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満州航空の全貌

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  前間 孝則 、 出版  草思社
 満州国の知られざる裏面史が明らかにされています。
15年戦争の幕開けとなった満州事変が起きたのは1931年(昭和6年)。奉天郊外の柳条湖での満鉄線の爆破事件に端を発する。
 1932年3月、日本のかいらい国家である「満州国」の建国が宣言された。そして、同じ年の9月、満州航空が誕生した。関東軍の揚力な後押しを受けて雄設された満州航空は、関東軍と一体となって大陸進出そして大陸支配の先兵として活躍した。満州全域に定期航空路網をつくりあげた満州航空は、途中から分離した満州飛行機製造をふくめると最盛期には8000人もの従業員を擁していた。
 満州航空は、国策の民間航空会社だったが、その現実は、群雄割拠する軍閥が各地域を支配しており、反日・抗日勢力のリアクションを受け、緊張を強いられながら運行する日々だった。
 関東軍は満州事変の時点において航空機を一機も保有していなかった。もちろん、航空輸送部隊も持っていなかった。
 満州航空の裏の顔は、軍命にもとづく「軍臨便」だった。満州航空は、「関東軍の二軍」「覆面部隊」などと呼ばれていた。軍人の移動や視察、負傷兵や武器・弾薬の輸送、危険のともなう偵察や邦人救出などを行っていた。
 満州航空の設立にあたっての出資金(資本金)350万円は、満鉄が150万円、満州国政府が100万円、住友が100万円出資した。このとき、三井・三菱は出資していないが、それは関東軍に対して不信感を抱いていたから。
 満州国はアヘン専売による利益を重要な財源としていた。アヘン中毒者は日本占領下で急速に増大していった。日本はアヘン専売利益の拡大を狙った。このアヘンを満州航空は運んでいた。アヘン2000トン、1000億円にもなる。
日本の関東軍そして満州国はまさしく死の商人として存続していたわけです。おぞましいことです。決して戦前を美化してはいけません。
 ところで、この本には杉野元兵長が生きていて、満州にひっそり生活していたと書かれています。日露戦争のとき「軍神」広瀬中佐が亡くなる直前、「杉野はいずこ」と叫んで探しまわった、あの杉野兵長です。実は生きていたのですが、名誉の戦死をしたことになっていたので、生きて故郷に帰ったとき、「おまえはもう日本にはおれない」と言われ、満州に渡って生活していたという話です。本当だとしたら、むごいことですね。
 いろいろ満州国の実態が分かる本でした。
(2013年5月刊。2600円+税)

