法律相談センター検索 弁護士検索

史実 山田長政

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)

著者 江崎 惇 、 出版 新人物往来社

 戦国時代が終わり、江戸に徳川幕府が始まったころ、シャム(現タイ)には日本人町があり、何千人もの日本人が生活していたのです。そのなかには、キリシタンの人々が日本でキリスト教の禁令によって逃げてきた人々もいました。そして、まだ海外貿易が許されていましたので、それで儲けようとしていた人々もいたのです。

 この本の主人公・山田長政は、海外で一旗あげようと考えた、冒険心あふれる日本の若者でした。時代が要請したのでしょうね。シャムの王様に大変気に入られて、将軍として忠実に仕えて、大活躍しました。ところが、肝心のシャムの王様が若くして亡くなったのです。そうすると、外国人の傭兵のような立場ですから弱いものです。みるみるうちに日本人の武装勢力は邪魔者扱いされ、ついには日本人町も消滅してしまったのでした。昔も今も、外国人が現地社会に溶け込むことの難しさを思い知らされます。

 山田長政は、慶長15年(1610年)冬、20歳のとき、シャムに渡った。

 日本人町は、アユタヤの南に、3万坪の広さもあり、2千人の日本人が生活していた。日本人は、シャム王の近衛兵をつとめた。戦争では外人部隊として活躍し、平時には貿易の監視人として活動した。

 日本人町だけでなく、オランダ人町、ポルトガル人町、支那人町、マレー人町、コーチ人町などもあった。国際色豊かだったようです。

 山田長政は若かったので、シャムのコトバ、宮廷用語(会話)もすぐに身につけたようです。日本では、かごかきをしていた山田長政は、シャムでは最下級の将校となることができました。そして、一つずつ位を上げていくのです。

 30歳になると、山田長政は日本人の頭領になりました。このころ、日本人町には、小西行長や加藤清正の遺臣が1000人ほどもいた。

 山田長政は、寛永3年(1626年)に、日本の幕府あてに「戦艦図」を奉納している。

 山田長政が仕えたシャム王が亡くなったあと、シャム王朝では醜い戦争が起き、ついに山田長政は奸計にはまって毒殺されてしまうのです。まだ40歳でした。

 今や、タイの日本人町は、わずかな痕跡が残るだけのようです。はかない盛名でした。

(1986年1月刊。1500円)

南方抑留

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)

著者 林 英一 、 出版 新潮選書

 1945年8月、日本敗戦のあと、ソ連軍によって北方(シベリアなど)に抑留されたのは130万人(うち軍人軍属57万5000人)。これに対してアメリカ・イギリスなどで南方(東南アジア)に抑留された日本人も、ほぼ同数の119万人(うち軍人軍属107万人)いた。

 北方については体験記が2000点ほどあるのに対し、南方については100点もない。この本は、その南方抑留者の置かれた実情を当事者の日記などによって明らかにしています。

ソ連はスターリンの意向によって日本人を無償労働させたわけですが、イギリスも同じように日本人を無償労働させていたのでした。このときの論理は、「捕虜」ではなく、「降伏日本軍人」として扱ったことによる。ええっ、どうして、「降伏日本軍人」なら無償(賃)労働させてよいのでしょうか…。不思議な話です。

 アメリカ政府が批判したことから、イギリスは1947年3月から元日本兵の日本への帰国を再開したのでした。

 日本軍がその敗戦前に英米の捕虜を手荒く扱った(たとえば、「バターン死の行進」のように)ことから、イギリスやオランダ軍には日本軍兵士への報復の気持ちが強かったようです。

 オランダ軍は、戦犯容疑者136人に死刑判決を下しています。捕虜収容所や憲兵隊関係者の責任が厳しく追及されました。

 インドネシアでは、現地のインドネシア人が独立戦争に立ち上がりましたので、元日本兵を兵器ごと必要として取り込もうとしたのでした。

 敗戦直後の日本政府は海外にいる日本人が、兵士も民間人も、すぐに日本に帰国しないことを願った。なぜなら、日本本土には330万人もの失業者がいて、50万人の餓死者が予想されるほど、食糧事情が悪化していたから。まあ、それも分からんじゃありませんが、日本政府が国の方針として海外に送り出しておきながら、現地に残って自分の力で生活の安定を期せというのは、あまりにも責任放棄というか、無責任きわまります。

