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アメリカの大都市弁護士、その社会構造

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ジョン・P・ハインツ・ロバート・L・ネルソンほか 、 出版  現代人文社
今のアメリカの弁護士の状況が分かる本なのかな、と思って手にすると、実は、少し古くて、主として1995年までの状況が語られています。せいぜい2002年までです。したがって、20年ほども前の状況ということになりますが、最近出版されたということは、今日もあまり変わっていないということなのでしょう。
20世紀前半までは、アメリカの法律プロフェッションのエリートは、ユダヤ人弁護士を差別し、ロースクールと弁護士会は黒人と女性を締め出すための公式の防壁を打ち立てた。
1971年に、女性弁護士はわずか3%しかいなかった。しかし、1995年には女性弁護士は24%を占めていた。
2002年には、法律事務所のパートナーの女性は16%だった。有色人種はアソシエイトの14%と、パートナーの4%のみだった。
アメリカの弁護士会の内部では格差が拡大している。単独開業弁護士のもうけは1970年代はじめに始まった。シカゴの弁護士は、1975年から1995年の20年間で2倍になった。単独開業弁護士の収入は、10万ドルから5万5千に下がってしまった。
1995年に、最大規模の法律事務所の所有者は、前年の中位値が35万ドル(3500万円)だった。所得のギャップが著しく拡大した。
政府機関で働く弁護士の平均所得は、1975年の6万3000ドルから、1995年の5万ドルへ23%も減少した。
女性弁護士の所得は、男性よりも有意に低かった。1975年には27%低く、1995年には13%低かった。
シカゴの弁護士は、1975年には57%が民主党を支持し、1995年には55%となった。
シカゴの弁護士は、1975年には53%がビジネスに力を注いでいたが、1995年には3分の2が企業を顧客とする業務に従事している。
どの弁護士会にも所属していない弁護士の割合が1975年から1995年にかけて2倍となった。
日本とアメリカ、弁護士のあり方については、とんでもなく遠い存在のように思えますが、実は意外に共通点があることを思い出させてくれました。
(2019年1月刊。4800円+税)

神さまがくれた漢字たち

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 山本 史也 、 出版  新曜社
はじめ、漢字は、おおむね亀のお腹の甲らや、牛や羊や鹿の肩胛骨に刻まれていた。なんと人の頭骨にも刻まれた。
殷(いん)の国が安陽に定着し、武丁(ぶてい)という王の時期に漢字の世界は成立した。
王は漢字をたよりに神の許しや助けをしきりに求めた。そして、もし要求が実現したときには、それは神の認めによるものだと確信した。そして、神と王とは溶けあい、一体化した。この融合によって、王自身は神とひとしく、神聖な存在となった。
漢字は3300年にわたって生き続けている。漢字ほど時間をこえて生命力をもち続けている文字は世界のどこにもない。
エジプト王朝にも文字があった。ヒエログリフだ。しかし、このヒエログリフは滅びてしまった。シュメール文字も線刻文字も学者の研究対象ではあっても、世界の誰もが使うことがない。
「民」の字は、もとは、大きい矢か針で目を突き刺す形だった。殷王朝を脅かす異民族を戦争で補え、その「人」の「目」に加える処罰を示すものだった。
「童」は、もとは「目」の上に入れ墨(ずみ)がほどこされた形。刑に処せられて僕(しもべ)の身分に落とされた者を「童」(どう)という。
「取」(しゅ)は、戦場で敵の首を討ち取ったとき、敵の左の耳を手で切りとるさまを示す字。
「文身」(ぶんしん)とは、身体に図柄や模様を彫りつけたり、塗りこめたりする聖化の方法のこと。「文」は、もともとは身体を清めるために施す図柄や模様を指していう語だった。
日本の江戸時代、大坂では初生児の男の子には「大」、女の子には「小」の文字を、その額に朱色をもって記した。そのしるしを「あやつこ」と呼んだ。
「女」の字は、両手を交えてひざまずく「女」の姿勢を表している。それは「男」に屈服しているのではなく、つつましく神に仕えて従っている姿。「女」とは、本来、神のかたわらにあることを許された特権的な性をいう。それが「女」の本質であった。
「母」の字は、「女」の胸にゆたかな乳房を加えたもの。「たらちね」とは、本来、満ちたりた乳房の意味。「母」の子をはらむ姿は、「身」の字で示される。
漢字の成りたちを、その根源から説明されていて、とても興味深く読みました。
(2018年5月刊。1300円+税)

熱狂のソムリエを追え!

