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絶望の裁判所

カテゴリー:司法

著者  瀬木 比呂志 、 出版  講談社現代新書
 最高裁中枢の暗部を知る元エリート裁判官、衝撃の告発。これが本のサブタイトルです。著者は私より5歳だけ年下の元裁判官です。現役時代から、たくさんの本を書いていましたが、今回は、裁判所の内情は絶望的だと激しい口調で告発しています。
 市民の期待に応えられるような裁判官は、裁判所内で少数派であり、また、その割合はさらに減少しつつある。そして、少数派、良識派の裁判官が裁判所の組織に上層部にのぼってイニシアチヴを発揮する可能性は皆無に等しい。
 訴訟当事者の心情を汲んだ判決はあまり多くない。
 日本の裁判所、裁判官の関心は、端的に言えば、「事件処理」ということに尽きている。とにかく早く、そつなく、事件を「処理」さえすれば、それでよい。司法が「大きな正義」に関心を示すのは好ましことではない。
 日本の裁判所は、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」という意味では、非常に「模範的」なところである。
 裁判官と呼ぶにふさわしい裁判官も一定の割合で存在することを認めつつ、裁判所のトップと裁判官の多数派については、深く失望、絶望している。
 1959年の砂川事件の最高裁判決における当時の田中耕太郎最高裁長官のとった行為、要するに当事者であるアメリカ大使に裁判所の合議の秘密を政治的な意図でもたらしたことが、ここでも大きく問題とされています。まったく同感です。これが、日本の司法の現実、実像なのである。
 著者が最高裁調査官をつとめていたとき、ある最高裁の裁判官が、「ブルーパージ関係の資料が山とある・・・」と高言したといいます。最高裁が青法協に加入していた裁判官を「いじめ」、きびしい思想統制を始めた事件のことです。「ブルー」とは青法協をさします。
 ブルーパージとは、いわば最高裁司法行政の歴史における恥部の一つ。それを大声で自慢げに語る神経は、本当にどうにかしています。しかし、最高裁の内部では、それが当たり前に堂々と通用していたのですね・・・。
 現在、多くの裁判官がしているのは、裁判というより事件の「処理」である。そして、裁判官というよりは、むしろ「裁判をしている官僚」「法服を着た役人」というほうが、本質に近い。当事者の名前も顔も個性も、その願いも思いも悲しみも、その念頭にはない。裁判官を外の世界から隔離しておくことは、裁判所当局にとって非常に重要である。裁判所以外に世界は存在しないようにしておけば、個々の裁判官は孤立した根なし草だから、ほうっておいても人事や出世にばかりうつつを抜かすようになる。これは、当局にとって、きわめて都合のいい事態である。
 石田和外長官の時代以降に左派裁判官の排除にはじまった思想統制・異分子排除システムは、現在の竹崎長官の体制の元で完成をみた。一枚岩の最高裁支配、事務総局支配、上命下服、上意下達のシステムがすっかり固められた。個々の裁判官の事件処理については毎月、統計がとられて、「事件処理能力」が問われている。
 だから、裁判官はともかく早く事件を終わらせることばかりを念頭に置いて、仕事をする傾向が強まっている。
 しかし、裁判において何よりも重要なのは、疑いもなく「適正」である。これを忘れて、裁判官は、とにかく安直に早く事件を処理できて件数をかせげる和解に走ろうとする傾向が強い。日本の裁判所の現状を、つい最近まで裁判官だったにた意見をふまえて鋭く告発した本です。
うんうん、そうだよねと深くうなずくところが大半でしたが、少しばかり視野が狭くなってはいないかと思ったところもありました。たとえば、著者は裁判官懇話会には一度も出席したことがなかったのでしょうか。
 「左派裁判官」というレッテル張りよりも、いかがなものかと私は思いました。
 要するに、親しい裁判官仲間がいなかったのかなという印象を受けたということです。大変インパクトのある本だと私は思いましたが、裁判所内部では、どうなのでしょうか。結局、変な男の変な本だとして、切り捨てられ、排除されてしまうのでしょうか・・・。
(2014年2月刊。760円+税)

