弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2021年7月15日

JUSTICE、中国人補償裁判の記録


(霧山昴)
著者 中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 、 出版 高文研

裁判の記録というタイトルから、なんとなく無味乾燥な記録ものというイメージをもって読みはじめました。すると、たちまち、そのイメージはぶっ飛び、いろんな意味で大変困難な課題に若き日本人弁護士たちが中国そして日本で苦闘し、少しずつ成果を勝ちとっていったという、人情味いっぱい、血わき肉踊るとまではいきませんが、日本と中国の関係を下から何とかいい方向に変えようとがんばった苦労を、ともに味わっている気分にさせてくれる本でした。その意味で、タイトルをもっと今どきの若者向きに、読んでみようと思わせるものにしてほしかったです。しかも、製本まで固くて、これでいったい日本の若者は手にとって読んでみようと思うのかしらんと、不安に駆られてしまいました。
 いえ、内容はすばらしいし、若手弁護士の大変な苦労が報われていく過程が見事に語られていて、読ませるのです。なので、タイトル・体裁に少し注文をつけてみたということです。ご容赦ください。
日本人(日本軍)が中国で信じがたい残虐な行為を大々的にしたことは消すことのできない歴史的事実です。ところが、多くの日本兵は中国での自らの残虐な行為について、日本に戻ってからは沈黙し、ほとんど語ることがなかった(軍当局は語らせなかった)ことから、良き父、善良な夫が残虐な加害行為なんかした(する)はずもないと内地の日本人は思い込んでいったのでした。ところが、この本には、自ら残虐行為をしたことを認め、犠牲者の遺族に謝罪した勇敢な元日本人兵士も登場します。
加害者は加害行為を忘れようとし、忘れたふりをして沈黙できます。ところが、被害者は忘れようがないのです。自分の母親が目の前で日本兵によって殺されたことを打合せ段階では日本人弁護士にも告げず、法廷でいきなり語ったという場面も紹介されています。
そして、日本人弁護士との打合せのときには適当なつくりごとを言っていたという話も出てきます。手弁当でやってきた日本の弁護士を、現地の人々は当初は信頼できなかったということです。
東京地裁で請求棄却の敗訴判決を受けて中国に説明に出かけた泉澤章弁護士は、中国側の激しい非難・攻撃を一身に受けることになった。いわば当然の状況ですが、それでも、中国人原告のなかに泉澤弁護士をかばってくれる人がいたことも紹介されています。
国家無答責の法理というものがあり、日本の裁判所の多くが、これに乗って原告らの請求を棄却した。この法理は、国の権力的行為によって生じた損害について、国は賠償責任を負わないとする考え方をいう。戦後、国の責任を認める国家賠償法が制定されるまで、国の賠償責任は否定されていた。ところが、この法理は、実は確固不動の法理ではなく、明治憲法下の判例の積み重ねによって徐々に形成されたものにすぎない。明治憲法ではなく、日本国憲法の下では、戦前の判例に絶対的に拘束されるのはおかしい。
芝池義一・京都大学教授の明快な意見書は、まったくもって、そのとおりです。
そして、もうひとつの壁は、「時の壁」。つまり「除斥」(じょせき)。これは、20年たっているから、もうダメだというもの。でも、裁判を起こしたくても起こせないような人たちに、「20年たったからもうダメ」と切って捨てるのは、あまり酷すぎる。これを打ち破るには、被害者・遺族・原告の置かれている実情を丁寧に聴きとる必要がある。
ところが、言葉の壁もあった。それは、中国の方言を北京語の通訳すら分からず、家族に言い換えてもらって、ようやく理解することになるので、実は日本人弁護士が正確に理解しているという保証はなかった。
それにしても日本の裁判官はひどいですね。国家無答責の法理で簡単に請求を棄却したり、請求権を認めると、「紛争の火種を残すに等しく、将来の紛争を防止するという観点からして有害無益」とした裁判官がいるというのです。呆れた裁判官です。この本の欠点は、そんな裁判官たちの名前が書かれていないことです。
そして、最後にもう一つ。小野寺利孝弁護士は、弁護団に加入するよう呼びかけたとき、「経済的負担はかけない」と保証したとのこと。実際には、どうだったのでしょうか...。請求棄却が相次いでいますから、国から費用をもらえたとも思えません。その点についてどうだったのか、カンパを集めてまかなったというのなら、そのことにも触れてほしいと思いました。
いろいろ注文もつけましたが、大変貴重な労作です。318頁、2500円という、ずっしり重たい本ではありますが、日本の若き弁護士たちが勇敢にも現実と取り組んだことを知って、勇気が湧いてくる本です。法曹を志す若い人たちに広く読まれることを心から願います。
(2021年1月刊。税込2750円)

