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蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者  湯浅 治久 、 出版  吉川弘文館
ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
 ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
 この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
 蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
 鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
 フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
 文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
 10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
 この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
 弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
 この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
 蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)

「忠臣蔵」の決算書

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  山本 博文 、 出版  新潮新書
私の誕生日が討ち入りの日と同じだからではありませんが、忠臣蔵には昔から興味がありました。
 この本は、討ち入り費用700両(8400万円)の使途がきちんと記帳されていたことから、浪士たちの行動を明らかにしたものです。
 筆頭家老の大石内蔵助が、すべての藩財政の処理を終えて会計を諦めたとき、その手元に残ったお金は700両足らずだった。現代の金銭価値になおすと8千数百万円ほど。このお金が吉良邸討ち入りのための軍資金として活用された。
 「預置候(あずかりおきそうろう)金銀請払帳(きんぎんうけはらいちょう)」が現存し、それは討ち入り前夜に浅野内匠頭の正室(妻)の瑤泉院に届けられた。
赤穂藩が領内に発行していた藩札は銀9000貫目(銀900万匁)。現在の金額にすると18億円で、藩の年間予算に匹敵する規模だった。そして赤穂藩の取りつぶしによって、赤穂の城下町は藩札をもつ債権者が藩の内外から集まって、大変な騒ぎになった。最終的には、藩札はその額面の6割と交換されて決着した。
 赤穂藩には、中級家臣が140名いた。米や金の現物で「禄」(給料)を支給される下級藩士は123名いた。
 退職金として、藩士300名に対して総額23億5千万円が分配された。単純平均で一人780万円である。
 四十七士の特徴は、階層・役職・立場など非常にまんべんなく分布しており、一口でどのようなものが討ち入りに参加したとは言えない。一人一人の考えが独立しており、しいて言えば、「武士道」への思い入れの強い者が参加したと言える。
 多くの討ち入りの参加者は、浅野内匠頭個人から特別な恩籠を受けてはいなかった。彼らは、自らの「武士道」と家の名誉を守るために行動した。
 江戸で隠れ住んでいた浪士は月3万円で生活していた。
 支出割合の多くを占めているのが、上方と江戸を往復する旅費である。一人分の片道旅費は総額で3両。2週間かかったとして、1日に2万5千円。宿泊代が1泊1万円。駕籠賃などの交通費と食費をあわせて1日1万5千円。
 大石内蔵助は、もと家老の身分であるため、旅行時には駕籠を使った。内蔵助が京都で遊興したときには、自分のお金を使った。『金銀請払帳』には、その関係の出費は記帳されていない。
 内蔵助が江戸に下ったときには、もはや軍資金も底をつき始めていて、これ以上延期が実質的に不可能だったという実情もあった。江戸へ下る旅費は一人金3両と決められていた。そして、軍資金が乏しくなっていたことから、内蔵助一行の江戸下り費用は、内蔵助自身が負担した。
 討ち入りのための武具などの購入費用は130万円ほどだった。そして、不足したお金は内蔵助が個人で負担した。藩の財政を処分したあと、700両のお金を残し、これを適切に管理して使い、立場も考えもさまざまに異なる多数の同志を足かけ2年の長期にわたって統制した内蔵助の力量は、あらためて高く評価されるべきものである。
 著者のこの指摘には、まったく同感です。2年ものあいだ、お金と人を巧みに統制した内蔵助の力はとても大きい、偉大だと思いました。
(2012年11月刊。740円+税)

