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天草四郎の正体

カテゴリー:日本史(江戸)

                              (霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  洋泉社歴史新書
 島原・天草の乱には、「歴女」でなくても、大いに心が惹かれます。
 関ヶ原の戦い(1600年)から40年もたっていない1637年(寛永14年)、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件が起きたのです。
 3万人をこす一揆群が幕府軍に皆殺しされ、この天草の「乱」は収束しました。
 私も「原城」跡に行ったことがあります。今では海に面した小高い丘があるだけです。現地に立つと、こんな狭いところに3万人もの人々が何ヶ月も生活し、最後には幕府軍によって全滅させられたというのは信じがたい思いがしました。
 この本は、天草四郎は、実は、一人ではなかったと主張しています。「四郎」とそっくりの少年たちが大勢いたことを強調しているのです。
 天草四郎は、「乱」の最後まで生きていたのですが、3万人もの一揆勢の前にはほとんど姿を現していなかったようです。不思議です。ごくごく狭い城内にいて、天草四郎が姿を最後まで3ヶ月のあいだ一揆勢に見せず隠しとおせたというのは、どういうことなのでしょうか・・・。
 島原・天草一揆(島原の乱の別名)の1年ほど前に、松倉・寺沢両家から若衆たちが集団で逃走していた。こんなこと、ちっとも知りませんでした。
 著者は、「島原の乱」を次のようにみています。
 この一揆は、百姓主体の一揆ではあるが、いわゆる百姓一揆ではない。蜂起の時点で領主側(代官)の血を流し、領主側との「合戦」と城攻めをくり返しているように、訴願に基礎を置く百姓一揆的な妥当性を切り捨てた、百姓一揆への退路を断った武力闘争、一種の「戦争」であり、有馬・小西の時代のような「キリシタンの時代」に回帰することを求めた、ある種の「聖戦」であった。
 島原・天草の状況は、キリシタン信仰へ立ち帰ったというより、ひそかに信仰を継続していた人々が信仰を公然化させたという形跡が強い。
 原城に籠城した男女は3万人以下の2万8千人ほど。軍事指揮にあたる軍奉行に牢人層が配され、村役人クラスが村々を持ち場ごとに配置した。城中は、「凝縮された村社会」を基礎にした籠城体制をとっていた。
 寛永12年末に、松倉家から、47人の家臣が退去し、牢人となった。そして、そのなかから一揆の首謀者があらわれている。
 一揆勢の盟主であり、総大将である四郎のもとに、数十人の若者・少年が組織されていた。
 幕府は、天草に「わらんべ共」は、生け捕りにして、火あぶりに処せられるべきとの命令を出した。むき出しの敵意を示している。
 天草四郎なる人物は、その最期まで一揆の全過程を通じて一揆勢の前に姿を現したことを確認できない。代わりに出てくるのが、「四郎のごとく」出で立ちをした四郎の分身たち、「十六、七の前髪の若者」たちだった。その存在は、具体的であり、可視化されている。
 一揆勢には、20人ばかりの「四郎のごとく」出で立ちをした「16,7の前髪の若者」たちがいて、どれが四郎本人であるが、教えられていなかったのではないか・・・。
 私は、この指摘を受けて、なるほど、そうだったのか・・・、と思わずつぶやいてしまいました。いま、原城跡には天草四郎の銅像が立っています。よく写真で紹介されていますが、海に顔を向けています。
 一揆勢はポルトガル船の救援を待っていたという説があります。平戸のオランダ商館長は、1638年5月1日(寛永15年3月18日)の日記に、四郎について、17,8歳の無名の人で、その首は見つからなかった。行方不明になったもの思われる」と書いているそうです。私も、なんとなく、そういうことじゃないのかな・・・、と思いました。
 世の中は、不思議だらけです。ですから、面白いのですよね。
(2015年4月刊。950円+税)

江戸の飛脚

カテゴリー:日本史(江戸)