2021年7月10日

「敦煌」と日本人


(霧山昴)
著者 榎本 泰子 、 出版 中央公論新社

私は幸いにも敦煌に行ったことがあります。莫高窟(ばっこうくつ)にも中に入って見学しました。すごいところです。井上靖の『敦煌』は読みました。残念なことに映画『敦煌』は見ていません。そのうちDVDを借りてみてみたいものです。
井上靖は戦前の1932年に京都帝大に入学し、哲学科で美学を専攻していた。そして30歳のとき日中戦争にも駆り出されている(病気のため、すぐに帰国)。知りませんでした。戦争の愚かさも身をもって体験していたのですね...。
敦煌は、中国の西端にあるオアシス都市で、漢代より漢民族が西方に進出する際の拠点として栄えた。遠くローマに至るシルクロードにはいくつかのパートがあるが、それらが交差する交通の要衝(ようしょう)が敦煌。中国の絹はここを通って西方へ運ばれ、西方からは、玉や宝石やガラス製品がもたらされた。敦煌は東西の文化の行きかう場所だった。
敦煌の南東20キロの砂漠の中に4世紀の僧によって開闢(かいびゃく)された莫高窟がある。鳴沙(めいさ)山の断崖に穿(うが)たれた500あまりの石窟には、千年以上の長きにわたって各時代の人々によって製作された仏教壁画や仏像が遺されている。
1900年、ここで暮らしていた道士(道教の僧侶)が、偶然、大量の古文書を発見した。その後、日本からは西本願寺の大谷光瑞の主宰する探検隊が活躍した。
砂漠のなか、大谷探検隊のラクダ隊が収集品を運んでいる写真があります。私も鳴沙山でラクダに乗りましたが、意外に高くて、怖さのあまり顔がひきつってしまいました。
井上靖の『敦煌』は、行ったこともないのに、同世代の学者だった藤枝晃から資料をもらい、教わりながら、5年かけて執筆されたもの。歴史学と文学の幸福な出会いのなかに生まれた小説だ。すごい想像力ですね。戦後、井上靖は、亡くなるまで26回も中国を訪問した。これまた、とてもすごいことですよね...。
NHKテレビが1980年4月から「シルクロード」を月1回、12回にわたって放送したのが大反響を呼びました。毎回20%もの視聴率を記録するという大ヒット作品でした。石坂浩二のナレーション、喜多郎のシンセサイザーの前奏も印象に残ります。井上靖も案内人として登場します。さらに平山郁夫の絵がまたすばらしい。
この本では、日本人のあいだにシルクロードのイメージを広め、ブームを定着させた最大の功労者は平山郁夫としています。なるほど、そうかもしれないと思います。やはり、絵の訴求力は偉大です。
西安の兵馬俑と敦煌は、コロナ禍が収束したら、ぜひ再訪してみたいところです。もし、あなたが行っていなかったとしたら、ぜひ行ってみてください。現地に行って実物を見たときの感動は何とも言えないものが、きっとあります。
(2021年3月刊。税込2090円)

2021年6月 6日

清華大生が見た中国のリアル


(霧山昴)
著者 夏目 英男 、 出版 クロスメディア

清華大学といったら、中国の超エリート大学です。中国のトップ大学は、精華大学と北京大学。現在の国家主席の習近平、その前の胡錦涛も精華大学の卒業生です。工業系大学としては、マサチューセッツ工科大学(MIT)を抑え世界1位と評されています。
著者は、そんな精華大学の日本人学生なのです。すごいですね...。
清華大学に入ると、学生は全員が大学寮に入る。全寮制。門限はないが、消灯時間は夜の11時。4人1部屋。
清華大学のキャンパスは東京ドーム84個分の広さで、そこに5万人の学生と4千人の教職員が住んでいる。そこは何でもそろっている学園都市。
「海亀」(ハイグイ)は、開学のトップ大学に留学し、卒業したあと、中国に帰国した学生のこと。2018年の中国人海外留学生は66万人強。チャイナ・イノベーションは、海亀が牽引している。
習近平の中国共産党は「天下の人材を一堂に集めて活用する」という戦略をとっている。なるほど、ですね。
ところが、日本人学生の海外留学は減少傾向にあります。パスポートをもっている日本人は、人口の23%のみ。G7では最下位。若者が海外の治安の悪さに恐れをなして、海外へ出ていこうとしない...。
日本の大学生は、アルバイトするのがあたりまえ。ところが、中国や韓国では、学生はアルバイトをほとんどしていない。中国では学費が安く、寮費がタダで、食事も安く食べられるから...。
清華大学では、朝8時からの第1時限の講義を聞くため、自転車が集中して渋滞まで起きる。ええっ、大学内で自転車の渋滞だなんて...、信じられません。
アリババの創始者であるジャック・マーとテンセントの創始者であるポニー・マーの2人についても詳しく紹介されています。
変化の速い中国の実情の一端が日本人大学生の目で紹介されている、面白い本でした。
(2020年10月刊。税込1628円)