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ビアンカ・ボスカー 、 出版  光文社
私は赤ワインを少々たしなみます。フランスを旅行するときは、カフェにすわって、コーヒーではなく、一杯のグラスワインの赤を道行く人を眺めながらちびりちびりと飲むのが楽しみです。夜のディナーのときは、大き目のグラスで2杯の赤ワインを飲みます。陶然とした気味を味わうのです。
この本は、ソムリエとは何かを究めようとしています。ソムリエとは、レストランでの食事のとき、ワインを選んですすめてくれる給仕役の人物です。ソムリエとは、フランス中部で駄馬を意味するソミエという語から来ていて、あっちからこっちへと物を運ぶ荷役動物的能力を発揮する仕事に就いた人物のこと。
高級レストランでは、一般に1杯のグラスワインに対して、そのボトル1本の卸値と同額を請求される。ボトルで頼むと卸価格の4倍を請求される。グラス4杯がボトル1本の値段になる。グラス売りのワインは誰にとってもおいしい商売だ。生産者と卸業者はグラス売りの場を欲しがる。というのも、商品の回転が速いし、安定して注文が入るから。
マスター・ソムリエのブラインド・テイスティングでは、25分で赤3本、白3本の計6本の評価をしなければならない。
第一段階でワインの外観を見る。グラスの脚をつまんで、手首を数回すばやく回す。ワインが回転し、グラスの内側に薄く付く。滴(しずく)の広がりとそのスピードを見守る。手をとめて、ころがり落ちる「涙」を観察する。濃くてゆっくりと落ちる涙は明らかに高アルコールであることを示し、いっぽう薄くてさっと落ちる涙は、またシート状になって落ちるときはアルコール度が低いことを意味する。
次は香り。グラスを持ち上げ、ほぼ床と平行になるまで傾けてワインの表面を空気にさらす。あらゆる角度からアロマを嗅ぐ。
一流のテイスターたちは、ソムリエコンクールに挑戦するずっと以前から舌と鼻を調整している。グラスの前に座る数日前、数時間前、数分前まで自分の身体をどう整えているかが、テイスティングと嗅ぐ技の結果を左右する。
テイスティング前の飲食と歯磨きをやめる。空腹状態で、フレーヴァ―を嗅ぐのだ。マスター・ソムリエ試験の前、舌がやけどしないように、1年半ものあいだ微温以上の飲み物は一切口にしなかった。冷たい飲食物だけの人もいる。テイスティングの前日は、重たい食事は避ける。生のタマネギ、ニンニク、強いカクテルも遠慮する。
合法的にワインに入れることのできる添加物は60以上もある。1000ドルもする樽の代わりに1袋のオークチップをつかう。コクがなければ、アラビアゴムで口あたりを重くする。メガ・パープルを数滴たらせば、ワインをふくよかにし、フィニッシュを甘くし、色を濃くし、青臭さを覆い隠してくれる。20ドル以下のワインには、すべて入っている。
高級レストランの売上げの3分の1はワインからというのが現実。ソムリエが店の運命を担っている。
完璧なソムリエとは、帰宅した客の記憶に残らないような存在でなければならない。
楽しい会話、客の懐(ふところ)具合と要望を知り、1000種もの候補のなかから適切な数本を選ぶのがソムリエの任務であるとしても・・・。
ワイン選びのむずかしさ、そしてソムリエの存在について教えてくれる本です。
(2018年9月刊。2300円+税)

