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南部百姓・命助の生涯

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  深谷 克己、 出版  岩波書店
 『殿、利息でござる』は、いい映画でした。江戸時代も末ころの百姓・町民が自分のことのみ考えるのではなく、マチやムラ共同体全体のことを優先して考え、必要なら自分を犠牲にするのもいとわないという生き方をしていた実践例です。
この本の主人公も、同じく江戸時代の末ころに生きていました。
奥州・南部藩の城下町、盛岡の牢内で、1人の百姓が安政6年(1859年)に3冊、文久元年(1861年)に1冊、合計4冊の「帳面」を書き上げた。この4冊は、今も子孫筋の手元に保存されている。
 この帳面を残した百姓の名は命助(めいすけ)。文政3年(1820年)に生まれた。肝煎(きもいり)格の家とはいえ、生活はそれほど楽ではなく、天保の飢饉のときは17歳で秋田藩院内の鉱山に出稼ぎに行った。
命助は身長174センチ、体重112キロという巨漢だった。
ペリー来航という「外患」をかかえた嘉永6年(1853年)、南部三閉伊(さんへい)地方に一揆が起きた。命助34歳のときである。この一揆は仙台藩領への越領(えつりょう)強訴(ごうそ)という方法をとり、8千余の百姓が南部藩領を出た。そして、やがて45人の総代だけを残して帰国した。命助はこの一揆の頭人(とうにん。リーダー)の一人として活躍した。
 一揆のあと命助は村役人となるが、代官所の追及があって、家族を残して村を出て、仙台藩領内で、修験者(しゅげんしゃ)として暮らした。そのあと、京都へ上がり、公卿二条家の臣となった。そして、朝廷の権威を借りて南部藩に戻ったところ、南部藩に命助だと見破られ、牢に入れられた。
 獄中生活は6年8ヵ月に及び、命助は45歳のとき牢死した。それまでの牢生活のときに書いた帳面が4冊残っている。
 百姓の子が習学するのは、江戸時代も後期になればそれほど異例ではなく、命助も10歳をこえたら四書五経を素読で学んだ。
 一揆というと、勝手放題の打ちこわしというイメージがありますが、実際には、きちんと統制のとれた行動をしていたようです。そして、45人もの総代がいて、犠牲者を出さない工夫をいくつもしていたのです。
 すごいですね。現代日本人のほうが、負けているんじゃないかという気がします。やっぱり自分の納得できない社会状況に置かれたら、声を上げるべきなんです。安倍首相の言うとおりにしておいたら、いつか良いこともあるだろう、とか、政治家なんて誰も彼も同じようなものだから、投票所へ足を運んでもムダなんて思い込んでいると、もっとひどいしっぺ返しがあるのです。やはり、目を見開いて、いやなことはノーと言い、平和なニッポンに生きたいという自分の要求を声をあげるべきです。
 1983年に発行された本が30年ぶりに復刊されました。江戸時代の一揆の実際を知る有力な手がかりになるものです。
(2016年5月刊。420円+税)

米軍が見た東京1945秋

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  佐藤 洋一 、 出版  洋泉社
 敗戦前後の東京を写したアメリカ軍の写真が公開されています。
 東京が焼野ヶ原です。これじゃあ100年は復興できないだろうな、日本人は全滅したんだな、そう思える写真のオンパレードです。
 私のすんでる町も、戦後に残ったのは三つのコンクリート造りの建物だけでした。市役所と化学工場のビルとデパートです。私の父は、化学工場のビルに身を寄せていました。
 ところが、100年どころか、戦後まもなくから東京にワラワラとひとが集まってきて、たちまち建物をたてはじめ、住みついていき、あっという間に復興していくのです。
 この写真は、日本敗戦の前後をよく撮っています。戦前の写真はアメリカ軍による空襲の効果測定のために撮られています。
アメリカ軍による東京への空襲は105回。これによって10万人が亡くなり、286万人が罹災した。
東京への空襲には、延焼効果を狙った焼夷弾(しょういだん)が使われ、犠牲者の大半は火災による焼死だった。空襲にあたって、アメリカ軍は衝撃中心点を定めて計画的にことをすすめた。
コンクリートビルが焼け残っても、内部は焼失した。だから、「焼けビル」と呼んだ。
9月18日の東京駅プラットホームで撮られた写真があります。日本人は男は復員軍人、そして女性はモンペ姿なのですが、アメリカ兵が何人もいます。天井がありません。青天井なのです。雨が降ったら大変だったでしょうね。それでも、10月6日の有楽町駅のプラットホームには天井があります。燃えなかったのでしょうか・・・。
どこもかしこも見渡す限り焼野ヶ原なのですが、それなのに9月から10月に入ると、人出があるのです。まさしく地中から地上に人々がはい出てきたという様相です。
戦争に負けるとは、こういうことなのか、改めて、それを実感させてくれる貴重な写真集です。
(2015年12月刊。2400円+税)

