法律相談センター検索 弁護士検索

西郷隆盛と明治維新

カテゴリー:日本史(明治)

著者  坂野 潤治 、 出版  講談社現代新書
西郷隆盛について、再認識すべきだと考えさせられる本でした。
 イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末の西郷隆盛について次のように回顧した。
 「西郷は、現在の大君(タイクーン)政府の代わりに国民議会を役立たすべきだと大いに論じた。これは私には狂気じみた考えのように思われた」
 ええーっ、西郷が国民議会を提唱していたなんて、聞いたことがありませんでした。
 西郷隆盛は、「攘夷」論にあまり関心をもたず、「国民議会」論者であった。
 西郷隆盛は「征韓論者」として有名だが、明治8年(1875年)の江華島事件については、「相手を弱国と侮って、長年の両国間の交流を無視した卑怯な挑発」だと非難した。
 ええっ、そうなんですか。ちょっと、これまでのイメージに合いませんよね。
西郷隆盛は薩摩藩によって2度も流刑(島流し)させられている。1度目は1859年、2度目は1862年。このころの西郷隆盛の主張は「合従連衡」。つまり、朝廷と幕府と有力諸大名とその有力家臣による挙国一致体制の樹立だった。その最大の障害となる開国と攘夷の対立を封印することが前提となっている。
 1869年(明治2年)から70年(明治2年)にかけて全国230の藩代表を集めて開かれた公議所、集議院の意向は、驚くほど保守的で身分制的なものだった。たとえば「四民平等」や「文明開化」のための施策はほとんど否決された。
 明治3年(1870年)12月末、天皇側は薩長士三藩に対して藩兵の一部を「官軍」として差し出すよう命じた。ところが、島津久光は激しく抵抗した。
 西郷隆盛は、廃藩置県を自らの一貫した「尊王倒幕」の実践の到達点として位置づけていた。
 明治4年(1871年)7月、西郷、木戸、板垣、大隈重信の4人が参議に任命され、政府の実権を握った。そして西郷隆盛は7000人の御親兵を握っており、参議筆頭として明治政府の最高権力者と言えた。ところが、西郷には統治経験が欠如していた。
 征韓論の急先鋒は、旧土佐藩兵を率いる板垣退助であった。
 西郷の腹心というべき黒田清隆や桐野利秋は「征韓論」に反対していた。西郷は「征韓」を唱えたのではなく、朝鮮への「使節派遣」を求めたにすぎず、自分が全権使節として訪韓して「暴殺」されたら「征韓」の口実ができると西郷が主張したのは、本当の「征韓」論者だった土佐出身の参議、板垣退助を説得するためだった。
 西郷隆盛は「征韓論者」ではなかったという本です。本当に、そうなんでしょうか・・・。
(2013年4月刊。740円+税)

