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戦国時代

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 永原 慶二 、 出版  講談社学術文庫
戦国時代は、現代日本に生きる私たちからみると、大変面白い時代です。ガラガラポンと、すべてがひっくりかえったみたいです。でも、当時生きていた人たちにとっては、先の見えない、誰を信用し、頼っていいのか不確実な世界だったのではないかと思います。江戸時代のように長く変わらないのも大変だと思いますが、毎日、日変わりだと社会も人心も安定しませんよね。
たとえば、戦国前期に登場し、下克上の典型とされる美濃の斉藤道三(どうさん)です。道三は土岐頼芸(よりなり)に仕え、のちに追放しました。次々に既存の家を乗り取りながら、ついに美濃一国を支配したのです。そして、最後は子の義竜に追われて戦死しました。義竜は、実は土岐頼芸の子とも言われています。義竜から追われたとき、道三に味方する被官や囲人が意外に少なく、孤立のうちにみじめに敗死したのでした。
細川政元は、室町将軍を完全にカイライとしていた。政元は、「いかに将軍であっても、人がその下知(げち)に応じなければ意味がない」と放言した。
1408年(大永15年)、南蛮船が若狭の小浜に入港し、「亜烈進(あらじん)」から日本国王に象・孔雀(くじゃく)などの珍獣をもたらしたという記録がある。
16世紀の半ば、中国出身でありながら、日本の平戸を根城にして縦横にあばれまわった王直という海賊の巨魁(きょかい)がいた。王直は平戸の領主の松浦氏から厚遇され、日明間の密貿易を牛耳っていた。ポルトガル人を種子島に導いたのも王直だった。
ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えた(1543年)のは、明の沿海に行くはずだったのが、暴風で流されたため。鉄砲の日本伝来は、ヨーロッパ側の史料によると1542年説が有力。
鉄砲の種子島伝来から10年ほどたつと、鉄砲は各地の実戦に使われていた。鉄砲と火薬は、戦略兵器として重視されていた。
同じように木綿も重視されている。選択に強い木綿は、はげしい合戦のときの着衣にはもってこいだった。ところが、この木綿も、朝鮮からの輸入品に依存していた。日本国内で木綿栽培が広まるのは、16世紀にはいるころからのこと。そして、この木綿のおかげで日本人の衛生条件が改善し、寿命が伸びた。
武田信玄は21歳のとき、48歳の父、信虎を駿河に追放した。48歳の働き盛りの信虎を追放したのは、家中・国人の意向があったと考えるほかない。すごい時代ですよね・・・。
戦国時代は、一つの敵を倒すと、次の不満が味方の内部からわきおこるのが常だった。竜造寺隆信が島原半島で敗戦・討死したのは珍しいことだった。ときに隆信は56歳。
文庫本で500頁という読みごたえのある「戦国」本です。
(2019年7月刊。1690円+税)