基地で働く

カテゴリー:社会

著者  沖縄タイムス編集部 、 出版  沖縄タイムス社
 沖縄にある米軍基地は、かつてアメリカのベトナム侵略戦争の前線基地でした。また、米軍基地には、かつての731部隊のような化学兵器を扱う部隊だけでなく、核攻撃の部隊も常駐していました。
 この本は、そんな米軍基地で働いていた日本人従業員に取材し、その実態を暴いています。大変な労作だと思いました。
 沖縄の米軍基地で働く従業員数のピークは6万7800人(1952年)。
 明らかな人種差別があった。上からアメリカ人、フィリピン人、ジャパニーズ。一番下が琉球人。トイレも、琉球人だけが別だった。
 アメリカ軍の高等弁務官6人のなかで、キャラウェーは強烈だった。ありとあらゆる面で琉球政府に口出しした。
 1969年、ベトナム戦争が泥沼化していたとき,米軍は沖縄の大型クダボートをベトナムに派遣しようとした。全軍労(全沖縄軍労働組合)は、戦地への派遣反対闘争に取り組んだ。しかし、24人の日本人労働者をこっそりベトナムへ連れていった。3ヵ月後、全員が無事に日本へ帰ってきた。良かったですね・・・。
 アメリカ軍は,北部訓練場内にベトナムの現地集落を再現し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)兵の制圧を想定した訓練をした。そのとき、日本人住民が現地人役として訓練に呼ばれ、中学生まで参加した。ベトナム人の代役をすると、大人は1日1ドルの日当がもらえた。
 知花弾薬庫には、267化学中隊という部隊があった。69年に毒ガスが漏れる事故が起きた。ベトナム戦のまっただ中、弾薬庫は24時間フル稼働した。倉庫に弾が入りきらず、道の両脇に弾薬箱をずらっと並べて、ほろをかけた。あれだけの弾をつかっても、アメリカはベトナムに負けた。
 ベトナム戦争が始まったころは、アメリカ兵は「正義の戦争だ」と自信満々、意気揚々としていた。しかし、1970年ころには、兵隊の目が暗かった。ベトナムでは、子どもさえ信用できない、怖い、と兵隊が言っていた。
 基地で働く人々は、沖縄戦を生きのびたのに、またまた人殺しの手伝いをしていていいのかという意識にさいなまれるようになった。
 復帰直前まで、沖縄の基地には核兵器が大量に貯蔵されていた。1960年代後半には、千数百発にのぼった。1967年1月、核地雷の操作訓練中に放射性物質がもれ、アメリカ兵1人が被爆した。
 アメリカ兵がPXで万引きするのは、捕まって刑務所に入れば、ベトナムに行かずにすむから・・・。アメリカ兵にとって安心なのは、沖縄と海の上だけだった。アメリカ兵はベトナム戦争に行く前は紳士的だけど、帰ってくると、人が変わったように乱暴な言葉づかいになった。
 人を殺しているから、普通の精神状態ではなかったのだろう。ベトナム戦争へ出撃が決まったパイロットの壮行会は、明日は死ぬ身だから浴びるほど飲んでめちゃくちゃになる。
 その多くが二度と戻って来なかった。翌日は死出の旅路だから、ホンモノの送別会だった・・・。
ベトナム戦争と結びつきの深かった沖縄の米軍基地の実際を、改めて知ることのできる貴重な本です。
(2013年11月刊。1905円+税)

文化大革命の真実・天津大動乱

カテゴリー:中国

著者  王 輝 、 出版  ミネルヴァ書房
 これは文化大革命について書かれた本の中でも、とても珍しいものだと思いました。
 なにしろ、著者は、文化大革命の始まりから終わりまで、つねに天津市の共産党委員会の責任ある地位にいて、その全課程を語っているのです。ちょっと、これはありえないことですよ・・・。
党内闘争の一つの突出した特徴は、「惟上是従」(上の者の命令に下の者が唯々承諾々と従う)という普遍的な政治理念である。
 党内闘争のもう一つの特徴は、「左」であればあるほど、より革命的であるという情緒だ。
 党内闘争には、さらにもう一つの特徴がある。それは、ほとんどすべての人が自己防衛のために行動するということ。闘争が始まると、人間関係に異常な緊張がもたらされ、自己を防衛し、他人を公然と批判することが人々の行動規範となる。
 「文革」という大きな災禍は、それまでの中国共産党の政治運動の流れの単なる必然であり、それまでの政治運動における「左」の集大成だった。中国において長期にわたって存在してきた封建主義専制と「極左」が一時に発露したものであり、中華民族にとって貴重な反面教師的教材となった。
 「文革」中のもっと奇異な現象の一つは、造反と保守、攻撃するものと攻撃されるものが互いに自らを革命的だとし、自分こそが毛主席の教えに従って行動していると考えていたこと。「一つの共通の革命目標のために共に進む」無数の人々が、同じ目標の実現のために行動していたにもかかわらず、生きるか死ぬかと行った状況で対峙することになってしまい、武器まで持ち出す事態となり、多くの人の血が流れることになった。
「文革」が始まったとき、広範な労働者、農民、基層幹部は、長年にわたる中国共産党への指示と厚い信頼によって、当時の、一切を打倒するというやり方にはなかなか賛成できず、いわゆる「保皇派」「保守勢力」の力が強かった。そこで、人生経験の浅い中学生を組織して闘争へ動員することは、こうした局面を打開し、政治闘争を展開するために必要なことだった。
 天津市の機関内部では造反組織の主流は「温和」派であり、幹部グループは全体として相対的に言って危険ではなかった。
 1967年1月、中共天津市委員会は完全に崩壊した。同日、人民解放軍が天津に進駐し、ラジオ放送局など58の重要拠点を軍事管制下においた。
 周恩来も「文革」の重要な執行者だった。周恩来が「文革」において多くの幹部を守った事実は無視できないが、これは物事の一面を表しているだけ。周恩来は、一貫して毛沢東の顔色をうかがいながら行動し、毛沢東の意図に背くことはあえてせず、また出来なかった。
 1949年、中国共産党は銃によって天津を攻め落とし、その政権を築いた。しかし、「文革」において共産党は、中央の支持、民衆の発動、軍隊のうしろ盾によって、自らが築いた政権を打ち倒した、各部門の主要な権力を握ったのは軍隊幹部だった。軍隊幹部の権威は地方幹部と比べて非常に高いものだった。
 もし周恩来が毛沢東を支持しなかったら、二つの可能性が考えられる。一つは、動乱がさらに大規模なものになり、被害もより深刻なものとなったこと、もう一つは、「文革」の終息を早め、損失も若干小さなものになったという可能性だ。
 江青たち「四人組」は「文革」において、したい放題のことをしたが、唯一の思いのままにできなかったのが軍権であった。
 1967年11月から中共天津市委員会の第一書記を務めた解学恭は、上部の指示にとにかく従い、言うとおりにしすぎたという問題があった。上に言われるたびに、そのとおり実行し、風向き次第で言動を変えた。対人関係でも杓子定規で融通がきかなかった。だから、複雑な状況下で、政治闘争の犠牲になったのも当然だった。解学恭には、上層に後ろ盾になる者がいなかった。
 「文革」は大動乱であり、大災害だった。
 「文革」は限りなく高い地位にある領袖・毛沢東が自ら発動し、自ら指導したものである。毛沢東は至高最上の領袖となり、どんな監督や制約も受けず、個人の欲するところをなし、「文革」という大動乱を引きおこした。
 中国にも、もちろん秘密警察(公安)は存在する。しかし、政治闘争の主役ではない。文化大革命でも重要な役割は演じていない。むしろ、文化大革命で決定的な役割を演じたのは軍だった。毛沢東は文化大革命が軍の内部に波及するのを禁止した。ゆえに、軍幹部は大部分が批判も打倒もされなかった。
 毛沢東が行わせた大事なことの一つは、紅衛兵に「親を批判」させたこと。毛沢東こそが「本当の親」なら、自分の親を批判できる。毛沢東は「親」になることで、中国人のエートスの変更を迫った。
文化大革命がどのように進行していったのか、天津市を舞台として、じっくり、その推移を追うことのできる本です。
(2013年5月刊。4800円+税)