 ビルマにあったモバリン収容所には、日本人による劇団が2つもあって、交互に毎週、上演していたとのこと。すごいです。

 フィリピンの収容所では食糧不足のなか、炊事員たちは「特権階級」のように振る舞った。もはや旧軍の階級差は消滅していた。兵隊が将校を殴るということも起きていた。そして、親分が炊事場を掌握して子分を集めて「暴力団」をつくって、暴力的に支払するようになった。ひどいものです。

 レイテ島に日本人が5万人もいて、元日本兵による壁新聞がよく読まれていたことも紹介されています。大岡昇平の「レイテ島戦記」で有名ですし、私も一度、レイテ島に視察に行ったことがあります。ODAによって日本が公害を輸出している現場を確認しました。

 貴重な記録を掘り起こした労作です。日本人が昔から日記をよく書いていることにも改めて驚かされます。

(2025年7月刊。1650円+税)

戦争と法

カテゴリー:社会

(霧山昴)

著者 永井 幸寿 、 出版 岩波新書

 「台湾有事」が現実化したとき、政府は石垣島や宮古島などの住民11万人と、観光客1万人の計12万人を6日間で九州・山口に避難させる計画です。1日2万人もの人々をどうやって運ぶのでしょうか…。運ぶのは民間の飛行機と船であって、自衛隊は民間人の輸送には関わりません。自衛隊は戦争に専念するのが任務だからです。そして、民間の船も飛行機も自衛隊のために徴用される可能性が大きいし、戦争状態の下で航空会社がパイロットに対して業務命令を出して飛行させるか疑われます。労働者の安全配慮義務に反するからです。また、株主から航空機を損失させたとして責任追及される恐れもあります。

 このように12万人の「避難計画」なるものの実効性は、きわめて疑わしいのです。

 ところで、沖縄本島の住民135万人はどうなるかというと、「屋内避難」です。つまるところ、放っておかれるのです。あとは自己責任の世界という、まったく政府は責任放棄です。

 政府がシェルターを地下(地中)につくるのは、自衛隊の司令部のためだけです。いやはや、自衛隊のトップは自分たちだけは助かりたい。しかし、住民の生命・財産なんてどうでもいい。これが政府の考えていることです。「日本を守る」ために大軍拡が必要だというのは真っ赤な嘘としか言いようがありません。

 そして、国民が被害にあったとき、せめて補償してもらえるのかというと、それもありません。一般の災害にあったときには、法律によって生活再建支援金が支給されることになっています。ところが、戦争のときには、そんなものはありません。裁判所は、戦争は全国民が等しく受忍すべきものなので、国に補償すべき義務はないとしています。

 この本によると、ドイツもイタリアも戦争で被害にあった民間人に対して補償する法律を制定して軍人恩給のような形で補償しています。しかし、日本には軍人恩給はあっても民間人に対しては全然補償していません。

 この本では、原発事故そして原発が攻撃されたときのことにも触れています。

 日本は、アメリカ、フランス、中国に次いで、世界で4番目に原発が多い国です。全国になんと60基もあります。そのうえ、高市政権は原発の新増設をすすめると高言しています。

2011年3月11日の福島第一原発事故は地震災害によるものでした。奇跡が重なって、関東一円が重篤な放射線汚染地区になるのが辛うじて免れましたが、今でも2万5千人もの人々が福島に戻れていません。

全国の原発は空からのミサイル攻撃に対してはまったく無力です。

先日、玄海原発などでドローンが原発の上空を飛来していたと報じられましたが、防御するのは不可能なのです。そして、ひとたび原発が攻撃されたとき、誰も放射線の発出を止めることは出来ません。近づくことさえ出来ないのです。逃げるしかないといっても、海に囲まれた日本列島から、どうやって逃げ出せますか…。

 軍隊は国民を守るのではなく、国を守るのを使命とします。戦争のとき、国民は足手まとい(邪魔者)と扱われ、洞窟から追い出されたというのが、沖縄戦の手記に再三書かれています。

 戦争にならないようにするのが政治の役目です。「強い日本」ではなく、国民に安心・安全を保障するのが政治の第一の役目・任務だ。このことを私たちはもっと声を大にして叫び、行動する必要があります。

 260頁の新書です。大事なことがぎゅっと圧縮されています。広く読まれることを願います。

(2025年6月刊。1060円+税)

混迷する憲法政治を超えて

カテゴリー:社会

(霧山昴)

著者 憲法ネット103編 、 出版 有信堂

 私の住む街の上空をオスプレイがブンブンと騒音をまき散らしながら飛ぶようになりました。「未亡人製造機」と呼ばれるほど墜落の多い欠陥機ですが、日本はアメリカから大量に購入し、うち17機を佐賀空港に新しく基地をつくって配備しつつあります。