明治天皇という人

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 松本 健一 、 出版  新潮文庫
明治天皇は負けん気がつよくて、怒ると瞬間湯わかし器のようにカッと熱くなり、「勅語案を机上になげうつ」ような直情的な行動に出る人だった。
明治天皇は、感情をはげしくあらわにする人だった。
明治天皇は、明治憲法制を発表する勅語案を枢密院開院式の前日に伊藤博文がもってきたのに激怒した。自分にただ「朗読」させようというのは誠実さを欠いている。もう、明日の開院式には出ない、と言いながら勅語案を机にほうり出した。
伊藤博文からすれば、明治憲法草案をつくり上げるのに手間どっていたので、この大変さを誰がわかってくれるのか・・・ということだったであろう。いずれにしても、明治天皇のほうが折れ、何事もなかったように開院式当日には勅語を読みあげた。
明治憲法は「不磨の大典」とされたが、斎藤隆夫議員は大正4年の時点で、それを次のように批判した。
明治憲法は、極端なる君主独裁政治を実現することができるものだから、これは「不磨の大典」にしてはいけないと・・・。
たとえば、議会は立法に参与することが「許されて」いるだけで、立法権は天皇にあった。
「天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う」(5条)
日清戦争のとき、明治天皇は戦争になることを望んではいなかった。
「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」
「これは朕の戦争にあらず」
明治天皇は日清戦争のとき、数えで43歳だった。
明治天皇は、日清戦争が軍部主導ですすめられ、国家主体でないことに不安をおぼえていた。軍部が独走することへの不安だった。
日清戦争は、明治国家と天皇にとって初めての対外戦争だった。
天皇は伊藤博文は信頼していたが、陸奥宗光を嫌っていた。
また、尾崎行雄が大臣になるときも、かつての国事犯を大臣にして果たして大丈夫かと明治天皇は大隈重信に疑問をぶつけた。
明治天皇は自らが北朝の系譜にあるにもかかわらず、南朝が正当性をもっていると裁断した。それは、明治天皇は「忠臣」としての楠本正成を好きだったからだ・・・。
日露戦争についても、明治天皇は開戦に乗り気ではなかった。というのも、ロシアは世界第一、二位の陸軍力をもち、日本との軍事比は5対1とも10対1とも言われていたから、もし負けたら、祖宗にも国民にも申し訳がたたないと心配していたから。
伊藤博文は、日露戦争について、陸海軍のどちらも「必勝を期す」ことができない、それくらいの危険を賭した戦争だと考えていた。
明治天皇は1912年に59歳で亡くなった。糖尿病が悪化し、腎臓病で顔や手足にむくみが出ていた。
明治天皇の人間的側面に光をあてた面白い本でした。
(2014年8月刊。940円+税)

日本の社会史、負担と贈与

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 吉村 武彦、峰岸 純夫ほか 、 出版  岩波書店
「おおやけ」という日本語は、大きい宅(やけ)、すなわち共同体聚落の一番大きい家、首長の家を意味し、そのことで首長に代表される共同体をも含意していた。
年貢と公事(くじ。雑役ともいう)があった。公事のなかには雑公事(ぞうくじ)と労働供給する夫役(ぶやく)があった。年貢には、米で納める「見納」(けんのう)と、さまざまな雑物を米換算して納める「色代」(しきだい)があった。
有徳銭(うとくせん)は、有力者(富裕者)の負担義務を指す。有徳銭の徴収は、社会的分業の発展により、土豪・承認・手工業者などの手元に富の集積がなされる鎌倉末期以降に登場した課税である。集落ごとに有徳人の選定がなされ、その有徳状況によって上・中・下にランクづけがなされた。
出挙(すいこ)とは、利息付消費貸借であり、無利息消費貸借を意味する借貸(しゃくたい)に対立するもの。出挙は、人頭別におこなわれ、春に貸付けられて、秋に利息をつけて返納された。出挙の年利率は5割から3割になったりして、3割で定着した。
御救(おすくい)は、近世領主に課せられた社会的責務であって、百姓の側は、一般的な農政だけでなく、その時々に応じて感触できる救済物を求めた。たんなる理念ですますだけでは近世百姓は納得しなかった。
無尽(むじん)、頼母子講(たのもしこう)は、中世のごく早い時期からはじまり、現代の信用組合にまでつながる、もっとも長い生命をもつ庶民金融機関である。近世村藩の百姓たちは、この資金調達法によって、特別の出費や負担を切り抜けることが多かった。
土地の所有に関しては、開発したものこそ、その土地の本来の持主(本主)であり、その土地の所有が他家に移転しても、そこに魂の残る潜在的所有権があるという土地所有概念が確固として存在した。したがって、関東地方の農民にとって、完全な所有権の移転を意味する土地売買はありえないもの、また出来ないものという観念が強かった。
売却地には、なおその元の所有者の本主権が残るという土地所有観があった。また、同じようにして質地は流れないという観念が強かった。
日本を知るには、このような日本古代史にさかのぼることなしにはありえないということを実感させてくれる本でした。これも一泊ドッグで読了した本の一つです。
(1986年11月刊。2900円+税)

