弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2022年4月23日

明の太祖・朱元璋


(霧山昴)
著者 檀上 寛 、 出版 ちくま学芸文庫

明の太祖(朱元璋)は、一人で聖賢と豪傑と盗賊の性格をかね備えていた。
歴代の皇帝中、明の太祖は漢の高祖・劉邦と並んで最下層の出身。
元末の反乱軍の中から身を起こし、当初は盗賊まがいの活動をし、やがて地方政権を樹立すると、一方の豪傑となり、皇帝となってからは諸々の制度を制定して聖賢の働きをした。
洪武(朱元璋)は複雑怪奇な性格の持ち主だった、だからこそ、元末の争覇戦に勝ち抜き、強大な専制国家の創設に成功した。
中国では宋代に皇帝独裁体制が成立し、明の初めに朱元璋によって最終的に確立した。そのため、10万人以上の官僚・地主等を粛清し、機構の大改革を断行し、皇帝一身に権力を集中させなければならなかった。
この本を読んで面白かったのは、皇帝となった朱元璋の地位が必ずしも強固ではなく、絶対的な権力を握って官僚たちを統制していたのではないとされているところです。朱元璋は皇帝として各集団の利害調整をしつつ、そのバランスの上で皇帝の地位を維持しているのが実情だった、というのです。
官僚は、その地位を利用して不正蓄財に務め、国家建設など眼中になかった。官僚と地主の癒着は相変わらずひどく、改善の兆しを見せず、腐敗は蔓延する一方だった。
明国の建国に功のあった功臣たちは、時間の経過とともに傲慢となり、かつて鉄の規律を誤った朱軍団の面影はすでに消え失せていた。大半の功臣は、おのれの地位を盾に傍若無人にふるまい、それがまた新たな社会問題になっていた。
朱元璋は、科挙を廃止した。科挙がわずか3年で廃止されたのは、合格者の「質」に問題があった。文詞のみに長じて、何の役にも立たない若造ばかりが合格していた。
また、科挙を廃止することで、南人層の官界への進出に歯止めをかけようとした。
朱元璋直属のスパイは検校(けんこう)と呼ばれていた。政界内部には、朱元璋の機嫌をとって出世を企むような不逞の輩が目立つようになってきた...。功臣・官僚を摘発するため、弾圧の嵐が吹き荒れていたころ、功臣・官僚を摘発するため、多くの監察官が動員された。
元璋のおこした文字の獄は、元璋個人の恣意性にもとづく。朱元璋は、自分の出自への強いコンプレックスがあった。
朱元璋にとってもっとも気がかりなのは、後継者の皇太子のことだった。
朱元璋の晩年は、まことに寂しいものだった。最愛の妻と皇太子に続き、第二子、第三子を失った。戦友の大半が死に、今いる者は朱元璋の顔色をうかがうようなものばかり。
結局、永楽帝が皇帝となるまで、大波乱があった。
いやあ、独裁者というのは、いつの世も後継者については大変な苦労を余儀なくされるようですね。
(2020年9月刊。税込1320円)

2022年4月13日

中国共産党の歴史(3)


