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カテゴリー: 日本史(中世)

古代・中世の芸能と買売春

カテゴリー:日本史(中世)

著者  服藤 早苗 、 出版  明石書店
奈良時代の采女(うねめ)は、地方の郡司層の容貌の良い若い女性が選ばれ、はるばる都の朝廷に宮人として仕え、任を終えれば帰郷できた。
遊行女婦(うかれめ)や娘子(おとめ)たちの中には、都の官人にひけをとらない教養を身につけた地方出身の女性たちが多くいた。そして、宴のあとの性的交渉は、古来からの伝統であった。専門歌人として宴に列席した遊行女婦と都下りの官人たちとの共寝は、しごく自然の成り行きだった。
遊女は、性を売る芸能兼業女性として、9世紀末期ころから成立した。
 妻が夫以外の男性と性関係をもっても、それほど非難されず、それだけで離婚になることはなかった。
 男性がプロポーズしても、女性が同意しなければ、性愛関係はもてない。さらに、女性の母の同意がなければ、性関係も無理だった。女性は一緒に寝たいと素直に表現し、同意すると、男性は夜に通った。
 男女関係も夫婦関係も緩やかな時代から、生涯にわたる夫婦同居が社会秩序になっていくのは、9世紀末から10世紀以降である。
 11世紀中頃までは、平安京内の貴族層が邸宅内に遊女、傀儡女(くぐつめ)たちを招き、歌い遊ぶ遊宴はそれほど盛んではなかった。11世紀の後期になって多くなった。
 源経信たちと一緒に歌って遊んだ歌女は、遊女や傀儡女と同様に共寝も業としており、貴族にとって、ある程度長期間、あるいは一生の「愛物」的な存在である妾的配偶者だった。貴族の男性たちは、公にできない愛人との会合のための宿を欲していた。その宿所を提供していたのが、女房と宿所を媒介した女たちであった。
 拍子をはっきりと刻み、拍子にあわせて歌い舞うのが白拍子である。白拍子とは、雅楽の伴奏ではなく、拍子だけの伴奏で歌い舞う芸能であり、12世紀中ころから宮廷の殿上人たちによって舞われた芸能だった。
 本来は貴族の男性たちが宮廷で舞う男舞を、男装した女性たちが舞ったことに新鮮さと新しい時代の予兆があったのではないか。これが白拍子女の出現である。
 後鳥羽院において、皇子女を出産した三人は、ともに白拍子、舞女である。これは共寝も伴う芸能女性たちへの蔑視が強くない時代だったことを意味している。
 そして、貴族層にも白拍子女、遊女を母にもつ者が多かった。白拍子女・遊女・舞女たち芸能者は貴族層のツマになっていた。そして、その所生子は決して公郷層から除外されてはいなかった。
 しかし、白拍子女・舞女が正妻になったとまでは考えられない。遊女・傀儡女・白拍子女たちの中で、芸能にすぐれ、容貌が良く、さらにコミュニケーション力のある女性たちの中でも幸運な者のみが、上皇や貴族・武士層を長期にわたるパトロンとして獲得でき、子どもでもできれば、一生涯、愛人やツマとして遇された。
 貴族層の愛人となり、子どもを産むと、子どもはきちんと認知され、他の男性と関係をもっても、父親はそれぞれ確認される。
 鎌倉時代から傾城(けいせい)という言葉が見られる。13世紀ごろから出はじめる。
 14世紀の南北朝期以降、芸能と売色を兼ねる女性たちの諸国遍歴が増加する。
 遊女や芸能女性の地位が下がるのは、売色の要素が強くなったことと、諸国を流浪することによるのではないか・・・。
足利義満の側室となり、北野殿とか西御所ともよばれた高橋殿は中世後期の傾域としてもっとも著名である。この高橋殿は、美貌ばかりではなく、相手の気を引きつけるずば抜けたコミュニケーション力が、接待術で立身出世した。経済的に相当の負担がかかる熊野詣でに、高橋殿は少なくとも15回は行っている。
 古代・中世の女性の地位をめぐる考察として、大変興味深く読みました。
 古来、日本の女性は性におおらかだったことが、この本でもよく分かります。
(2012年10月刊。2500円+税)

蕩尽する中世

カテゴリー:日本史(中世)

