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キリシタンの生きた「まち」

(霧山昴) 

著者 五野井隆史 、 出版 吉川弘文館

宣教と弾圧の軌跡というサブタイトルがついた本です。

戦国時代、大勢の日本人がキリシタンの信者となり、その信仰を守って死んでいきました。私の住む筑後地方にも何千人ものキリシタンがいて、久留米には2つの教会堂がありました。今でも久留米に教会堂はありますが、信者は何千人もいないのではないでしょうか…。

キリシタンは、原城攻防戦は別として、殺されることはあっても殺しに行くことはなかったように思います。

ところが、同じキリスト教信者なのにフランスなどでは、カトリックとプロテスタントが相互に殺しあい(聖バルテルミー虐殺)をしています。殺すことによって救済が得られるとでも考えたのでしょうか。カタリ派など、異端とみたら、みな殺しというのも恐ろしいことです。魔女裁判もありました。

近くは、オウム真理教では、殺しをポアするといって相手の魂を救済すると、こじつけていたようです。まことに恐ろしい宗教の世界です。

フランシスコ・ザビエルが薩摩にきたのは、1549年(天文18年)8月15日。大友宗麟(そうりん・義鎮)の支配する豊後府内には1551年に訪ねた。

ルイス・フロイスが信長公の承認を得て京都で宣教活動を始めたのは1569年。江戸にも1599年に聖母のロザリオ教会が設立されている。キリシタン禁教令のあと江戸の教会は1612年にこわされた。1623年12月に、パードレ2人を含む50人が処刑された。1640年に70人が溺死させられているのが江戸での最後。

1632〜33年、長崎でパードレ(神父)18人とイルマン(修道士)2人の宣教師20人が処刑され、以降、潜伏キリシタンは地下に潜った。

ザビエルの来日にあたって通訳をしたのはアンジロー。ザビエルは、協力者としてのアンジローの役割を高く評価している。これは、幕末のころのジョン万次郎のようなんだったんでしょうか…。

神デウスは「大日」とされ、キリスト教の教理は、仏教用語を多用して説明された。

ただし、宣教師たちが男色を激しく非難して仏僧の悪習、倫理的罪悪を糾弾したことから、仏僧に強い警戒心と疑念をかきたてた。

ザビエルの滞日は、わずか2ヶ月あまり。鹿児島を出航してインドに向かうザビエルの船には仏僧2人を含む日本人4人が乗っていた。日本人4人のうち3人は、まもなく日本に帰国したが、残る1人はマラッカに残った。もっと多くの日本人がインドへ行きを希望するとザビエルは見込んだようですが、多くはならなかったとのこと。

ザビエルは日本人の改宗に強い可能性を感じていた。

島津氏は、外国貿易に強く執着したことから、異国船招致のために便宜的に宣教師を受け入れようとした。

ザビエルは、山口(当時の人口10万人)で、2ヶ月間に500人もの洗礼を授けた。

天正15(1587)年6月、秀吉は筑前博多で、突然、伴天連追放令を発布した。

豊後府内では、商人を主とする町衆と住民がキリシタンを嫌悪し、教会を忌避した。キリシタンの大多数は、貧乏者や病人が主なる下層民だった。

ルイス・フロイスは信長の信認の下に京都にとどまった。1569年以降、宣教師たちはことあるごとに信長と接触するように努めた。安土城の城下に信長の援助を得て修院を建造した。

家康もフィリピン・マニラとの貿易を試みたようです。1600年3月にマニラにポルトガル人神父のヘロニモ(ジェロニモ)を派遣した。結局、ヘロニモは病死し、目的は達成できませんでした。

山口では人口10万人のうち1555年9月には2割の2000人がキリシタンだったといいます。それでも、潜伏キリシタンがいたという話は聞きません。

筑後平野では、今なお教会堂のある今村が有名ですが、広々とした筑後平野の一つの村全部が隠れ切支丹として、江戸時代を生き抜いたというのは驚くべきことです。支配層も薄々は知っていたとしか思えません。今村教会堂は堂々たるものです。目下、大改修中ですが、完成したら、ぜひ行ってみたいと思っています。

(2026年3月刊。4950円)

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