(霧山昴)
著者 高橋 信夫 、 出版 慶応義塾大学出版会

毛沢東が1958年に始めた大躍進、人民公社は表向きの華々しい成果とは逆に、実は、深刻な飢餓をもたらした。水利建設と鉄鋼生産に農村労働力の多くが奪われたため、食糧は豊作だったのに、収穫すべき人間がいないため、結果として食糧不足を招いた。
そこで、1959年7月から始まった廬山(ろざん)会議で、国防部長の彭徳懐が大躍進を遠回しに批判した。これに賛同する者もいたので、毛沢東は、自分に対する重大な挑戦と受けとめ、大々的な反撃に出た。その結果、大躍進の行き過ぎを是正する動きは全部吹きとばされ、300万人もの党員が「右傾機会主義分子」として打倒された。
実体のない「大躍進」は、達成できないと「右傾機会主義者」のレッテルを貼られて打倒されるかもしれないとの恐怖にもとづいて偽造された高い「生産額」に支えられていた。そして、大量の工業設備や先進的技術を取り入れて豊かな工業国になるためには、農村から徴発した食糧を輸出するしかなかった。
その結果、大躍進にもっとも積極的な姿勢を示した地方が、もっとも深刻な飢餓に直面することになった。河南省信陽地区では、総人口の4分の1にあたる100万人が餓死した。
ところが、毛沢東は食糧の絶対的不足を認めようとせず、富農による穀物隠匿のせいだと依然として思い込んでいた。
1960年11月、食糧不足を解決するための努力がようやく始まった。公共食堂の廃止、自留地、家庭内副業の拡大が認められた。そして、農業労働力を確保するため、都市住民が農村に強制的に移住させられた。1961年に1000万人、1962年に2000万人と、合計3000万人もの都市住民が農村に移住した。
毛沢東は大躍進が失敗だったとは決して認めなかった。ただ、おざなりの自己批判をしただけだった。国防部長の村彪は、「過ちは毛主席の指示に忠実に従わなかったから生じた」と発言したのを、毛沢東は称賛した。
ただ、毛沢東の権威は失墜した。そして1962年夏以降、毛沢東は反撃を開始した。文化大革命の始まりだ。
このとき、劉小奇らは毛沢東とたたかう意志はまったくなかった。「君」を諫めることすらしなかった。たたかう意志と戦略をもっていたのは毛沢東だけだった。
毛沢東の背に乗って権力を拡大しようとする人々と、彼らの背に乗って「階級闘争」を展開しようとする毛沢東がいた。誰も毛沢東という暴走列車を止める者はいなかった。
毛沢東は1964年に72歳。このころの毛沢東の精神状態はどうみても尋常ではなかった。気まぐれ、かんしゃく、虚言を繰り返した。党内でもっとも信頼するに足る人々を信用せず、信頼すべきでない人々を信じた。
毛沢東による文化大革命の悲惨は言葉で言い表せないほどひどいものがあり、中国をズタズタにしてしまったのです。
最後までぎっしり内容の濃い340頁の本です。強く一読をおすすめします。
(2021年7月刊。税込2970円)

2022年2月10日

中国共産党の歴史(2)


(霧山昴)
著者 高橋 信夫 、 出版 慶應義塾大学出版会

国共内戦で、紅軍は初めのうち後退を余儀なくされていた。蒋介石の国民党軍のほうが最新鋭の武器を持っていたから。そこで、毛沢東は、紅軍部隊に指示した。
「勝利が確信できなければ戦闘を避ける。チャンスがあれば攻撃対象を速やかに殲滅せよ」。「敵軍より少なくとも3倍の兵を終結させ、砲兵隊の大半を集中させて、敵の陣地の弱点をひとつ選び、猛烈に攻撃して確実に勝利する」
国民党軍の将軍は、最後にはアメリカ軍が助けてくれると期待していたので、懸命さに欠けていた。兵士の多くは、農村から強制的に連れてこられた男たちなので、はじめから戦闘精神をもっていなかった。そのうえ、兵士たちには十分な給料と食事が与えられていなかったので、村々を頻繁に略奪してまわった。これに対して紅軍兵士は相対的に士気が高く、略奪にもめったに手を染めなかった。
これでは、人心が国民党から離れて、紅軍に傾くのは当然ですよね。
国共内戦に勝利した毛沢東は、1950年夏に台湾解放作戦を考えていた。しかし、朝鮮戦争の勃発により消えてなくなった。それに、ソ連へ海軍と空軍(パイロット)の参加を求めていたが、スターリンはきっぱり断った。
毛沢東が1950年夏に台湾への武力侵攻を考えていたことを初めて知りました。
朝鮮戦争は1950年6月に始まりましたが、金日成がスターリンの攻撃同意を取りつけたのは1月30日のこと。毛沢東は、同年5月に金日成と北京で会ってスターリンの開戦同意を取りつけたことを知らされ驚いた。というのも、1950年の段階では、中国の沿海部分は蒋介石の空軍による爆撃にさらされていて、国共内戦はまだ終結していなかったから。
中国共産党の指導部内部でも、朝鮮戦争に参戦することには消極意見もあった。
中国の政治で驚き、かつ恐ろしいと思うのは、1950年10月ころの反革命鎮圧運動のすさまじさです。このころ開かれた全国公安会議において、中国の全人口の0.1%を殺害することが決議され、各地で、実行に移されていったということです。対象となる人物の行動から反革命分子と認定して殺害するというのではなく、まず「0.1%」を目標人数として、その分だけの氏名を特定し、そのうえで、「事実」を発見して、殺害する。
まことに手荒い、信じられない乱暴なやり方です。これで、3年間に70万人が「反革命分子」として殺害された。いやはや大変な人数です。過去のAB団、そして文革中の弾圧とその体質、手法は共通しています。
このあと、中国の農村社会では人民公社運動がまき起こり、そして、その失敗から大量の餓死者を生み出すわけですが、それでも集団化に対して大々的な抵抗運動は起きなかった。それは、「反革命分子」を鎮圧・除去していたから、共産党に抵抗する用意のある人々は除去されていたことによる。そのうえで、ソ連と違って、農村部にまで党組織が確立していたからだ。
1056年2月のフルシチョワによるスターリン批判は、中国共産党に対しても大変ショックを与えた。このとき、中国共産党はスターリン批判の大合唱に加わらず、むしろスターリンを弁護した。なぜか...。中国共産党は、当時、政権を握ってまだ日も浅く、権力基盤が盤石ではなかった。スターリンを一途に礼賛してきたのに、急に犯罪者だと決めつけようものなら、人々が共産党に背を向ける危険性がある。スターリンの偶像を簡単に破壊するのは難しかった。
毛沢東は、1958年3月の会議で、自らに対する個人崇拝を解禁した。このころ、毛沢東は「大躍進」を打ち出した。これは、製鉄熱を生み、また人民公社をつくりあげることになった。
「大躍進」は華々しく大成功をおさめた。1958年夏から秋にかけて、毛沢東は得億の絶頂にあった。しかし、実際には、深刻な飢餓が各地にあらわれはじめていた。
(2021年7月刊。税込2970円)