著者  本郷  恵子   、 出版   新潮新書 
 芥川龍之介の『芋粥』の話は有名です。
 芋粥は、山芋を甘葛(あまずら)の汁で煮たお汁粉のようなもの。当時の侍にとっては、めったに食べられないご馳走だった。接待した藤原利仁(としひと)は国司を歴任した平安時代の武人である。
 受領(ずりょう)は、諸国の現地を支配する責任者であり、受領は地方の富を思うままにする、富裕を体現する存在であった。受領は自らの責任で任国を支配し、経営し、朝廷への納入物を核比するとともに、さらに多くを徴収して富を蓄えようとした。その強欲ぶりは『今昔物語集』にも紹介されている。
 院政とは、父から息子へという男系による直系相続を、父が壮年のうちに確定しようとする要請から生まれた政治方式である。院政の出現によって、母系に拠る摂関政治から男系原理への転換がはかられた。同時に貴族社会内部の結びつきも女性的なものから男性的な性格に移行することになった。
 院政の嚆矢となった白河院の時代は、荘園と受領、文書主義と情緒的結びつき、女系原理と男系原理が並立し、時代の変わり目がかつてない活況を生み出した。
 後白河院について、当代きっての才人にして有能な政治家であった信西は、「古今東西でこれほど愚かな王は見たことがない」と評した。後白河院は、臣下の優劣や忠と不忠の見分けがつかないばかりでなく、宮中の身分秩序を無視して、いわば雑芸に携わる者と身近に接しようとした。
 中世社会に一貫しているのは、荘園整理令に始まる文書主義で、これはたぶんに机上の帳尻あわせという性格をもつ。だが、大量に生産される文書は、支配権の存在が曖昧になり、武力や暴力が重みを増すなかで、社会を統合し、秩序を演出するための大きな力となった。
 実体をそなえた秩序を達成する新しい力があらわれて、文書主義が役割を終える段階がすなわち中世の終焉であろう。
 何でも文書(書面)にして記録として残しておきたいというのは、それこそ日本古来の習慣だったようですね。
 平氏政権の本質は、武力に傑出した全国規模の受領、すなわち、受領の最終形態というべきものだったのではないか。平氏は一国単位ではなく、全国を経営の対象としており、その方針を支持する各地の武士団や有力者を参加に集めた。平氏の軍事組織も、一種の利益共同体と考えるのが適当であり、平氏権力の低下とともに人々が離散するのも不思議ではない。
 室町幕府において、荘園支配をめぐっては、貴族や寺社等の旧来の本所勢力と武士との争いが頻発しており、足利直義のもとでの裁判は、しばしば武士に不利な判決を下している。証拠文書を検討し、領有の法的正当性を問うのだから、武力で侵略を行う武士が敗訴するのは当然ともいえる。室町幕府は秩序を回復するために、幕府を支えて戦う武士たちを冷遇するという、矛盾した裁定を行っていた。
平安から鎌倉・室町時代の人々の動きについて、ちょっと違った視点から通覧することのできる面白い本でした。
(2012年1月刊。1300円+税)

僧兵=祈りと暴力の力

カテゴリー:日本史(中世)

著者 衣川 仁 、  講談社選書メチエ 
 
この本を読むと、中世のお寺というのは、そこで僧侶が静かに修行していただけというものではなく、社会的な権力体であり、ときに集団的な暴力沙汰も辞さない物騒な存在であったことが分ります。何ごとも固定観念で、とらえてはいけないものなのですね。
比叡山延暦寺など、寺院は社会的な権力体として、最大級の権力基盤をそなえていた。その勢力は、寺領荘園という経済的基盤と、俗人も含みこんだかたちで拡大していた寺僧の集団によって支えられていた。
大衆は、だいしゅと読む。寺院の勢力を担う僧侶集団をさす。ときに何千人もの規模を誇っていた。
世俗的な要素を色濃くもつ中世の寺院では、ときに熾烈な内部抗争があり、延暦寺の根本中堂でも大きな騒乱が発生したことがある。
平安時代。八世紀、千人をこえる大衆が京都へ入浴し、強訴を敢行した。このうち6百人が大般若経を、2百人が仁王教を1巻ずつ持参し、残る2百人は武装していた。
大衆が行う僉議(せんぎ)では、聴衆を魅了する弁舌をそなえたリーダーシップが必要だった。 中世の寺院の意思は、座主でも僧綱でもなく、大衆の名のもとに形成されていた。
近年、僧侶になる者は、1年に2,3百人おり、その半数以上は、「邪濫の輩」(じゃらんのともがら)である。諸国の百姓(ひゃくせい。一般の人民)が、税負担を逃れようと自ら剃髪し、勝手に法服を着ている。それが年々増加し、今では人民の3分の2が僧の姿をしている。彼らの家には妻子がいて、平気で肉を食べている。うむむ、なんとなく分かりますね。
戒牒(かいちょう。受戒したことを証明する文書)を、税逃れの根拠としている。
天皇が「現神」(あきつかみ)であることのみで権威を保ち得た時代は過ぎ去り、諸神との相互関係のうちに権威を高める新たな段階にいたった。
中世寺院は、10世紀公判以降、寺院の意思として集団的に武力を行使するようになった。中世において、仏法は、他の時代に対して、恐るべき力をもっていた。
神人(じにん)、寄人(よりうど)とは、国司への負担を免除されるかわりに寺院・神社に従属した民のこと。中世の寺院や神社は、荘園住民を神人・寄人として組織することにより、その経済基盤と支配領域を拡大していった。
神人がその宗教的脅威を利用したのは、借金の取り立てだけではなかった。彼らは、都や在地社会において、大衆の手先となって神威をふるっていた。ときに都において神人がみせた神威のもっとも先鋭的なかたちが神輿(しんよ)動座である。そして、それは大衆の強訴(ごうそ)として採用された。神輿動座をともなった強訴は、11世紀末以降、頻発した。この強訴には暴力性をともなっていた。強訴では、視覚・聴覚に訴える要素が重要であった。
こうやってみてくると、平安時代って、琴の音とともに静かな時代というイメージなんか吹っ飛んでしまいますよね。それどころか、むき出しの暴力までもが横行する、荒々しい社会だったのではないかという気がしてきます。
古い寺院も、その視点で改めてのぞんでみてみましょう。
                   (2010年11月刊。1500円+税)