一粒の麦、死して

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 田中 伸尚 、 出版  岩波書店
『史談裁判』の著者として有名な森長英三郎弁護士の「大逆事件」との関わりに焦点をあてた本です。不思議なことに、森長弁護士は先輩弁護士の小伝をたくさん書いていながら、自分については「伝記拒否」を遺書に書いていたというのです。信じられません・・・。
「大逆事件」の仮出獄者には公民権がないだけでなく、釈放してからも常に警察に見張られ、その居場所を明らかにしなければいけなかった。
「大逆事件」では、死刑者12人。死刑判決のあと無期に減刑された12人のうちの8人は獄中で病死、自殺で死亡した。つまり20人が命を失った。戦後1947年の時点では、4人だけ生き残っていた。
「大逆事件」で起訴された26人の被告人の弁護をした弁護士には、国選(官選)、私選もあるが、磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎、鵜沢総明。いったん引き受けながら辞退したのは江木衷(まこと)弁護士。
検察側は検事総長の松室致(いたる)や、司法省民刑局長の平沼騏一郎(きいちろう)。
「大逆事件」の被告人となった26人の被害者を記憶する記念碑が全国に12基ある。東京監獄、市ヶ谷刑務所は、今の新宿区余丁町88番地にあった。ここで「大逆事件」の死刑が執行された。
1964年7月15日、死刑者慰霊塔がたてられた。
石川啄木は、「大逆事件」のころ東京朝日新聞社の校閲記者だった。啄木は、平出修弁護人や社内で得た情報から、かなり正確に「大逆事件」の真相をつかんでいた。
「それは、単に話しあっただけ、意思の発動だけにとどまっていて、まだ予備行為にも入っていなかった・・・」
森長英三郎が弁護士になったのは、弁護士の大量増員による弁護士窮乏化が喧伝(けんでん)されていたころだった。弁護士が1912年ころの2000人が3倍以上の7000人になっていた。昭和恐慌による弁護士の窮乏化が始まっていた。加えて、戦時体制が強化されるなかで、弁護士会も全体として戦争に協力する方向になっていた。
したがって、弁護士全体がときの政府や非常時に迎合していた。治安維持法は悪法であり、被告人の行為は正当だとまでは言えなくても、もっと穀然とした態度で弁論できる方法があったのではないか・・・。
「大逆事件」で刑死した一人の和歌山の医師・大石城之助はアメリカに留学して、アメリカで医師免許をとっている。そして、この大石は医師業のかたわら情歌作者としても活動していた。大石は、1899年1月に日本を出てシンガポールに滞在した。さらにインドで伝染病を研究し、社会主義も学んで1901年1月に日本へ帰国した。
「團珍」が1901年10月に情歌大懸賞として情歌を募集したところ、全国から3万6000首もの広募があった。
大石が茶飲み話として語ったアメリカ視察の話が天皇暗殺の謀議とされたのだ。
1911年、与謝野鉄幹がつくった詩の一部は次のようになっている。
「ほんにまあ、皆さんいい気味な
その城之助は死にました
城之助と城之助の一味が死んだので、
忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでとう」
「大逆事件」の関係者・遺族をずっとずっと掘り起こす旅を続けていたというから、たいしたものです。驚嘆しました。
(2019年12月刊。2700円+税)
 日曜日の午後、久しぶりに庭に出ました。
 チューリップ畑が雑草だらけでしたので、一生けん命引き抜きました。チューリップの芽があちこち隠れていました。今年は温かくて紅梅も白梅も咲いています。鮮やかな黄色の黄水仙そして淡い黄色のロウバイも咲き誇っています。
 ヒヨドリが群れを出して飛びまわっています。今年の冬はなぜかジョウビタキの姿をあまり見かけません。
 ジャガイモを植える準備としてウネづくりもしました。朝からノドが痛くて、風邪の前ぶれかもしれません。コロナウイルスにやられないよう免疫力をつけるつもりです。