2021年12月29日

中国共産党の歴史


(霧山昴)
著者 高橋 伸夫 、 出版 慶応義塾大学出版会

中国共産党の輝かしい歴史の陰には凄惨な歴史が繰り返されていたことを改めて認識しました。
1921年7月、上海で秘密裏に第1回党大会が開かれた。このとき、毛沢東をふくむ13人の代表が集まったが、その平均年齢は28歳だった。彼らは必ずしもマルクス・レーニン主義者ではなかった。このとき採択された綱領はアメリカ共産党の綱領を、決議はアメリカ共産党宣言を手本とするものだった。
1923年6月、共産党の党員は420人。これに対して国民党の党員は5万人。国民党が1924年1月に広州で開いた全国代表大会では、共産党員を国民党に入党させることを正式に認め、毛沢東も国民党に入党した。
1927年春には、中国共産党の党員は労働運動の進展とともに6万人近くまで急増した。武漢で開かれた第5回党大会には、国民党中央委員会の代表団、コミンテルン代表、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連の共産党代表も参加した。
スターリンは国共合作が崩壊するなかで、中国の共産主義者に対して一連の武装蜂起に立ち上がることを命じた。このころ、中国共産党は、財政面でも、モスクワに大きく依存していた。コミンテルンは、中国共産党に毎月1万2820ドルを送っていた。
1927年12月に広州で起こした暴動は失敗し、6千人もの共産党員と労働者が殺害された。このころ、毛沢東は新しい軍隊をつくり出していた。この軍隊は志願制で、やめたければ好きなときにやめてよく、軍隊内部には民主制が施行され、将校と兵士は対等とされた。そして、「三大規律、八項注意」を徹底させた。
1928年夏には、共産党は井崗山根拠地を拡大させて、人口50万人をかかえた。
1929年代末の毛沢東は、まだ同僚たちから心服されていない人物だった。それどころか毛沢東は党中央にとって厄介者だった。それでも革命の現場には不可欠の実力者だった。
1930年から、中央根拠地で、「AB団(アンチ・ボリシェビキ団)」なる反革命集団がいるとして大々的な静粛が始まった。結局、「AB団」として7万人あまりが殺された。
1931年4月ころ、上海で活動していた党の秘密活動の責任者であった顧順章と総書記の向忠発が逮捕・処刑された。
1931年11月、毛沢東は、中央根拠地における紅軍の指導的地位から排除された。このとき、党のトップは周恩来だった。
1934年10月、「長征」が始まった。このときには、毛沢東はソビエト政府主席となっていた。しかし、軍事上の最高指揮権は、まだ周恩来が握っていた。毛沢東が軍の最高指揮権をもるのは、1935年8月から。
張学良は、共産党を日本軍に対するレジスタンスの信頼できるパートナーとみなしていて、自ら中国共産党への加入を申請した。これに対してコミンテルンが「軍闘」として加入を認めなかった。それでも張学良は、共産党との良好な関係を保ち続けた。
張学良が蒋介石を監禁した西安事変は、スターリンを大いに困惑させた。他方、毛沢東は有頂天となり、「西安事変は革命だ」とし、蒋介石を人民裁判にかけることを考えた。しかし、コミンテルンが介入し、蒋介石を釈放するしかなくなり、毛沢東は地団駄を踏んで悔しがった。
1940年、「百団大戦」のなかで八路軍が日本軍2万人を死傷させたとき、衝撃を受けた蒋介石の国民党は八路軍の削減を要求した。このとき毛沢東は、蒋介石が共産党軍を日本軍とともにはさみうちにして壊滅させようとしていると心配し、逆に国民党軍を背後から攻撃しようと考えた。このときもコミンテルンが介入してきて、毛沢東はあきらめた。
日本の右翼的な考え方の持ち主に、このころ、共産党軍は自ら戦わずして日本軍に国民党軍と戦わせて漁夫の利を得ようとしていたという「説」がまことしやかに流されています。このころ、こんな状況で、共産党軍が日本軍と事実上にせよ提携するなど、まったくありえないことです。
1941年から1945年にかけて共産党軍は、陝甘寧辺区で大規模なケシの栽培を始めていて、「革命アヘン」の売買による利益が党中央の財政収入の25~50%をまかなっていた。いやあ、これは知りませんでした...。
中国共産党の党員は、1937年7月に4万人だったのが、1938年末には50万人になった。
1042年2月、整風運動が始まった。
1943年3月、党中央書記処は毛沢東、劉少奇、仼弼時の三人から成り、毛沢東には「最終決定権」が与えられた。つまり、毛沢東は、別枠の権力者になったのです。かつては毛沢東より立場が上だった周恩来は、屈辱的な自己批判をして、毛沢東に忠誠を誓って、永遠の屈従を強いた。
1943年7月、延安で反スパイ動員大会が開催された。
1946年夏、国共内戦が始まった。初めの9ヶ月間は、紅軍は後退を余儀なくされた。国民党軍の将軍たちは、最後にはアメリカ軍が助けてくれると期待して、懸命さに欠けていた。その兵士たちも、村から強制的に連れてこられた男たちが大半なので、戦闘精神に欠けていた。そして、村々を略奪してまわった。これに対して、人民解放軍兵士は士気が高く、略奪することもなかったので、人々の支持が集まった。
(2021年7月刊。税込2970円)