 宮崎の新田原(にゅうたばる)基地には、ステルス戦闘機F35Bを8機配備することになっています。このF35Bは海上自衛隊の「いずも型」護衛艦に発着可能です。F35も、これまた最新鋭の戦闘機と言われながら、重大な欠陥をかかえていますから、本当に心配ですが、日本はなんと42機も購入します。これでは、福祉・教育などの生活に直結する予算がますます削減されるのは必至です。

 大分に敷戸(しきど)弾薬庫があります。私も弁護士会の調査団の一員として現地に行って話を聞いてきました。この敷戸弾薬庫は、大分市の中心部から少し離れた住宅街のド真ん中にあります。大分大学もすぐ近くにありますし、病院や保育園も隣接しています。周囲3キロメートルの範囲内に2万世帯4万人が暮らしているのです。こんな所に中国大陸まで届く長距離ミサイルを保管しておき、いざとなると、運搬して活用する、その捨て石になるという計画です。なので、有事になったら「敵」が真っ先に攻撃してくるはず。つまり、「自分を守る」どころか、その逆に真っ先に狙われてしまうのは間違いありません。

 以上は、「防衛力の抜本的強化と、九州地方への影響」というタイトルの小論文です。少しだけ紹介しました。

 日本の選挙制度の基本は小選挙区制です。すると、発足前から指摘されていますが、ともかく死票が多いのです。「死票」は2828万票、52%となっている。つまり、有権者の約半数の投票が無視されているのです。維新と組んだ自民党は、維新の提案する比例議席の削減を実行しようとしています。まさしく民意の切り捨てです。国会議員の人数は日本は欧米よりはるかに少ないのです。比例部分を切り捨てるなんて、とんでもない暴挙です。断じて許してはなりません。

 そんなことより、今すぐ国会が取り組むべきことは企業献金の禁止です。企業がお金の力にものを言わせて、政治を動かす仕組みは、廃止すべきなのです。

 そして、政党交付金なるものも、おかしいです。自民党は、政党交付金に7割ほど依存しているので、国営政党だと言って過言ではない。共産党だけがスジを貫いていますが、この際、政党交付金こそバッサリ廃止すべきです。

 「日本人ファースト」をスローガンとする参政党が「躍進」しましたが、今の日本社会の現実は、外国人との共生なしにはまわらない状況です。病院、介護施設、建築現場、野菜の収穫そしてコンビニ、どこでも外国人が活躍しています。排斥するのではなく、共存・共生する、お互いをリスペクトして共に生きていくことを目ざすべきなのです。

憲法を毎日の暮らしのなかで本当に生かしていくこと、その取り組みを強めること、今、本当に求められていることを、本書を読みながら、改めて実感しました。

(2025年10月刊。3080円) 

韓国の人権弁護士、軍事独裁に抗す

カテゴリー:韓国

(霧山昴)

著者 洪 性宇・韓 寅燮 、 出版 社会評論社

 あまりにも興味深い本なので、読みはじめたら止めることが出来ず、400頁もの大作ですが3日間、没頭して、ついに読了しました。私は読みながら、ここは大事だなと思うところは赤エンピツで傍線(アンダーライン)を引いていくのですが、今回はあまりに多くて、ほとんどの頁が赤くなってしまいました。

 この本は軍部独裁の暗黒期に人権弁護士として敢然と戦い抜いた洪性宇(ホンソンウ)弁護士をソウル大学校法学専門大学院の韓教授が100時間も対談インタビューしたものをまとめたものです。そして、日本文にしたのは、徐勝・立命館大学法学部元教授なので、とても読みやすい日本文になっています。

 苦難の時代を生き抜いた洪弁護士の活動状況をつぶさに聞き出すことによって、法律学は何で生きるのか、人間はどのように生きていくべきかを考えるとき大きな刺激剤になってくる本です。

 洪弁護士はソウル大学法学部を卒業して裁判官を6年つとめました。そしてソウルで刑事地方院の単独判事をしていたとき、司法波動に直面しました。「司法波動」とは、聞き慣れない用語ですが、日本でいう司法反動の嵐に直面したという意味に理解しました。

 部長判事が現場検証で地方に行ったとき、性的接待を受けたことを検察が暴露したことから司法波動が始まりました。韓国では、弁護士が裁判官を接待するのは当然のことで、それをしない弁護士は変な目で見られるのです。今日ではなくなっているとされています(根絶したのかどうかまでは分かりません)。

