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信長は謀略で殺されたのか

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著者:鈴木眞哉・藤本正行、出版社:洋泉新書
 「信長の棺」(加藤廣、日経新聞社)は私も読みましたが、はっきり言って私は面白いとは思いませんでした。ですから、書評にも取りあげませんでした。小説として読みやすくはないうえに、史実とはかけ離れているとしか思えなかったのです。ところが、小泉首相が愛読しているとマスコミが取り上げたおかげもあって、みるみるうちにベストセラーになってしまいました。でも、マスコミの持ち上げ方も私には納得できません。本当に、みんな読んでから言っているのかなと、私は今でも疑問に思っています。
 小泉首相は日本を精神的なレベルでズタズタに解体してしまった悪の権化だと私が毛嫌いしていることもあるのかもしれませんが・・・。
 「信長の棺」は織田信長の家臣で伝記「信長公記」の作者である太田牛一を主人公としています。本書も、「信長公記」は信頼できるという前提で貫かれてしますので、両者のベースは共通しています。しかし、結論は正反対です。
 本能寺の変の起きたのは1582年(天正10年)7月1日(旧暦では6月2日)未明のこと。信長は明智光秀の謀反と知ると、「是非に及ばず」と言った。これは「仕方がない」と解釈されてきたが、間違いだ。「何が起きたか分かったうえは、是非を論ずるまでもない。もはや行動あるのみ」というのが正解。なるほど、と思いました。信長は小姓たちと一緒になって最後まで戦ったのです。もっとも、そばにいた女性は逃がしたようで、そこから、信長の最期の様子が伝わっているのです。
 7月1日の京都の蒸し暑い夜だったので、小姓たちは素肌同然で、弓や槍もなく、刀で戦った。甲冑を着用し、鉄砲や弓・槍で厳重に武装した1万3000の明智軍にかなうわけがなく、短時間で決着をみた。本能寺の戦いは明け方に始まって短時間で終わり、長男信忠が逃げこんだ二条御所の戦いは午前8時ころから1時間ほどで終わった。
 著者は、光秀がいつの時点で謀反の決意を重臣に示したのかを重視して検討しています。結論としては、出動間近の亀山城内において、数人の重臣に告げたとしています。
 光秀の三日天下という言葉があるが、実際には、11日天下だった。
 明智光秀の人物像については、古典的な教養に富んだ謹直な常識人であって、勤王家でもあったというイメージが普及している。とことが、宣教師ルイス・フロイスの秀吉像は異なっている。
 光秀は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあった。己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城することに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
 ここには、一筋縄ではいかない、有能で、したたかな戦国人らしい、戦国人としての光秀像が読みとれる。光秀は合理主義者であったから、信長とウマがあったので、重用されたのだという見方がある。
 著者は、光秀が、信長打倒という点で一致しうる立場の重臣たちを動かし、自主的にことを運んだからこそクーデターは成功した。そこには黒幕の介在する余地などない、と断言しています。私も、なるほど、と思いました。
 いろいろの謀略説があるが、クーデターが成功したあと、光秀の役に立つことをした者は誰ひとりいない。これが謀略説の決定的な弱点であるとする著者の指摘には説得力があります。
 このほか、実行時期の見通し、機密漏洩の防止策の説明がないこと、裏付け資料がまったくないことも謀略説に共通する致命的な弱点だという点もうなずけます。
 著者には「偽書『武功夜話』の研究」「鉄砲隊と騎馬軍団」などの本がありますが、いずれも私の目を大いに開かせるものでした。その鋭い指摘には感嘆するばかりですが、これこそ読書の醍醐味です。