2021年12月26日

三国志入門


(霧山昴)
著者 宮城谷 昌光、 出版 文春新書

中国でもっとも多くの人々に読まれた小説は『三国志演義』。漢と明のあいだにあった三国時代の変遷、政争を扱った小説です。
私は、『三国志』よりも『水滸伝』のほうが、よりより胸がワクワクして好きでした。どちらも中学生のころに読んだのだと思います。なので、ダイジェスト版だったのかもしれません。
『三国志』には、劉備と関羽、張飛の三人が桃園で兄弟のちぎりを結ぶというシーンがあります。これも、史実とは違い、小説の世界のことのようです。
日本は中国から多くの制度や物を輸入したが、不思議なことに宦官(かんがん)と馬車は導入しなかった。
古代中国の戦場では兵車戦が大きな主役となっていたが、日本では歩兵戦と騎馬戦がおもになった。これは太平原のある中国と、山あり谷あり川ありというチマチマした地形での戦闘がほとんどだったことの違いによるものではないか。戦国時代の長篠の戦いも、それほど大きくはない川をはさんでの戦いでしたし、関ヶ原の戦いにも、現地に2度、私も行きましたが、平坦な土地はごくわずかしかありませんので、兵車が活躍できたはずもありません。
なぜ日本に宦官が登場しなかったのか、この本に答えはありません。ただ、明治までの日本の馬は去勢しないことで有名です。人間と馬は違いますが、なんだか似てませんかね...。
関羽を祀(まつ)る関帝廟(びょう)は、日本にも東西にあるそうです。関羽は武神だったのに、今では商売の神様になっています。
中国の美女は「国色(こくしょく)」といいます。国のなかで、もっともすぐれた容色のこと。
赤壁の戦い。208年に曹操と孫権が戦い、曹操軍が大敗してしまいます。さすがにスケールの大きな中国映画で、それを映像としてみました。
諸葛孔明(しょかつ・こうめい)は、私も大好きなヒーローです。実戦で活かせる兵法を考え出し、活用していったのです。兵糧不足と軍需物資の輸送のむずかしさに悩み、それを克服していったのでした。
三国志の世界を知ることは、宝の山に踏み込むようなものかもしれない。
中国モノの文学作品の第一人者による『三国志』の入門の手ほどきがされている新書です。
(2021年3月刊。税込1045円)