世界を動かす海賊

カテゴリー:社会

著者  竹田 いさみ 、 出版  ちくま新書
 古くはマラッカ海峡、そして今はソマリア沖の日本関連の船舶を守ることは大切です。
 しかし、だからといって、自衛隊を軍隊にして重武装し、それらの海へ派遣すべきだということにはなりません。そんなことで守られるのなら、アメリカ海軍が世界中にいるわけですから海賊なんていないはずなのです。
 海賊行為とは、国際法にしたがえば「公海」において、「私的目的」のために行う「他の船舶」に対する「暴力行為」や「略奪行為」を示す用語として明確に定義されている。
インド洋を航行する船舶は1ヵ月に4000隻、1年では5万隻にのぼる。日本関係の商船は、そのうち1割の5000隻とみられる。
 また、スエズ運河とアデン湾を航行する船舶は1年間で2万隻、日本関係は1割の2000隻ほど。武装して海賊の出没する海域で、これだけの民間商船が危険に直面している。そのため、大半の民間商船は、武装した海賊グループから身を守るため、MSCHOAと
UKMTOという二つの海洋安保保障のネットワークに登録し、情報交換を緊密にしている。
 海賊の発生件数は1991年の107件が2012年には297件と、3倍に増加した。
 ソマリア海賊は、チーム制を導入し、母船と小型ボートを組み合わせている。一つのチームの基本単位は3隻からなる。司令塔となる母船が1隻と、小型ボート2隻の3隻だ。一つの海賊チームには、10~20人の海賊で編成される。ソマリア社会の基本単位である血縁集団(クラン民族)ごとに編成される。
 ソマリア海賊は、ロシア・モデルの自動小銃とロケット砲を標準装備している。いまでは、中国のGPSと衛星電話を所持している。小型ボートは、ヤマハ発電機の船外機を2機設置している。
ソマリア海賊が獲得した身代金は1年間に1億ドル、100億円ほどと推定されている。そして、身代金としては、2008年以降に印刷された新券の米国100ドル紙幣が指定される。これは、北朝鮮が密造する米国ドルの偽造紙幣をつかまされないための用心でもある。この身代金のおかげで、ソマリアの集落には、トヨタのラドクルーザーが走り、レンガとセメント造りの1戸建て住宅が建設ラッシュとなり、衛星放送を受信できるパラボラアンテナが林立している。
 身代金の大半は、ドバイやケニアなどのソマリア周辺国から英国や欧州に還されているとみられている。
このソマリア海賊は、ソマリアのクラン(民族)社会が独自に創設したコーストガード(沿岸警備隊)の出身者とみられている。コーストガードの人材研修プログラムは、米英欧の大手民間セキュリティー企業によって担われたが、それによって養成された人間が海賊に変身していった可能性がある。
日本は海上自衛隊の護衛艦をアデン湾に派遣している。そして、アフリカのジプチに活動拠点を設置し、活動を続けている。そして、2011年3月11日、日本の海上保安官8人がソマリア沖の海賊を逮捕し、日本へ護送した。
このソマリア海賊の裁判は東京地裁でおこなわれていましたが、通訳の確保は大変だったようです。何しろ、ソマリア語の話せる人が、日本にそんなにいるとは思われませんから・・・。
 この本は、海賊処理の難しさを現場取材を通じて明らかにしています。関心のある人には必読の書だと思いました。
(2013年5月刊。760円+税)