チンギス・カン

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著者:白石典之、出版社:中公新書
 モンゴル帝国が誕生して800年になるそうです。1206年、モンゴル高原の諸部族がチンギス・カンのもとに統一されました。
 カンとは、草原地帯に暮らしていたトルコ系、モンゴル遊牧民族が用いていた称号で、国の王や部族の長という意味。ハーンは、唯一無二の君主のことで、カンよりもランクの高い、遊牧民族を統合する最高位の者の称号。
 チンギス・カンの本名はテムジン。テムジンは、生きているあいだはカンと呼ばれており、ハーンと呼ばれるようになったのは、死んでかなりたってからのこと。ハーン(カアン)と呼ばれたのは第二のオゴタイ(ウゲデイ)と第四代のモンケ以降の君主である。そこで、この本では、チンギス・ハーンではなく、チンギス・カンとしています。
 テムジンとは、当時のモンゴル語で鍛冶屋を意味する。目に火あり、面に光ありと形容される、利発な少年だった。チンギス・カンは、その名のとおり鉄なくしては語れない。鉄と交通と後方支援。この3つの確保と連携。それがチンギス・カンの勝利の方程式だった。
 モンゴル時代は末子相続制というけれど、末子以外はそれぞれ独立に際して親からもらっている。したがって、末子が親の全財産を自動的に引き継ぐというものではなかった。チンギス・カンについても同じ。
 モンゴル軍の基本的な作戦方式は無血開城。目的はオアシス諸都市を接収し、その経済的繁栄を、そのまま手に入れることにあった。インフラも人的資源も、できれば無傷のまま残しておきたかった。そのため、降伏した都市では住民の安全を保障し、従来の体制を維持した。宗教に対しては寛容な態度をとった。しかし、抗戦する都市に対しては容赦ない攻撃をおこない、殲滅して周囲への見せしめとした。無駄な抵抗だと悟らせるためだ。
 チンギス・カンには数多くの后妃がいた。「元史」には39人の名前が紹介されている。彼女たちの多くは戦利品として手に入れたもの。当時、敵の大将の妻を奪うというのが、一種の勝利宣言だった。
 遊牧民は牧草地を荒らす行為として、土地を掘ることを忌み嫌う。現在の人は、世界征服者のチンギス・カンの墓ならば「明の十三陵」のような巨大な地下宮殿があるはずだと考えがち。しかし、文献資料をみるかぎりでは、柩と副葬品がおさまる程度墓穴に過ぎなかったようだ。チンギス・カンの墓は、その死が秘せられたように、墓所造営の当時から位置が分からないような手段がとられた。墓暴きにあい、永遠の眠りを妨げられるのを防ぐためだ。
 著者はチンギス・カンの墓所は、アウラガ遺跡から12キロ圏内にあると推定しています。それでも、東京23区内にあるというほどの広さではあるのですが・・・。新聞にのりましたから、私もついに発見されたのかと思ってしまいました。
 ただ、著者はチンギス・カンの墓所の探査を当面しないとしています。それは経済的な理由のほかに、モンゴル国民の感情に配慮してのことです。たしかにそうですよね。日本の天皇陵をアメリカ人がずけずけと発掘しはじめたら、あまりいい気はしませんからね。
 私も「明の十三陵」を見学したことがあります。まさしく地下宮殿でした。すごく奥深いのです。この本を読むまでモンゴル草原の地下のどこかに、チンギス・カンの墓所として壮大な宮殿があると想像していましたが、どうやら違ったようです。秦の始皇帝の墓所は今も発掘が続いています。あの有名な兵馬俑もまだ全貌が判明しているわけではありません。中国大陸のスケールの大きさには、いつも感嘆させられます。

