でもモンゴルの衣食住を担う生業。遊牧を中心とする牧畜はモンゴルの基幹産業。牧民世帯は17万戸であり、全世帯9万戸の2割近くを占めている。
モンゴルの広大な草原の下には豊富な鉱物資源が眠っている。銅と石炭である。その輸出のほとんどは中国向け、砂金を採取するため「ニンジャ」と呼ばれる労働者が働いている。
ウランバートルは世界でもっとも寒い首都。また、自動車排ガスとあわせて暖房用の石炭も都市の空気を汚している。
モンゴル馬は小柄だが、がっしりとした体格。脚が丈夫で、耐久力がある。モンゴルの大草原での乗馬ツアーを営んでいる日本人の若者がいる。たいしたものです。
日本の高専にモンゴル人の若者が勉強に来ている。そして、モンゴルは日本と同じ方式による高専が3校もある(「技術カレッジ」と呼ぶ)。いやあ、これはいいですね。若者同士が交流できる場があるというのは、とてもいいことです。
モンゴルという未知の国を少し知った気分になりました。
(2022年1月刊。税込2200円)

 日曜日の午前中、フランス語検定試験(1級)を受けました。1995年以来、毎年2回、仏検を受けています。今年、福岡の1級受験生は4人のみ(おじさん3人と女性1人)でした。今までで最少です。近くで仏検4級の試験もあっていましたが、そちらは50人ほども受験生がいるようでした。
 1級は、準1級と違って合格することははなから期待していません。ともかく、ボケ防止のためです。25枚にもなる過去問を朝と夜に繰り返し復習しました。
 そして結果は...。自己採点で61点でした(いつもの大甘です)。150点満点で4割。もちろん不合格は間違いありません。
 終わって、やれやれとほっとしています。

2022年6月 8日

中国法


(霧山昴)
著者 小口 彦太 、 出版 集英社新書

中国って、法治国家って言えるのかしらん。裏で共産党が裁判所そして判決を操作しているんでしょ...。こんな疑問にこたえてくれる新書です。
まず、何より驚かされるのは、中国の民事訴訟事件数が非常に多いという事実です。そのなかでも、契約関係の訴訟が断トツに多いのです。
著者は1700件もの訴訟の判決文に目を通していますが、判決文の形式は日本の民事訴訟とほとんど変わらず、当事者双方の主張、そして裁判所の事実認定が正確かつ詳細に記され、それをふまえて法解釈論が展開され、判決となっている。
中国の人々は、契約が守られなかったとき、決して泣き寝入りしないという人々が数多く存在する。なので、訴訟は多く、でたらめな判決文では本人がとうてい承服しない。
とはいっても、日本と中国とでは、法観念が相当に異なっている。たとえば、中国では、特別のことがないかぎり、当事者間の約定を何より重視する。約定こそ原則であるという法観念が強烈にはたらいている。むむ、これはなんだか日本とは違いそうですね。
中国の不法行為法には無過失責任の規定が多い。たとえば、中国の道路交通安全法では、運転者に過失がなくても、必ず損害額の1割の範囲内で賠償責任を負わなければならない。これは無過失責任。これも日本とは違いそうです。
中国の死刑判決は2種類ある。必ず執行される死刑と、もう一つは2年の執行延期がついていて、その2年の間に故意犯罪を行わない限り、無期あるいは有期懲役刑に減刑されるもの。知りませんでした。
中国の学者は、中国の裁判所と裁判官には、必要な独立性が欠けていると批判している。現代中国の刑事手続では、「疑わしきは被告人に有利に」という原則ははたらかない。それにかわって、「疑わしきは、軽きに従う」、つまり拷問があったかもしれないが、どうも確信がもてない。決めがたいので軽きに従う。これが現代中国での慣行をなしている。うむむ、これはいかがなものでしょうか...。
中国では、合議・独任廷での審理によって審判は完結せず、重大な事件であれば、常に上位の人間・機関の指示を仰ぐことが期待されている。こんな仕組みは、まぎれもなく行政に属すると判断される。
中国の法院の審判には確定力がない。
中国は、成立以来、30年間も法律の空白期間が続いたが、1979年の刑法典と刑事訴訟法の制定から、2020年の民法典の制定で、法体系の構築は基本的に完了した。
憲法解釈の権利は、中国では、全人代常務委員会がもっていて、法院(裁判所)ごときが憲法解釈権を行使するなど、もってのほか。これが党中央の指導部の考え方だった。
党が国家を指導する体制を前提をする限り、表の法としての「国法」に、裏の法としての「党規」が常に優先する。したがって、多様な形式から成る裏の法が姿を消すはずがない。これが中国法の常態である。やっぱりそうなんですね。
著者は、「法院」は本当に裁判所なのかと疑問を呈しつつも、私法の領域では、法は着実に機能していると認めています。この矛盾こそが、現代中国法をめぐる特色なのでしょうね...。福岡には中国語の話せる弁護士が何人もいますよね。たしたものです。ますますの活躍を心から期待しています。
(2021年11月刊。税込860円)