                               (霧山昴)
著者  巻島 隆 、 出版  教育評論社
 江戸時代は、今の便利な宅急便こそありませんが、手紙や物を送るシステムは、かなり整備されていたようです。旅先で買った瀬戸物を自宅宛に送り、軽装のまま旅を続けることができました。私も宅急便を旅先からいつも利用しています。車中・機中で読み終えた本を自宅あてに返送するのです。これは本当に楽ちんです。
 江戸時代の旅行者は、旅先で買った荷物を道中の負担とならないよう、さまざまな方法で目的地へ先に送った。
 宛先と同じ方向へ赴く者に手紙を託す幸便(こうびん)も利用している。
 飛脚問屋は、手紙だけでなく、品物も運んだ。
 幕府専用の継飛脚がいた。御状箱(手紙を入れる箱)の人足のことである。道の真ん中を「エイさっさ」と掛け声とともに走っていく。旅人は、継飛脚が来ると、道の両脇に避けた.継
飛脚は、川明けの朝一番の渡船で川を渡ることが認められていた。
 武家専用の「三度飛脚」というものがあった。大坂と江戸を結ぶもので、大坂城定番の武家荷物と書状を運んだ。月三度の発送だったことから、三度飛脚と呼ばれた。あとでは荷物が増えたので、月3度では間にあわなくなって、月3度より増やしたが、名称の「三度飛脚」はそのまま残った。
 飛脚問屋の荷物延着の原因は、川支(川止め)と馬支(うまづかえ)だった。問屋場で馬が不足している状況を馬支と言った。
米飛脚は、先物取引をする地方の商人に、日々上下変更する米相場の情報を伝達した。
 吉田松陰は、手紙を飛脚と幸便に託した。
 大名(武家)飛脚は、石高や職務がなく、上級から下級武士まで手紙や荷物を運んだ。
 京都には、宛先別に100軒もの飛脚問屋がひしめきあっていた。
 江戸時代には、すでに為替手形が流通していた。
 江戸時代は現金を運ぶこと、それなりのリスクがありました。強盗に早変わりするのです。
 飛脚問屋は、得意先や交通上の関係者などへ、しきりに融資していた。
 飛脚問屋は、小口融資(20年初登場)を行い、金融業も兼ねていた。
江戸時代の飛脚の実際の姿を研究成果をふまえて、平易な文章で明らかにしています。
 やはり、いつの世も情報は宝です。
(2015年2月刊。2600円+税)

歴史の「常識」をよむ

カテゴリー:日本史

                               (霧山昴)
著者  歴史科学協議会 、 出版  東京大学出版会
 聖徳太子は実在しなかったというのは、これでまでも有力な学説でしたが、この本も、聖徳太子の実在性を証明するものは皆無だとしています。聖徳太子関係の史料は、すべて後世につくられたものなのです。
 飛鳥時代は、蘇我王権の時代だった。飛鳥の支配者は蘇我氏なのである。
 壬申の乱(672年)は、王位継承の争いではなかった。その頃、朝鮮半島では、すでに滅んだ百済と高句麗の旧領をめぐって唐と新羅が交戦状態に入っていた。そのとき、天智の子の大友皇子が唐に加担して出兵を企てたのに対し、白村江のトラウマをもつ諸豪族が反発したのが乱の真相である。天武(大海人)は、単に旗印として利用されたにすぎない。
平安時代末期の源平合戦について、源氏一門がはじめから政治的にまとまっていたわけではない。そして、最初から頼朝に一門の棟梁の地位が約束されていたわけでもない。
 むしろ、「源平合戦」は、分立する源氏諸氏のあいだにおける主導権争いでもあった。それを結果として勝ち残ったのが、源頼朝と彼が率いた鎌倉幕府だった。
 15世紀から16世紀にかけての戦国時代において百姓(農民)は農閑期の戦場稼ぎをしていた。戦場は、魅力ある稼ぎ場だった。できるだけ多くの百姓たちを雑兵として動員するには、農耕の暇になる季節を狙うしかなかった。戦場は、いつも「乱取り」、つまり奴隷狩りの世界だった。
 近世の百姓は、訴訟のために、多くの関係書類を作成し、大切に保管していた。それは、訴訟が今と同じく文書によって進められていたから。
 裁判には吟味筋(ぎんみすじ)と出入筋(でいりすじ)の二つがある。吟味筋は刑罰を科するもので刑事裁判を、出入筋は私権を争うので民事裁判である。
 公事宿は、近世の訴訟には必要な存在であり、訴訟を有利に運びたい人々にとって公事師(くじし)は心強い存在だった。
 百姓一揆においては、武器の携行、使用や、家屋への放火、盗みを自律的に禁じていた。江戸時代の村々には、日本刀や鉄炮などの武器は多数存在していた。しかし、百姓一揆のときに、これらの武器が使われることはなかった。百姓は自律的に暴力を封印していた。
 日本史の「常識」が大きくひっくり返される刺激的な本でした。
(2015年3月刊。2800円+税)

