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鯨分限

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  伊東 潤 、 出版  光文社
 江戸時代、鯨をとっていた新宮・太地(だいち)の分限(ぶげん)に育った男の物語です。
 豪快です。『巨鯨の海』に続く、鯨とりの様子が熱く語られています。思わず、手に汗を握る痛快小説です。といっても、かなり史実に即しているので、迫真性があります。
 太地の捕鯨は、10月を年度初めとし、翌年7月半ばまでの10ヶ月間を操業期間とする。 10月から2月までの、南に向かう上り鯨をねらったものを「冬漕(こ)ぎ」、5月から7月にかけての北に向かう下り鯨をねらったものを「夏漕ぎ」と呼ぶ。
 太地では、鯨組の経営全般を担当する太地家当主を大旦那、山見を司る和田家当主を山旦那、船団を指揮する采配役を沖合ないし沖旦那と呼び、この三人が事業と創業の中核を担う。これを太地鯨組の三旦那体制といい、明確に責任範囲が区分されていた。もちろん、最終責任は大旦那の太地家当主にある。
 沖待ちとは、鯨が来る前に流し番と呼ばれる船を四方に出し、いずれかの船が鯨を発見すると、沖待ちしていた船団が、迅速に捕獲態勢に入る漁法のこと。
 日没(まぐみ)になると、つい先ほどまで濃藍色(こあいいろ)だった海面が、黒檀を敷いたように海面が黒々となる。
 物ゆうとは、太地方言で海が荒れること。
 夷(えびす)様とは、大きな富をもたらす鯨に対してつけられた尊称。
 納屋仕事とは、鯨の解体や搾油、鯨船の建造と修理、捕鯨具の製作と保守などを行う部署。勢子船の艪は八丁で、水主は左右4人ずつの8人。
 最後尾の艫押(ともおし。舵取り役)が舵の役割を果たす艫艪(ともろ)を受けもち、取付(とりつき)という雑用係の少年が脇艪という艫艪の相方(あいかた)を担う。
 勢子船の乗員は、刃刺、刺水主(さしかこ)、水主、艫押(ともおし)、取付、炊事係の炊夫(かしき)をあわせて、一艘あたり13人、最多で15人ほど。
 勢子船の側面には、さまざまな意匠が施されている。その絵模様は、一番船が鳳凰、二番船が割菊、三番船が松竹梅、四番船が菊流し、五番船が橧扇と決まっており、一目で何番船か分るようになっている。
 船団の先頭を切るのは、勢子船と比べて速度の遅い網船。網船は三組六艘から成り、それぞれ横腹に一から六の番号が大書きされている。
 十六艘の勢子船が従うのは、四艘の持双(もっそう)船、五艘の橧船、道具船(だんぺい)等の補助船。網船をふくめると、三十余艘、総勢300人が漁に携わる。
 これに陸上勤務の者を加えると、一頭の鯨にかかわる人数は500人をこえる。それでも捕獲に成すると、優に利益が出る。これが鯨漁のうま味である。
 銀杏(いちょう)とは、鯨の尾羽のこと。鯨が潜水するとき、沖旦那が刃刺は、振り上げられた尾羽の微妙な動きから、鯨の進行方向を察して先回りする。
 もおじとは、海面に浮かんでくる水泡のことで、その下で鯨は息を沈めている。
 横一列に並んだ勢子船は、中央の船を基点に内側に折れて、半円形をつくり、その中に鯨を入れて網代にまで誘導する。一番船は、全体の指揮をとるべく、一艘だけ半円陣の前に出る。刃刺の補助役の刺水主が身を乗り出し、砧(きぬた)と呼ばれる木槌のようなもので、舷側に貼りつけられた張木(はりぎ)を叩く。その原始的な音響が、いやか上にも気持ちを高揚させる。それは鯨にとって極めて嫌な音らしく、先ほどまで悠然と泳いでいた鯨が、とたんに泳速を上げる。
 潮声とは、息を吹き出すときに鼻から漏れる音のこと。怒ったり、慌てたりしているときには、天地を鳴動させるほど大きくなる。
 漁の最中に水主たちが会話するのは厳禁。刃刺の声が聞こえなくなるから。
 鯨油は食用と灯火用だった。灯火用につかうと、木蠟よりも鯨蠟のほうが臭いがきつくないので好まれた。
 明治の世まで生きていた太地の鯨とりのスケール大きいお話です。感嘆、驚嘆しました。
(2015年9月刊。1700円+税)