2021年6月 3日

この生あるは


(霧山昴)
著者 中島 幼八 、 出版 幼学堂

中国残留孤児だった著者が3歳のとき中国と実母と生き別れ、16歳のときに日本に帰国するまでの苦難の日々をことこまやかに描きだしています。
それは決して苦しく辛い日にばかりだったというのではありません。人格的にすぐれ、生活力もある養母から愛情たっぷりに育てられ(いろんな事情から養父は次々に変わりますが...)、近所の子どもたちとも仲良く遊び、また教師にも恵まれ、ある意味では幸せな幼・少年期を過ごしたと言える描写です。読んでいて、気持ちがふっと明るくなります。
この本には底意地の悪い人間はまったく登場してきません。「日本鬼子」と言って幼・少年期の著者をひどくいじめるような子どももいなかったようです。
著者の育ったところが、そこそこの都会ではなく、へき地ともいえる環境(地域社会)なので、お互いの素性を知り尽くしていたからかもしれません。
子どものころの自然環境の描写もこまやかで、見事です。車に乗って出かけるというと、それは自動車ではなく、牛車です。
靴は布を何枚も重ねた布靴で、養母の手づくり。友人のなかには、布靴がすり切れたらもったいないので、裸足で学校に来る子もいます。
3歳の日本人の男の子を引きとった養母は「私が育てます」と宣言し、消化不良でお腹だけが大きくふくらんでいたので、夜と朝、お腹を優しく揉んでやった。食べ物も消化のいいものにして、主食の粟(あわ)をお粥(かゆ)にして、それを口移して食べさせた。
実母は日本に帰る前に著者を引き取ろうと養母の家にやってきた。村の役人は、3歳の著者に実母か養母か選択させることにした。3歳の子は、まっしぐらに養母のもとに駆け込んだ。そのころの子どもって、やっぱりそうなんですよね。毎日、面倒みてもらっていたら、そちらになつくのが自然です...。
なので、著者は3歳のときに実母と生き別れ、16歳で来日するまで実母とは会えませんでした。それでも、その後の中国での日々は養母に愛情たっぷりに育てられたことがよくよく分かる話が続きます。
小学生のとき「小日本」と蔑称でいじめられた。そのことを教師に告げると、言った生徒は教師から補導された。しかも、行政当局から小学校に連絡がきて、日本の留置民に対して侮辱的な言葉をつかう生徒がいる。その傾向を是正するよう教育を強化せよというものだった。それは全校で徹底された。当時の中国は理想に燃えていたのですね。
あとの文化大革命のときには、日本人はスパイとか外国に内通しているとか、無謀な罪名をつけられましたが、幸いにして著者はその前に日本に帰国しています。
著者は小学校ではクラスメイトにも教師にも恵まれて楽しく過ごしたようです。章のタイトルも「愉快な学校生活」となっていて、養母に愛情たっぷりに育てられていたため、変にいじけることもなく、教師からもきちんと評価されて少しずつ自信をつけ、のびのびと楽しく過ごしたのでした。ここらあたりは、読んでるうちに楽しさがじんわり伝わってきます。
河でザリガニを捕まえて自宅にもち帰る、穀物の精製に使うローラー状の石臼で圧搾する。その絞り汁をスープに入れると、蟹(カニ)豆腐のようになる。なんとも言えない美味の感覚が今も舌先に残っている。うむむ、ザリガニをスープに入れて味わうなんて...。
著者は1955年、日本に帰国するが尋ねられたとき、次のように返事した。当時13歳なので、今の日本の中学1年生に当たるだろう。
「ぼくを無理矢理に汽車に乗せても、汽車から飛び降ります。絶対に日本へ行きません」
これは著者の本心で、誰からも強制されたものではなかった。養母の顔をうかがって言ったというものでもなかった。これは、中国で育つなかで、日本は他国を平気で侵略する恐ろしい国だという強いイメージをもっていたことにもよる。
ところが、さらに年齢(とし)をとると、外の世界への憧れ、親しい物事への好奇心が強まり、背中を押してくれた教師の言葉から日本へ帰国することになった。
このあたりの心理描写はよくできていて、なるほどと説得力があります。そして、ついに16歳のとき慌しく日本に帰国したというわけです。
400頁をこす大著ですが、なんだか自分自身も子ども時代に戻って、そのころの幸せな気分を味わうことができました。いい本です。一読をおすすめします。
(2015年7月刊。税込1650円)