ながい坂(上)(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  山本 周五郎 、 出版  新潮文庫
 久しぶりに周五郎を読みました。40年以上も前、司法修習生のとき、周五郎にぞっこんの同期生からすすめられて読むようになりました。細やかな江戸情緒と人情話の展開にしびれました。次から次に周五郎の書いたものを読んでいきましたので、大半は読んだかと思っていましたが、新潮文庫の目録をみると、なんと大半は読んでいないようです。
周五郎は、私が大学に入った年の2月に63歳で亡くなっています。ということは、50代のころにたくさん書いたのですね。この「ながい坂」は著者が60歳のときに「週刊新潮」に連載を始めたものです。1年半におよぶ連載です。
たしかに本格的長編です。でも、ちっとも飽きがきません。次はどういう展開になるのか、頁をめくるのがもどかしい心境です。この本を読んでいるときは至福の境地でした。いやはや、細やかな人情の機微をよく把えつつ、大胆なストーリー展開にぐいぐい惹かれていきました。文章が、ついかみしめたくなるほど味わい深いのです。
解説(奥野建男)を紹介します。なるほど、このように要約できるのですね・・・。
「圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力して上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させていく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。
それは、ほとんど立身出世物語に似ている。いや作者は、生まれや家柄を不当に区別され、辱しめを受けた人間が、学問や武道や才能により、つまり実力と努力により、立身出世を志し、権力を握り、そして自分をあざわらった人間たちを見返すのは、人間として当然の権利であり、正しい生き方だと言っている。
それは学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきたけれど、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという、自分の苦しくにがい体験をふまえた人生観である。作者は、生まれながらの身分に安んじ、小成で満足して、出世する仲間の足をひっぱる、志もなく自らは努力もしない向上心のない卑しい人間を、もっとも嫌悪する」
作者はこの「ながい坂」を自分の自叙伝のつもりで書いたというのですが、この解説を読んで作者の心が少し分かりました。疲れた頭をしばし、スッキリさせてくれる清涼剤として一読をおすすめします。
(2016年2月刊。790円×2+税)

