法律相談センター検索 弁護士検索

暗黒の瞬間

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)

著者 エリーザ・ホーフェン 、 出版 東京創元社

 ベルリンの女性刑事弁護士の手がけた9つの忘れがたい事件と裁判。弁護士が見事に依頼者から騙され、有罪とすべき被告人が無罪になるという、日本でもいつか読んだストーリーを思い出しました。ネタバラシはしたくありませんが、日本のストーリーは誰の本だったのか、思い出せません(どなたか教えてください)。

 法廷場面も出てくるので、著者は弁護士かと思うと、実はライプツィヒ大学の法学部教授。しかも、主人公の弁護士が60代なのに、著者はまだ44歳という若さなのです。ただし、裁判官の経験はあります。

 この本でミステリ作家としてデビューしたとのこと。たいしたものです。

 不倫で奪った男性の子どもに危険な量の塩を食べさせて死なせた女子大生の事件も担当します。大匙(おおさじ)2杯(30グラム)の塩を4歳の子どもに食べさせると死亡するなんて、医学の素人には考えられない、つまり、予測不可能だった。したがって被告人は無罪。しかし、被告人の女性は自分の受けた無罪判決に納得しなかった。

 若い女性が10人の男たちに強姦された。男たちは11人いて、誰か1人は無実。しかし、誰もが無実を主張しているので、その1人が誰なのかは分からない。そこで、被疑者はどうしたか……。

法廷で、「加害者の男たちは強姦とあわせて殺そうとしたのです」と証言した。殺人未遂がつけ加わった。被告人は犯行現場にいなかったらから強姦していないと主張していたので、殺人未遂については否認しようがない。

 そこで、ついに、11人の男たち全員が有罪となった。

9つの事件とも、なかなかよく出来たストーリー展開なので、つい一心不乱に読みふけってしまいました。

(2026年2月刊。2530円)

ヒマラヤ旅日記、ネパール・ポンモ村滞在記

カテゴリー:アジア

(霧山昴)

著者 田村 善次郎ほか 、 出版 八坂書房

 最近刊行された本なのですが、そのネパール滞在なるものはなんと60年前のことなのです。前書きもあとがきもありませんので、なぜ今ごろ発行されたのか、その事情は分かりませんが、60年前のネパールの山村の生活が、たくさんの写真とともに活写されていて、2ヶ月間の状態が、読んでいるうちに現地で生活している気分を味わうことができる貴重な本です。

 調査隊7人のうち3人が既に亡くなっていることが紹介されています。残念なことです。

調査隊が横浜港を出港したのは1967年9月のこと。このころ私は大学1年生で、寮で生活しながら初めて大学で期末試験を受けました。試験が終わると、さっきまで夏休みだったのに、またもや秋休みに突入。いやあ、大学生って、こんなに楽な稼業なのかと感激しました。寮生仲間の実家のある長野についていって、長野の美味しいリンゴを食べて帰ってきたことを覚えています。

 さて、調査隊です。9月に日本を出港して、すぐにネパールに到着できたのではありません。目的地のポンモ村にたどり着いたのは翌年1月5日のこと。それから2月末まで2ヶ月をポンモ村で過ごしたのでした。

 ネパールは、東北6県に新潟県と北海道をあわせたほどの国土面積で、人口は3千万人ほど(2023年)。調査団が訪問したときは1000万人。

 ヒマラヤの住民は、寒い冬を温かい南で過ごし、春になったら山の住居に戻ってくるという生活サイクルを過ごしている。旅そのものが生活であるから、別に急ぐ旅ではない。峠の雪が消え、夏が近づくころまでに村に帰りつけばよいのだ。

 ようやくたどり着いたポンモ村には21世帯、100人余が生活していた。

挨拶の仕方が変わっている。相手の足を持ち上げ、その甲に自分の額をつける。

 遊牧社会には、「さようなら」と「おやすみ」がないのが特徴。厚かましく割り込んできて、火を焚き、他人を押しのけて食事をつくる。タバコの廻しのみはしても、茶の廻しのみはしない。

 ネパールでは、道中の食料は自分もちが原則。だから、ポーターたちは、それぞれ鍋と食器、米や粉、調味料を入れた袋を持っている。自分の使い慣れた負い縄を持っていて、決して他人(ひと)の物は借りない。他人の物を借りるような奴は最低とされる。