「在日特権」の虚構

カテゴリー:社会

著者  野間 易通 、 出版  河出書房新社
 「ウソも十分に繰り返せば、人は信じる」
 これはナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの言葉。
たしかにデマ宣伝も繰り返していると、なんとなくもっともらしくなり、特定集団に負のイメージを定着させ、それを前提として物事がすすんでいくことになります。ですから、「在日特権」なるものの嘘は、徹底的に、しかも何度となく繰り返し暴いてしまうことが大切です。なんとなく人々の身体に嘘が染みついてしまわないようにする必要があります。
 憎悪を煽動する側は、その憎悪煽動そのものが目的であり、ときには楽しい趣味ですらあったりする。
「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が問題としている「在日特権」とは、①特別永住資格、②朝鮮学校への補助金の交付、③生活保護の優遇、④通名制度、の四つ。
 宝島社と別冊宝島が、「在日特権」というコトバの流布に加担した責任は大きい。売らんかなで本をつくり、「在日特権」デマを利用して在日コリアン一般に対する憎悪を煽った主体である。うむむ、許せませんね、これって・・・。
 特別永住資格は、日本人より有利な権利をもつという意味ではない。日本人とほぼ変わらぬというだけのこと。
 終戦の時点で、在日朝鮮人や台湾人は日本国籍を有していた。なぜなら、朝鮮も台湾も「帝国日本」が領土として支配していたのだから。終戦によって、その資格や法的地位を他の外国人と同じに扱うことができるはずもない。このような歴史的経緯が立法に反映されるのも当然のこと。
 また、「在日」であっても犯罪をおかせば国外撤去になるし、その実例もあるのに、「在特会」は、「在日」は絶対に国外退去にならないなどという嘘を言いたてている。
 年金については、日本が国民年金に在日外国人を加えるようになったのは、1981年に難民条約を批准したことによる。1982年、国民年金から国籍条項が撤廃され、外国人も加入できるようになった。国民年金への加入が認められるまで、「在日」の多くは無年金で放置されていた。
 仮名口座の開設が違法になったのは、2003年に施行された口座の開設を禁じる本人確認法による。
 生活保護受給者のなかで外国人の占める割合は3%でしかない。そのうち「在日」は2%でしかない。
在日に「特権」があるかのように思い込んでいる人が残念ながら少ないようです。私たちは、きちんと事実を知り、デマを見抜く力を養わなければいけません。
 それにしても、「在特会」って、いじましい団体ですね。他人を蹴り落として何が楽しいのでしょうか・・・。本人たちが、きっと、現実の日本社会で大いなる疎外感を味わっているのでしょうね。そして、その本当の加害者を見抜くことなく、同じ「被害者」たる弱者同士でたたきあっているのです。本当に残念な状況です。
(2013年11月刊。1600円+税)

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