ザ・カジノ・シティ

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者  デヴィッド・G・シュワルツ 、 出版  日経BP社
 日本にもカジノを導入しようという動きがあります。例によって自民・公明が推進勢力です。全国いたるところにパチンコ店があるギャンブル大国ニッポンにカジノを導入したら、日本もアメリカ並みの犯罪大国になってしまうのを恐れます。カジノなんてタバコと同じで、百害あって一利なしです。カジノも、アメリカをダメな国にした理由の一つだと私は考えています。
この本は、ラスベガスにカジノ・ホテルを導入したホテル王、ジェイ・サルノの一生を明らかにしています。ジェイ・サルノは病的なギャンブラー狂でした。
ジェイ・サルノは、想像力を極限まで高め、ホテルの顧客をいかに喜ばせるかをいつも考えている男だった。ホテル王としての夢を実現するための資金集めの苦労、それにつけ込むマフィアとの攻防、マフィアを阻止しようとする政府機関(税務当局)の戦いが紹介されている本です。
ジェイ・サルノは病的としか言いようのないギャンブル癖、1日15時間にも及ぶ絶え間のない食事、同じほど激しい女性への欲望も遠慮なく描かれている。
ジェイ・サルノの根底にあった哲学は、「自らを甘やかすのに後ろめたさを感じる必要はない。それは、むしろ祝福すべきものだ」
ジェイ・サルノの時代は長続きしなかった。カジノ産業はマフィアの黒い資金から訣別し、ウォールストリートから資金を導入するようになった。カジノが良いビジネスになることに気がついたのだ。
ジェイ・サルノはユダヤ人。ユダヤ人に対しては、さまざまな形の社会的制約があった。ホテル・ビジネスは映画産業と並んでユダヤ人が入り込みやすい業界だった。
頭のいいユダヤ人は、弁護士や銀行家、医師になり、古い壁を打ち破って法律事務所や証券会社で大金を稼いでいた。
虔敬なユダヤ教徒は、埋葬時にシンプルな白の埋葬布を身にまとう。これは、死によって生前の富や特権が完全に無に帰すことを表すものだ。また、埋葬は死の翌日に行われる。
ところが、宗教を毛嫌いしていた父親の意向を尊重して、ジェイ・サルノの死後、非宗教的な葬式を子どもたちは行った。「宗教的な人間は馬鹿だ」と考えていた人間を宗教的に見送るのは偽善的だと考えたからだ。
しかし、葬式とは、死んだ者のためというより、残されたもののためになされるものだ。あとになって、子どもたちは後悔した。
カジノは人間性を損なうものだということを明らかにした本でもあります。
(2015年11月刊。1900円+税)