マグロの最高峰

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 中原 一歩 、 出版  NHK出版新書
本当に旨(うま)いマグロは人生観さえ変えてしまう・・・。
本当でしょうか。私の町にも、昔から美味しいマグロを食べさせてくれる鮨屋があり、大変気に入っていて、年に数回は食べるのですが、本書によると、どうやら大間(おおま)のマグロの旨さは、格段の違いがあるようです。どこが、どう、なぜ違うのでしょうか・・・。それが知りたくて読んでみました。
著者は、マグロにこだわって取材し、人並み以上にマグロを食べたと自負しています。
マグロほど、人間の食指を動かし、前のめりにさせる別格の旨さを秘めた魚はない。しかし、こう言えるのは、マグロ界の頂点に君臨する生の本マグロ(クロマグロ)のなかの一握りの魚でしかない。
本マグロの値段は、平時でも1匹あたり国産車1台分に相当する。
2019年正月には1匹で3億3360万円という史上最高値がついた。この「3億マグロ」事件は、全世界で大々的に報道された。
大間といえば、今はマグロだが、かつては鮑(あわび)だった。大間産の鮑を乾燥させてつくる干し鮑は、高級食材として中国に輸出されていた。
津軽海峡のマグロが好むのはサンマとスルメイカ。海底の地形が起伏に富んでいて、プランクトンが大量発生する温床になっている。
マグロは、とても気まぐれな魚だ。マグロは十数匹から百匹単位の群れをつくって、時速数十キロで移動しているが、その回遊については謎が多く、すべてが明らかになってはいない。
大間にある漁協の組合員のうち200人がマグロ漁に出る。そのうちマグロ専業で生計を立てられているのは20人いるかいないか。マグロ漁だけで食べていける漁師はほとんどいない。
大間漁協では、年間2000本のマグロが水揚げされている。そのほとんどが東京に送られる。大間漁協の年間売上15億円の6割をマグロが占める。つぎは昆布とスルメイカ。
マグロ漁は博打(ばくち)だ。大間のマグロといっても、そのキロ単位は5000円から10万円超まで、いろいろ。平均キロ単位は8000円。ところが、年末には2万円、3万円へと上がる。
マグロ漁のスタイルは、大間では伝統の一本釣り。漁師とマグロがテグスを介して一対一で対峙する。大間では、一本釣りが7割を占める。残り3割は延縄(はえなわ)漁だ。日の出から日没の「日中」は一本釣り、日没から日の出までの「夜間」は延縄漁と区分されている。
一本釣りの餌は、マグロがその日に捕食しているもの。サンマ、アジ、イワシ、スルメイカ、トビウオ、ブリの子(フクラギ)。すべて生き餌(え)だ。一本釣りの場合、少なくとも一日でスルメイカ50杯、サンマ60匹を消費する。漁師の1日の労働時間は15時間をこえる。
一本釣りでは、「守り」ではなく、あらゆる方法をつかってマグロの群れを探し出す「攻め」の釣りをする。マグロの群れはGPSを使って特定する。最新式のソナー(魚群探知機)は1台300万円以上もするので、容易に設置できない。
マグロが釣れたら、電気ショックを与えて瞬時に仮死状態にもちこみ、マグロのこめかみに銛(もり)を打ち込んで、とどめを刺す。そして、すぐに血抜き、神経締めそして「冷やし込み」をする。
マグロ漁は洋上での命がけの漁だ。ときに命にかかわる事故が発生する。
豊洲市場には500軒の仲卸があり、うち200軒がマグロを扱っている。日本近海でとれた生の本マグロだけを扱うのは「石司(いしじ)」など数軒のみ。回転寿司で使われているのは、「ビントロ」とよばれるビンチョウマグロ。
マグロの養殖では近畿大学が有名だ。
マグロは、商品にできるのは7割ほどしかない。実は非常に歩留まりの悪い魚だ。
マグロの良し悪しは、次の4つの要素で決まる。色、香り、食感、値段の4つだ。
大トロは、口の中に入れると、人肌の温度帯でシャリといっしょに融けてなくなる。まさしく別格の味だ・・・。
回転寿司の「すしざんまい」は、年商192億円、本来は51店舗となっているが、その売り上げの3割の占めるのがマグロだ。ところが、高価な大トロは一皿398円。お客様に転嫁はしていない。
東京・銀座の高級寿司店は1人前で1万5000~2万円だったが、今や4万円から6万円ほど。
一度は「銀座・久兵衛」の寿司を食べたいと夢見ているのですが・・・。
(2019年12月刊。900円+税)

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