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山と河が僕の仕事場

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  牧 浩之 、 出版  フライの雑誌社
  宮崎県高原(たかはる)町で、猟師であり毛鉤釣り職人として生活する著者の素敵な日々を写真とともに紹介する本です。とても面白く、一心に読みふけりました。
  神奈川県川崎市に生まれ育ったシティボーイが南九州の山地でシカやイノシシを狩り(ワナと鉄砲)、川や海で釣りをし、また、フライフィッシングの毛鉤を手づくりするのです。
  都会っ子なのに、すごい才能があるんですね、驚嘆しました。
  フライフィッシング用の毛鉤の材料としては、キユウシュウシカの毛皮が大変良い。
  罠にかかったシカを殺すとき・・・。いざ止め刺しをしようというとき、ものすごい罪悪感に襲われた。生きている獣を自らの手で殺そうとしているのだ。それでも意を決し、長柄の剣鉈を構えてシカとの間合いを始める。シカの胸元に狙いを定め心臓を一刺ししようとした瞬間、シカは殺気を感じて激しく逃げ回った。油断すると、こちらが怪我をする。「ごめん」シカの心臓に狙いを定めて剣鉈で一気に突いた。
  シカは足をばたつかせたかと思いと、そのまま眠るように動かなくなった。剣鉈を抜くと、真っ赤な血が湯気を立てながら流れ出した。
  捕獲した獲物は素早く適切な処理を施さないと、肉に臭みが生じて美味しくいただけなくなる。血液は時間とともに凝固するので、仕留めた獲物はすぐに血抜きする。血抜き処理が遅れると、肉の中に血液が残留し、臭みが残って、鉄臭い味が出てしまう。血抜きが終われば、自宅の作業場へ運んで、内臓の摘出にとりかかる。
  シカは作業場の梁から頭を下にして吊るし、内臓が傷つかないように注意しながら腹部を開いていく。肛門と膀胱を剥離するときは、とくに慎重に行う。内臓を摘出したら、腹腔内を冷たい水道水で冷やしながら、血液などの汚れをしっかり落とす。
  血抜きから内臓摘出までは30分以内、遅くても1時間以内には終わらせる。
  肉を食べるというのは、本来、このようにとても大変なことなのだ。しっかり、血抜きしたシカの心臓を、にんにくと一緒に炒めたハツ焼き。猟師の特権とも言うべく、酒のあてに最高。
  ストーブの上で、イノシシのカシラを焼く。これだけは誰にもあげたことがない。
  カラー写真があります。本当においしそうです。
  シカもイノシシも畑を荒らす害獣なのです。一定の駆除はやむえません。
  山と川を駆けめぐる生活は、とても充実していて、うらやましい限りです。でも、私にはとてもマネできそうにもありません。それで、本を読み、写真を眺めて想像に浸ることにします。
  山と川と人がつながる暮らし。それは、人生で今が一番楽しいと思える毎日。
  著者のこの言葉が素直にうなずけます。奥さんの弘子さんが写真に登場してこないのが残念でした。
  山と川好きのみなさんに、ぜひ読んでほしい本です。
  
(2015年12月刊。1600円+税)

人間・始皇帝

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者  鶴間 和幸 、 出版  岩波新書
 西安郊外にある兵馬俑博物館に二度行くことができました。その壮大なスケールは、まさに度肝を抜くものがあります。
 日本の博物館にやってくるのはせいぜい数十個の立像です。それでも相当の迫力はありますが、現地で8000もの立像に接すると、そのものすごい物量には思わず息を呑んでしまいます。まさしく地下に大軍団が勢揃いしているのです。
 どうして、こんな大軍団を地下につくったのか、またつくれたのか、世界の七不思議のひとつではないのでしょうか。この本は、秦の始皇帝の実像に迫っています。
 始皇帝は、その名を趙正といい、13歳にして即位した。まだ小男子と呼ばれる子どもにすぎなかったから、国事は大臣に委ねられた。
 秦では、庶民においては、子どもか大人かの判断は実年齢よりも身長を基準にした。男子は150センチ、女子は140センチ以下が子どもであった。また、17歳になったら一人前の男子として扱われた。
 始皇帝陵の地下宮殿の深さは30メートルある。ところが15メートルも掘ると地下水が浸透してくる。そこで、地下深くに排水溝を設けた。そして地下宮殿が完成すると、この排水溝は埋めて地下ダムとした。
 すごく高度な水利技術が発達していたのですね。それにしても、ユンボなどの重機がない時代に、どうやって地下30メートルまで掘り下げることが出来たのでしょうか・・・。
 始皇帝が親政を始めるきっかけとなった内乱の起きたころ、ハレー彗星があらわれていた。
 始皇帝が33歳のとき暗殺未遂事件が起きた。暗殺者は荊軻である。
 秦の法律では、戦場で逃げた兵士の歩数の違いが処罰に反映し、異なっていた。
 湖南省にある古井戸から15万枚という大量の木簡が発見された。
 皇も帝と同じく、天を意味している。大臣たちは帝より皇を選んだ。秦王はそれに対して帝号にこだわり、皇と帝を組み合わせて皇帝という称号を自ら選んだ。
 秦は軍事ではなく、祭祀を通して統一事業を浸透させていこうとする立場だった。中央で統一を宣言するだけでは、とうてい治まりきれないほど秦帝国の領域は広大だった。そこで、始皇帝は自ら何度も地方を巡行していたのだ。始皇帝は全国を統一したあと、5回も地方巡行している。
 始皇帝は、秦帝国の周縁に 夷を置き、中華と蛮夷の世界を対置させた帝国を築き上げようとした。
 秦皇帝では、行政文書、度量衡、車軸の規格の一元化などが進められ、違反した官吏は法で厳しく罰せられた。
 始皇帝は天文の動きをかなり重視していた。皇帝も庶民も変わらず、古代の人々にとって、天文は日常の生活と結びついていた。
 始皇帝陵は、3キロ離れた驪山(りざん)の乙地点を中心とした視界に入る連峰と一体化した景観をもっていた。2200年前の北極星の位置が真北だった。
 偉大な始皇帝の業績を最新の研究成果をもとにしてたどることのできる新書です。
(2015年10月刊。800円+税)

