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カテゴリー: 日本史(中世)

武士の日本史

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 髙橋 昌明 、 出版  岩波新書
日本の武士とは、いかなる存在だったのか、興味深く読みすすめました。
中世の鳥帽子(えぼし)は、身分や着用の場面によって形状と塗り方を異にする。もとは薄い絹布や生糸をざっくり織った布で作ったが、後世は紙で作って、漆で塗り固めた。一般庶民に至るまで欠かせない、常用の被(かぶ)りもので、普通は家のなかでもかぶり、寝ているとき、男女が交わる時にもとらなかった。
そのため、被り物をかぶっていない無帽の状態(露頂)を他人の視線にさらしたり、髪をモトドリの部分から切り落とすことは、それぞれ、「もとどりを放つ」、「もとどりを切る」と言って、卑しい振る舞いや相手の名誉を否定する行為、あるいは、ヒトたることの自己否定(出家の意思)をあらわすものとされた。
理由なく他人のモトドリを切り放つ「本鳥切(もとどりぎり)」は、当時、強盗や夜付・放火・殺害と並ぶ犯罪だった。
髪は毎日のびるから、清潔な月代(さかやき)を維持するのは大変。髪は剃刀で剃るか、毛抜きで抜くかしかない。はじめは毛抜きが使われた。木で挟んで、頭髪を抜いた。
剃るのが普及したのは、天正年間(1573~93年)の中頃以降のこと。
古来、武士は「弓取」(ゆみとり)と呼ばれた。武士を象徴する武器は刀ではなく、長く、弓だったからだ。
武士が発生した、古代・中世において、武士とは芸能人だった。
武士は乗馬ができた。近代まで、庶民に乗馬は許されていなかった。
律令社会では、宮都とその周辺において自由に武器を携行して横行するなど、あってはいけない事態だった。
日本では、本来、刀は片手でつかうものだった。乗馬で突撃するのは、勝敗の帰因が決まったあと、算を乱して逃げる敵を追撃する場合に限られていた。
鉄砲伝来を、種子島だけとするのは根拠がない。実際には、当時、東アジアの海域に活動した中国人倭寇(わこう)の役割が大きいようだ。鉄砲(火砲)が日本各地に広まったのは、それを愛好した第12代将軍・足利義晴が贈答品として大名に贈与したこと、職業的な砲術(ほうじゅつ)師が全国各地を渡り歩いて鉄砲の運用技術を教授してまわったからだ。
鉄砲は、まずは狩猟の道具として広まった。
関ヶ原の戦いのとき、小早川秀秋の寝返りが遅れたが、家康が催促の鉄砲を撃ちかけられて、昼ころ、西軍を裏切ったとされているが、根拠がない。実際には、小早川は開戦と同時に裏切り、布陣しようとしていた。石田光成方は瞬時に総崩れとなった。
日本人が「武の国」であるという、確かめようもないプロパガンダに乗せられそうになりますが、とんでもないことです。足元をすくわれないようにしたいものです。
(2018年5月刊。880円+税)