 隊長とドクター(医師)が、35歳にもなるのに独身だと知ると村人たちは呆れ顔になる。

ドクターによると、予想以上に精神病患者が多いという。ただし、村人は障害をもつ人(精神薄弱)、耳や眼が不自由な人たちともまったく普通に接している。

 ネパールにはカーストがあり、日本人にカーストがないと説明しても、すぐには信じてもらえない。

ネパール土着の民族であるグルン族やマガル族などは、それぞれ固有の信仰を持ちながら、表面的にはヒンズー教・カースト制を受容してきた。本来ならカースト制と無縁だった民族も否応なしにカーストシステムに組み込まれ位置づけられ、チベット人は最下層カーストにランクされてしまった。日本人は、ネパール人を雇用する立場にあるので、システムの上位にランクされた。

ポンモの生活を律しているのはラマ教。旅立ちの日を決めるのも、農作物の虫退治も、すべてラマ教の教えにのっとって行われる。ラマ教のお経は日用百科含意的なものでもある。ポンモはボン教の村。ラマ教は、すべて右廻り(時計廻りでボン教は反対にすべて左廻り)。

 交易は、ネパール内ではとれない岩塩とヒマラヤ山地で不足する穀物との交易で成り立っている。

チャンを飲むときは、容器に直接口をつけずに飲むのがマナー。

人間の大腿骨でつくった骨笛を吹く。

 ふだんの食事は、ツァンパやロティ、せいぜい塩味のついたジャガイモやカブの汁。単純なものしか食べない。肉や米・豆・ジャガイモ・大根など9種類の具を入れた粥(かゆ)はグ・フックといい、大変なご馳走。

 ツァンパは、日本の麦こがしと同じもの。麦をフライパンのような鍋で軽く煎(い)る。要するに、煎った大麦の粉がツァンパ。

 料理をするといっても台所はない。煮炊きは、すべて囲炉裏の火で座ったまま。食事の支度は女の仕事と決まってはおらず、男たちが率先してつくる。旅慣れた男たちは食事をつくるのをいとわない。焼いたり、茹(ゆ)でたジャガイモは、菓子と同じで子どもたちのオヤツにもなる。昼の食事にたっぷり2時間はかける。

 元旦(1月1日)の朝は、若水汲みに始まる。ポンモでは、「黄金の水、白銀の水を汲む」という。金や銀の水を汲むのだから、他人(ひと)より先に汲んだほうがいい。なので、村人は朝3時ころに起きる。

年始まわりは、村中の家を廻るのが当然であり、また村中の人に来てもらうのが当たり前のこと。娘たちは、正月のため、暮れのうちに念を入れて織った肩かけをかけ、頭は採種油できれいにかきつけ、後髪には小麦のモヤシを飾っている。

 チベット社会は有字文化の社会であり、未開社会ではなく、高文化社会である。読み書きのできる人は尊敬される。その最上位がラマ。

 いざというときには、ラマに診てもらい、死に水をとってもらうことが、何にもましてありがたいこと。ラマは山中に入って薬草をとり、薬を調合する。薬草や製薬の知識がラマとしての重要な資格になっている。

 火葬は最高級の葬法。川原で遺体を焼いたあとは、日本人のように骨を拾って墓をつくって祀(まつ)るということはしない。死者の魂は火葬の煙とともにはるかなる天上雲に昇り、神となって人々を守っている。9ヶ月後の法要まで、頭にギー(バター)をつけている。ギーは重要な食糧であると同時に、宗教儀式には不可欠の神聖なもの。

屋内にも屋外にも便所はない。朝暗いうちにすませてしまう。村の中の排泄物は、豚と犬とニワトリが始末する。

 家の中の炉端の席順は決まっていて、入口から向かって右が男の座(アワデサ)、左が女の座(アマデサ)。奥から年齢の順に座る。

性関係はおおらかなので、私生児(ニャル)も多い。ネパール人は穏やかで礼儀正しい。チベット人は粗野で図々しく無遠慮だ。

ヒマラヤのチベット人たちは中国人に対して強い反感を抱いている。

60年前、ネパールの山中の村に2ヶ月も滞在したときの詳細な記録です。60年たった現在、これがどう変わったのか、私はぜひとも知りたいです。なんとかして教えてください。よろしくお願いします。とても貴重な滞在記録です。ぜひご一読ください。全国の図書館に備えてほしいものです。

(2025年1月刊。5940円)

おどろきの刑事司法

カテゴリー:司法

(霧山昴)

著者 村木 厚子 、 出版 講談社現代新書

 厚労省の課長だった著者は、検察の見込み捜査によって逮捕され、なんと164日間も拘置所に入れられていた。幸い、担当検事がパソコンを操作してウソの証拠をつくり上げていたことが発覚したことから無罪になった。本当に危ういところでした。