古代の日本と東アジアの新研究

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者  上田 正昭 、 出版  藤原書店
 古代の天皇制と中世そして現代の天皇制とを同じものと捉えることは出来ないという指摘に目を見開かされる思いがしました。当代一の歴史学者の指摘には思わず驚嘆されるばかりです。さすが、さすがの内容です。
 そもそも天皇制という用語は、1931年(昭和6年)のコミンテルンの「31年テーゼ」草案で初めて登場したもの。これに絶対君主制という概念規定を与えたのは、翌年「32年テーゼ」だった。ええっ、そ、そうだったんですか・・・。
 近代日本に創出された天皇制が、古来の伝統にもとづくものであるといっても、天皇制が古代から連綿と受け継がれてきたというのは、歴史の実相とは大いに異なる。
 大宝元年(701年)の大宝令は、対外的には「明神御宇日本天皇」といい、対内的には「明神御大八洲天皇」と称した。古代天皇制は、神祗・太政官八省のトップに天皇が君臨していた。
 中世と近世の王道としてのありようと、律令性や明治憲法下の王道イコール覇道であった時代の天皇制とを混同するのは歴史的ではない。
 ヤマトにも二つある。九州の山門郡(築後)のヤマトは山の入り口や外側の意味。
 しかし、畿内のヤマトは、山の入り口とか山の外側という意味ではなく、山々に囲まれたところ、山の間、山のふもとの意味だ。
 日本という国号は、7世紀後半から使われているもの。天平9年(737年)までは、大倭国が正式なヤマト国名だった。
 大王を称していた倭国の王者が天皇と呼ばれるようになった早い例は、天智天皇7年(668年)の船王後の墓誌銘。その前の5世紀の中葉の倭国の王者は「大王」と称していた。
スメラミコトというとき、「統(す)べる」が語源ではなく、モンゴル語で、最高の山を意味する「スメル」という同源の言葉であり、至高を意味する。「最高のミコト」が天皇だった。なんとなんと、モンゴル語起源の言葉だったとは・・・。
女性が古代の王者だったのは、女王・卑弥呼とその宗族の台与の女王二代に確認できる。
 奈良時代は、7代の天皇のうち4代が女帝だった。奈良時代は女帝の世紀とも呼ばれる。
 平安朝の桓武朝廷において、百済王氏は有力な氏族だった。百済王氏が桓武朝廷と深いまじわりをもっていたことは、百済王氏出身の女人で、桓武朝廷の後宮に入ったものが少なくとも9人いることからも分かる。
 唐使が来日したのは、わずか9回のみ。これに対して、遣渤海使は15回だった。
 平安京には、渡来系の氏族が多数居住していた。
さすが学者の考えは深いものがあります。日本と朝鮮半島の国々、そして中国とは古代のむかしから切っても切り離せない密接な関係があったことがよく分りました。古代の文明は日本発祥ではなく、日本は中国・朝鮮から伝来してきたものを受け入れ、消化してきたのですよね。
(2015年10月刊。3600円+税)

日露戦争と大韓帝国

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  金 文子 、 出版  高文研
1904年に始まった日露戦争ですが、正確には、いつ、どこで戦争が始まったのか、はっきり知りたいところです。
1897年10月12日、朝鮮第26代国王・高宗は自ら皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。それから1910年8月の「併合条約」によって滅亡するまでの13年間を大韓帝国と呼ぶ。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月23日、日本軍による朝鮮の王宮・景福宮の占領から開始された。
日本は、朝鮮から鉄道敷設権を奪った。これは日露戦争で活用された。また、朝鮮の電話線も日本軍の統制・管理の下に置いた。
1895年10月、日本軍は王宮に侵攻して朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。なぜ、王妃を殺す必要があったのか?
日本に対して電話線の返還と日本軍の撤兵を要求する朝鮮の国権回復運動の中心に王妃がおり、ロシアに接近しようとしていると、日本政府・軍首脳が見ていたから。
王妃(閔妃)殺害事件は、大本営と日本政府の意を受けた特命全権大使(三浦梧楼)が企てた謀略・謀殺事件だった。その結果は、朝鮮国王をロシアの保護下に追い込むことになり、日本はロシアと朝鮮における権益を分けあわなければならなくなった。
日露戦争は、日本のロシアとの戦争であるのみならず、日本が大韓帝国の利権をひとつひとつ奪っていくための侵略戦争であった。
日露戦争は、日清戦争と同じように、日本軍によるソウル占領から開始された。そして、この日本の軍事行動の開始はすぐにはロシアに伝わらないように細工された。つまり、韓国や中国からロシアに通じる電話線は日本軍の諜報員によって切断された。
伊藤博文は、たとえロシアが日本の主張をすべて受けいれたとしても、今、つまりロシアの開戦準備が整わないうちにロシアと戦争しなければならないと率先して主張した。決して伊藤は対露協調論者でも、平和主義者でもない。むしろ、ロシアのほうは当時、日本と戦争までしようとは考えていなかった。
1904年1月、日本の最高首脳部(伊藤、山県、桂、山本、小村)は、ロシアの譲歩が通知される前に開戦しなければならないと合意した。
1904年2月8日、ロシアの小型砲艦「コレーツ」が日本の軍艦を砲撃したことから戦争が始まったというのは正しくない。「コレーツ」には、まったく戦意はなかった。日本軍が水雷を発射したので、「コレーツ」はやむなく応戦しただけ。ところが、日本軍は事実を書きかえてまで、「コレーツ」が先に砲撃したと発表し、これによって世界に誤報が広まった。
日本軍は、旅順と、仁川奇襲作戦を成功させるために、開戦前に日本の通信線を違法に敷設し、ロシアの通信線を違法に切断していた。
日露戦争における日本軍の最初の武力行使は、1904年2月6日未明より開始された第三艦隊による韓国の占領と馬山電信局の占拠であった。しかし、これは公言できることではなかったので、鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠は公刊戦史から消され、なかったことにされた。
「勝った、勝った」とされることの多い日露戦争ですが、実は、日本軍はあとがない状況だったのです。弾薬も人員もなかったのでした。
日露戦争の真実を明らかにした本として一読の価値があります。
(2014年10月刊。4800円+税)