2022年5月22日

鄭和、世界航海史上の先駆者


(霧山昴)
著者 寺田 隆信 、 出版 清水書院

15世紀のはじめ、明の鄭和は、当時の世界最大の船隊を率いて、東南アジアからアフリカ東海岸にまで航海した。その航海は、1405年から1433年までの29年間に7回、訪問国は30数ヶ国。バスコ・ダ・ガマがインドに達したのは1498年なので60年も早い。
鄭和の航海は軍事行動というのではなく、主目的は通商にあった。明帝国の政治使節であり、通商代表だった。政府ないし宮廷直営の貿易を行うための活動だった。鄭和が来たことで、明帝国に国王みずからやってきた国が4ヶ国、使節を派遣した国は34ヶ国にのぼる。
ただし、鄭和を送り出した明の永楽帝そして宣宗が亡くなると、明帝国は対外進出が消極的になり、国力も衰えてしまった。そのため諸外国からの朝貢も自然に消滅していった。
シルクロードといっても、実は陸上よりも海路の方が、はるかに輸送力がいい。商船1隻はラクダ2000頭に匹敵した。朝貢貿易は、朝貢国に莫大な利益をもたらした。一度、入貢すると、元本の5倍か6倍ほどの利益が得られた。
成祖永楽帝は内政よりも対外政策に非常な積極性を発揮した。鄭和は宦官(かんがん)だった。宦官は、本来、皇帝個人の家庭生活に奉仕すべき存在。鄭和の大船団は、2万7千人以上の乗員を乗せた62隻から成っていた。船は大きいものでは船長150メートル、船幅62メートル。これは、発掘された船の装備から、決して誇大な数字ではないとされている。
鄭和はイスラム教徒だった。明の中国では、イスラム教徒が弾圧されたり、迫害されたことはなかった。なので、多くのイスラム教徒が鄭和の大船団に参加していた。
鄭和の船団は、中国に珍しい動物を連れて帰国した。キリン、ラクダ、ダチョウ、シマウマ、アラビア鳥など。そのなかでとくに注目を集めたのは、キリンだった。日本にキリンが来たのは明治40(1907)年なので、中国のほうが500年も早かった。
鄭和の後に続く航海者がいなかったこと、明帝国が対外進出に国力をさけなくなったことなどから、この偉大な先駆者は、今も、あまり評価されていないのが残念。
実は、この鄭和の大船団について、どんな構成だったのか、船団に女性が本当に乗っていたのか(女性も乗っていたようなのです)、もっと詳しく知りたかったのですが、そこは残念ながら書かれていませんでした。
(2017年8月刊。税込1980円)

2022年5月12日

ウィグル大虐殺からの生還


(霧山昴)
著者 グルバハール・ハイティワジ 、 出版 河出書房新社

中国の西方に新疆ウィグル自治区があります。ウルムチ、そしてトルファンには、私も一度だけ行ったことがあります。シルクロードの旅でした。トルファンは、まさしく炎熱砂漠地帯です。羊を目の前で殺してくれ、その羊肉をみなで美味しくいただきました。ウィグル族の抵抗運動が激化する前のことです。
ウィグル人は、スンニ派のイスラム教徒で、その文化は中国ではなく、トルコに起源がある。ウィグルの分離独立を目ざす運動があって、中国政府は厳しく弾圧している。街のいたるところに顔認証カメラと警官が配置されている。そして、2017年に再教育収容所が開設された。ここにのべ100万人ものウィグル人が入れられた。
新疆には、1200ヶ所もの再教育収容所があり、1ヶ所あたり250人から880人が入っている。収容所では、授業で暗記を強制され、グロテスクな軍隊風の行進をし、木製かセメント製の寝床で眠る前に、まず人格を奪われる。汚れたつなぎと布製の黒い上靴を身につけると、女性収容者はみな似かよった存在となる。そして、その瞬間から、名前ではなく、通し番号で呼ばれる。心が弱っていく。服従することによって、自分の好みや感情を押し殺す。
収容所のシステムは、生活に結びついていたものを次々に奪うことで、収容者の個性を消し去る。共産党をたたえる同じ言葉を何度もくり返す。プロパガンダづけになりながら、同じ熱心さで自分の再教育に励み、しだいに自分のアイデンティティを失っていく。みんなが一様に壊れていき、しまいには、肉体的にも精神的にも似たり寄ったりになる。無気力で、何も感じない。中身がからっぽの亡霊だ。人間ではなく、死者同然。
収容所では、まぶしい蛍光灯に照らされ、似たような授業、食事、行進の練習を続けさせられるうちに、時間の感覚がなくなっていく。
著者は、警官の暴力の前に屈してしまいました。心にもない「自白」をするほどまでに屈したのです。罪を認めるのが早ければ早いほど、ここから早く出られる、と聞かされていた。疲れ果てた末、その言葉を信じた。
その役割を受け入れたのは、無意味な再教育にしたがう境遇のなかで、ほかの出口は何もなかった。警察はきわめて巧みに人をあやつる。精神をしなわせて、無敵の盾のように使うことで、真実を決して忘れずにすんだ。
1949年に中華人民共和国が建国された。人民解放軍が新疆に進駐した。同時に漢民族の入植が本格化した。1949年にウィグル人は76%だったが、今や、ウィグル人と漢人は、40%台と拮抗している。
新疆では、「三、六、九の規則」したがって行動(申告)しなければならない。他人の訪問があったら住民は30時間以内に、地区委員会に知らせ、地区委員会は6時間以内に地元の警察署に知らせ、警察署は9時間以内にその訪問者の連絡先をファイルに保存するという決まりのこと。いやあ、すごいですね。こうやって人々の生活は隅々まで厳しく監視されているのです。
フランスからウソの名目で呼び戻され、収容所に閉じ込められたウィグル人女性が、自らの体験を実名で語った貴重なレポートです。
(2021年10月刊。税込2550円)

