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すごい生きもの 春夏秋冬

カテゴリー:生物

(霧山昴) 

著者 本川 達雄 、 出版 中央公論新社 

「ゾウの時間、ネズミの時間」 (中公新書)の著者がラジオで放送していた内容を本にしたものです。毎月1回、15分間の生放送を7年間も続けたとのこと。たいしたものです。80回ほど、毎回違った話をしたので、得意な話題が尽きたあとは、前から知りたいと思っていた身近なことを勉強してまとめたそうです。偉いものです。尊敬します。

そのときには気が付きませんでしたが、著者は私と同じ団塊世代(1948年生まれ)で、同じ年に東大に入学しています。私は法学部で、著者は理学部の生物学科動物学教室です。10数年間、沖縄の離島でナマコを研究しています。

この本で、私が知って驚いたことを、いくつか紹介します。なんといっても、「排尿時間一定の法則」です。イグノーベル賞を2015年に受賞した「21秒の法則」とも言います。

尿を出し始めて出し終わるまでの時間が21秒。大人も子どもも、ゾウもみな21秒。出る量はみんな違う。でも、時間は同じ21秒。

これを発見したのは著者ではありません。アメリカのジョージア工科大学のフーさんという、中国系の若いアメリカ人。

このフーさんは、動物園に学生とともに行って、いろんな哺乳類の排尿時間と尿量を調べた。すると、みんな、平均21秒だった。

そして哺乳類は1日にだいたい5回トイレタイムがあるのも共通している。ええっ、私なんか、もう少し多いようですが…。

次は、鳥です。鳴いている、さえずっている小鳥は、みな、スズメ目に属している。鳥は1万種いて、その6割はスズメ目。カラスもスズメ目なんです。

シジュウカラの鳴き声には法則があることを野外調査で突きとめた話は、このコーナーでも紹介しましたが、メスはオスの鳴き声にひかれてやって来るけれど、さらに近づくかどうかは、目で見て判断しているとのこと。やっぱり見た目は大切なんですね。

見かけは植物としか思えないサンゴは本当は動物。ところが、サンゴは光合成している。しかし、それはサンゴ本体がなのではなく、体の中に藻類を住まわせていて、それが光合成する。この藻類はサンゴの細胞の中にぎっしりと入っていて、サンゴの体の半分ほどを占めている。なので、サンゴは半分植物。

タンパク質をサンゴ虫が捕まえるのは、触手を使って、動物プランクトンを捕まえて食べる。サンゴの排泄物は褐色藻の良い肥料となっている。これが共生。

「ゾウの時間、ネズミの時間」にナマコが紹介されています。ナマコは砂をのみこみ、その中に入っている有機物を栄養としている。こんな栄養価の低いものを食べてもやっていけるのは、祖先ゆずりのエネルギー消費量の低さがあるから。

そして、時間です。時間は唯一絶対不変なものではない。動物においては、時間は体重の4分の3乗に比例する。動物は、そのようにデザインされている。物理的時間で測れば、ゾウはネズミよりずっと長生き。ネズミは数年しか生きないけれど、ゾウは100年近い寿命をもつ。しかし、心臓の拍動を時間として考えるならば、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになる。

本棚に大切にとってあった中公新書の奥付を見ると、1992年8月に初版が出て、私が買った1993 6月には、なんと20版となっています。この当時、爆発的に売れて、広く読まれたことが分かります。

さて、今度のラジオ放送が本になったものも、大変勉強になりました。

(2026年3月刊。2250円+税)

縄文美術館

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴) 

著者 小川忠博(写真) 、 出版 平凡社

日本列島に住んでいた古代の人々が、こんなにも芸術力が高かったのかと、驚くばかりです。縄文時代の土器・土偶750点が紹介されています。まさに決定版そのものです。

地球全体がまだ氷河期にあった1万年前、朝鮮半島から九州に上陸した人々は、やがて日本列島各地に拡散していった。

土器を縄文人がつくり始めるとき、参考にする先例はなかった。真の創造があり、創作がなされた。なるほど、それまでのモデルというものはなかったのですね。これは大きいですよね。写実性と独創性が融合しているのは、そのせいなのですね……。