2021年5月25日

チョンキンマンション


(霧山昴)
著者 ゴードン・マシューズ 、 出版 青土社

中国は香港にある17階建ての雑居ビル。重慶大厦(チョンキンマンション)には、毎日、100ヶ国以上の人々が行きかう。そこには世界中から商人が集まり、バックパッカーが来訪するところでもある。『チョンキンマンションのボスは知っている』(小川さやか、春秋社)を読んで、その存在は知っていましたので、その過去と現在を知りたいと思って読みすすめました。
チョンキンマンションも、今では、かなり変わっているようです。多くのアフリカ人貿易業者にとって、夢あふれる器としてのチョンキンマンションは、中国大陸にとって代わられた。そして、中国大陸を拠点にしているアフリカ人貿易業者の一部にとって、チョンキンマンションは、発展途上世界版の紳士クラブになった。
チョンキンマンションは、数年前より、さらにこぎれいになった。チョンキンマンションは、もはや怖いところではなく、家族を食事に連れて行くのに適した場所である。
チョンキンマンションは、酒を飲んだり、セックスワーカーを買ったり、他のさまざまな悪法行為に従事するムスリムも多くいる。すべてがイスラム教の道法的秩序にしたがってなされているわけではない。
チョンキンマンションでは、とても狭い範囲内に、非常に多くの国籍と宗教が存在しているので、不寛容でいることは不可能も同然だ。チョンキンマンションが平和なのは、新自由主義のイデオロギーだけではなく、チョンキンマンションにいるほとんど誰もが、彼がその建物の中にいるというその事実によって、人生における比較的な成功者であるということからもきている。彼らはセックスワーカーや麻薬中毒者であってさえ、多かれ少なかれ人生の勝ち組だ。
チョンキンマンションは、香港の残りの部分とは民族的に異質であり、ほとんどの香港系中国人に軽蔑され、あるいは恐れられていることによって、ゲットーであり続けている。このことに、チョンキンマンションのほとんどの人々は痛いほど気がついている。しかし、それは明らかに中産階級のゲットーであり、さらには国際的なゲットーなのだ。
そこでは、誰もが、いつの日か成功して金持ちになることを望み、信じている。客観的には疑わしいが、これが彼らの信念だ。
チョンキンマンションは、すでに17階建てであり、取りこわしても売却できる空間の大きな増加にはつながらない。この建物は、いくぶんぼろぼろの状態でありながら、驚くほどの収益を生んできた。この建物は所有者にとっては「金山」なのだ。
チョンキンマンションでは、かつてケータイ電話が主要な取扱商品だった。サハラ砂漠以南のアフリカで使われているケータイ電話の2割はチョンキンマンション経由だと推測できた。しかし、今では1%未満に低下しているだろう。
いまチョンキンマンション内にいるアフリカ人貿易業者はケータイではなく、宝石か中古自動車の部品を扱っている。宝石は密輸が簡単だし、香港の人々が比較的短期間で新車に乗り換えるため、貴重な中古部品が多く入手できるから。
今日、チョンキンマンションでコピーのケータイ電話を買うのは簡単ではない。
チョンキンマンションは、九龍半島の先端、香港の主な観光地区(ツィムシャツィ)にある。
チョンキンマンションでは驚くほど物価が安い。食事も宿も、ほんのわずかな費用しかかからない。かつて、チョンキンマンションの1階には120軒のうちケータイ電話を売る店が15軒、洋服を売る店が30軒あった。
宿泊所は90軒あり、合計すると1000をこえるベッドが用意されている。
アフリカ人が美味しいと感じる食事を出すチョンキンマンション内のほとんどのレストランが無免許で、したがって非合法だった。
チョンキンマンション内には暴力団組織が、かつては存在していたが、今はいない。
チョンキンマンションには、現に単独の所有者が存在しない。チョンキンマンションの所有権をもっている人は920人いて、その7割は中国人で、残る3割は南アジア人。つまり、アフリカ人所有者はいない。
チョンキンマンションは、一般的には、礼儀正しく、平和で、道徳的な場所だ。ここでの争いごとの多くで警察は蚊帳(かや)の外に置かれ、役に立たない。チョンキンマンションは、独自の警備隊をもっている。警備員は武器をもっていない。その主たる役目はエレベータ―付近の秩序維持にある。
チョンキンマンションを通りすぎる1万人のうち、2000人は亡命希望者、4000人は違法に働いている人々、残る4000人は貿易業者や合法的な労働者。
香港の警察に賄賂は通じない。ええっ、本当なんですか...。
興味深い学術研究書でした。2冊あわせて読むと面白いですよ。
(2021年3月刊。税込3080円)