2022年4月27日

中国共産党、その百年


(霧山昴)
著者 石川 禎浩 、 出版 筑摩書房

2021年に結党100年を迎えた中国共産党は、今9200万人の党員を擁する超巨大政権党である。結党からわずか30年足らずで中国(中華人民共和国)を建国し、70年以上にわたって中国を統治してきて現在に至っている。
中国共産党については、先日もこのコーナーで紹介しましたが、本書も一般向けの通史とは思えないほど良質であり、また大変読みやすいものです。
1945年8月の時点で、中国戦線は膠着(こうちゃく)状態にあり、日本軍が敗北するとは思えなかった。毛沢東も、この8月上旬の時点で、日本の降伏まであと1年ほどかかるだろうと見ていた。つまり、8月15日の日本降伏の知らせは突然やってきたのだった。そして、毛沢東は国民党軍との内戦を決意して、指令を出していた。ところが、スターリンがそれに待ったをかけた。
スターリンは、ソ連の在東北権益を保証してくれる蒋介石の国民党を選択した。その代わり、中国共産党に対しては、東北部への転進を認め、旧日本軍の武器弾薬を共産党側に引き渡した。このことによって、共産党は東北に広大な地域政権を樹立することができた。これによって、ようやくスターリンのソ連は中国共産党を認めることになった。
人民共和国建国当時の共産党員は450万人。内戦開始期から4倍に急増していた。そして、党員の4分の1は25歳以下という若い世代だった。ちなみに、当時の平均寿命は35歳でしかなかった。戦火のすさまじさですよね、きっと...。
指導者のほうも若い。毛沢東55歳、劉少奇50歳、周恩来51歳、鄧小平45歳だった。
中国(人民共和国)の建国のとき、共産党は旧来の六法全書を廃止し、体系ある法典をもっていなかった。刑事法の分野であるのは「反革命処罰条例」と「汚職処罰条例」の二つのみ。
中国建国(1949年)からまもなく、12月に毛沢東(56歳)は列車でモスクワに向かった。北京に戻ったのは翌年(1950)3月。新しい国家が誕生し、まだ国民党軍との内戦も続いているなかで、国家の最高指導者である毛沢東が3ヶ月も中国を離れたというのは、異例のこと。まったく同感です。
中国は国家運営について、経験豊富なソ連の専門家の派遣を要請しています。
ところが、帰国して3ヶ月後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。毛沢東の知らないところでスターリンがGoサインを金日成に送って始まった。周恩来らは、このとき参戦に反対したようです。
毛沢東は朝鮮戦争に、中国軍が義勇兵として参戦し、それなりの成果をあげたとして権威をより一層高めた。
毛沢東は、自ら暴君になったというより、暴君となることを支持された。
鄧小平は胡耀邦と趙紫陽の二人を天まで高く持ち上げていたが、あとになって、この二人を権力の舞台から引きずりおろした。
今や、2010年には、中国のGDPは日本を抜いて、「世界2位」になっている。
大変興味深い分析がオンパレードとなっている本です。ご一読ください。
(2022年2月刊。税込1980円)

 日曜日の午後、チューリップが終わりましたので、最後に咲いている1本のみ残して、全部堀りあげました。今はフェンスに色とりどりのクレマチスが咲き誇っています。赤紫色、白色、赤い筋の入った花、いろいろです。
 チューリップを掘りあげたあとには、いつもヒマワリを植えています。今度、昨年のヒマワリのタネをとっていますので、まくつもりです。
 ジャガイモの地上部分が元気よく茂っています。問題は地中なんですが...。
 庭に出ると、もう風薫る季節になったことを実感させてくれます。

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