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牛乳とタマゴの科学

カテゴリー:人間

著者  酒井 仙吉 、 出版  講談社ブルーバックス新書
母牛が乳を与えるのは自分の子牛のみで、血のつながりのない子牛には決して与えない。馬が後ろ脚をうしろにけるのと違って牛は前にける。だから、自分の子牛以外、たとえ人でも乳房に触れるのは容易ではなく、むしろ危険。はじめに子牛に乳を飲ませ、少し早めに親から引き離し、そのあと搾乳する。再び親牛に近づかないよう、子牛は親牛の前足につないでおく。
 キリスト教の創始者のキリスト、イスラム教の祖マホメット、仏教の開祖ブッタは、例外なく牛乳と乳製品を礼賛している。もともと日本本土に牛はいなかった。縄文時代の末期に大陸から運ばれてきた。
 大陸で起きた争乱などによって移住者がでて、日本に馬や牛、ブタ、ニワトリをもたらした。近江(滋賀県)では、農耕の役目を終えると肥えさせ食べたようだ。干し肉、粕漬け、味噌漬けにして、12月から1月にかけて江戸に運ばれた。これが近江牛。
牛乳の完全制は子牛にとってであって、人にとってではない。牛乳は乳児にとって母乳の代わりにはならない。
 有用菌とされる乳酸菌であっても、胃に入れると胃酸によって99.9%は胃で消滅する。
 哺乳類は、ブドウ糖を細胞に無害な乳糖に変えることで子に大量の炭水化物を与えている。子牛が乳を飲むのは1日に2回、ウサギは、1日に1回でしかない。
 人は生まれてすぐ母親の初乳から特別な物質を受けとる。そのため、初乳を飲んだ新生児は感染症をふくめて病気になる割合が格段に低い。初乳には病気を予防するという重要な役割がある。母牛の病気抵抗性が初乳によって子牛に伝えられる。しかし、初乳は出荷禁止。それは、殺菌のために加熱すると、免疫グロブリンが固まるので、市販できないから。
 ニワトリは、ヒナから人手で育ててもなつかない。ただし、無視もしない。ニワトリの性質は珍しい。人を恐れない。腹が減っても催促せず、こびもしない。とにかく雄は気位が高く、闘争心が旺盛。鳴き声は独特で、姿は美しい。自分でエサを探すので、飼う手間はかからない。カゴに入れてもおとなしい。寿命は10年以上。
ニワトリのタマゴが人の食用になるのは江戸時代から。江戸では、ゆで玉子が売られていた。1個50文(200円相当)だった。このころは、そば1杯16文だった。安くはない。江戸で、だし巻きタマゴは高級料理だった。一人あたりの年間消費量をみると、日本は主要先進国のなかで際立って多い。
 卵は、洗わなければ、2ヶ月は保有して生食が可能。本当でしょうか・・・。あまり試したくはありませんよね。
いまのニワトリはタマゴ生産機械と化している。体重2キログラムのニワトリが1年間で280個ほど(17~20キログラム)のタマゴを産む。
 産卵間隔は25時間。鶏舎では、14時間点灯、10時間消灯がやられている。
なぜ、ニワトリは年間280個で十分ではないのか・・・。なーるほど、これってちょっとしたギモンですよね。
牛乳を飲むと、お腹がゴロゴロいうのは、乳糖不耐症と呼ばれるものがあるからです。そして、日本人は過去、牛乳を利用していませんでしたので、日本人の大半は乳糖不耐症である。
 タマゴを食べると、高血圧や心筋梗塞になると騒がれた。これは、タマゴにとって、とんでもない濡れ衣だった。
 毎日の牛乳とタマゴの秘密に迫った面白くて、ためになる本でした。
(2013年5月刊。900円+税)
 妹尾河童原作の映画『少年H』をみました。
 とてもリアルに戦争の怖さが再現されていました。次第に市民生活が息苦しくなっていく様子、政府にタテつく者が突然逮捕されて、まるで不向きの人が兵隊にとられることの不幸がよく描けています。そして、戦争によってすべてを失い、虚脱感に陥り、そこから抜け出すことの大変さもしっかり伝わってきました。
 いま、安倍首相の言うなりに世の中が動いていくと、こうなるよという具体的なイメージもつかむことのできる素晴らしい映画です。ぜひ、ご覧ください。