 担当検察官たちは、どうせ執行猶予になるんだから刑務所に行くことはない、と著者にこのような「甘言」で誘いかけた。ところが、それは有罪を認めること。無実なのに無罪を主張できないなんてありえない。そう思って著者は歯をくいしばって164日間を闘ったのでした。

 弁護士から差し入れられた関係書類を2回、丹念に読み、ノートにとった。時系列で並べると、著者はおかしなことに気がついた。肝心な月日が逆転している。ありえない……。これが検事の証拠偽造発覚の端著になった。まさしく執念の勝利です。

 検察官は、自分たちのつくったストーリーにそった供述を被疑者から引き出すことに全力を尽くす。「執行猶予がついたら、たいした罪じゃない」というのが検察官の感覚、しかし、フツーの市民にとって、犯罪者かどうかは、ゼロか100かの大問題だ。

つい先日も、無罪を主張している被告人に対して、裁判官たちは深く考えることもなく、執行猶予判決にしてあげたんだからいいだろうという、そんな思いとしか考えられない判決に接しました。

 検察官は取調べのとき被疑者に向かって平気で嘘をつき、法廷でも素知らぬ顔で裁判官を欺こうとする。

検察官たちは、自分たちで情報を共有しながら共通のストーリーを検事全員で組み立て、そして、整合性のある「物語」を作りあげていく。

 検察、とりわけ特捜部は、起訴した以上、どんなことをしてでも有罪にするという選択肢しかない。走り出したら、止まれない。

同じように裁判官もコミュニティが批判されて、自分たちの評判が下がることを非常に恐れている。

 裁判官の多くは、自分たちを「治安の守護者」だと思っている。無実の者を無罪にして救うことより、社会の治安維持を優先させる発想が身にしみついている。

 体験者はこのように語るのです。

 日本の刑事司法について、優れていると学者は言うことがあります。でも、50年以上も法廷の内部で弁護人をしていて、ええっ、そうなんだろうか……。本当かなと思っているというのが正直なところです。

(2026年3月刊。1320円)

 チューリップが終わり、アイリスが咲きはじめました。白と黄色のコンビネーションで、すっくと庭のあちこちに立っています。フェンスには紫色のクレマチス(テッセン)が咲き、橙色のヒオウギもあちこちに咲いています。

 ジャーマンアイリスもそろそろ咲いてくれることでしょう。ジャガイモも地上部分は元気よく茂っています。残念なことにアスパラガスは太いものが出てくれません。

 先日からタケノコをたくさんいただき、タケノコざんまいの食卓です。

高杉晋作と奇兵隊

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 田中 彰 、 出版 岩波新書

 高杉晋作は、このコーナーで前に紹介したように、幕末の文久2(1862)年に2ヶ月間、中国の上海に渡って滞在しています。密航したのではありません。藩主の許可を得て、幕府の所有する千歳(せんざい)丸に乗って、長崎から上海に行ったのです。上海では、清朝に反抗する太平天国軍と外国軍が応援する清朝の軍隊との戦闘を見聞しています。当時の上海は、イギリスやフランスなどによって半植民地化されていて、中国人は「ことごとく外国人の使役」となっていました。その現実を見て、日本はそうならないようにしないといけないと考えたのです。

 ところが、日本に戻ってきた高杉晋作は、攘夷を実行しようとします。まず、横浜の外人公使を暗殺する計画をたてました。これは実行寸前に計画がもれて、藩主の世子(毛利元徳)から待ったがかかって中止しました。次に、品川御殿山に新築中のイギリス大使館の焼打は実行したのでした。外国の軍事力の強大さを知りながら、なぜ攘夷に走ったのか…。安易に開国したら大変なことになるという、開国論への身を挺しての抵抗運動だった、とされています。

 文久3(1863)年5月10日、長州藩は攘夷を実行した。アメリカ船(ベムブローク号、200トン)を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカとフランスが反撃した。この状況下で、奇兵隊が結成された。「奇兵」とは藩の「正兵」に対する「奇兵」、ゲリラ軍事力。銃隊と弓隊が共存した。

 奇兵隊は、成立当初から藩にとって「諸刃の刃」のような存在だった。奇兵隊は、伝統的な家臣団を無能視するといった批判的な雰囲気が強かった。

 文久3年8月18日に京都で起きた政変によって、長州勢は京都から排除された。七卿落ちする公卿の警衛を奇兵隊は命じられ、両者の関係は深まった。

 元治1(1864)年6月5日、京都で池田屋事件(騒動)が起きた。このとき、奇兵隊員の2人が負傷(のちに死亡)した。さらに、7月18日から禁門の変が起こり、長州勢は会津・桑名・薩摩を中心とする幕府軍と戦って敗れた。この変に、奇兵隊は参加していない。