統合失調症の責任能力

カテゴリー:司法

著者  岡江 晃 、 出版  インプレスコミュニケーションズ
 人を殺しても、責任能力がない人については無罪になることがあります。
 その場合には、刑務所ではなく、精神科の病院に収容されます。では、なぜ無罪になるのか。または、罪が軽くなるのか。その点を精神科医として刑事被告人の精神鑑定を91件も手がけた著書が、実例を通して解説した本です。とても分かりやすく、納得のできる鑑定意見だと思いました。
 精神障がい者が犯罪をおかしても罰されないというのは、昔の大宝律令にも定められている。昔の人も、すごいですよね。
起訴前の精神鑑定は、今では年間400以上ある。これは裁判員制度が始まってから急増した。その前は年に150件ほどだった。
裁判になってからの精神鑑定も年に百数十件ある。裁判で心神喪失が認められるケースは急減している。昭和40年代に19人から30人あったのが、平成12年(2000年)以降は、年にせいぜい11人で、ゼロの年もある。
 裁判所は、精神鑑定を尊重すると言いながら、実は、「検討が不十分」とか「推論過程に問題がある」などの、理由をあげて、精神鑑定の結論(責任無能力)を採用しないことがある。
 多くの精神科医は、現在の裁判所が、責任無能力をほとんど認めず、それだけ限定責任能力をみとめ、統合失調症の患者・被告人に対して厳罰でのぞむことには批判的である。
 以下は、著者による精神鑑定の実例です。
○  統合失調症が急激な重症化に向かっているとき、その精神内界に起きている重篤な精神病理は軽視すべきではない。
急激に重症化しへ向かっているときの幻覚妄想の影響力は、きわめて強いものがある。
○  本件犯行の2時間にわたって激しい興奮状態、衝動性、攻撃性を持続した。にもかかわらず、被告人の表情は終始「虚ろ」だった。そして、本件犯行直後からは、一変して、正面をボーッと見ているのみで、周囲のことに無関心な様子を示した。
緊張病性興奮とは、個々の動作の関連が失われ、意思の抑制を逸脱した衝動行動が頻発する。絶えず動き回り、大声をあげ、手当り次第に物を壊し、人を攻撃する。
 躁病性興奮とは、行為の消長が状況の影響を受けない点で異なっている。
 重症の急性増悪であっても、部分的に普通に見える言動があることは、しばしば認められる。
 このケースでも刑務所に収容されたら、著しく急速に悪化したと考えられる。ただし、精神科の病院で専門的に治療しても徐々に人格水準が低下する可能性は高く、将来は悲観的にならざるをえない。
 統合失調症と責任能力について、著者は次のようにまとめています。
 重症の統合失調症患者は責任無能力である。中等症ないし軽症の統合失調症だと、限定責任能力が認められる。
 中等症ないし軽症であっても犯行が幻覚妄想に関連なく、人格変化も軽症なら、完全責任能力もありうる。
 予後として重症化(とくに人格水準の低下)が予測されるならば、それは情状として主張すべきことである。
 実例を通した解説なので、とても実践的な解説書になっています。
 
(2013年11月刊。1800円+税)
 日曜日の午後、庭で草いじりをしていると、ふと何か気配がしました。頭を上げると、つい2メートルほど先の枝に小鳥が留まって、私を見ているのでした。あれっ、ジョウビタキのようだけど、ぷっくらした茶色のおなかじゃないし、変だなと思いました。あとで図鑑を見てみると、メスのジョウビタキでした。背中に、白い斑点が2つあります。ずっと私のまわりを、「見て、見て」という感じでちょんちょん飛びまわっていました。いよいよ3月も半ばとなり、お別れの挨拶にやって来てくれたのでしょう。
 梅の花が終わりかけ、モクレンの白い花をあちこちに見かけます。小さなランプを、たくさん天に突き出した格好で、まるで豪華なシャンデリアです。