2021年3月11日

シャオハイの満州


(霧山昴)
著者 江成 常夫 、 出版 論創社

シャオハイとは、中国語で子どものこと。
日本敗戦時、中国東北部(満州)にいた日本人家族は軍隊(日本軍・関東軍)から見捨てられ、ソ連軍や現地中国の人々から激しい攻撃を受け、多くの人々が殺され、また集団自決して死んでいきました。そして、大勢のいたいけな日本人の子どもたちが中国大陸残されたのです。その子どもたちは日本人であることから、いじめられながら育ち、また、かなりたってから自分の親が日本人だったことを知らされ、機会を得て探しはじめます。しかし、何の手がかりもなかったり、日本の家族(親族)が死に絶えていたりして、みなが日本に帰国できたわけではありません。
そんな中国に残留していた日本人の顔写真がたくさん紹介しています。なるほど、日本人だよね、この顔は...と、納得できる顔写真のオンパレードです。
東京荏原(えばら)郷開拓団というのがあったのですね。今の品川区小山町の武蔵小山商店街商業組合を母体とした千人規模の開拓団です。1943年(昭和18年)10月に先遣隊が現地に入り、翌1944年3月から6月にかけて入植したのでした。千人が5回に分かれて入植しました。敗戦前年には日本の敗色も濃くなっていたわけですが、それにもかかわらず、東京から満州に千人もの日本人が渡っていたというのは驚きます。
電灯はなく、ろうそくを立て皿に油を注いだ灯心のランプ生活。井戸は村に1ヶ所のみ。
そのうえ、敗戦の年の1945年7月までに、開拓団の男性が次々に兵隊にとられていったのでした。現地応召者は、180人にもなったのです。8月9日のソ連軍侵攻時点で、開拓団880人のうち、頼られる男性は80人のみ。若い男たちは、ほとんど兵隊にとられていた。そして、集団自決で300人もの人々が麻畑で死んでいった。
敗戦の8月15日まで、日本の敗北を予想していた開拓民は一人もいなかった。これまた恐ろしいことですね。肝心な情報がまったく伝わっていなかったわけです。
「王道楽土建設」という大義を合言葉にしていた時代だった。他人の国へ土足で踏み込むという罪の意識をもっていた日本人は皆無だった。現実には、それまで農作していた農民を追い出して日本人家族を住ませていた。
軍人はもとより、官吏も民間人も、日本人の誰もが、神国日本への過信と、現地中国人に対する優越意識におぼれていた。それだけに、日本敗北による在留日本人の屈辱は大きかった。8月15日が過ぎても、日本の敗戦を信じなかった日本人が満州には大勢いた。
中国人は日本人の子どもは優秀だからというので、子どもをさらっていったり、困っている日本人家族から子どもをもらおうとする中国人が大勢いて、子どもを死なせるよりはましだと食料をもらう代わりに子どもを手放す親も少なくなかった。
これは、本当に誰にとっても悲劇ですよね。
人間の死体が野ざらしで山積みにされていた。着ていたものはみんなはがされて、丸裸にされた状態だった。死体はカチカチに凍っていて、材木置場みたいになっていた。
満州の冬は、氷点下30度、40度にもなる。寒風のなかでの水汲みはきつい。用便するときは、山のようになって凍りついた人糞を金槌のようなもので突き崩す必要があり、これは若い女性にはこたえた。
開拓団員は、誰もが皇国の関東軍に絶対の信頼を寄せていた。「軍が必ず助けてくれる」と言いあっていた。ところが、いざとなったとき、関東軍の主力部隊はいなくて、まっ先に逃げ出してしまっていた。威張りちらしていた軍人たちは、いったいどこへ姿をくらませたのか...。怒りと不安のなかで逃亡生活がはじまった。
いやはや、国の政策に踊らされた開拓団の悲惨な末路に接し、寒気がしてなりませんでした。目をそむけたくなる論述のオンパレードなのですが、唯一の救いは、置き去りにされて40数年たっている、紹介された顔写真の誇らしげな表情です。
集英社から1984年に出版されていた本のリニューアル版です。
(2021年1月刊。2400円+税)