 引き続いて、8月2日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関(馬関)を攻撃した。総司令官はイギリス海軍中将のキューパー、副司令官はフランス海軍少将ジョーレス。軍艦17隻。その狙いは長州藩を撃破することによって、もはや鎖国は不可能なことを思い知らせることにあった。逆に言えば、全面戦争にならず、開港しているところには危険を波及させないようにしていた。なので、幕府にも知らせていた。幕府は、朝廷から長州藩追討の命を受けて、準備をすすめていた。

 8月5日、四国連合艦隊の砲撃が始まると、長州藩の砲台はたちまち壊滅し、その大砲70門は全部が持ち去られた。

 このとき、地上の白兵戦で長州藩は小銃のほか、槍や刀そして弓矢を使用した。長州藩の兵士の身につけた鎧(よろい)は小銃の前には役に立たなかった。それでも弓矢のほうは意外に威力を発揮した。

 幕府による第二次征長戦は、各地で農民一揆・都市騒擾・村方騒動が起きるなか、7月20日に将軍家茂が大坂城で死亡したことで休戦となった。翌、慶応3年4月14日、高杉晋作は29歳で亡くなった。暗殺されたのではなく、病死でした。

奇兵隊と同じような組織(兵制)を久留米藩もつくっています。惣兵隊といいます。武士層は面白くなかったようです。

(1985年10月刊。480円)

アルジェリア戦争

カテゴリー:フランス

(霧山昴)

著者 黒田 友哉 、 出版 中公新書

 今から60年も前の1967年4月、私は福岡から東京に出て大学生の生活を始めました。上京してまもなく、渋谷の大きな映画館で観たのが「アルジェの戦い」です。「アタンション、アタンション(注意せよ)」というフランス語の乾いた呼びかけが今も耳の底に残っています。フランス人相手の無差別テロが町で頻発していて、フランス軍は危なさそうな男たちをテロリストとして捕まえて拷問を重ねる、そんな凄惨な映画です。

 アルジェリア独立戦争は1954年から62年まで、8年も続きました。しかも、フランスはアルジェリア戦争とずっと呼ぶことがなく、最近になってようやくこの呼称を認めたのです。それまでは、単なる反乱でしかありませんでした。政府に対する反乱ですから、当然、弾圧の対象になるというものです。

 ところが、フランス軍の圧倒的な武力をもってしても、FLN(民族解放戦線)を屈服させることはできませんでした。最後に、ド・ゴール将軍が登場し、大統領としてアルジェリア戦争に向かいます。そして、ついにアルジェリアはフランスから独立したのです。

 アルジェリアの首都アルジェにはFLNの活動家が5000人もいて、8000人のフランス軍と対峙しました。フランス軍はFLNを大量に逮捕して、拷問を加えました。ひどい拷問がFLNに加えられていることが知れわたると、フランスの知識人たち、サルトルなどはアルジェリアの独立を支持するようになります。カミュはアルジェリア出身で、独立を否定するような言動をして、痛烈に批判されました。

 FLNのテロ行動は、初めからあまりに残酷だった。しかし、フランス政府がそれに対する報復を思いとどまっていたら、それ以上エスカレートすることなく、紛争はやがて終結していただろう。FLNの過激派の行為は非難すべきものだった。それでもフランス側が報復したことによって、紛争はエスカレートし、継続していった。

 アルジェリア戦争と、多くの武力紛争に共通するのは、憎しみによる感情の抑制のきかない暴力の連鎖、それを断ち切れなかったこと。

 ガザにおけるハマスのテロが、イスラエルによるはるかにひどい暴力的報復をもたらし、それが今なお続いています。恐るべき事態です。そして、アメリカによるイラン攻撃はまさしく一方的な先制攻撃であり、報復でもなんでもありません。国際法にも国連憲章にも反するものです。それなのに、日本の高市首相はトランプに抱きつき、息子を「イケメン」だと歯の浮くようなお世辞を言ってまで、こびるのです。なんという情けない首相でしょうか。恥ずかしい限りです。

 ホルムズ海峡を通過するタンカーなどから、トランプは通行料の半分をもらいたいと言い出しました。許せません。なんでも商売の種にしようとするトランプの発想は、ひどすぎます。

(2026年1月刊。990円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.