中世民衆の世界

カテゴリー:日本史(中世)

 著者 藤木 久志、 岩波新書 出版 
 
 のっけから衝撃的な問題提起がなされています。年貢納入を前提として、百姓の
 逃散を認める、その年の年貢さえ払えば、百姓はどこへ行ってもかまわない、というのは、中世を一貫して近世に至っていたのではないか。「百姓は土地に縛りつけられた者」と断定すること自体が、もともと間違っていたのではないか。
 ええっ、な、なんということでしょうか・・・・。欠落人(かけおちにん)の田畠は、あくまでも「惣作」(村による耕作の維持管理)が建て前で、家財のように分散はしない、というのが焦点であった。
 村を捨てた欠落百姓を近世では「潰れ百姓」ともいった。この「村の潰れ百姓」もまた、本来、「かならず再興されるべき百姓株(名跡)」とみなされ、そのための積極的な再興作(賄い)が問題になっていた。
 村はずれに、村人たちが寄りあって建てた堂、惣堂があり、そこなら村の「方々」の断って借りるまでもない。だから、村人も気軽に旅人にそこを勧めた。惣堂は、「みんなのもの」でありながら、「だれのものでもない」と広く見なされていた。
 領主が地主に断りもなく村を他人に売り払ったとき、地元の住民は「逃散」という反対運動を起こし、売買を破棄させる。これは特異な出来事ではなかった。
 戦国の村から人夫を調達するには、その労働の程度に応じて、社会的にみて適当と思われる額の「代飯(だいは)」が支給されるのが通例となっていた。
 百姓の夫役は有償だったのであり、タダ働きではなかった。金額の多少を問わず・・・・。中世の軍役は、兵粮自弁ではないのである。
 領主側は、もっぱら朝廷に訴え、裁判によって解決するという道を選んでいた。これに対して村側は、一貫して実力行使によって解決しようとし、鎌を取る行為と、その返還要求が焦点になっていた。
 中世の日本で、百姓は意外にもしたたかで、しぶとく領主権力とたたかっていたのですね。改めて日本史を見直し、考え直してみる必要があると思いました。
(2010年5月刊。800円+税)

深重の橋(上)

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 著者 澤田 ふじ子 、中央公論新社 出版 
 
 ときは応仁の乱のころです。深重は、じんじゅうと読みます。すごいんです。すごいですね、作家の想像力には、ほとほと感嘆します。
 15世紀、一条兼良(かねら)が活躍しているころの京都です。将軍足利義政、義尚の政治下にありますが、無法もまかり通っています。
 人々は死に近くなると鴨川のほとりに無造作に投げ捨てられ、まだ生きているうちから着物をはぎ取られてしまいます。野犬に食われ、カラスに身体をつつかれ、洪水とともに川下に流されていくのが遺体の始末となっていました。
 そんな世の中ですから、人買いが横行し、若い男女が辻に立たせられて売られていきます。そんな境遇にあっても希望を捨てずに字を学び、算盤を習得し、たくましく生き抜こうという若者たちがいました。すると、それを支えよう、助けようという人々もいるのです。
 面白い展開です。下巻が楽しみです。
 
(2010年2月刊。1700円+税)

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