正義のセ(その1)

カテゴリー:司法

著者  阿川 佐和子 、 出版  角川書店
豆腐屋の娘、25歳・独身が検察官になった・・・。
 あのアガワの小説です。しかも、独身女性検事が主人公とあっては、読まないわけにはいきません。
 私はじつは、アガワのエッセイをいくつも読んでいますが、小説は初めてでした。「ウメ子」とか、いろいろ賞をとった小説があることも初めて知りました。
アガワのお父さんの本はいつも驚嘆しながら読んでいましたが、司法界に挑戦するアガワの小説はどれほどのものなのか、まずはお手並み拝見、というくらいの軽い気持ちで読みはじめたのでした。ところが、意外や意外(実は、小説だから当然のことです・・・)、とてもすんなり感情移入して読みやすいのです。またたくまに、主人公の独身女性検事に、「そんなことをしてはいけないだろう」というツッコミをいれながら、読みふけっている自分を発見してしまったのでした・・・。
検察官ですから、コロシもありますし、取調べにおける「犯人」(被疑者)との微妙な駆け引きも求められます。
 ところが、デビュタン(初心者)は、ベテランにもがわれる(可愛がられる)のです。これはどこの世界でも同じですよね。
 取調べのとき、被疑者にからかわれ、憤然として怒鳴りちらし、泣き叫んでしまう主人公に、つい同情してしまいます。実際のところは知りませんが、ありそうな展開です。
 まだ1巻を読んだだけですが、次なる展開が待ち遠しい第一巻ではありました。
(2013年2月刊。1200円+税)

軌跡

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  宮崎 静夫 、 出版  熊本日日新聞社
前にシベリアでの収容所生活を描いた著者の本を紹介しました。
 満蒙開拓青年義勇軍に熊本(小国町)から参加し、関東軍に志願して兵隊となり、敗戦後はソ連軍によってシベリアに連行され、そこできびしい収容所生活を過ごしたという過酷な体験記です。
 それでも、芸は身を助けるということで、うまく絵を描けるということで収容所生活がなんとか過ごせた面もあるようです。
 著者の絵は、無言のうちにも悲痛な叫びに満ちていますよね。
 8人兄弟の中の6番目でしたから、満蒙開拓青年義勇軍に志願したのも分かりますよね。
 教科書は、ススメ、ススメ、ヘイタイススメというもので、軍国少年そのものだったのです。
満州の現地に着いたのは昭和17年の6月のこと。辛い毎日を過ごすことになります。そして、昭和20年5月に関東軍に志願して、兵隊になるのでした。ドイツが降伏し、沖縄戦が終末期のころです。そして、2等兵のまま終戦を迎えます。
 それから、4年間のシベリアでの捕虜生活を過ごすのでした。よくぞ、生き残ったものと思いますが、やはり若さでしょうね。
帰国してから絵を本格的に描きはじめるのでした。
 一度、本物の絵を拝見したいものです。熊本県立美術館には飾ってあるのでしょうか・・・。
(2013年3月刊。1000円+税)