卒業式の歴史学

カテゴリー:社会

著者  有本 真紀 、 出版  講談社選書メチエ
卒業式のとき、起立して君が代を斉唱させることを義務づけ、教師や生徒が本当に歌っているか口元チェックするなんて、まるでバカバカしいマンガですよね。それを言い出した石原慎太郎や橋下徹って、まるで軍人養成所の教官でしかありません。そんなことをしていたら、日本はお先まっ暗だと思います。ここは、みんな違って、みんないい、という金子みすず方式いくべきではないでしょうか。教育に一律全員強制はなじみません。
 この本は、日本の卒業式が、かつては地域の人々の集まるお祭でもあったこと、伸び伸びと生徒本位でやられていたことを明らかにしています。
 学校は、原則として泣くことを禁じられた空間である。そして、学校の中で泣くことが望ましいとされる場面、みんなで泣く場面を代表するのは卒業式をおいて他にない。
 義務教育段階の卒業式にあたって特別なセレモニーのない国は多い。日本の卒業式には特有の学校文化がある。
 日本では、卒業式は社会的な期待にそって心をこめるべき事態であるという規範と、その規範に従う方法が、あらかじめ繰り返し教えられる。式の参加者が感動を共有することを目ざして児童への働きかけが行われ、式当日には演出と練習の結果が観客の前で演じられる。
 天皇の存在は、明治10年代前半と明治20年代以降では同一ではない。憲法、教育勅語などによって他の権威の追随を許さない絶対的イメージを付与され、神格化される前は、天皇は巡奉し、写真や肖像だけでなく、実際の姿をみせることによって、自ら権威を獲得していく途上にあった。明治初年まで、国民にとって天皇は見えない存在であった。だから、臣下を可視するだけでなく、天皇も一度は見える存在になる必要があった。
 明治14年の東京大学の卒業式は夜7時からだった。まばゆいばかりの光のなかで行われた。卒業式は、大学という場所を学外者に示す機会でもあった。
 現代のように、新入生がそろって式に臨む形の入学式が行われるようになったのは、明治30年前後のことだった。それまでは個人的な儀礼でしかなかった。学年をいくつかの期に区分して始業式、終業式としたのは明治30年代半ば以降だった。卒業式は卒業証書授与式というように、もともとは、卒業証書授与のためにはじまった行事である。
 公立小学校の卒業式として記録されている初めは、明治13年(1880年)7月20日の東京(京橋区、下谷区)の小学校の卒業式である。式手順まで記録されているのは明治19年(1886年)12月の開智学校の卒業式である。明治10年代来から20年にかけての卒業証書授与式は、運動会と並んで、地域の参観者を集める二大学校行事であった。
 さまざまな教育内容の公開を含んだ卒業式は、住民にとって、学校にとっても重要なイベントだった。娯楽と啓蒙の要素を備えた盛大な卒業式は、人々が心待ちにするような行事であった。
明治25年(1892年)から小学校は、全国的に4月1日始まりと統一された。
 明治20年代前半には、どの小学校でも卒業式は自校での単独開催となっていた。卒業式には教育幻灯会がつきものだった。
 明治20年代半ばをすぎると、卒業式の多様性は急速に失われ、娯楽と啓蒙の要素は排除された。そして、式は短くなった。明治30年代前後には全国的に式次第が定型化した。
 明治末(1910年ころ)には、生徒が主体とした卒業式もあった。生徒を式場の真中に並べた。
生徒を主体とする卒業式が当然だと思いますし、実際にも、ずっとやられてきました。ところが、最近では卒業生は単なる客体でしかない儀式に化しています。こんなのおかしいと私は思います。もっと自由にのびのびやりましょうよ。自由なパーティー形式でいいではありませんか。お祝いなんですから・・・。
(2013年3月刊。1600円+税)

アメリカ・ロースクールの凋落

カテゴリー:アメリカ

著者  ブライアン・タマナハ 、 出版  花伝社
日本がモデルとしたアメリカのロースクールの現状を紹介した本です。アメリカのロースクール生の借金漬けの現実には驚かされますが、日本でも既に似たような状況が生まれています。決して他人事(ひとごと)ではありません。それでは、ロースクールにはまったく良いところはないのか、その点は体験していない者として、まだよく分からないところがあります。司法試験の合格者を私たちのときのような500人から3倍の1500人に増やした点は良かったと思います。ただし、給費制をなくしたのは間違いですし、司法研修所での2年間の修習をなくしたのも誤りだったと言えるでしょう。それに代わるものとしてのロースクールは全否定すべきものなのでしょうか・・・。
 アメリカのロースクールの年間授業料は5万ドルをこえている。これに生活費を加えると、ロースクールで学位を取るのにコストが20万ドルを要する。9%近くのロースクール生が借金する平均額は10万ドルに達する。そして、2010年のロースクール卒業生の初任給の中央値は6万3000ドルだ。これでは借金返済は大変になる。その結果、アメリカのロースクールは、もはや凋落社会になりつつある。
ロースクール教授の引き抜きでしのぎを削っていて、20万ドルというのも珍しくない。
 ロースクールの志願者は1991年に10万人というのがピークで1998年には7万人にまで落ち込んだ。2004年には10万人に戻った。
 ロースクール生は、社会経済的に裕福な層に過度に集中しており、エリート校で顕著である。上位10校は社会経済上の上位10%の家庭出身の学生の集中度がもっとも高く(57%)、上位100校では、それがもっとも低かったロースクール生は、金持ちと上位の中産階級の白人の子どもたちで占められていくだろう。
10万ドルの借金をかかえたロースクール生にとって、それは企業法務に就職せよと言う強い経済的圧力となる。アメリカでは、学生がロースクールに背を向けはじめている。志願者数は、長期低落傾向にある。
皮肉なことに、アメリカには中・下層階級の大衆が法律上の援助を受けられないでいるが、そのときロースクール卒業生の過剰供給がある。
 法律問題をかかえた低所得者の5人に1人が弁護士の支援を受けられない。ニュー・ハンプシャーでは、地裁事件の85%、高裁事件の48%が本人訴訟であり、DV事件の97%が一方当事者は弁護士なしである。
 カリフォルニア州の明渡事件の9%が弁護士なし。マサチューセッツでは10万件の民事事件が本人訴訟であり、ワシントンDCでは認知事件被告の98%、住宅関係訴訟の被告の97%に弁護士がついていない。
 このように、法律家の援助を受けられない相当数の法律需要と、仕事を見つけることのできない法律家とがアメリカには同居している。これは悲劇としか言いようがありません。
 全国の多くのロースクールの教授たちは、身近な人には勧めない学位を自分たちの学生に売りつけている。
 この日本で、40年ほど弁護士をしてきて、依然として弁護士はもっともっと求められていると実感しています。ただし、自律して生きていけるためには人間力、つまりコミュニケーション能力をみがく必要があります。それがなくてもやっていけると誤解(錯覚)している人が少なくないのも現実です。その点の見きわめをつけたら、やっぱり弁護士はもっともっと必要だと思うのです。その意味で「一発勝負の方がよほど望ましい」という訳者の意見に私は同調できません。
 さらに、「市民の弁護士へのアクセス障害は存在しないが、極めて小さいものだった」と書いてあるのには目を疑いました。日本のどこを見て、そんなことが言えるのでしょうか、信じられません。
 それはともかく、アメリカのロースクールの現実を知る本として、一読をおすすめします。
(2013年4月刊。2200円+税)