享徳の乱

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 峰岸 純夫 、 出版  講談社選書メチエ
応仁の乱の前に30年も続いた享徳の乱というのがあったのですね、知りませんでした。とても分かりやすい文章で、なるほどなるほどと読みすすめることができました。
戦国時代は応仁・文明の乱より13年も早く、関東から始まった。応仁・文明の乱は関東の大乱が波及して起きた。
関東の大乱は、享徳3年(1454年)、鎌倉(古河)公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端として内乱が発生し、以後28年にわたって東国が混乱をきわめた事態をいう。
この享徳の乱は、単に関東における古河(こが)公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府・足利義政政権が古河公方の打倒に乗り出した東西戦争である。
南北朝の内乱は57年間続いたが、享徳の乱は28年間も続いた。応仁・文明の11年間よりはるかに長い。源平合戦(治承・寿永の内乱)は5年間でしかない。
一揆というのは、百姓だけでなく、武士であっても、揆(やりかた)を一にするものをいう。
足利成氏が12月27日自邸で上杉憲忠誅殺事件を起こすその11月23日と12月10日に大地震が起きている。また、応仁・文明の乱の直前には大飢饉が発生していた。
1456年には、大きな彗星(ほうき星)が出現して、人々の不安が高まった。ハレー彗星の出現である。
中世の支配構造は職(しき)の体系と呼ばれる重層的なものであった。すなわち、同一の所領について、現地の地頭職、中間の領家職、上部の本家職などが重なって、それぞれの所得分の権利となっていた。つまり、「この所領は、わがもの」といえる主体か何人もいた。
足利成氏は享徳の乱の28年間、粘り強い戦いによって幕府、上杉方と五分に渡りあい、事実上の勝利をもたらした。成氏という人には並々ならぬ器量があった。
やがて太田道灌や北条早雲が舞台に登場してきます。戦国大名の形成過程がたどられています。
戦国大名に成長していった勢力には、その出身別にみると、前代の守護・守護代や国衆といわれる在地勢力があげられる、それらが戦国争乱の過程で上剋下や下剋上といった抗争や地域間の争覇を通じて権力を拡大して、一国ないし半国以上の領域を掌握して戦国大名となっていく。
まことに世の中には知らないことがたくさんあるものです。
(2017年10月刊。1550円+税)

一遍、捨聖の思想

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 桜井 哲夫 、 出版  平凡社新書
一遍(いっぺん)上人(しょうにん)って、街頭で人々と一緒に踊っている人ですよね。捨聖とは、「すてひじり」と読みます。
一遍は、1239年、四国の伊予松山に武将、河野通広の次男として生まれた。一遍は30代のとき、再び出家したが、河野家内部の権力争いにも原因があった。
「阿弥陀仏」(あみだぶつ)は、サンスクリットで「アミターユス」(無限(無量)の寿命をもつもの)と「アミターバ(無限(無量)の 明をもつもの)という二つの仏名で表現される。
「浄土」という漢語をつくって、中国で術語として定看させたのは、鳩摩羅什(クマラジュー)である。それは、「諸仏の浄土」であって、阿弥陀仏の極楽を指していたわけではない。 「極楽」とは、サンスクリット語で、スカーブフラィーと言う。「楽のあるところ」という意味で、鳩摩羅什が、これを「極楽」と訳した。
「聖」(ひじり)の語源は、「日知り」で、太陽が世の隅々まで照らすようにこの世のことをすべて知るという意味。
善導の主張の中心は、凡夫が阿弥陀仏の浄土に生まれることができるという点にあった。ひとは皆凡夫であり、その凡夫もまた、口で称える念仏で弥陀の浄土に往生できるという教えである。これは、中国では認められていないものだった。
念仏者には、智恵も愚痴も、善も悪も、身分の上下も何の関係もない。地獄を恐れたり、極楽を願ったりする気持ちも捨て、すぐれた諸宗派の智者。教えも捨て、一切を捨てて称える念仏こそ、阿弥陀如来の本願にかなっている。
鎌倉の宗教界の様子を知ることができました。
(2017年8月刊。860円+税)