昭和30年代演習

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  関川 夏央 、 出版  岩波書店
昭和30年代とは、貧乏くさくて可憐で、恨みがましい。そんな複雑で面白い時代だった。
 私は昭和42年に大学に入学していますので、昭和30年代というと、大半が小・中学生のころになります。たしかに貧乏くさい生活でした。まだ初めのうちは、テレビ見たさに近くの銭湯に入ったりしていました。どこにも子どもがうじゃうじゃいて、群れをなして遊んでいた時代です。空き地には紙芝居のおじさんがやってきました。お小遣いをもらっていない私は、すぐ近くで紙芝居は見ることができません。だって、水アメなどを買う子だけが、すぐそばで見れるのです・・・。
 松本清張が流行していました。本来、能力に恵まれているはずの自分が不遇なのは、努力不足のせいではない。生まれ育ちの不利と、それによる学歴不足、そして学歴不足を理由として職場での不当な差別のせいだ。それは一つの信念だった。自分の責任ではない。めぐりあわせの悪さのせい、もっと言えば「他者」のせいだ。そして、その背後には社会を繰り、大衆を支配する「巨悪」がいる。自分に日が当たらないのは、その「巨悪」のせいではないか・・・。なーるほど、たしかに、そういう怨念が感じられる本が多いですよね。
 「イムジン河」というフォークソングについて語られています。初めて歌われたのは昭和41年のこと。「水鳥は自由に越える、あの川を、人間はなぜ渡れないのか」
 この歌詞は、帰国運動によって不運にも日本から北朝鮮に帰国してしまった在日コリアンの青年が、昭和36年ころにつくったもの。水鳥が「自由に越える」のは臨津江ではなく、実は日本海。つくり手は、故郷の日本や大阪への思いを託した。それを知った朝鮮総連が、この歌のレコードを販売中止に追い込んだ。なーるほど、そういうことがあったんですね。
 「帰国運動」は昭和35年が最高潮だったとのこと。ちょうど、大牟田で三池争議が高揚し、安保条約改正に反対する運動が盛りあがっていたころのことです。
三島由紀夫は、「日本の文学」に松本清張作品を入れることに強硬に反対しました。
 三島由紀夫は「社会派」を本人が自称していたのだそうです。ちっとも知りませんでした。
 「社会小説」のジャーナルを開拓したと自負する三島由紀夫には、高級官僚の墜落と保身を指摘するだけで、「社会派」と呼ばれる松本清張の作品は笑止と映ったはずだ。
 三島由紀夫の運動神経は「不器用の一語」だった。それにもかかわらず、途方もなく運動に熱心だった。
 昭和37年8月に、堀江謙一少年が太平洋を一人ヨット横断に成功した。日本の新聞の第一報は、非難する調子だった。ところが、アメリカはまったく逆に大きく称揚した。これを知って、日本の新聞のトーンが一変した。
 なぜ、アメリカが称揚したのか?
実は、その前日に、ソ連の人工衛星の打ち上げが成功し、アメリカが宇宙技術でソ連に再び遅れをとったことがはっきりした。そんなニュースを大きく扱いたくなくて、たまたま西海岸の各紙が堀江青年の冒険をトップ記事にしたというもの。
 なるほど、こんな偶然が作用していたのですか・・・。
 「キューポラのある街」とか「にあんちゃん」の背景にある北朝鮮への「帰国運動」の暗部を今は明確に批判できます。でも、当時は恐らく多くの人に真実が見えなかったのでしょうね。気の毒という言葉で簡単に片づけられないほどの不幸をもたらした「運動」でした。
 私の今に至るあこがれの吉永小百合について、両親とは結局、和解には至らなかったとのこと。「生活能力の欠けた父親」と断定されています。親子関係は、どこでも難しいものです。それでも、私は今なおサユリストなのです。原発とか戦争に反対して行動する彼女の勇気をたたえます。ついでに言うと、水泳という共通の趣味があるのですよ・・・。
 昭和30年代とは、どういう年代か少し分かりました。では昭和40年代はどうなのでしょうか・・・。続編をよろしく。
(2013年5月刊。1500円+税)