 裁判官たちは告発した検察に怒りました。検事たちの不正は、法院の不正より、はるかに規模が大きくて多かったのに、検事が判事に尾行をつけて不意打したことに判事たちが怒て、衆議一決、全員が辞表を提出することになったのです。新聞に「刑事法院の判事、集団辞表」というトップ記事になった。

 そのあと、洪判事は本当に法院を辞めて弁護士になった。司法波動のあと、法院に情報部(KCIA)の職員が常駐しはじめた。

 洪判事は、34歳のとき(1971年10月)、弁護士になった。それは、判事の給料が低くて、授業の教員よりも安かったから。家族を養うための辞職だった。弁護士になってからは、一生けん命に仕事して、お金もうけをした。おかげで少し余裕ができた。しかし、毎日酒盛りする生活に疑問を抱き、深刻な後悔心がフツフツと沸き上がってきた。

 1974年、洪弁護士が37歳のとき、民青学連事件が起き、誘われて弁護士となった。民青学連で拘束され裁判を受けた数十人のほか、名前が出ただけで100人をこえた。彼らは1970年代の反維新闘争、民主回復運動の主人公だった。

 すごく恐ろしい事件だった。裁判は、軍事裁判で、民間の法院ではなかった。それは、国防部の建物のなかの法廷。傍聴者は制限された。一審判決は、死刑宣告が7人、無期懲役宣告が7人、ほかの人も懲役20年とか15年…。ひどいですよね。

 公判は週に3回もあった。裁判を終えて自宅に帰った洪弁護士の自宅に捜査官が3人やってきて、連行されて2泊3日で調査を受けた。洪弁護士の法廷での弁論が反共法違反という容疑だった。

 1973年10月、ソウル法科大学の崔鍾吉教授は南山情報部で疑問死した。この民青学連事件に関連して、支援していたカトリックの司教まで情報部が拘束したことからカトリックが立ち上がり、全国的支援運動となった。

1975年4月7日、人革党事件では、大法院で判決が確定した翌朝、8人を死刑執行した。まさか殺すとは思っていなかったのに…。朴正煕は、本当に恐ろしいヤツだと思った。

弁護士として、一般事件は激減し、借金暮しが始まった。

最近になって、民青学連の判決について、法院はお詫びをし、補償している。しかし、当時、弾圧を受けて人生が狂ってしまった人は多い。それでも、彼らの勇気と犠牲によって、韓国が民主化されるきっかけとなったので、彼らの苦労はムダにはならなかった。

 1975年の金芝河(キムジハ)詩人の事件の話もすさまじい内容です。金芝河の自宅にあった走り書きのメモが、「利敵表現物製作のための予備行為」だとして起訴された。ベトナムでアメリカが敗北したころで、「ソウルを死守しよう」という恐ろしい雰囲気の中での裁判だった。拘置所にいる金芝河に良心宣言を書いてもらい、それを外に持ち出すため、少年囚に頼んだ。そして、記者に発表したことで、金芝河は世界的に有名になった。

 このとき、田炳龍という看守が拘置所内で協力してくれたことが明らかにされています。これを読んで、私は戦前の浅草警察署の留置場で布施辰治弁護士の歓迎会が盛大にやられたというのを思い出しました。これも良心的な看守(警察官)が協力してくれたからです。

 金芝河についての最終弁論を弁護士たちは分担して、夜7時から10時まで3時間以上かけて読み上げた。そして、金芝河自身も原稿なして、数時間も弁論した。すごい俳優だと洪弁護士は感嘆した。

 その状況は、有名な「灼(や)けつく喉(のど)の渇(かわ)きで」という詩になっていますが、また歌になって、歌われてもいます。私は横井久美子の歌として聞きました。

 事件を担当する判事は、個人的には、良い人、優しい人間。でも、この種の事件では、いい人も悪い人も関係ない。全部有罪判決しないといけない。法院は、すべて外から言われたとおりの判決した。判決文の犯罪事実は、検事の控訴状の公訴事実と同じ。実は、検察のほうで判決文をタイプして、判事の名前までタイプしていた。いやあ、ちょっと、これは、いくらなんでもひどすぎでしょう…。

 1977年にソウル大学に入学した、本書の聞き手である韓教授は、当時、法の権威が失墜していたから、法曹志望だとか、法学部生であることすら恥ずかしかったとのこと。これまた、驚きます。