2021年12月24日

始皇帝の地下宮殿


(霧山昴)
著者 鶴間 和幸 、 出版 山川出版社

私は幸いなことに兵馬俑(へいばよう)を2回も現地で見学しています。ともかくすごいのです。等身大の兵士と将軍の彫像が何千体も発掘され、展示してあるのです。実に壮観です。そして、当時の壮麗な馬車もあります。よくぞこんな壮大なものを構想し、実現したものです。実物の前では息を呑むばかりで、言葉になりません。
始皇帝(前259~前210)は、中国最初の皇帝。はじめは秦王(しんおう)として即位し26年間、東方の六国を併合してからは皇帝として12年のあいだ君臨した。陵墓の建設は、秦王に即位した翌年から。実に37年におよぶ治世のあいだ罪人(刑徒)72万人を動員して建設工事を続けた。始皇帝は50歳のとき、病気のため急死した。始皇帝の肖像は残されていない。今あるのは、17世紀の明の時代の肖像なので、完全に想像図。
兵馬俑坑が発見されたのは1974年のこと。始皇帝陵のすぐ近くにあります。
秦が滅びたあと、三国時代に楚王の項羽が30万人を動員して30日間かけて始皇帝陵から物を運びだした。また、失火から始皇帝の地下宮殿が90日間も燃え続けたという。
私も、それは知っていましたので、始皇帝陵はもはやカラッポになった状態だとばかり思っていました。ところが、本書は、地下5メートルほどの兵馬俑坑なら火災にあうかもしれないが、地下30メートルの地下宮殿が焼失したはずはないとしています。
始皇帝の墓室は、深さ30メートル、東西80メートル、南北50メートル。そして、地下宮殿は、東西170メートル、南北145メートル、高さ15メートル。
墓道は埋められているので、地下世界に入るのは不可能。
始皇帝は地下宮殿で金縷(きんる)玉衣をまとっている可能性が高い。
科学技術の発達によって、今では、実際に地下を掘らなくても、地下宮殿をイメージすることができるのです。驚きますね...。
そして、地下宮殿には、大量の行政文書や書籍が搬入されているはず。いやあ、すごいことですよね。これらの文書が発掘されたら、古代中国の実態が今よりはるかに鮮明になることでしょう。それは私の生きているうちには恐らく無理でしょうが、私は、あの世から戻ってきても、ぜひぜひ知りたいです。
兵馬俑も1回目と2回目とでは、ずいぶんと展示の仕方が異なっていました。コロナ禍の心配をしなくてすむようになったら、もう一度ぜひ行ってみたいです。万里の長城は行ってしまえば2度も行かなくていいところですが、兵馬俑はそんなものでは決してありません。
久しぶりに中国古代文明のすごさを少しばかり実感し、ゾクゾク興奮してしまいました。
(2021年9月刊。税込1760円)

2021年12月 5日

網内人


(霧山昴)
著者 陳 浩基 、 出版 文芸春秋

インターネットの中にひそむ悪魔をあぶり出せ、というキャッチ・コピーがオビについています。
スマホも持たず、とんとネット社会に無縁の私には縁のなさそうではありますが...。私の名前、霧山昴の本名をネットで調べた人がいて、簡単に分かったそうです。いやはや...。でも、この本は、そんなレベルではありません。ネットで攻撃した人をつきとめるのは朝飯前(あさめしまえ)。なりすましをふくめて、ネット上で考えられる犯罪のすべてが手にとるように解説されていきます。
いやあ、これでは、本人以上に第三者が本人のことを知ることができるというわけです。
この本は今ホットなホンコンを舞台としています。もちろん、目下の激しい自由をめぐる闘争はまったく出てきません。「チョンキン・マンション」の世界とも無縁です。
地下鉄の痴漢犯罪のぬれぎぬ、学校での深刻ないじめ、...、まさしく、現代社会のかかえる問題点を、名探偵の明智小五郎よろしく解決していきます。それは、ネットを駆使する女性(『ドラゴン・タトゥーの女』のリスベット・サランデル)を連想させる展開です。
年に2度の、人間ドッグのとき、就寝時間を気にしながらも、結末を知りたくて、もどかしい思いでページをめくりました。それほど面白かった本だということです。
(2020年9月刊。税込2530円)