大名家の秘密

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 氏家 幹人 、 出版  草思社
この本を読むと、つくづく、江戸時代も現代日本と共通する思考があったことに気がつき、驚かされます。いえ、もちろん、この本のなかでは同じ江戸時代でも考え方が大きく変わっているという指摘がなされていて、すべて同じだったということではありません。
たとえば、残虐な復讐が平気でなされていた時代がありました。でも、親と子の難しい関係や勢力争い(派閥抗争)、からかいや嫉妬が横行していたことなど、現代日本の大企業で起きていることにつながっていると思わずにはいられませんでした。
江戸時代の下級武士、町人そして庶民の本当の生態を知りたいなら、『世事見聞録』(青蛙房)をぜひ読んでください。なんだなんだ、現代日本で起きていることは江戸時代に起源があった(いえ、当時も同じだった)ことを知ることができます。たとえば、江戸時代の庶民の家庭ではカカア天下がどこでもあたりまえで、亭主は女房の尻に敷かれてもがいていたなんてことが手にとるように分かります。
この本は、四国の高松藩士である小神野(おがの)与兵衛が18世紀半ばに書いた『盛衰記』と、それを徹底的に検討した中村十竹の『消暑漫筆』によって、水戸藩の初代殿様である徳川頼房(よりふさ)、2代の徳川光圀(みつくに)、そして高松藩の初代殿様の松平頼重(よりしげ)、2代の松平頼常という殿様の行状を生々しく明らかにしていて、とても興味深い読みものになっています。
そこでは、武士の忠臣美談など「武士道」のイメージなんてまるで通用しません。江戸前期の激越な武士世界(ワールド)を目のあたりにすることができます。ぜひ、あなたも覗いてみてください。
頼重は徳川頼房(徳川家康の末子)の最初の男子でありながら、頼房の命で見ずにされる(堕胎)ところを、家臣に救われ、京都で少年時代を過ごしたあと、頼房の養母(英勝院)の尽力で徳川家光に拝謁し、高松藩主となった。また、頼重の弟である徳川光圀は、本来なら兄の頼重が継ぐべき水戸徳川家を自分が継いだことを悔い、兄頼重の子を水戸藩主に迎えようと考え、自身がはらませた子を強制的に水にするよう命じた。こうして光圀の長男である頼常もまた犠牲になるところだったが、頼重の尽力で無事に誕生し、京都に身を隠したあと、こっそり高松に迎えられた。
家光もまた、長男でありながら父母に嫌われ、祖父の家康と春日局(かすがのつぼね)の力で継嗣となった。このように、親子の情愛から疎外された者たちが、それぞれに絆(きずな)を求めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
は私も知っています。ところが、
「ゆびきり、かまきり、これっきり」
「ゆびきり、かまきり、嘘ついたものは地獄の釜へ突き落せ」
「ゆびきりげんまん、嘘ついたらカマキリのタマシイ飲ます」
いろいろなヴァージョンがあるのですね、驚きました。
頼房は威公、頼重は英公、頼房は青年時代、かぶき者だった。ところが、青年期を過ぎても、頼房は泰平の世にうまく順応できなかった。
光圀も、若いころは、キレると何をするか分からない乱暴者。とりわけ16.7歳のころは、奔放なふるまいが目立った。三味線を弾き、刀は突っ込み差し。衣服は伊達に染めさせ、襟はビロウドという典型的なかぶき者ファッションで、両手を振りながら闊歩していた。このため、世間から、「とても水戸様の世子とは見えない。言語道断のかぶき者だ」と後ろ指をさされていた。
江戸初期には想像を絶する報傷(復讐)がありえた。たとえば、領主の苛政に対する不満が爆発し、年貢の取り立てに来た役人を殺害する事件が起きた(1609年ころ)。領主側は直ちに兵を差し向けてその村を包囲し、村人を皆殺しにした。
高松藩の2代殿様の頼常(節公)は、光圀の子だったが、水にされかけた。光圀の兄頼重(英公)の指示によって生後1ヶ月足らずで節公は京都に逃げて生きながらえた。
高松藩主として、英公と節公は、どちらも名君として定評がある。しかし、この二人のあいだには、終生、埋めることのない溝が横たわっていた。
英公は隠居してもなお、あまりに不遜で気ままに振る舞い、節公にはそれが気に入らなかった。そして、節公には、その息子に無関心で冷淡だった。
節公の子を流した家臣は徹底してイジメられた。ひそかに養育することを内心では期待していたのに、指示された言葉どおりに赤児を殺したことを命じた殿様(節公)は許せなかった。
こりゃあ、たまりませんね、家臣の身からすると・・・。
いやはや、江戸時代の殿様も大変だったんですね。しみじみそう思いました。
(2018年9月刊。2000円+税)