ネムリユスリカのふしぎな世界

カテゴリー:生物

                              (霧山昴)
著者  黄川田 隆洋 、 出版  ウェッジ
 生物とは何か、死ぬとは、生き返るとは何のことか・・・。
 いろいろと根本的なことを考えさせてくれる生物がいることを知りました。それも、アフリカの灼熱の地に生きる小さなユスリカの話です。
 カラカラに干からびても、水をかけるだけで、たちまち息を吹き返す。100度に近い高温にも、マイナス270度という超低温にも、人が耐えられる1000倍近い放射線にも、アルコールに1週間浸しても、全然平気。宇宙に放り出しても死なない状態で存続し続ける。
 ネムリユスリカは、アフリカにしか生息しない昆虫だ。ナイジェリアに多く見られる。
 ネムリユスリカは、卵の時期から2~3日間、幼虫の時期が1ヶ月間、さなぎが1~2日間、成虫が2~3日間。幼虫の時期が一番長く、その本来の姿だと言ってよい。
 成虫は口がなく、血も吸わない。エサを食べられないので、成虫になったら、すぐに交尾をして、卵を産む。
 幼虫のときに、乾燥耐性(アンヒドロビオシス)の能力が発揮される。卵やサナギ、成虫の時期には、この乾燥耐性は発揮できない。
 ネムリユスリカは、身体を構成するさまざまな細胞のすべてが乾燥という情報を受けとり、乾燥の準備をする。細胞のなかだけの自己完結的なメカニズムで乾燥耐性が実現できている。
 水がなくなったとき、水があった場所と置き換われるように、たんぱく質の表面にトレハロースがくっつくことで、タンパク質が形を変えずにすむ。つまり、体のいろいろな成分の元々の状態を維持させることができるので、水がなくなっても細胞が壊れることがない。
 トレハロースには、2つの特質すべき能力がある。たんぱく質や細胞膜、油の成分の表面にとりついて、水の変わりの役割をするだけではなく、水が元々あった空間の領域も、自分がガラス化することで空間を埋めてやる。
 乾燥というシグナルあるいはストレスが来て初めてグリコーゲンを分解してトレハロースに変える。グリコーゲンを全部分解して、トレハロースに入れかえるのに、2日間かかる。
ネムリユスリカは、乾燥すると、大量のレアたんぱく質をつくる。
 ネムリユスリカでは、27個のさまざまなレアたんぱく質がたまることによって、全たんぱく質の10%以上を占め、それが乾燥耐性に寄与している。
 たんぱく質は、温めたり、干からびたりさせると固まりやすくなる。
 乾燥した時期に、レアたんぱく質とトレハロースが一杯たまることによって、体の細胞の中味を保護している。凝集しないように保護することで、水に入れたときにすぐに元に戻るようにしている。
 ネムリユスリカは、劣化してしまったアスパラギン酸になったものを治す酵素があるおかげで、イソアスパラギン酸に戻すことができる。
 本当に不思議きわまりない生き物です・・・。しかし、よくもこんなことを発見したものです。
(2014年7月刊。1600円+税)

スギナの島留学日記

カテゴリー:社会

                             (霧山昴)
著者  渡邊 杉菜 、 出版  岩波ジュニア新書
 高校生活というのは人格形成にとって、とても大切な時期だと思います。受験にだけ追われるのではなくて、自然と社会の双方に目を開けることが大切です。
 この本は、私がまだ行ったことのない隠岐(おき)にある島前(どうぜん)高校で学んだ、兵庫県出身の女子高生の体験記です。わー、うらやましいな、そう思いました。
 島根県立高校です。そして、寄宿舎があるのです。女子寮に40人、男子寮に25人います。なぜ、男子より女子が多いのでしょう・・・?
 食堂は男女共同です。私も大学に入ってから3年間ほど寮生活を送りました。うち2年間は、6人部屋でした。楽しい日々です。今ふり返っても、天国のような日々を過ごしました。いじめなんて、もちろんありません。みんな、上も下もなく、仲間です。マンガ週刊誌をまわし読みし、夜食を食べに夜遅く寮の外へ出かけていきました。大学生ですから、門限なんて、もちろんありません。20歳前でしたけど、アルコールも制限なし、です。
 高校生の寮だと、そういうわけにはいきません。勉強時間も決まっています。でも、写真を見ると、本当にみんな楽しそうです。
 この高校では、国語、英語、数学の授業は習熟度でクラス分けされていて、一人ひとりに応じた授業を受けられる。先生は、生徒一人ひとりが、どういう状況にあるのか、しっかり把握している。すばらしいですね。こんな高校で勉強したいですよね。なにしろ、先生1人、生徒4人という授業もあるというのですから・・・。
 1学年50人、全学年2クラス。1年生は、実質3クラス、2年生は4クラス。こりゃあ、たまりません。県立高校で、これほど手厚い授業を受けられる生徒は、幸せです。
 休日も充実しています。島の人々との交流も盛んです。人々との深いつながりを実感できるのです。まさに夢のような高校生活を過ごすことができます。
 私も、もっと早く知っていたら、こんな高校に我が子を入学させたかったと思いました。
(2014年12月刊。800円+税)

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