2021年2月12日

孔丘


(霧山昴)
著者 宮城谷 昌光 、 出版 文芸春秋

人間、孔子の生きざまを丹念にたどった小説です。
孔子は妻との折りあいが悪く、また長男とも疎遠だったようです。まさしく決して聖人ではなかったのですね。そして、弟子たちと何度も流浪の旅に出かけざるをえませんでした。
群雄割拠の中国の各地を、時の権力者とまじわりながらも、ときにはねたみを買って追い出されてしまうのです。
孔丘が、自分の子に教えたのは、二つだけ。
「詩を学んだか。詩を学ばなければ、ものが言えない」
「礼を学んだか。礼を学ばなければ、人として立つことができない」
詩と礼は、精神の自立と正しい秩序との調和を目ざす孔丘の思想の根幹をなす。
中都の長官となった孔丘は善政を目ざした。善政の基本は、司法が公平であること、課税が過酷でないこと。この二つ。
政治とは率先すること。ねぎらうこと。孔丘もそれを実践した。
60歳は耳順。天命をより強く意識するようになったことから来るもの。どんないやなことでも、天が命ずることであれば順(したが)っておこなうこと。
孔丘は弟子に公こう言った。
「努力しなければ成就しない。苦労しなければ功はない。衷心がなければ親交はない。信用がなければ履行されない。恭(つつし)まなければ礼を失う。この五つを心がけること」
弟子の顔回が師の孔丘について、次のように語った。
「先生は、仰げば仰ぐほど、いよいよ高い。鑚(き)ろうとすればするほど、いよいよ堅い。まえにいたとみえたのに、忽然とうしろにいる。先生は順序よく、うまく人を導く。文学でわたしを博(ひろ)くし、礼でわたしをひきしめる。もうやめようとおもっても、それができない。すでにわたしの才能は竭(つ)きていて、高い所に立っている先生に従ってゆきたくても、手段がない」
これが孔丘の実像である。
15歳で学に志(こころざ)した孔丘は、休んだことがない。73歳で亡くなって、生涯で初めて休息した。
孔丘は妻との離別のとき、人から、次のようになじられた。
「自分よがりの礼をかかげて、教師面(づら)をしている。あきれた人だ。家庭内を治められなかったあなたに、人を導く資格があるのか」
孔丘はこれに対しては、ひとことも抗弁しなかった。夫婦間の機微に理屈をもちこんだところで、他人を納得させる説明ができるはずもない。
孔子も、やはり人の子だったわけなんですよね...。この本は、たくさん勉強になりました。
(2020年10月刊。2000円+税)