黒曜石によってカミソリのような鋭い刃をもつものが出来る。神津島出身の黒曜石が海を渡って、本土で発見されている。

旧石器人は、金属を使うことなく、硬い石に径数ミリという穴を開けた。これって、すごいことですよね……。土偶が何かを手にしているのは、乳児と土器だけ。お腹に手を当てた妊婦の土偶は、中近東やアメリカ大陸でも見かける。

この当時の平均寿命は40歳くらい。縄文人の足跡が粘土に残っている。23.5センチの大きさ。

縄文人の食材は、森のドングリ、野山の動物、それに魚だ。ドングリなどの木の実を大量に貯え、保存、食用、食糧を確保し、依存していた。

縄文人は弓矢もつくり出し、矢の先には黒曜石のやじりをつけている。弓はイヌガヤで作っている。

狩りをするときの大きな助っ人は犬だ。犬も土偶になっている。サルやシカも獲っている。イノシシは大きな獲物。たくさんの土製品が残っている。

縄文時代の木製品は、低湿地の粘土のなかに保存され、発掘された。縄文人は、果実を醸し、酒をつくっていた。アスファルトが、土器や土偶の接合、補修に使われている。

縄文人は釣りもしていましたし、鹿の角で裁縫い針もつくっています。耳飾りはピアス式です。耳に骨針(8センチもある)で穴を開けていました。大きな耳飾りは、土製ですが、透かし彫りなので、とても軽いそうです。櫛もあります。縄文人はネックレスもしていました。土偶にもあります。

ヒスイなど硬い石に丸い穴を開けるのは大変だったと思います。細い竹や鳥の骨にヤスリの役割をする硬い砂をつけながら回転させて揉み切りして、穴を貫通させました。とても辛抱強い作業だったと思います。

土器の始まりは、丸底や平底。それが次には底の尖った土器となりました。逆ではありません。地元の粘土を使い、砂目、雲母そして繊維を加えます。ロクロは使っていません。

火焔(かえん)土器と命名された土器は、まさに見事な芸術品です。外側には文様をつけ、内側は、貝殻や丸石で磨いて、水漏れの少ない土器を焼き上げました。

縄文人のランプもあります。私は初めて見ました。縄文土器とは、なぜか平皿(プレート)はありません。すべて深皿です。しかも直径20〜50センチもあります。

縄文時代中期の土器には、過剰なまでの文様がきめついています。そして、とても細かいのです。ベンガラを使った赤漆の土器もあります。いい手な赤色です。

縄文土器にはイノシシとともにヘビが多く登場します。それほど身近だったということなのでしょう。オオサンショウウオやマムシもいます。

縄文時代の土偶は全国で2万点以上も出土しているそうです。これまた、すごいことです。ゴーグルをつけたような土偶は、ひところ宇宙人説として騒がれました。

「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶は、いつ見ても、ほれぼれします。高さ27センチもあるそうです。一度は実物を拝みたいものです。

全国の図書館に一冊は常備して、多くの人に手に取って見てほしい美術品ばかりが紹介されている本です。

(2025年12月刊。3800円+税)

ハンムラビ法典

カテゴリー:中東

(霧山昴) 

著者 中田一郎 、 出版 講談社学術文庫

「目には目を、歯には歯」といった報復主義刑法で有名なハンムラビ法典について、実際にそんなことが書かれているのか、知りたくて読んでみました。

もし、人がある人を殺人の罪で告発したが、その罪を立証しなかったら、その告発者は殺されなければならない。

もし、人が息子を産まなかった正妻と離婚しようとするなら、夫は妻にテルハトゥム相当の銀を与え、妻が実家から持した財産を元どおりにして返して離婚することができる。

もし、正妻が息子を産み、そして女奴隷も息子を産んで、夫が自分の子だからと正妻の息子と同等だとみなした上で、夫が死んだとき、正妻の子と女奴隷の子は父の財産を平等に分けなければならない。ただし、正妻の子のほうが先に自分の取り分を選び、取ることができる。

