(霧山昴)
著者 猪熊 兼勝 、 出版 雄山閣
私は石舞台古墳を見に行ったことがあります。奈良市内の奈良ホテルに1泊して出かけました。夏の暑い日です。ともかくでっかい巨石が、それこそでーんと置かれています。石舞台と呼ばれるのも、なるほどと思いました。石舞台古墳の周囲は森というか林で、平坦な田圃のなかにあるわけではありません。私は駅前で電動自転車を借りて見学してきました。
被葬者は、蘇我稲目(そがのいなめ)、馬子(うまこ)親子の墓だと想定されています。
葛城地方で勢力を拡張してきた蘇我氏は、宣化(せんか)朝のとき、蘇我稲目が大臣に就任したのを機会に、宮殿の東南部岡、島庄(しまのしょう)に居住する。稲目は娘を天皇に入内させ、物部氏を排斥し、権力を掌握した。ところが、天皇をも凌(しの)ぐ権勢を謳歌(おうか)した蘇我氏も、クーデターにより4代であえなく滅亡する。
石舞台古墳は、一辺が100メートルの方形で、その中心部を玄室中央とし、南に開口する横穴式石室。40人ほどの石工の指揮下に数百人の労働者が従事して、1年強かかったと推測されている。
有名な藤ノ木古墳は蘇我氏の女性合葬墓である。
斑鳩(いかるが)町の藤ノ木古墳からは2体の人骨とともに豪華な遺物が発見されていて、王族クラスの被葬者が想定されている。装身具は金銅製冠、大帯と2足の沓(くつ)などで、
多くの玉飾りを着けていた。被葬者の2人について、足の骨から男性説が定説となっているが、著者は、女性である小姉君を想定している。片塩媛(かたしおひめ)の同母妹で、葛城皇子などの母親。
このころ、天皇は推古天皇以来、蘇我氏のカイライ政権になっていた。それで、その陵墓も蘇我家の家風にそった方墳になっていた。
蘇我蝦夷(えみし)、馬子の大方墳の寿墓は天皇陵を凌駕(りょうが)しそうなものだった。皇族の陵墓については、厳しい規制があった。天皇陵のみ八角形墳。天皇と皇后の合葬は許されたが、妃は対象ではなかった。
阿武山古墳の被葬者は、天智8(669)年10月に56歳で亡くなった藤原鎌足しか考えられない。鎌足は、天智天皇にとって苦難の道をともに過ごし、古代国家を創造した刎頸(ふんけい)の忠臣であった。鎌足の死後、天皇は藤原姓を与え、天皇級の墓室をつくることを許した。
蘇我氏の強大な権力に天皇家はなすすべもなかった。蘇我祖廟(そびょう)の前で、天皇のみに許される八佾舞を強行した。さらに蝦夷と入鹿は寿墓として、小山田古墳と葛蒲池古墳を築造した。このあと、天皇陵の墓状は八角形墳と定まった。蘇我氏は横穴式石室にこだわった。
高松塚古墳について、当初は直径20メートル、高さ5メートルとしていたが、その後の調査で2段築成の円墳と分かった。高松塚古墳が注目されたのは、天井・奥壁そして両側壁に保存良好な壁画があったことによる。天井の星宿のなかには北斗七星が描かれている。側壁には日月像、そして四神像、人物群修が描かれている。東壁に青龍、西壁に白虎、そして北(奥)に玄武がある。16人の人物像は、写実的な群像となっている。
天皇陵で被葬者が荼毘(だび)に付されたのは、持統天皇と文武天皇だけ。
飛鳥の古墳の被葬者を想定するのは意外に難しいことだということが分かりました。
(2025年8月刊。2970円)