2021年10月 1日

台湾海峡1949


(霧山昴)
著者 龍  應台、 出版 白水社

中国に進攻していた日本軍が敗戦したあと、蒋介石の国民党軍と中共の解放軍とのあいだで国共内戦が始まり、ついに腐敗した指導部をかかえた国民党軍は敗退して、中国本土から台湾へ渡ります。でも、台湾にも中国人はいたわけですから、そんな国府軍をみんなが喜んで迎え入れたわけではありません。
そこを武力で抑えつけて、矛盾・衝突が起きました。台湾にとって、1949年というのは、そんな大変な時代の始まりでもあったのです。
この本は、小説のような、ノンフィクションのようなもので、歴史が行きつ戻りつしながら、中国と台湾の歴史が語られます。
国共内戦のもとで、教師が高校生の集団を引率して戦火を逃れてさまよう状況も紹介されます。タイトルは忘れてしまいましたが、そんな本を読み、このコーナーでも紹介したと思います。
そのころ、高校教師は生徒との人間的結びつきが強く、父母も教師と一緒ならいいだろうと考えていたのでした。なにしろ、逃亡先でも、信じられないことに、ずっと授業していたというのですから、驚嘆します。
国府軍も中共軍も兵士を補充するため、村の若者たちを軍にむりやりでも組み込んだ。そのなかには、6歳の少年までいた。彼らは写真を撮られるときだって、決して笑顔を示さなかった。
「軍隊では、笑ってはいけないんだ...」
日本軍が「敵」軍の捕虜を大量殺害していたころの証拠文書が残されている。
捕虜は、一人のこらず、殲(せん)滅してしまい、その痕跡が残らないようにせよという帝国陸軍の指針をふまえていた。
いやあ、ひどい証拠ですね。捕虜を残すことがなかったのです。そして、日本軍の蛮行は、内地に無事に帰ってきてから、ほとんどの人が沈黙を守り、日本社会には広く知られることはありませんでした。教科書の書き換えが横行しているのは、ここに根拠があります。
(2021年7月刊。税込3300円)

2021年8月14日

「セレモニー」


(霧山昴)
著者 王 力雄 、 出版 藤原書店

店のレジでお金を支払うとき、必ず、「○○カードは持っていませんか?」とたずねられる。そして、多くの人は訊かれる前にカードかスマホを差し出している。私はスマホも○○カードも持っていない。
○○カードを使うと、70代の男性が、○○日の○○時(雨あるいは晴れ、湿度23度)に○○を○○で買ったということが永久に消えない記録として残る。それを1週間、1ヶ月そして1年間も分析の対象とすると、その人のいろんな傾向が判明する。何を好んでいるのか、何にお金を使うのか、どんなものを好んでいるのか、友人はいるのか、どんな人なのか...、ビッグデータも駆使して、すべてを究明し尽くす。そんなことにならないように、尾っぽをつかまれたくないので、スマホをもたず、○○カードも持たない私です。もちろんマイナンバーカードなんて申請する気はありません。
中国では、「維穏費」として1兆4千億元が国家予算の5.9%を占めている。国防予算のほうは、それより少ない1兆2千億元だった。維穏費とは、警察等をつかって社会の安定を維持する費用のこと。この維穏費は、2013年の7700億元に比べて、5年間に倍増した。
この本では、人々を個別に監視する方法として靴にネットのタグが取り付けられているという想定になっています。個人の行動がそれで識別され、実のところ性生活の微細な行動まで当局は手にとるように分かる仕掛けだというのです。
最近の国産の靴も外国産の靴にも、すべてにSID(セキュリティ識別子)が取り付けられている。すべての靴が、移動中通信ネットワークに紛れている高周波によって、認識と追跡が可能になっている。いやあ、たまりませんね。国家が個々の人々の生活行動のすべてを把握できるというのです。
いま日本政府が鳴物入りでマイナンバーカードを人々にもたせようと笛を必死に吹いていますが、そんなのに乗せられたら、丸裸同然です。私は嫌です。ご免こうむりたいです。
何も悪いことしていないんだったら、いいじゃないか...、とは思いません。政府とは、たとえば今のスガ政権です。まともな日本語の会話も国会で出来ないような首相の下で、私の私生活が握られているなんて気色悪すぎます。
著者はあとがきで、テクノロジーによる独裁が外部から崩壊させることが不可能なことを描いたと語っています。テクノロジー、インターネットの発達が必ずしも人々の個人としての生活を豊かにするものでは決してないことをほんの少しだけですが、実感した気分に浸りました。近未来の怖い話を予測する小説ではありますが...。
(2019年5月刊。税込3080円)