もし、職人が男の子どもを養育のために引き取り、その職人技(わざ)を子どもに教えたなら、その子との返還を要求されることはない。

もし、息子がその父を殴ったなら、息子の腕を切り落とさなければならない。

もし、人がアウィールム仲間の骨を折ったなら、彼らはその人の骨を折らなければならない。

もし、アウィールムが同等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは歯を折らなければならない。

もし、理髪師が奴隷の所有者の承諾なしに奴隷の目印の髪型を切り落としたなら、その理髪師の腕を切り落とさなければならない。

もし、船頭が船の防水化工事をしたが、信頼に足る仕事をしなかったため、その年のうちに船が傾き、欠陥が生じたなら、船頭はその舟を解体し、自分の財産で堅固につくり直し、堅固な船を所有者に与えなければならない。

古バビロニア時代、小作料は収穫量の3分の1がフツーだった。

バビロニア南部では、塩害に強いナツメヤシの栽培が重要な産業になっていた。

結婚は、花嫁が人法による支配権者である花嫁の父から新しい支配権者である花婿に引き渡されることをもって完成すると考えられていた。

ハンムラビ法典には一夫多妻制の例が見られる。第一夫人と第二夫人が姉妹であったり、第二夫人は第一夫人の奴隷であることは多かった。

ハンムラビ法典には、タリオンの原則、すなわち同害の原則があった。ハンムラビ「法典」碑は、1901〜02年にフランス発掘調査団がエラムの旧都スーサで発見した。現在は、パリのルーブル美術館に収蔵されている。大変興味深い内容で勉強になりました。

(2026年5月刊。1650円)

 日曜日の夕方、少し暑さがやわらいだので、庭に出て雑草を取ってコンポストに放り込んでいました。すると、突然、左手に鋭い痛みを感じます。大変な激痛です。これはハチだと察しました。たしかにアシナガバチが飛んでいます。痛いのはガマン出来るほどでしたので、まもなく作業を終えて風呂に入ったあと、ドクダミ酒をつけて様子を見ることにしました。

 すると、翌日午後から、左手はふくれあがりさらに夜になると、水ぶくれまで出てきました。

 連休明けに皮膚科に行き、処置してもらい薬を飲みはじめたら、どうやらおさまりました。

 すっかり忘れていましたが、昨年7月にもやはりハチに刺されるとカルテに書いてありました。アナフィラキシーショックが心配だと周囲からは脅されましたが、医師からは何も言われませんでした。だって、心配しようがありません。もちろん庭仕事は手袋をしています。

 ブルーベリーがたくさんなっていますので、ヨーグルトをまぜて、ハチミツをたらして美味しく食べました。

明治日本散策、横浜・鎌倉

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴) 

著者 エミール・ギメ 、 出版 角川ソフィア文庫

明治9(1876)年に日本にやってきたフランス人実業家の旅行記です。

ギメはリヨンの実業家で大量の日本で収集した美術品がフランス国立ギメ東洋美術館として残っています。

ギメは8月末から11月初めまで2ヶ月間、日本にいました。そして、神仏の像600点以上、宗教画300点以上、書籍1000冊以上、陶磁器類多数を収集し、フランスに送りました。当初は、リヨンに私立美術館をつくり、あとでパリに移転して現在に至っています。

ギメの旅行記を読んで、ギメも、ギメと一緒に旅行して画を描いたレガメも、二人とも日本人をまったく侮蔑(ぶべつ)的に見ていないことを強く感じます。日本固有の文化や習俗に対する冷やかな視線もありません。

日本人の好みの衣装は暗い色。

日本人女性は、よく知る屏風絵そのものである。膝を閉じた歩き方で歩き、上半身で平衡を保つためのあらゆる動きをして、一歩ごとに肩と逆方向に方を回す。これって、どういう姿勢なんでしょうか……。歌舞伎に出てきますか……。