公卿会議

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 美川 圭 、 出版  中公新書
貴族政治って、意外にも会議体をもって議論して決めていたのですね。驚きでした。
公卿(くぎょう)とは、貴族の上層の人たちのこと。
律令制のもとには、太政官(だじょうかん)の議政官会議というものが存在した。議政官とは、左右内大臣、大納言(だいなごん)、中納言、参議らのこと。
太政官がいかなる提案をしたとしても、天皇はそれに制約されずに決定できるというのが律令制の原則。天皇と太政官は対立的に存在しているのではなく、天皇を輔弼(ほひつ)する太政官議政官の会議は、天皇の君主権の一部を構成していた。
藤原道長は摂政にはなったが、関白にはなってはいない。一条天皇は外戚(母の父)である道長の言いなりの人物ではなかったので、道長の立場は盤石ではなかった。
一条天皇が亡くなり、皇位を継承した三条天皇は、道長に関白就任を要請するが、それを道長は受けなかった。道長は関白ではなく、内覧左大臣の地位を自ら選択した。
三条天皇は眼病のため失明に近い状態となった。その三条天皇に道長はたびたび譲位を迫った。そして、後一条天皇が即位すると、外祖父の道長は摂政となった。
幼帝のもとで、奏上なしに決裁できるのが摂政。天皇が成人となったとき、奏上や招勅発給などに拒否権を行使できるのが関白。
摂政にも、関白にも、内覧の職務が包含されるから、制度上は摂関になったほうがよい。
天皇の外戚という非制度的な関係をもたないときには、権力が弱体化する恐れが常にあった。摂関政治といいながら、外戚、つまり天皇のミウチであることが、とても重要だった。
このころ、実務能力をもった貴族たちが、蔵人頭(くろうどのとう)を終えたあと、公卿として陣定に出席するようになった。
道長は関白として公卿会議に超然として臨むよりも、会議の中に身を置いて、彼らの信頼を得ることが重要だと考えた。そのため、あえて一上(いちのかみ)、つまり筆頭大臣として会議の中にとどまり、現場で発言しながら会議の進行をリードしようとした。
三条天皇のころは、もはや道長に対立する貴族はほとんどいなかった。それでも道長は関白にならなかった。道長は、内覧で一上左大臣という立場の有効性を確信していた。
そして、外孫である後一条天皇になると、初めて一上左大臣の地位を離れて、摂政に就任する。以後、道長は陣定に出席していない。
170年間、藤原氏は天皇の外戚を独占した。
御前での公卿会議が、天皇と関白の対決の場になった。
13世紀の日本では、神社の荘園が押収されたため訴訟が次々に起こされ、朝廷にもち込まれた。院政期には、所領相論(そうろん)、つまり不動産紛争の問題が、陣定(じんのさだめ)の議題として多くあがった。
日本人は昔から紛争が起きるとすぐに「裁判」に訴えていたのです。日本人が昔から裁判が嫌いだなんて、とんでもない嘘っぱち、私は、そう確信しています。
13世紀、雑訴評定においては、訴人(原告)と論人(ろんじん。被告)の双方を院文殿(いんのふみどの)に召し出して、その意見を聴取することになった。これが文殿庭中(ふどのていちゅう)である。
鎌倉時代の後期には訴訟が増大した。鎌倉後期には、幕府が訴訟の増大に対処することに追われた。貴族の分家が対立し、貴族内部の争いが家産、官位の争奪というかたちをとって深刻化したため、朝廷での裁判の重要性はいっそう高まった。
圧倒的な軍事力をもつ鎌倉幕府が成立してから200年、承久の乱で敗北してから150年、ほとんど幕府に対抗できる武力をもたない朝廷が、合意形成をしながら政治権力として一定の統治能力を維持したことは再評価してよい。宮廷貴族たちは、院や天皇のもとに結集して、公卿会議で論戦しつつ、朝廷を自立的に運営していった。
朝廷と貴族(公卿)の関係について、難しいながらも面白い本でした。宮廷貴族たちは、意外なほど会議での合意を目ざし、それなりの努力を続けていたのでした。
(2018年10月刊。840円+税)

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