真田丸の謎

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  千田 嘉博 、 出版  NHK出版新書
 大坂の陣では、火縄銃だけでなく、多くの大砲が使われた。徳川方はイギリスから購入した最新式のカルバリン砲などの大砲で鉄壁の大坂城を砲撃した。当時の砲弾はまだ炸裂弾ではないので致命的な打撃を与えることはできなかったが、それでも大坂方を威嚇して戦意をくじく効果は十分にあった。とりあけ、大坂城の北側にある備前島から大坂城天守を目標として撃ち込まれた砲弾は、城内の人々、実質的に豊臣方の総大将であった淀殿を恐怖させることには成功した。
 真田丸の戦いは、大阪冬の陣(1614年)における最大の激戦として知られる。これまで真田丸は南北220メートル、東西180メートル程度とされてきた。しかし、実は、それよりはるかに大きなスケールだった。
真田丸は、単なる砦や馬出しというレベルではなく巨大な要塞だった。 
真田丸は、本体とその北側にある小曲輪(くるわ)によって構成される、二重構造だった。真田丸は、あらゆる敵の攻撃を想定し、どのような状況になっても、真田丸単体で生き残れるように設計されていた。つまり、一個の独立した域を想構の外側に新たに築いた。そんなイメージで捉えるべきものだ。
 真田信繁(幸村)の武名があがったのは、大坂冬の陣における真田丸での活躍があったからで、大坂城に入った段階では、大坂方の中での信頼度は低かったのも当然である。
真田信繁には、孤立無援の「死地」とも言える真田丸において、「敵襲を防ぎきることができる」という確信があったのではないか・・・。
 真田丸は方形で、前面は深さ6~8メートルの水堀、後方(北側)は、深い谷に守られた複雑な地形だった。真田丸は、近づくことさえ難しい、きわめて堅固な砦だった。ここに3000兵が籠もっていた。そこへ井伊直孝、松平忠直、前田利常の軍勢が攻めかかってきたが、彼らは数千人もの被害を出して敗退していった。
 著者は、真田丸が三光神社あたりではなく、明星学園を中心とした位置にあったとしています。もちろん、今は何も残っていません。
 それでも一度、現地に行ってみたいと思います。よく調べてあると感心しました。
(2015年11月刊。780円+税)