 大統領緊急措置では、法官の令状がなくても逮捕・拘禁ができるし、司法的審査の対象にもならなかった。これは、文字どおり白紙刑法。

 1970年代後半、労働運動に対する弾圧もひどかった。東一紡績労組事件では、会社側の男子工が人糞を労働の代議員会場に持ち込んで、女工に頭から浴びせかけた。そこで、女工(労働者)たちは、「私たちはうんちを食べて生きていけない」とスローガンを叫んでいたところ、捕まった。

 1979年10月26日に、朴正熙大統領が暗殺された。1980年初め、「ソウルの春」があったが、1980年5月17日、軍部によるクーデタがあり、それから光州事件(光州虐殺)が起きた。人権弁護士たちのうち、逃げられる人は逃げた。洪弁護士はまたもやKCIAに連行され、2泊3日、調査された。休業届を書かないと釈放しないというので、休業届を書いて釈放された。ところが、弁護士会が休業届を握りつぶしてくれた。

 1980年代半ば以降は、人権弁護士がはるかに増えた。廬武鉉(ノムヒョン)弁護士も加わった。

弁護人の一番大きな役割は、被告たちに勇気を与え、慰めること。弁護士の役割は、拘束状態を免れるようにすることにある。

 「悲しみも怒りもなく生きていく者は、祖国を愛していない」

 一般刑事犯と政治囚・良心囚は違う。弁護士は良心囚の「良心」を保護するという大原則を立てなければいけない。人間として良心を守ると、一般社会人として復帰したときに、一生の誇りになる。節を曲げて出てきたら、一生堂々と出来ない。この違いは重要。弁護士の役割は政治犯たちの所信を守り、その主張を記録として残すことにある。

拷問場所として名高いのが3ヶ所あった。南営洞は警察の治安本部対共分室。西水庫(ソビンゴ)は保安司対共分室。南山(ナムサン)は中央情報部の地下室。南営洞には、取調室ごとにバスタブを設置している。

水拷問は、人を裸にして七星板にしっかり縛る。そして水を口から注ぎこむ。水を1時間も、飲ませると、腹の中のものを全部吐いてしまう。その次、おならが出て、次に便が出る。内臓を完全に水で洗い流すと失神する。この水責めを2回受けたら抵抗する意思を完全に失い、抵抗自体を忘れてしまう。拷問が終わって拘置所に戻ると、自分の喉から水の匂いがしてくるという。

 こんな拷問を受けて、捜査機関の要求するとおりの調書が出来て、検察はそのまま追認する。拷問されたと主張すると、聞かぬふりをするか、まだ拷問の味が分からないのかと脅す。

拷問者は平凡な人々。平凡な人々が恐ろしい拷問を平気でやる。法廷で拷問の事実を暴露しても、判事たちは、聞こえないふりをしてやり過ごす。

 1986年に正義実践法曹会(正法会)を結成した。しかし、非公式組織であり、公開はしなかった。1981年から司法試験の合格者が年300人になった(それまで160人)。1984年から、弁護士が年100人に増えた。そこから若い弁護士たちが大勢「正法会」に入ってきて、メンバーは60人近くになった。

 弁護士は、政治囚に対して、「きみは獄中にいるが、堂々と仕事をしたのだから、きみの所信を守れるように助けます」と言って励ます。信頼と勇気をもって法廷闘争する意思をもち続けるようにするのです。

 女子高校を首席で卒業してソウル大学に入った女子学生が、工場に入って働くことを決意して、別人の住民登録証を手に入れて働いていたのがバレて警察に捕まり、口にするのもおぞましい性拷問を受けた。若い女性を夜中に取調室に座らせて、脱がせたり触ったりしたなんて、想像も出来ない。

 この性拷問を本人が勇気をもって自分の名前を出して告発したので、弁護士9人で、それを支援し告発状を捉出した。ところが、検事は強姦は認められないと不起訴処分とした。もちろん、弁護士たちは不服申立をしたし、世間も沸騰した。この女性は1年1ヶ月の獄中生活のあと釈放され、今では韓国で大学教授となっている。洪弁護士は結婚式の媒酌人となった。

 いやあ、実にすさまじい裁判に関わる体験談です。でも、洪弁護士は本の表紙写真に見ると、好々爺(こうこうや)あるいは村夫子(そんぷうし)然としていて、いかにも安心して頼れる雰囲気です。

私は、この本を読んでいる3日間は、身体の芯から熱いものを感じていました。日本の弁護士でいうと誰にあたるのかな、戦前だと布施辰治だと思いますが、戦後では…、ちょっと思いつきませんでした。戦後の韓国の政治・司法に少しでも関心を持っているのなら強く一読をおすすめします。

(2025年3月刊。3850円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.