中世ふしぎ絵巻

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 西山 克(文)、北村 さゆり(画) 、 出版  ウェッジ
変わった(凝った)装丁の本です。絵を主体として、解説しているように見えて、やはり文章が主体の絵巻解説本です。
『百鬼夜行絵巻』とか『百怪図巻』というものがあるそうですが、この本はそれをやや現代風にアレンジした感じの妖怪たちが描かれています。
そして、厩(うまや)につながれている馬が人の言葉をしゃべったという話ものせる怪異譚(たん)が紹介されています。
若い女は孤の化身だったとか、病気になった関白の肩に「小さき孤の美しげなる」が乗っていたのが目撃されたという話も紹介されています。
皆既日食をパロディー化した『百鬼ノ図』がある。日食の時間帯に、御法度(ごはっと)の歌舞音曲を楽しむ妖物たち。日食の間を待ちかねてメイクを始める化粧道具の怪。その闇の中で、妖物たちを解放する鬼卒(きそつ)。
『妖物記』は、寛正(1460年ころ)の飢饉という、大災害の記憶を留めるものとして描かれた。
天皇の家政機関に「作物所」があった。「つくもどころ」と呼ぶ。
先食台(せんじきだい)は、本当は施食台(せじきだい)であり、死者、いわば餓鬼や鬼神たちが一飯に与(あず)かっていた。
不思議な花があった。金花、銀花。本当に花なのか・・・。二人の陰陽師(おんみょうじ)の一人は花と言い、他方は花ではないと断言する。その正体は、クサカゲロウという昆虫の卵。
昔から日本でゲイの人を「おかま」と呼ぶことがあるのは、釜鳴りを鎮める呪法には異性装がからんでいた。そして、釜鳴りを鎮める呪法とかかわっていたから、「おかま」と呼ばれるようになったのではないか・・・。
なかなか読ませて魅せる長文の解説付きの妖怪絵本です。少し高価なので、せめて図書館で閲覧してみて下さい。
(2017年6月刊。3200円+税)

描かれた倭寇

カテゴリー:日本史(中世)

                                 (霧山昴)
著者  東京大学史料編纂所 、 出版  吉川弘文館
 日本の中世、14世紀ころ、日本の倭寇が朝鮮・中国の海岸部を荒らしまわったようです。
 中国は明王朝、朝鮮は高麗王朝から李王朝に変わったころのことです。そして、この倭寇は、16世紀になっても活発に動いていたのでした。しかし、後期倭寇は、果たして日本人なのか・・・、という疑問があります。
 この本は、後期倭寇を描いた「倭寇図巻」を詳細に検討したものです。高精細デジタルカメラによる赤外線撮影によって、肉眼では読み取れない文字が読めるようになった成果をふまえています。
「倭寇図巻」には、多くの類似した作品があった。そして倭寇を描く絵画は「倭寇図巻」だけではなかった。「倭寇図巻」を東京大学史料編纂所は、1923年より前から所蔵していた。そして、天安門広場にある中国国家博物館は「抗倭寇巻」を所蔵している。
両者の絵を紹介しつつ、その異同を細かく検討しています。なるほど、なるほどと思いながら、読みすすめていきました。
 倭寇というからには、日本人のはずです。そして、日本のイメージというのは、日本刀と日本製の折り扇だったのでした。扇も日本刀も、15世紀から16世紀半ばまで続いた遣明船貿易のなかで、日本から大量に輸出された商品だった。細身で強い反りを特徴とする日本刀は、多いときには公貿易分だけで3万7000本も中国に持ち込まれた。その値段は、量に反比例して、1本10貫文(100万円)から、1貫文まで下落した。1回の貿易で多いときには10万貫文もの売り上げを誇る最大級の輸出品だった。扇もまた大量に中国へ輸出された。15世紀前半、遣明船1回の公貿易だけで、2200本という記録がある。日本製の折り扇は人気の品であり、15世紀半ばの遣明船で明に赴いた僧侶は、扇1本で翰墨(かんぼく)全書一式を手に入れた。また、16世紀の遣明使節の日記には、扇を売って買い物費用を調達したり、世話になった明人たちへの贈答品にしたことが記されている。これらの日本製というイメージの濃い日本刀や扇が倭寇を示す記号として絵に描かれている。
果たして倭寇とは日本人なのかという疑問を解明することは出来ませんが、中国人(明時代の)倭寇のイメージをビジュアルにとらえることのできる貴重な本だと思いました。
 
 
(2014年10月刊。2500円+税)

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