2020年12月29日

日本語を学ぶ中国八路軍


(霧山昴)
著者 酒井 順一郎 、 出版 ひつじ書房

八路(はちろ)軍といっても、今どれだけの日本人が知っているのでしょうか...。実は、私の叔父(父の弟)は、応召して中国戦線へ引っぱられ、敗戦後、八路軍の求めに応じて技術者として残留し、国共内戦下の満州で八路軍と行動を共にしていたのです。1953年6月に帰国しましたが、たちまち郷土の保守的風土に溶け込み、長生きしました。八路軍は偉かった、「三大規律、八項注意」を守る人民の軍隊だったと胸を張って私に教えてくれました。
中国共産党(中共)の対日工作は、日本語と日本文化を積極的に学び分析している。中共は、積極的にプロパガンダの一つである抗日工作を行った。中国人将校に対して日本語教育を行い、学んだ日本語で対日宣伝や捕虜投降の呼びかけ工作をすすめた。
そして、獲得した日本兵を優遇しながら、反戦教育を施した。
中共は日本人捕虜から日本軍の情報収集だけでなく、日本語教師としても活用した。日本軍兵士のなかで中国語教室を開いただなんて聞いたこともありません。
同じように、アメリカでもアメリカ兵に日本語教室を開いていました。「菊と刀」などをテキストにして、日本文化の研究もしていたのですが、それは早くも戦後の日本占領政策のすすめ方を考えていたということです。
中共の八路軍内に、敵軍工作訓練隊が設置され、そのとき活用されたのが日本留学組の中国人、そして日本人捕虜、軍内で育成された高度な日本語人材だった。
中国では、1930年代に空前の日本語ブームが到来した。日本語ができるのは、新しい出世の近道だった。上海に会った有名な内山書店における日本語本の売り上げの6割は中国人だった。1926年から30年にかけて、中国から日本へ留学する学生が1.7倍に増えた。その一人が有名な魯迅(ろじん)です。ただし、職業キャリア・アップの日本語学習熱は、日中戦争がはじまると、たちまちしぼんでしまいました。
八路軍は中国軍(八路軍)との戦闘に勝利して千人以上の日本兵を獲得する自信があったけれど、できなかった。日本兵は死んでも捕虜にならないと戦い続けようとしたからだ。
しかし、日本兵の残した日記等を解説すると、日本兵も死を恐れるフツーの人間だということを知り、そこに働きかけることにした。毛沢東も、戦略的に日本語が重要であることを理解していた。
1938年11月、八路軍は延安に敵軍工作の中心を担う日本語人材育成のため、敵軍工作訓練隊を設立した。1040年、敵軍工作幹部学校に改編された。そして、日本留学組が活躍した。そして、日本人捕虜も助教として採用された。
訓練隊では、日本語の発音が重視された。教える側の日本人の放言が問題になったこともある。多くの日本人捕虜は庶民であり、共産主義の知識もなかった。八路軍で初めて小林多喜二の「カニ工船」に接した。
日本軍は、八路軍の働きかけによる捕虜と投降の増加を問題視し、八路軍の抗日工作を警戒した。日本人捕虜たちは、八路軍の将兵が酒をくみ交わし、日本語の歌を一緒にうたう日中歌合戦をしていた。うひゃあ、そうだったんですか...。
それに対して、日本陸軍内では中国班は出世コースに乗ることすらできなかった。
こりゃあ、ダメですよね、まったく...。国としての総合力でまるで劣りますね、日本っていう国は...。こんなことでは、偉そうなことを言えるはずもありません。
(2020年3月刊。2600円+税)

2020年12月23日

武漢日記


(霧山昴)
著者 方方 、 出版 河出書房新社

中国の中心部に位置する人口1000万人の巨大都市である武漢市はコロナ感染症の防止のため760日間も完全封鎖されました。そのとき一市民として武漢内部からネットで状況を毎日発信した記録です。一市民といっても作家です。
武漢市民は2020年1月20日から、恐怖と緊張のなかで3日間を過し、突如として封鎖令を迎えた。1千万の人口を有する都市が感染症のために封鎖されるのは、歴史上ほとんど前例のないことだ。
武漢市政府は、コロナ感染症の蔓延を防止するための決断を下した。この封鎖によって、500万人もの人が市内に帰宅できなくなり、900万人の武漢市民が外出できなくなった。
そして、家に閉じ込められた900万の武漢市民は、住民による自発的な組織をつくることによって日常生活の問題を解決していった。
それにしても、まるまる76日間の封鎖に耐えることは決して容易なことではない。武漢の封鎖は、4月8日に全面的に解除された。
武漢は、かつて楚(そ)の国に属していた。楚人は、武を尊び、屈託がなく、ロマン的で気ままな性格だ。そして、女性が強い。
政府は、武漢の医療スタッフと支援に来てくれた4万人以上の白衣の天使に感謝すべきである。政府がもっとも感謝しなければならないのは、自宅待機を続けた900万人の武漢市民だ。
政府は少しでも早く、市民に謝罪すべきである。いまは反省と責任追求のときだ。感染症の終息後、多くの人が一時的に心的外傷後ストレス障害(PTSD)を起こすだろう。
ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれほど速い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかでもない。ましてや、どれほど豪華な会議を開き、どれほど絢爛(けんらん)たる花火を打ち上げるかでもなければ、どれほど多くの人が世界各地を豪遊して爆買いするかでもない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度をとるか、だ。
いやあ、まったくそのとおりです。今のスガ首相を見てください。国民の前に顔を見せず、話しかけることもしない。それでいてGOTOトラベルに巨額のお金をつぎこみ、また軍事予算には莫大なお金を惜し気もなくつかって浪費ざんまい。しかし、医療や教育の現場には行こうともせず、目を向けることもありません。弱者切り捨てだけは貫いています。「ガースーです」と言って薄笑いするスガの顔には文明度なんて、カケラも感じることができません。残念でなりません。
著者は医療スタッフが次々にコロナ感染で亡くなっていったことを発信しました。2月25日の時点で26人もの人が亡くなったとのこと。そして、まだ若い医師が次々に亡くなっていったというのです。これは怖いですよね...。
実況中継のように「日記」が発信されていたというのですから、中国もまだ捨てたものではありませんよね。「極左」からの妨害や当局との軋轢もあったようですが...。
(2020年9月刊。1600円+税)