私はホロコーストを見た(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社
ナチス・ドイツの魔の手から救出・解放されたあと、ヤン・カルスキは農村地帯に匿われます。そこで、健康を回復するのです。ポーランド・国民の全体として抵抗する風土がカルスキを助けました。しかし、著者を匿った一家も無事ではありませんでした。あとでナチス・ドイツに銃殺されているのです。
ポーランド亡命政府はイギリスのロンドンにあったが、ポーランド国内に地下秘密政府(レジスタンス)がしっかり根づいていた。
 これがよその国と決定的に異なるところです。フランスにもレジスタンスはありましたが、地下(秘密)国家というべきものはありませんでした。
 たとえば、地下政府は、金曜日に、ナチの新聞をポーランド国民は買ってはならないと指示した。すると、たちまち、金曜日発売のドイツ語新聞の発行部数は大幅に減った。それほどレジスタンスは、ポーランド国民から信頼されていた。
 さらに、レジスタンスの財政危機を打開するため、亡命政府は国債を発行することにした。そして、国債発行は大成功をおさめ、レジスタンスの活動を続けることができた。
レジスタンスは新聞も発行した。それは、4頁から16頁のものである。そして、発行人はワルシャワのゲシュタポ本部に1部を郵送してやった。ポーランド国民の気持ちを伝えるためである。レジスタンス機関は、地下新聞を介して住民との接触を絶やさずにいた。地下新聞のおかげで何が起きているのか、住民はいつでも知ることができた。住民の希望の日を燃やし続けているのも、地下新聞だった。
 地下活動における鉄則は「目立つな」である。秘密文書を個人宅に秘匿するための技術は、ポーランド国内で信じられないほど発展を見せた。二重壁、二重天井、二重の床板、抽出の二重底、浴室の偽配管、偽オーブン、細工家具など・・・。
地下活動には女性が適している。危険をすばやく察知するし、不幸に見舞われても男のようにいつまでもくよくよしない。人目につかない点でも男にまさっている。およそ女性の方がより慎重で、無口、良識を備えている。
 男は、大げさだったり強がったりと、往々にして現実を直視しない傾向がある。そして、何か謎めいた雰囲気を漂わせてしまう。それが遅かれ早かれ、致命傷となる。
 地下活動に携わるものが忘れてはならない重要な原則は、可能なかぎり自分の住まいを任務から無関係にしておくこと。政治活動をする者は、準備をしない、誰とも待ち合わせをしない、自分の寝る場所に秘密文書などは置かない。それを行動規範にする。それをしていれば、最低限の安全を確保したという気分になれ、絶え間ない不安から逃れられるし、恐怖心を抱かずに眠れる。
 女性連絡員の活動(寿命)は数ヶ月をこえることがない。女性連絡員こそ、占領下ポーランドにおける女性の運命を象徴している。より多く苦しんだのは彼女たちであり、その多くは命を失った。1944年に600人いたワルシャワの連絡員の50%は、ガールスカウト出身だった。
地下政府は地下学校を開いた。ワルシャワにあった中学と高校の103校のうち、90校が地下学級を持ち、2万5000人の高校生が授業を受けた。1944年までにワルシャワのみで6500のマトゥラ(大学入学資格)が秘密裡に授業された。高校教育(大学)は、ワルシャワだけで5000名の学生がいた。
 これらのおかげで、戦後のポーランド公教育の復活・維持が可能となった。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ゲットーの中に潜入した。それは可能だった。地下室の出入り口がゲットー内に続く構造になっていた。絶望収容所までヤン・カルスキは見ています。
 この本を読んで残念なのは、ヤン・カルスキが自分の目で見た事実をアメリカのルーズヴェルト大統領などに直説話して伝えたのに、アメリカそしてイギリスを動かすことにならなかった事実です。アメリカもイギリスも、ソ連のスターリンへの遠慮そして国内政治状況の下で、ヤン・カルスキの訴えが結果的に無視され、何百万人ものユダヤ人殺戮が止まらなかったのでした。
 しかし、それにしてもヤン・カルスキの知恵と勇気そしてポーランド国民の不屈さには脱帽です。
(2012年9月刊。2800円+税)