2021年8月11日

「中国」の形成


(霧山昴)
著者 岡本 隆司 、 出版 岩波新書

中国の清朝といえば、強大な王権を内外ともに誇示していた存在だと思っていましたが、この本を読むと、その内実はまるで違うようです。
清朝は、明末の政体・体制をそっくり受け継いだ。権力を握った満州人は、数のうえでも組織のうえでも、そして経験のうえでも、漢人の歴史ある制度を根底からつくりかえるには、あまりに非力だった。その立場からすると、当面の苦境を克服し、眼前の混乱を収拾して生きのびるだけで精一杯の実力だった。非力な分、清朝はモンゴルに対しても、チベットに対しても、彼我の力関係に対する鋭敏で冷徹な認識をそなえていた。
ジェシェン(女真)人は、かつて12世紀に金王朝を建てた種族の末裔(まつえい)。ジュシェンのヌルハチがマンジュ(満州)として自立した。豊臣秀吉の朝鮮出兵のころのこと。
ヌルハチは、1619年のサルフの戦いで、明朝と朝鮮の連合軍を破って大勝した。
ところが、1626年、ポルトガル製の大宝(紅夷砲)に屈して、まもなく亡くなった。
後を継いだのは8男のホンタイジ。ホンタイジは、チンギス裔の血縁で権威の高いチャハル家をとりこんで皇帝に即位した。そして、大清国を自称するようになった。ホンタイジ亡きあと、ドルゴンが摂政として国を治めたが、明から清への交代は、漢人が裏面で動いてなされたものだった。ドルゴンは39歳で亡くなり、順治帝も10年おさめて、24歳で死亡した。後をついだ康熙帝はまだ9歳。8年間、辛抱したあと、権臣を排除して康熙帝はようやく実権を握った。
満州人・清朝がカオスのなかを勝ち抜き、勝ち残ることができたのは、多分に偶然であり、もっというと奇跡だった。彼らは、同時代の集団としては、必ずしも強大な勢力ではない。人口だけでみても大陸の明朝はおろか、半島の朝鮮にも及ばなかったし、モンゴルと比べてもそうだった。
相次いで押し寄せる目前の難しい局面に、生きのびるべく懸命の対処をくりかえした蓄積が、自立と興隆につながった。清朝は、それだけ自らの非力な力量・立場をよくわきまえていた。虚心な自他分析と、臨機応変の感覚に富んでいた。それが偶然・僥倖(きょうこう)を必然化させ、多元化した東アジア全域に君臨しうる資質を生み出したばかりか、清朝そのものに300年もの長命を与えることになった。
清朝はリアリズムに徹し、現状をあるがまま容認し、不都合のないかぎり、そこになるべく統制も干渉も加えようとはしなかった。漢人に対する清朝の君臨統治は、かつて「入り婿」政治と言われたこともある。
外形的に清朝の建設を完成に導いた康熙帝の当世は、内実を見たら、派閥の横行・暗闇が絶えない時代でもあった。次の雍正帝の当世は13年間。父の康熙・息子の乾隆の60年に比べると、決して長くない。だが、その治績は、父・子をはるかに上回って重要だ。
清朝が漢人を支配して大過なかったのは、漢人とのあいだにズレがあることを自覚し、緊張感をもち続けたからだ。
祖父の康熙帝は、大局的なケチ、節倹の鬼だった。これに対して孫の乾隆帝は、贅沢の権化。乾隆帝が即位したとき、清朝の在立は、なお、盤石ではなかった。最大の敵対者、ジュンガルが健在だった。
漢人社会が巨大化していき、バランスが崩れていった。清朝・満州人の複眼能力は、相対的・絶対的に衰えた。白蓮教の反乱が起きたとき、常備軍の八籏・経営が軍事的に役に立たなかった。
清朝の内実を詳しく知ることができる、面白い本でした。
(2020年9月刊。税込902円)

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