日本人女性の特徴は、老いも若きも、出会うすべての女性が子どもを背負っていること。赤ん坊とほとんど変わらないほど、年端(としは)もゆかない幼児まで背負っている。他国のどこでこれほどたくさんの子どもが見られるだろうか……。日本は人口の増加がうまくいっているようだ。

少子化が一層進行している現在の日本では、とても信じられない光景です。

氷屋に、小銭をもった子どもや女性が冷たい香料入りシロップを飲みにやってくる。みながほほえみ、優雅で、とにかく感じがいい。こんな記事を読みよむと、読み手までうれしくなりますよね……。

日本人女性が自らも裸になって裸の子どもたちと一緒に庭でたわむれている絵があります。一日に少なくとも一度は入浴するのが習わしで、そのとき男性も女性も裸になることを、たとえ旅行者がいなくても気にしませんでした。

日本人は、イスラム教徒のような、気だるい無表情にならず、生き生きとして開放的である。

日本人は、物事の楽しみを抑制できる洗練された人たちだ。

車夫たちは、とにかく朗らかで、日本語を教えようとしてくれる。うち一人は、とくに好意的で、愛想がいい。とても聡明に見えるし、日本語教師として優れている。

日本人はみな、芸術的感性を持ち、だれもが描き書きするように筆を走らせる術を、学校で学んでいる。学校で書道を教えているということですよね、きっと、これは……。

日本では、家の戸締りをしないといってよい。じっさい必要がないのだ。というのも泥棒が出るのはまれだし、物乞いにいたっては一切出会わない。うむむ、そうだったんですね……。そして、それは、3世紀にわたる無料の公共初等教育のおかげだと解説されています。寺子屋教育が行き届いていたということでしょうか。

女性と子どもがよく旅をしている。家具のほとんどない日本の家は留守にしやすく、地方を見たり、学んだり、気晴らししたりするために、何かにつけて一家総出で巡礼に出かけているのだ。

日本には、旅行者向けの絵入りガイドブックが昔からある。真面目なガイドブックがあると思えばユーモアにあふれたものがあり、版画を使った淫(みだら)なガイドブックまである。

芝居小屋の観客はとても多く、活気がある。あらゆる年齢の女性たちと子どもが多くいる。家族連れでここに来ている。家族総出で娯楽を享受できるということは、日本という国の倫理感は高いものだ。

明治初めの日本って、こんなにいいところがあったんですね……。明治9年というのは、西南戦争の前年にあたります。

(2026年4月刊。1386円)

 私の事務所では市民向けの連続講座を45年間続けています。毎回、民法・刑法・憲法の3つのテーマで6月から7月にかけて2週間おきに開催します。今年の参加者は毎回30人前後でした。

 1回目は1981年6月です。この4月に、今は福岡で活躍している堀良一弁護士を迎え入れたので、この年は、少年法・刑法・サラ金問題・民法・憲法と、欲張って5回もしました。まだ有料にしていました(今は無料)。1回300円、5回通しだと1000円です。新聞に案内記事を載せてもらい、5回の累計は180人の参加がありました。

 翌年からは民法・刑法・憲法の3回としました。参加者は多いときには100人近くなりましたが、だいたい50~60人です。

 さすがに、コロナ禍のときは休みました。2020年と21年は中止し、2022年から復活して、今年は44回目でした。

 新聞に案内記事は載せてもらえなくなりました。新鮮味がなくなったからだと思います。

 この連続講座に向けて事務所ニュースを年に1回発行して依頼者などへ送り、また新聞折り込みなどもしています。

傷ついた身体と都市

カテゴリー:ロシア

(霧山昴) 

著者 松本祐子 、 出版 白水社

第二次大戦においてロシア(当時はソ連)は甚大な被害を受けています。ソ連ではナポレオンとの戦争は「祖国戦争」と呼び、ナチス・ドイツとの戦争 は、「大祖国戦争」と呼んでいます。