パークアヴェニューの妻たち

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者  ウェンズデー・マーティン 、 出版  講談社
 ニューヨークはマンハッタン島に住むセレブ族の女性の生態が著者の体験を通じて明らかにされています。いやはや、大変なところです。
 マンハッタンのアッパー・イーストサイド、70丁目台のパークアヴェニューに住み、子どもたちのためにママ教室に通い、子守と言い争い、他のママとお茶をして、富裕層向けの音楽レッスンに願書を出し、保育園の審査を受けた。
 マンハッタン島のなかには、母親という別のシマがある。アッパー・イーストサイドの母親たちは、一般人とは違う特殊な種族だった。彼女たちの社会は、ある種の秘密社会で、独自のルールや儀式、制服や移動パターンが行きわたっている。
 アッパー・イーストサイドの子どもの日常は、誰の目から見ても尋常ではない。専属運転手、子守、ハンプトンズまでの自家用ヘリ。2歳児のための「まっとうな」音楽教室。幼稚園の入園試験と面接に合格するための3歳からの家庭教師。4歳になったら遊びの約束のコンサルタント。そして、子どもの送迎にふさわしい服を母親たちにアドバイスしてくれるワードロープ・コンサルタントもいる。
ここのママたちの日常は、まさしく奇怪と言える。彼女らは愛情あふれる母親であると同時に、勝ち組になる、ひいては勝ち組の子どもの母になることを固く決意した、企業家なみの野心をもった君主でもある。
あちこちのアパートメントのロビーで、おしゃれバトルが繰り広げられる。女性たちが、来る日も来る日も、服装を競いあうのだ。ブルネロクチネリやロロ・ピアーナを着てめかしこんだ女性が、西部劇の決闘場面さながらに明け方に一堂に会する。
そして、服とともにバッグがことさら重要なのだ。バッグは、甲冑(かっちゅう)であり、武器であり、旗であり、さらにはそれ以上のものらしい。攻撃する女性は、みな高級バッグを持っていて、標的にそれをこすりつけるのを喜んでいるようだ。
バーキンのバッグ。1年に2500個しかつくられない。8千ドル(80万円)とか、15万ドル(1500万円)のバッグ・・・。マンハッタンの誰もがバーキンを欲しがる。なぜか・・・。バーキンは、とりわけ高いステイタスシンボルであり、女性にとっては究極のシンボルといってよい。憧れの的であると同時に、希少なバーキンは女性同士の敵対心を、マンハッタンの女性たちのあいだであまりにも頻繁にみられる接触や視線のなかに潜在する女性の執着心を引き出す。
マンハッタンの女性のヒエラルキーで上の位置する女性が美容にかける1年分の費用は、最低でも9万5千ドル(950万円)かかる。靴は600ドル(6万円)とか1200ドル(12万円)。
たとえば、ハイヒールを一晩中はくためには、足に注射しておく。足の一部の神経を麻痺させておくのだ。
体裁を取つくろって、体面を保つ。それが、この地域の掟であり、生き方なのだ。
 セレブ女性たちの生態は恐ろしすぎて、とても近寄れません・・・。
(2016年4月刊。1600円+税)

わが少年記

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  中野 孝次 、 出版  彌生書房
 日本敗戦時に20歳。戦前に生まれ、小学校高等科を卒業したものの中学校には進学できず、父親の下で大工見習いをした。しかし、独学で勉強して、高校(熊本の五高)に入り、勉強の途中で召集令状によって兵隊にとられたという体験が小説化されています。
 ここでは、わずか4ヶ月間ではあったけれど、苛酷な軍隊生活について紹介します。
 軍隊という特殊な閉鎖社会にいた120日の体験は、ただ陰惨な奴隷の日々以外の何物でもなかった。みずからの意思も判断力もない一個の単位として、古兵たちの命じるままに動き、古兵の脚にとびついてゲートルをとらせてもらい、ひたすらその気まぐれを怖れる存在でしかなかった。そこには、一切の「私」の時間がないばかりか、「私」というものは許されなかった。
軍隊教育とは何か・・・。それは、人間の個性、個体差、感情、自主判断、思考力など、あらゆる「私」の部分を削りとって、人間を命令どおり均一に行動する戦闘動物に仕立てる教育である。そこでは、個人の尊厳などは一切認められず、いわば、人間を戦う奴隷に仕立て直す教育である。
 日本陸軍には、「しごかなければいい兵隊にならない」という奇妙な教育観が伝統的にあって、陰湿なイビリが黙認されていた。殴れば殴るほど、兵隊はよくなるという、暗黙の了解が軍隊にはあった。
 軍隊とは、兵隊の中の「私」を徹底的に摩滅せしめ、規格的な戦闘員に仕立てる組織であった。そのことを可能とする根拠として、絶対的な階級制度と命令系統とがあり、それを貫く精神的原理として「天皇の股肱」たる軍隊という考え方があった。
 敗戦後、きのうまで天皇の軍隊と称し、すべて天皇からの賜りものといっていた将兵たちが、敗戦と聞いたとたんに、軍の物資を略奪しはじめた。個にかえった兵とは、こんなにも醜いものだったのか・・・。
戦前に多感な思春期を過ごした著者の無念さ、やるせなさが惻々と伝わってくる本でした。本棚の奥にあった古い本を探し出して読んでみたのです。
(1997年3月刊。1553円+税)

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