民主化のパラドックス

カテゴリー:アジア

著者  本名 純 、 出版  岩波書店
 とても興味深い話が満載の本で、インドネシアの実情をよく理解することができました。
 日本にとって、インドネシアは古くからの友好国であり、同時に重要なエネルギー・天然資源供給国でもある。
 1970年代から1990年代後半まで、日本のODA(政府開発援助)の最大受け入れ国はインドネシアだった。
 2億人をこえる人口は、インドネシアを中国、インド、アメリカに続く、世界第4位の巨大国家たらしめている。
 インドネシアで「政治の自由」というスローガンが公に議論できるようになったきっかけは、1989年5月、駐インドネシアで米大使の発言だった。これにまっ先に飛びついたのは、スハルト体制の柱である国軍と、政府の翼賛政党「ゴルカル」だった。国軍は、国会の中に一定の議席を占めていた。軍部は、スハルト大統領との確執を強めていた。
インドネシアの民主化要求の盛り上がりは、体制内部の権力闘争、すなわちスハルト大統領と国軍との勢力争いによって生まれた政治空間だった。
 1965年9月30日に勃発した「9.30事件」は、インドネシア現代史のもっともダークな過去である。この「9.30事件」によって、多くのインドネシア国民は、政治がいとも簡単に死に直結することを記憶に植えつけられ、政治に恐怖を抱いた。その一方で、為政者たちは、自らの意志で大衆が操作され、そのうねりで国が動くことに陶酔する。
 スハルトは「9.30事件」の前に情報を得ていたが、あえて事件の発生を止めなかった。この機会を利用して、軍内のリーダーシップをとり、共産党を壊滅に追い込み、スカルノ体制を国軍主導の下で再建しようと考えた。
泥沼化していたベトナム戦争をかかえるアメリカにとって、陸軍の反共作戦は、好ましい事態だった。アメリカは、インドネシア各地の共産党幹部のリストをスハルト側に渡し、その排除を手伝った。「9.30事件」による死者は少なくとも50万人、多くて300万人と言われている。
 魔女狩りは、地主や宗教指導者などの地方有力者にとって、日頃、敵対する人たちを排除する格好の機会にもなった。
スハルト体制は、国民的なトラウマの上に建設された。スハルトの嫁婿であるプラボウオが「陰の司令官」として軍内で横暴な権限を発揮することに対する静かな不満が、軍内にたまっていった。プラボウオは、陸軍特殊部隊を中心として、不満分子の弾圧工作を展開していった。
 大規模な暴動を扇動してスカルノ体制を崩した経験のあるスハルトには、プラボウオのやっていることに脅威を感じた。プラボウオが治安維持回復作戦司令部の復活という時代錯誤の策に走り、暴動を政治利用したことで、社会混乱は深まり、収拾がつかなくなった。
 軍内の権力闘争は、スハルト辞任劇の核にあたる部分を演出した。
プリブミとは、インドネシア語で、「土地の子」という意味。華人系インドネシア人は、生まれながらに「非プリブミ」のレッテルを貼られ、構造的な差別を受けた。
 自然発生の暴動など、インドネシアではありえない。これは、差別とか怒りではなく、政治の力学である。暴動というのは、イベント企画であり、火付け役から扇動役、暴動役まで準備され、それ相応の報酬が支払われることが前提だ。なかでも、反華人の暴動は、人気のプロジェクトだった。なぜなら、スポンサーは国軍だから、報酬も他と一桁ちがうし、プリブミのためという大義名分があるから、リクルートも楽だった。
ハビビ大統領の後ろ盾を得たウィラント国軍指令は、軍内「改革」のキャンペーンをあげて、プラボウオの勢力の一掃に動いた。この浄化は、陸軍特殊部隊に対してのみ行われた。処罰するかどうかは、ウィラントの意志次策だった。これを読みとった多くの将校が、ウィラントへの忠誠を高め、結果としてウィラントの軍内掌握がすすんだ。その意味で「国軍改革」は、ウィラントにとって政敵排除の道具であり、権力闘争のカモフラージュでもあった。