天皇陛下の私生活

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  米窪 明美 、 出版  新潮社
  1945年の1月1日から12月31日までの昭和天皇の日常生活を丹念に解明しています。戦前は現人神(あらひとがみ)ということで、天皇は神様そのものという存在だったわけですが、実際には不自由な生活が明らかにされています。たとえば、不自由という点では、なにより親子一緒に自由に暮らせないというのが信じられません。
昔は、生まれてまもなく里子に出し、丈夫な子どもに育つようにしていたのです。そして、子どもたちが大きくなってからも、親である天皇夫婦と一緒に生活することはなかったのです。なんという非人間的な生活でしょうか・・・。
ちなみに戦前は、皇居と言わず、宮城(きゅうじょう)と呼んでいたのですね。戦後の昭和23年(私の生まれた年です)から、皇居と呼ぶようになりました。
1945年1月、天皇は43歳、皇后は41歳だった。ということは、9年前の2,26事件のとき、天皇は34歳だったわけです。反乱軍を許せないと昭和天皇が怒ったのも分かる気がします。
そして30代を戦争指導者として日夜、戦争指導に没頭していたというわけです。ですから、沖縄戦でもう一回勝ってから終戦交渉しようなんていう発想をして、たくさんの罪なき日本人を死に至らせてしまったわけです。
その反省を今の天皇は体をもってあらわしているのだと思います。ですから、制度は別として、私は今の天皇を人間として心から尊敬しています。
昭和天皇は、不器用なうえに、唱歌も下手だった。私も音痴ですが、手先は不器用というわけではありません。
皇居での天皇夫婦は、洗面所は供用だが、風呂とトイレは各別に専用のものがあった。トイレが別なのは、水洗トイレであっても、医師が毎回検便していたのです。尿検査もありました。健康も厳重に管理されていたわけです。トイレで自由に水に流せないのは警察の留置場と同じです。ちなみに、これは、今も続いていると承知しています。皇族も大変なんですよね・・・。
昭和天皇は、毎朝、消毒済の新聞を隅から隅まで読んだ。広告に至るまで目を通していた。これは折り込み広告のことではないでしょうね・・・。
昭和天皇は猫舌だったからいいようなものの、天皇の食べる料理は、車で5分もかかる大膳寮でつくったあと、毒見役もいたりして、すっかり冷めていた。こりゃあ、たまりませんね。まるで目黒のサンマの世界です。そして昭和天皇は、このサンマが大好きだったそうです。
昭和天皇は身長165センチ(私と同じです)、体重64キロ(私は68キロもあって、ダイエットに挑戦中です)だったのが、戦争中は56キロにまで落ち込んでしまいました。
天皇家は、いわば神道の本家のような存在なのだが、敵国アメリカのリンカーン大統領のブロンズ像が室内にあったり、クリスマスをみんなで祝ったりしていた。
昭和天皇は、アルコールが体質的にまったく飲めなかった。それで宴会のときには湯冷ましを酒に見せかけて飲んでいた。
終戦前に皇居はアメリカ軍の空襲によって2度も家屋が焼失している。2回目は、陸軍参謀本部からのもらい火で皇居が炎上した。
昭和天皇は一時は退位も考えていたようです。当然だと私は思います。
日本史の一駒として知っておくべき話だと思いながら読み通しました。
(2015年12月刊。1400円+税)

沈まぬアメリカ

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者  渡辺 靖 、 出版  新潮社
  軍事力で世界を思うままに支配しようとしてきたアメリカも、今やさっぱりです。もちろん、今でも軍事力は世界一です。でも、軍事力だけでは何も変わらないどころか世の中をかえって悪くしてしまうという実例が、最近のイラクであり、シリアです。IS(イスラム国)の暴挙なふるまいは、アメリカが生み育てたものでしかありません。ここは、やっぱり日本国憲法9条の出番ではないでしょうか・・・。
  著者は日本の大学を出てアメリカのハーバード大学に入って、今は慶應大学で教授をしています。そのためでしょうか、アメリカのいいところを紹介する本です。たしかにアメリカにもいいところはたくさんあります。それは、わが日本にもいいところがたくさんあるのと同じようなものです。
  でも、軍事力に頼るばかり、社会保障制度は不備だらけ、銃の規制はできず、今や排外交主義にこり固まっていて、移民排斥を叫ぶ大統領候補の評価が高いだなんて、そんな遅れたアメリカのどこを学べというのでしょうか・・・。
  アメリカの人口は増大しつつあり、2050年までに1億人以上は増える見込みだ。労働力も40%は拡大する。
  シェール革命の成果によって、アメリカは世界最大の自然ガス産出国となった。2014年には、39年ぶりにアメリカは世界最大の産油国になった。
  ハーバード大学の学費は年間4万ドルから6万ドルに値上がりした。600万円というのは明らかに高い。わが日本でもアベ政権は年間50万円に引き上げようとしている。とんでもないことだが、アメリカは一桁ちがう。ところが、アメリカでは収入によって免除される。年に1万3千ドルで学生は勉強できる。これだったら130万円ということなので、日本の2~3倍です。
それでも高いですけどね・・・。ちなみに、アメリカの大学院は、授業料免除が一般的。
アメリカの大学は、今ではアブダビやドバイなどに分校をかまえているところが増えている。日本からアメリカへの留学生は、1997年の4万7000人をピークにして、2014年には1万9000人だから、6割減となっている。
  アメリカの大学に在学する留学生の出身国・地域は、220以上、90万人に達する。もとから移民大国だが、現在も毎年70万人もの移民を受けいれている。難民認定者も7万人と、世界最大だ。
世界最大のメガチャーチは、アメリカではなく、韓国にある。ソウルにある聖霊派のヨイド純福音協会だ。信者数は100万人である。アメリカのメガチャーチの影響は、アメリカ国外へと及んでいる。
  私の嫌いな、偽善そのもののアメリカにも一つくらいはいいところがあっていいのです。
  アメリカ社会の一断面を切り取った本です。
  
(2015年10月刊。1600円+税)

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