『霧社事件』

カテゴリー:中国

著者  中川 浩一・和歌森 民男 、 出版  三省堂
32年前に読んだ本です。映画をみましたので、書棚の奥に潜んでいたのを掘り出しました。霧社事件の原因と展開について写真つきで詳しく紹介されています。
 この霧社事件は、清朝による「蕃族」封じこめを継承したのに加えて、分割統治を基幹とする「以毒制毒」政策を工作し、そのうえ搾取をあえてした日本植民地主義にたいして、民族の誇りを守り、生存権をかけて起ちあがったのが霧社事件の本質であった。
 映画をみた人は、ぜひ、この本も読んでほしいと思います。
 休日に天神で台湾映画『セデック・バレ』をみました。人間の気高さを実感させる感動長編映画です。1930年(昭和5年)10月に日本統治下の台湾で起きた事件が描かれています。山間部の学校で運動会が開かれているところを現地セデック族が襲撃し、日本人200人あまりが女性や子どもをふくめて全員が殺害されました。その場にいた現地の人や中国人は助かっています。あくまで日本人が狙われたのです。それほど日本人は憎まれていたわけでした。
その事件に至るまで、統治者の日本人が誇り高き狩猟民族であるセデック族を野蛮人として弾圧していたうらみが一度に噴き出したのです。
 もちろん、日本当局は反撃に出ます。奥深い山中で300人のセデック族の戦士に3000人の日本軍・警部隊は近代兵器をもちながらも翻弄され、深手を負っていきます。しかし、結局は、飛行機、大砲、毒ガスによる日本警察の包囲攻撃にセデック族の戦士たちは次々に戦死し、自決していくのでした。「セデック・バレ」とは、「真の人」を意味するセデック語です。死を覚悟しながら、信じる者のために戦った者たちの尊厳が示されています。
映画は圧倒的な迫力があり、2時間あまり息をひそめ、画面にひきこまれました。実は、上映時間があわず、2部構成の後半だけみたのです。
いま、KBCシネマで上映中です。日本が戦前、何をしていたのか知ることのできる貴重な映画でもあります。加害者は忘れても、被害者は忘れないことを証明する映画でもあります。台湾で多くの賞をとったのも当然の傑作です。ベネチア国際映画祭でもワールドプレミア賞をとっています。
(1980年12月刊。2500円+税)