ブラック企業

カテゴリー:社会

著者  今野 晴貴 、 出版  文春新書
だれでも知っている日本有数の大企業までもブラック企業なんですね。おどろきました。まあ、たしかに日本経団連は人間とりわけ若者の使い捨てを率先してすすめていますから、有名大企業がブラック企業だとしても驚くことはないのでしょう。
 でも、こんな事をしていたら、日本の若者をダメにしてしまうし、ひいては日本の将来をお先まっ暗にしてしまいます。一企業の私的利益に日本の若者ひいては日本の将来を奪わせてはなりません。
 「おまえたちは人間のクズだ。なぜなら、今の時点で会社に利益をもたらすヤツが一人もいないから。お前たちは先輩社員が稼いできた利益を横取りしているクズなのだ」
 こんなことを堂々と新入社員の前で演説する人事担当役員がいるというのです。ひどい話です。自分の胸に手をあてて考え直してほしいものです。実は、あなたもかつてはクズだったんですよね。そして、定年退職してからの年金を負担しているのは誰なんですか。あなたが、「クズ」と決めつけた「若者」たちではないのですか・・・。
 人事担当役員が「カウンセリング」を始めると、徹底的に自己否定することを強いられる。会社によるハラスメント手法に共通するのは、努力しても何をしても罵られ、絶え間なく否定されるということ。新入社員研修では、ひたすら精神面の指導が行われる。
 技術の向上や基本的な社会人としてのマナーを教えることが目的というより、従順さを要求し、それを受け入れる者を選抜することにある。
○○シロでは、店舗運営のマニュアルを暗記することが求められる。社外秘の資料なので、自宅で復習するためには店で書き写すことが求められる。明らかに不効率な方法だが、そこでは、根気があるか、会社に忠実かを見ている。
 半年で店長になれるのは、4分の1から3分の1くらい。入社して2年間は本当に採用されるために活動しているようなもの。その間に半分は辞める。店長になる過程は、同時にリタイアする過程でもある。
○○シロでは、みずからの過剰労働やパワハラを労働災害だと実は理解している。
成果主義のような目に見える効率一辺倒の企業体質は労働基準法を無視し、働く人を使い捨てします。
ブラック企業問題は、若者の未来を奪い、さらには少子化を引き起こす。これは日本の社会保障や税制を根幹から揺るがす問題である。同時に、ブラック企業は、消費者の安全を脅かし、社会の技術水準にも影響を与える。ブラック企業の規制を実現してこそ、日本経済の効率性を高め、社会の発展を実現できる。
 なんでも「規制緩和」万能の風潮が強まっていますが、とんでもありません。労働者保護は、日本社会の健全な発展に必要不可欠なものです。ぜひ立ちどまって考え直してほしいと思いました。
 まだ30歳という若手の著者です。大変勉強になりました。ひき続き、がんばってください。
(2012年12月刊。770円+税)