日航機事故の謎は解けたか

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  北村行孝・鶴岡憲一 、 出版  花伝社
 30年も前の夏の悪夢のような出来事でした。520人が乗ったジャンボジェット機が墜落して、助かったのは女性ばかり4人のみ。
 月に1回以上、飛行機に乗っている私にとって、とても他人事とは思えない惨事でした。
 アメリカ軍のミサイルに追撃されたという説に私も心が惹かれた時期があります。それほど、謎に満ちた事故でした。そして、今でも救出が遅れたことには大いなる疑問があります。
 本書は、ボーイング社の修理ミスによって発生した大事故だったことを論証しています。
 それにしても、アメリカ言いなりに動く日本政府に腹立たしさを覚えてなりません。
 このジャンボジェット機が迷走している様子を奥多摩でカメラで撮った人がいた。その写真をもとに画像を解析すると、垂直尾翼面積の58%を失った状態で飛んでいたことが判明した。
 修理ミス部分の隔壁破断面に披露亀裂が発生した。かろうじて持ちこたえていたリベット接合部が、事故発生の8月12日午後6時24分すぎ、客室与圧と外気圧の差が0.59気圧にまで高まった段階で耐え切れずに一気につながって、長大な亀裂となった。
 尻もち事故後の修理において、直径4.5メートルのドーム状をしたアルミ合金製の圧力隔壁の下半分に損傷が目立ったため、上半分は既存のものを使い、下半分を新しいものに取り換えた。このとき、本来なら一枚板でつながらなければならない修理箇所を2枚にしてしまった。
 圧力隔壁の修理において、気密性が強く求められることから、強度よりも気密性を優先させて、1枚の板をわざわざ2枚に切りわけて1枚を隙間埋めに使った。
3年間の調査のなかで、275機の機体から1054件の亀裂が発見された。このうち事故機と同じB747の亀裂が714件と68%も占めた。与圧による疲労亀裂に弱い機種であることが明らかになった。
 そして、航空機整備が「金のかからない整備」になっていった。
 B747は、機首部を2階建てにしたため洋ナシ状の断面となり、不均等な複雑な力を受けがちである。
 私も2階部分の座席にすわったことがありますが、あまり乗り心地のいいものではありませんでした。やはり、洋ナシ型よりも真円形のほうが強度があるのですね・・・。
 それにしても、「格安」で飛んでいる飛行機の安全性はどうなっているんでしょうか。安かろう、悪かろうでは困りますよね。乗り物は、快適性の前に安全性です。心配性の私はいつも祈る思いで飛行機を利用しています。
 なんでも安ければいいという社会風潮は、ぜひ改めてほしいと痛切に思います。
(2015年8月刊。2500円+税)

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