イスラムと近代化

カテゴリー:アラブ

著者  新井 政美 、 出版  講談社選書メチエ
共和国トルコの苦闘、というサブタイトルのついた本です。現代トルコの悩み多き歩みが語られています。
 紀元前5世紀に起きたペルシア戦争において、ペルシア軍のなかには多くのギリシア人傭兵が存在していた。そして、11世紀のマラーズギルトの戦いは、ギリシア(キリスト教)対トルコ(イスラム)の決戦のように言われるが、東ローマ軍の重要な部分を占めていたのはトルコ系の傭兵たちだった。
 スルタンの血筋にはギリシア人の血がたくさん混じり、ビザンツ皇帝の親類には、セルジュク王家と婚姻関係を結んで、イスラムに改宗するものもいた。
 トルコのノーベル賞作家であるオルハン・パムクの書いた『わたしの名は紅(あか)』は、16世紀のトプカプ宮殿のあった時代を描いている。
 スルタン直属の精鋭軍イェニチェリは、オスマンの軍事的発展を支えていたが、17世紀から、その性格が大きく変わっていた。イェニチェリが世襲されるという、本来ありえない事態が日常化していた。市中で副業を営み、在地化し、無頼化していった。そして、あらゆる改革の動きに抵抗する存在になった。
 音楽はイスラムに反するものとされ、また反しないものとされた。これは「判例の積み重ね」としてのイスラム法の特色をよく示している。
18世紀末のセリム3世はイェニチェリに代えようと新たな西洋式歩兵軍団を創設した。しかし、イェニチェリの反乱に直面して、退位を余儀なくされた。
 次のマフムート2世は、砲兵隊を強化し、改革派の官僚を要職につけ、15年かけて中央集権化を実現した。そして、イェニチェリを蜂起させて、一挙にせん滅して、新しい軍隊を創設した。
ムスタファ・ケマル(のちのアタチュルク)は、北ギリシア・マケドニアのテッサロニキに生まれた。このテッサロニキは、オスマン領内でも、屈指のコスモポリタン的な環境の町だった。19世紀末、4万9000人のユダヤ教徒、2万5500人のイスラム教徒、1万1000人のギリシア正教人口をかかえていた。そのうえ、英仏伊露西の国籍をもつ外国人が7000人ほど暮らしていた。
 ケマルは、文明の基盤が家庭生活にあると公言していたが、その家庭生活がイスラムにもとづいて営まれるのは、時代に逆行するものと考えた。1929年にミスコンテストが始まり、1930年には地方選挙で婦人参政権が認められ、34年には国政選挙に拡大した。28年にはアラビア文字が禁止され、ローマ字が採用された。そして、ケマルは、すべての原語がトルコ語から派生していったという「太陽原語説」を採用して、大々的に喧伝した。
 ケマルは、西洋文明を受け入れて近代化=世俗化を目ざしたが、同時に西洋文明はトルコ民族の影響下でつくり出されたものだと強調することによって、西洋化とナショナリズムを「調和」させた。
 1938年11月に、マタチュルク大統領が亡くなると、前年に失脚していたイノニュが第二代大統領に就任した。
 その後、トルコは、さまざまな苦難の道をたどります。
軍部は、共和国の歴史を通じて、まずアタチュルクの熱烈な信奉者であり、その改革の支持者である。したがって、軍事的天才でもあったアタチュルクが創設し、その副官でもあったイノニュが党首となっていた共和人民党の強力な支持基盤でもあった。
 そこで、軍部が世俗主義の守護者を自認し、世俗主義=共和国の根幹を守るために、軍が何度となく政治に介入する動機ともなった。
 そして、イスラム的価値を重視する「イスラム派」が、たとえ、近代的科学技術の摂取を重視していても、共和国の世俗主義にしたがっていないために「反動」と位置づけられ、軍部は、クーデターを起こしても世俗派であるゆえ進歩的だと自らを位置づけ、それが欧米を中心とする世界に受け入れられるという構図を生んだ。
 いま、建国80年をすぎて、トルコは「イスラム政党」が議会で安定多数を維持している。公正発展党は、自ら「保守的民主主義者」を名乗っているから、これを「イスラム政党」と規定するのは問題があるかもしれない。しかし、大統領も首相も、その妻はスカーフで頭部を被っている。建国の父アタチュルクがこの後継をみたら卒倒するだろう。ところが、アタチュルクが憤激しても、現代トルコが発展していることは事実であり、その発展振ぶりは、アタチュルクの方針に忠実であることを自認する世俗派が政権を握っていたころよりも明らかに目ざましい。軍部と司法当局とは互いに牽制しあいながらも、イスラム派を追い落とそうとする意思を決して捨ててはいない。現政権が、その扱いを誤れば、権力はいつまた世俗派に戻らないとも限らない。
 現代トルコにおける「イスラム派」なるものの実体、そして、世俗派との葛藤の複雑怪奇さの一端が少しだけ分かったような気のする本でした。
(2013年1月刊。1600円+税)

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