「幕末維新変革史(上)」

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波書店
江戸時代が終わり、明治が始まるころの欧米列強の状況が冒頭に紹介されています。なるほど、この幕末激動期を国内情勢の変化のみからとらえてはいけませんよね。最上徳内、間宮林蔵、伊能忠敬らは探検家として日本地図の作成は対ロシアとの緊張関係のなかで活躍したのでした。
 さらに、長崎通詞はオランダ語だけでなく、フランス語やロシア語まで習得していた。
 国学者として著名な平田篤胤と門弟たちは、人を批判するのに「コペルニクスも知らないで」と嘲笑していた。それほど西洋の自然科学所は当時の知識人の必読文献であった。つまり、地動説が当時の日本に入ってきていたのです。
 1840年の中国におけるアヘン戦争勃発は幕府にとって対岸の火事ではなかった。イギリスは戦艦を日本に差し向けるという噂が流れていた。そこで、高嶋秋帆に洋式銃隊の調練を行わせた。
 アヘン戦争の衝撃は、日本人の目を一挙に世界に拡大させた。西洋諸国は現在どのような発展状況にあり、世界のどこに進出しようとしているのか、その軍事力と国力はどの程度のものか、この痛切な日本人の知的欲求が『坤輿図識(こんよずしき)』全5巻を刊行させた。この本は堂々たる世界地誌であった。
 日本の漁民や船員が海上で遭難してアメリカなどに渡って日本に戻ってきた。これらの漂流民の話を藩主や藩重役までが熱心に傾聴した。
 1853年(嘉永6年)6月、ペリー艦隊が江戸湾に入った。黒船の出現である。ペリーは身辺警衛とアメリカの軍事力を誇示する目的で300名の兵力を久里浜に上陸させた。
 米日交渉は、9艦の軍事的圧力のもとで進められた。
このころイギリスは、アメリカやロシアのような対日行動をとるのは不可能だった。1851年に発生した太平天国の乱が拡大して、イギリスの商業権益が脅かされていた。
 日本において特徴的なことは、ペリーの来航情報が瞬時に全国に伝播し、人々がそれを記録し、そして江戸の事態を深い憂慮をもって凝視するという社会が出現していた。
 人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録して、写して、冊子に綴っていき、さらにそれを回覧していった。
 幕末から維新期の政治は激変に次ぐ激変の中で展開していく。そして、その局面の背後に、その展開を凝視する3千数百万の日本人の目があった。この衆人監視の政治舞台において幕府が自らを国家として振る舞わざるを得なかったことは、一瞬たりとも忘れてはならないことがらである。
 全国各地の日本人には、なにか不安な風聞があったとき、まず飛脚屋に出かけて確認する習慣がつくられていた。幕府は、一切、政治情報を公開しないのにもかかわらず、日本人は瞬時に、大事件の発生をつかみとる。情報が公開されず、公的に流通させる制度がつくられていなくても、つかみとる能力を日本人は有していた。自分たちで事態を判断し、政治的意見を形成し、政治批判を展開できる段階に日本が入っていたことは幕末維新期を考察するとき、根底にすえておかねばならない。
 この指摘は、何だか政治に無関心な多くの現代日本人の顔を赤らませるものですよね。幕府の安政改革は、海軍のみならず洋式軍隊の創設も意図していた。
 ハリスと下田奉行が交渉していたとき、ハリスの演説書をはじめ、日米間の対話書のすべてを幕府大名に公開していった。事態の深刻さは周知のこととなった。そして、大名から、全国にもれ伝わっていった。
朝廷は、朝廷としての反応をした。ハリスに屈従してしまうのであれば、それで天皇から征夷大将軍職を授けられている「将軍」と言えるのか・・・。
 この本の最大の特徴は、下武武士や町人の日誌などを踏まえて、当時の日本人の反応と行動を全体的に明らかにしようとしていることです。すごいことだと思いました。
世界史のテンポは、日本国内の政治の悠長なかけ引きを許さなかった。3千数百万の日本人の眼前において、ハリスの予言どおり「政府の威信を失墜させた」幕府は、軍事的圧力に屈して条約調印を余儀なくされた。
 桜田門外の変(1860年、安政7年)は、客観的には幕末政治過程の一大画期となった。この桜田門外の変を契機として、一挙に政治の底辺が拡大した。「処士横議(しょしおうぎ)」の時代が始まり、目標は国家変革に絞られた。
 1859年(安政6年)7月の横浜・長崎・函館開港により、世界市場に編入された日本では、たちまち大量の金が流出していった。世界市場で金銀が15対1なのに日本では5対1だったからである。さらに、銅も世界市場の4分の1という安値だったので、銅製品が外国へ流出していった。
幕末の日本人の全員が感じていた危機感とは、国家解体の危機感、このままいってしまっては、日本国家そのものが消滅してしまうのではないかとの得体の知れない恐怖感であった。幕府が外圧に押され後退するたびに、この感覚は増幅され、それへの対抗運動と凝縮行動がとられていく。どのような具体的方策が提示されるかは、階級・階層・政治集団にとって異なるにしろ、通底するものは、この底知れない危機感と恐怖感なのである。
 この本を読んで、幕末・維新時代の視野を広め、深めることができたような気がしました。学者って、やっぱりすごいですね。さすがだと驚嘆しました。下巻が楽しみです。
(2012年11月刊。3200円+税)

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