核時計・零時1分前

カテゴリー:アメリカ

著者  マイケル・ドブズ 、 出版  NHK出版
背筋の凍る怖いドキュメントです。核戦争が勃発する寸前だったのですね、キューバ危機って・・・。
 ときは1962年10月。アメリカはケネディ大統領、ソ連はフルシチョク首相です。どちらもトップは核戦争回避の道を真剣に探ります。しかし、部下たち、とりわけ軍人たちは「敵は叩け」と声高に言いつのります。日本を空襲して焼野原にし、ベトナム戦争でも空爆によってベトナムを石器時代に戻すと叫んでいたカーチス・ルメイ大将(空軍参謀総長)がタカ派の先頭にいます。あんな、ちっぽけ島(キューバ)なんか「島ごとフライにしろ」、つまり燃やし尽くしてしまえばいいという怖い考えにこり固まっています。このルメイ将軍は日本列島を焼け野原にした張本人ですが、戦後、日本政府は勲章を授与しています。日本の支配層の卑屈さには呆れます。
 部下たちの暴走は、いったい止められるのか。既成事実が次々に危ない展開を見せていき、トップ集団は方針をまとめることができません。怖いですね・・・。なにしろ、キューバに持ち込まれていたソ連の核弾頭は半端な数ではありません。そして、アメリカだって核爆弾を飛行機に積み、船に積み、ミサイルに装着していたのです。よくぞ、こんな動きが寸前に回避できたものです。
 ケネディ大統領にとって戦争とは、軍部が常に何もかも台無しにする場であった。
 要するに、軍部を信用してはいけないということです。
 マクナマラ国防長官はキューバに配備されたソ連軍に配備されたソ連軍の兵力を6000~8000と見積もった。しかし、実際には4万人のソ連軍がキューバにいて、うち1万人は精鋭の将兵だった。
 キューバ駐留のソ連軍はアメリカ軍の侵攻には抵抗せよと命じられたが、核兵器の使用は禁じられた。フルシチョフは、核弾頭の使用についての決定権は誰にも渡さないと決めていた。キューバに運び込まれたソ連の核兵器(核弾頭)は90発だった。
ソ連からの「要注意船」は10月24日の前日に既に引き返しはじめていた。その点、『13日間』は事実に反したことを書いている。
 アメリカの戦略空軍総司令官のパワー大将は既に空中にあり、15分以内に使用可能な核兵器を2962基も指揮下においていた。爆撃機1479機、空中給油機1003機、弾道ミサイル182機が「即応兵力」を形成していた。そして、その優先攻撃目標として、ソ連国内の220地点が選ばれていた。パワー大将は、ソ連との戦いが終わったとき、アメリカ人2人とロシア人1人が生き残っていれば、我々の勝ちだと考えていた。
 うひゃあ、これはなんとも恐ろしいことです・・・。
 キューバにいるソ連軍は、ワシントンだけでなく、ニューヨークも核弾頭の標的として想定していた。ソ連はキューバにFKR聯隊を2個配備した。いずれの聯隊も、核弾頭を40発と、巡航ミサイル発射機を8基そなえていた。キューバにあるアメリカ軍のグアンタナモ海軍基地にも核ミサイルをうち込む計画だった。
ケネディが学んだ教訓は、政治家たるもの、わが子を戦争に送り出すときは、よくよく考えた末にしたほうがよいということだ。
 10月27日(土)、事態はケネディそしてフルシチョフにも制御できないスピードで進行していた。キューバ上空では、アメリカの偵察機が撃墜された。ソ連領空には、別の一機が迷い込んだ。
 ケネディは、自分のアメリカの軍隊さえ完全に掌握できていなかった。フルシチョフにとって、ソ連が最初に核兵器を使う案は、どんなに脅されようと、怒鳴られようと、絶対に受け入れられない。カストロと違って、フルシチョフはソ連がアメリカに核戦争で勝てるなど思ってもいなかった。
 この当時、核戦争が勃発してもアメリカ政府が確実に生きのびられるように秘密計画が作成され、そのための精鋭ヘリコプター部隊が待機していた。大統領は、閣僚、最高裁判事、そして数千人の高官とともにワシントンから80キロ離れたウェザー山に避難する。そこには、緊急放送網、放射能除汚室、病院、緊急発電所、火葬場などが完備されていた。腰痛に悩むケネディ大統領のための15メートルプールもあった。ところが、そのとき家族を連れて行くことは許されていなかったのです。夫が妻子を残して、自分だけ助かるというのです。みんな、そうするでしょうか・・・。
 地位の高い者ほど、今の聞きが平和的に解決されることについて悲観的だった。軍人に任せると戦争が現実化してしまうことがよく分かります。口先だけで勇ましいことを言う石原慎太郎のような人物ですね。自分と家族は後方の安全なところにひっこんでいて、兵隊には「突撃!」と叫ぶような連中です。
「キューバ危機」って、本当に笑えない綱渡りの連続だったことがよく分かる本です。その圧倒的迫力は『13日間』をしのぎます。
(2010年1月刊。3100円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.