ヒトラーに簡単に欺されてしまったスターリンの大失敗によって緒戦で手痛い被害を被り、レニングラードはナチス・ドイツ軍に包囲されてしまうのです。レニングラードの市民と軍隊はよくもちこたえ、ついに陥落させずナチス・ドイツ軍を撃退したのですが、それもスターリンの指導の下となかばすり変えられたのでした。スターリンって、本当に、とんでもない独裁者です。

レニングラード攻防戦をめぐっては、『卵をめぐる祖国の戦争』(早川書房、2010年8月刊)を思い出します。この本には、「図書館キャンディ」というものが登場します。少女が街角で売っています。本の表紙を引きはがして製本糊(のり)だけを取り出し、煮詰めて棒状にして紙を巻いたもの。甘みはないけど、糊にはタンパク質が含まれているから、命をつないでくれる。つまり、絶望的なほど食糧不足で餓死者が続出し、人肉食さえ横行していたなかでの話なのです。この本のあらすじを紹介します。17歳の少女と脱走兵の2人が、秘密警察の大佐から、娘の結婚式のためのウェディングケーキをつくるために必要な卵を1週間以内に1ダースもってこいと命令されて、市内をさまよい歩くのです。飢えに苦しむレニングラード 市民の惨状、敵弾地雷の恐怖、無残な死などが、随所にリアルに描かれています。私にとっても印象深い本でしたので、本棚にずっと残していました。『レニングラード封鎖』(マイケル・ジョーンズ、白水社)という本も読みました(2013年5月)。「ヒトラーの包囲攻撃に耐えた900日、市民の犠牲者100万人のうち、餓死者80万人」と帯に書かれています。

さて、今回の本です。ドイツ軍によるレニングラード包囲は、1941年9月8日に始まり、1944年1月27日まで、872日間にわたって続いた。ソ連の公式発表では、死者64万9千人、うち餓死者63万2千人とされている。近年では、死者は100万人に近いとされている。1942年1月下旬のレニングラードの気温はマイナス30度から40度。食料も燃料も 十分でないなかでのことです。これはたまりませんね……。

人肉食が横行し、人肉食による逮捕者が1942年3月までに1025人にのぼった。

レニングラードはロシア帝政期以来の工業都市。 1939年の人口は男女同数だったが、1946年には170万人の人口のうち男性59万人、女性111万人と女性が多い。とくに20代は、女性は男性の3~4.6倍。若い男性は戦場に駆り立てられたからです。

レニングラードの女性労働者は、1945年に75%、1946年に67%、1948年に60%、1950年に58%だった。レニングラードでは、女性労働者の割合が戦時中、戦後のいずれでもモスクワそして全国より高く、その数値の減り方も、より緩やかだった。

1944年7月8日、フルシチョフの提案によって、ソ連最高会議幹部会は、妊婦や多子女を支援するため、「母親英雄」の1等は9人、2等は8人、3等は7人の子どもを産み育てた女性に、「母親メダル」の1等は6人、2等は5人の子どもを産み育てた女性に授与されるとした。これは、典型的な「産めよ、増やせよ」ですね。

戦後、レニングラードの住民は包囲を経験していない者が多数だった。1939年に302万人だった人口は、1943年には62万人、1944年には55万人にまで減少。包囲が解除されたあとは、毎年数十万人が流入し、1949年には人口222万人に回復した。戦後も、女性のほうが男性の2倍いた。

レニングラード包囲戦を戦ったジューコフら高位の軍人はスターリンから党指導部の権威を脅かす存在とみなされ、政治的に厳しく処遇された。要するに、スターリンの個人崇拝が強まるなかで邪魔とされたということです。

1947年、ソ連の全人口は1億1700万人で、男性は7500万人、女性は9700万人でした。それほど男性が戦死したのです。本当に過酷な「大戦争」でした。

ところで、ロシアのプーチン 大統領はサンクト・ペテルブルク(レニングラード)の出身です。両親とも包囲戦を経験し、幼少の兄は死亡しているそうです。

レニングラード包囲戦の内情をさらに詳しく知ることができました。

(2026年3月刊。2800円+税)

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