2020年11月 6日

文革下の北京大学歴史学部


(霧山昴)
著者 郝 斌 、 出版 風響社

1966年の春、中国で突如として文化大革命なるものが始まりました。私が東京で大学生になる1年前のことですから、まだ福岡の田舎の高校生でした。
初めのころは、文化面での批判と自己批判くらいに思っていたのですが、そのうち指導層のなかの激烈な主導権争いだということが分かりました。旧来の支配的幹部が次々に失脚していくだけでなく、激しい糾弾の対象となりましたが、あわせて知識人も主要な攻撃対象でした。
中国で北京大学と言えば、日本の東大以上の存在感がある大学だと思いますが、その歴史学部の助教授だった著者も糾弾されて、牛棚(牛小屋)に3年あまり監禁されたのでした。文化大革命の終結したあとは再び北京大学につとめ、副学長になっています。
1966年6月2日付の「人民日報」の一面トップは北京大学哲学部の聶元梓(じょうげんし)による大家報を紹介した。北京大学の陸軍・学長などを名指しで批判したのだ。
文化大革命の期間中に全国で摘発された人は100万人をこえ、「牛鬼蛇神」と呼ばれた。北京大学・清華大学の大学関係者のみ「黒幫」とよばれた。北京大学歴史学部に在籍する教職員100人のうち、批判され摘発されたのは3分の1をこえた。
学生たちは教師の頭髪を刈って「陰陽頭」にした。右半分は根っこから刈られ、左半分もバラバラの状態にされた。
学生たちの行動は、一個人によってなされたものではなく、その背後には幾千の学生たち、ひいては幾千万もの同世代の青少年が立っていた。
社会がここまで乱れた以上、国家の正常な状態はもはや期待のしようもなかった。社会に「疫病」がはやり、青少年層は全体として感染し、「狂熱的暴力集団性症候群」になった。
群集が理性を失い、感情的なイデオロギーにマインドコントロールされてしまったときには、どんなに荒唐無稽な行動でも起こすことがありうる。これは古今東西において例外はない。
清末の義和団も、その一例。義和団に入った群衆たちは、口で呪文を唱え終わると、自分の体に、「刀では切れないし、鉄砲の弾も通らない」不思議な力がついたと本心から信じ、目前にある西洋の鉄砲にも恐れず立ち向かっていった。
「牛棚」(牛小屋)のなかでは、甘言を弄したり、人の危急につけ込むようなことがさまざまな局面で起きていたが、その反面、善なる人間性の美しい部分も、こうした環境のなかでも粘り強く生きていた。
1968年春、北京大学の校内で武力闘争が起きた。
東大闘争が始まった(全学化した)のは1968年6月からですが、ゲバルト闘争は10月ころからひどくなりました。それでも、北京大学の武力闘争に比べると、まるで子どものチャンバラゴッコのレベルでした。
北京大学では巧妙な教授たちの自死が相次いでいますが、日本ではそんなことはまったく起きていません。
毛沢東による奪権闘争とその軍事的衝突の激しさは、日本人の私たちからは想像を絶するものがあります。中国の状況が複雑かつ混迷をきわめたのには、次のような違いもありました。
当時、北京大学には上層部幹部の子女が多く通っていて、その両親の大半は文革中に打倒された。しかし、青春まっ盛りの世間知らずの若者たちは、父母が打倒されても、それは自分とはまったく無関係であり、父母に問題があっても、それは父母のことであるから、自分は変わらず革命の道を進む。なので、やるべきことはやり、言うべきことは言うとしていた。地主・官農・資本家の子女を糾弾することがあっても、それは革命幹部の子どもである自分たちにはあてはまらないと信じていた。しかし、それが見事にひっくり返されてしまった...。
著者が名誉回復したのは1978年のことですから12年間も苦しめられていたわけです。
毛沢東の権力欲のおかげで中国の人々は大変な苦難を押しつけられたことになります。
読みすすめるのが辛い回想記でした。
(2020年3月刊。3000円+税)

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