 東ティモールを切り離して損をするのは、コーヒー農園や砂糖農園の利権を牛耳っているスハルト家と国軍であった。
5年の任期をまっとうすることなく、ワヒド大統領が政権の座を追われた(2001年7月)ことで、民主化時代における政治エリートの権力闘争にある種のコンセンサスが形成された。それは、いくら自由な選挙を経て選ばれた大統領であれ、与党連合の力学を無視して好き勝手はできず、連立を組む他党にきちっと利権を分配し、そのパイプを切るようなことはしないという暗黙のコンセンサスである。与党連合に加わって、大臣職や国営企業へのパイプを獲得し、あらゆる公共事業で与党政治家が一枚かむ仕組みをつくり、そこで吸い上げた金を政党運営にあてる。つまり、主要政党エリートで権力と利権のパイを分けあうことで、政治の談合体制をつくる。これが政権安定のカギであることを、メガワティはワヒドの経験から学んだ。
 国民はメガワティに抱いていた「期待」が幻想であったことを徐々に認識していった。独立の父スカルノの娘として強いカリスマ性、そしてスハルト時代の抑圧のシンボルとして社会がメガワティに抱いてきた「人民の母」「弱者の味方」というイメージが急速に崩れていった。
 スハルト時代、メガワティ支持者のNGOや学生運動は、片っ端からコパススの弾圧を受けた。コパススは、旧体制の抑圧と裏政治工作のシンボルとして、スハルト後、急速に存在力を失った。そのコパススの地位回復をメガワティが助けたのは、なんとも皮肉な話だった。
 2003年5月の戒厳令は、一方で軍の失態を外に漏れにくくし、他方で特定エリートの利益拡大に大いに貢献した。メガワティ政権は、このような国軍のフリーハンドを容認した。
 ほとんど国民に対して語りかけないメガワティに対する不満もユドヨノ評価につながった。ユドヨノにはマシーンがなく、あるのは人気だけだった。
 マシーン政治が勝つのか、イメージ政治が勝つのか。
ユドヨノは得票率60%を確保し、圧勝した。しかし、実行派のイメージとは裏腹に、決断力がないことでユドヨノは有名だった。みんなにいい顔をしたがる。ユドヨノは、ストレートに本音を言うのを嫌うジャワ人の典型だった。2009年のユドヨノ再選は、国民が政権の継続を望んだ結果である。
 スハルト体制下、公然の秘密として国軍はさまざまな「治安サービス」を提供し、ナイトクラブやディスコ、賭博場、売春宿などのビジネスの警備を通じて、多額の自己資金を調達した。これは巨大な利権ビジネスであり、国家の軍事予算の2~3倍にのぼっていた。そこに警察が参入した。国軍のライバルとして台頭してきたのだ。
 違法ビジネスをめぐる軍人と警官の対立が生まれた。
 国軍は新地開拓を求め、人身売買や密輸を手がける犯罪集団との関係を深めていった。
 反対に警察は、国軍から縄張りを奪うと同時に、世間に対して治安維持能力があることを示すためにも、国軍と近い犯罪組織の摘発に力を入れた。
 スハルト時代に強行された開発ビジネスや国軍の利権活動が地方経済をひどく歪ませ、その不平等で不正義が蔓延する経済状況こそが住民紛争の根本原因である。
 アンボンの陸軍兵士は積極的にイスラム教グループを支援し、キリスト教集団への攻撃に加担した。地元警察はキリスト教民兵集団をテコ入れしていた。アンボン市警の警官の7割はキリスト教徒だった。
 国軍は、全国各地で地方政治を弱体化し、国軍改革を骨抜きし、ビジネス利権を確保している。
 インドネシア政治のダイナミックな推移がよくも分析されていると驚嘆しながら、一気に読了しました。
(2013年10月刊。2700円+税)

阿弖流為(あてるい)

カテゴリー:日本史(平安)

著者  樋口 知志 、 出版  ミネルヴァ書房
 ときは平安時代。桓武天皇の治世、東北地方で国家統一に「反逆」した人々がいた。その首領の名は、「あてるい」(阿弖流為)。私は『火怨』(かえん。高橋克彦、講談社。1997年刊。上下2巻)を読んで、すっかりアテルイびいきになってしまったのでした。その後、『蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い』(久慈力、批評社)という本も読みました。そこでは、アテルイは横暴な大和朝廷の軍隊に雄々しく戦い続ける英雄として、その姿が生き生きと描かれているのです。
 ところが、この本では、実はアテルイの真実の姿は平和を愛する男だったというのです。ええーっ、そうなの・・・と思いました。何ごとも、一面的に見てはいけないということです。
アテルイは、国家との戦争のない平和な時期に生まれ、育ち、結婚し、子どもをもった年代まで大きな戦乱のない時代に生きていた。
 アテルイは、胆沢(いざわ)平野に根をはる農耕民系の蝦夷族長だった。アテルイは決して戦闘を専業とする人ではなかった。
 桓武天皇は、征夷と造都を二大事業とした。奈良時代に皇統の本流をなしていた天武嫡系の血統とは無関係の自分が天皇になったことから、それは天命が自分に降下したものと解し、自らを新王朝の創始者に擬し、前例に執着せず、独自の政治路線を邁進していった。桓武天皇の意識の裏側には、自分の出自が傍流で、しかも生母が朝鮮半島出身の卑母(高野新笠)の所生子であるという強いコンプレックスがあった。
アテルイは、自らの率いる軍隊とともに10年以上にわたって大和朝廷の軍隊と粘り強く戦い続けた。しかし、延歴21年(802年)、アルテイは500余人の軍兵とともに坂上田村麻呂に投降した。そして、平安京に連行されていった。坂上田村麻呂の助命嘆願もむなしく、アテルイは桓武天皇の命令で処刑された。ところが、アテルイが処刑されたあと、東北地方では反乱は起きなかった。それは、アテルイが上京する前に、もしも故郷に生きて帰ることができなくても、決して反乱を起こさないように、あらかじめ蝦夷社会の人々に対して言葉を尽くして説得していたから。
 アテルイは、それまでの忍耐強い努力の積み重ねによって、ようやく手に入れた和平のための好条件が、決して水泡に帰すことのないようにひたすら願っていた。
このようなアテルイの強い意思を深く察した蝦夷社会の人々は、その約束を守り、アテルイの刑死という悲しい現実に直面しても、決して未来への希望を捨てることなく、辛抱強く耐えたのだろう。
 アテルイたちは、このようにして、死して蝦夷社会の人々にますます畏敬され、誇りとして、かけがえのない存在となった。
 なるほど、この本で展開されているアテルイに対する新鮮なとらえ方には、大いに共鳴できるものがありました。
(2013年10月刊。3000円+税)

混浴と日本史

カテゴリー:社会

著者  下川 耿史 、 出版  筑摩書房
 日本では混浴風景は当たり前のことでした。いえ、戦前の話ではありません。少し前のことですが、二日市温泉で旅館の内湯に入ると、脱衣場こそ男女別でしたが、湯舟は区別がありませんでした。残念ながら、私たち以外は誰もいませんでした・・・。
 40年前、司法試験受験のあと東北一人旅をしたとき、山上の露天風呂に入っていると、隣に女子校のワンゲル部員がどやどやと入ってきたので、あわてて湯から上がった記憶もあります。
 もっと前、私が小学校低学年のとき、大川の農村部にある親戚宅に毎年行っていましたが、そこは部落の共同風呂があり、夕方になると入っていました。そこも男女共同でした。家には五右衛門風呂がありましたが、みんなでワイワイ楽しそうに世間話をしながら入っていました。
 この本は、日本人にとって混浴というのが戦後にいたるまで、なじんだ風景であったことを写真とともに明らかにしています。
 『伊豆の踊子』(川端康成)や『しろばんば』(井上靖)にもその情景が描かれているそうです。すっかり忘れていました。
 ところが、実は、昔から当局は混浴を禁止しようとしていたのでした。
奈良から平安時代にかけても混浴が流行していました。奈良の街には坊さんが1万5000人、尼さんが1万人もいた。当時の奈良の人口が10万人と推定されているので、4人に1人は僧尼が占めていた。そして、朝廷は大和守・藤原園人を検察使として奈良に派遣した。藤原園人は混浴禁止令を発した(797年)。
 鎌倉時代に入り、有馬温泉には「湯女」(ゆな)というサービスガールが登場した。そして、源頼朝は「1万人施浴」を実施した(1192年)。うひゃ、知りませんでした。
 江戸時代の銭湯は混浴だった。江戸の女性の多くは田舎から出てきていたが、田舎では混浴があたりまえだったから、江戸の街でも男性との混浴に抵抗がなかった。
 明治になって、外国人が日本の混浴風景に驚いているのを知り、あわてた日本政府は混浴禁止令を出した。
老若男女は、まるで市場や街角で出会うように気兼ねなく挨拶する。初めて目にする外国人は、この驚くべき素朴さにびっくり仰天だったのです。
今も全国には混浴温泉は、実のところ、少なからずあるようです。
(2013年7月刊。1900円+税)

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