電通の正体

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著者:週刊金曜日、出版社:別冊ブックレット
 電通はクライアントを3つに分けている。まずは広告売上げが年に100億円をこえる企業。トヨタ自動車(年に1000億円)、松下電器産業、花王、NTT。これらの企業のためには電通はエース級の社員でチームをつくり、全社をあげて取りくむ。
 次のランクは、大塚製薬、明治乳業、三共製薬、KDDIなどの中堅どころの企業。このランクがもっとも層が厚い。落としても代わりの社を取れば問題なしという扱い。
 最後のランクは、いつ関係が途切れるかわからない会社。電通は粗利を支えるため、ためらうことなく引き受ける。
 テレビ局にとっては電通が最優先。スポンサーが降りたりして空きが出ると、テレビ局は、まずは電通用にスポット枠をとっておく。
 田原総一朗の妻が死んだとき、そのお通夜の葬儀委員長は電通の成田豊会長だった。
 小泉首相にワン・フレーズ・ポリティックスをアドバイスしたのは電通だ。15秒以内のスローガンの羅列で、ワン・メッセージで端的に言う大切さを、電通から小泉首相は学んで実行している。
 電通の平均給与は年1300万円。一般社員でも30歳半ばで1000万円をこえてしまう。専務・常務クラスになると、何も仕事せずに、秘書と車がついて年収は4〜5000万円に達する。全国の電通ビルは、ほとんど全部が自社ビル。
 マスコミ、とくに広告業界のすさまじさを痛感させられました。私も、日弁連の役員をしていたときに、弁護士会の広報強化のために電通の知恵を借りるプロジェクト・チームに参加したことがありますが、その費用がびっくりするほど高額だったのに驚きました。電通から5人も6人も来るのです。こっちは1人か2人で十分だと思っていたのですが・・・。
 金権政治をすすめているもののひとつが、電通のようなコンサルタント会社にあることがよく分かる本でもあります。

永い影

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著者:倉橋綾子、出版社:本の泉社
 団塊の世代の著者が自分の生い立ち、そして大学生のときの学生運動の活動さらには憲兵だった父親が中国で何をしたのかを追跡した記録を小説にしたものです。その心うつ描写に、私は一心不乱に読みふけってしまいました。
 家庭内は両親が不和のため冷えびえとしています。母親は父親を敬遠し、家出したりします。父親は元憲兵だったからか、いつも正しくあれと説教ばかり。だから、著者は優等生をめざしてきた。しかし、兄は反撥して父親に背いてしまう。父と息子は理解しがたい仲にあるものです。
 大学に入って、全共闘の反対派に加わり、活動をはじめる。学生たちがゲバ棒をふるい、内ゲバのためケガ人が続出する。やがて大学を卒業し、教員となる。同じクラスで親しかった友人も、支持するセクトの違いから疎遠になっていった。
 卒業して何十年もたって再会しても、その溝は埋まらない。暴力を受けた被害者は加害者を許せない。しかし、加害者も、心にわだかまりをもったまま今日に至っている。両者が再会したとき、加害者が心から謝罪し、ようやくわだかまりのひとつは消えていった。
 あのころ学生運動にかかわった者たちは、当時のことをどう振り返っているのだろうか。どう総括すればいいのか分からないと彼らは言った。しかし、自分自身も、まともに振り返ったことはなかった。メンバーの一員として夢中で過ごしたあの4年間は、自分にとってどういう意味があったのだろうか・・・。思いをめぐらした。
 子どもたちの教育も大変だった。何事によらず、ぐずな末娘が、案外、友人が多くて、その笑顔が客に喜ばれているという。人にはそれぞれがかかえた弱点があり、それを克服するのは容易なことではない。娘の弱点を問題にするばかりで、その悩みを受けとめ、心からのエールを送ることができなかった・・・。そうなんですよね、わが子となると、つい目が曇ってしまうものなんです。
 憲兵だった父親が中国大陸で残虐非道な行為を女性や子どもたちにしていたことが判明します。現地にわざわざ出向いて調べあげたのです。著者は、現地で謝罪します。もちろん、そう簡単に許してはもらえません、さんざん罵倒されてしまいます。何で、今さらそんなことをするのか、そんな声が日本に帰ると聞こえてきます。自虐史観ではないか。親のことを子どもが責任をとることはない。前を向いて生きていけばいいのだ。そんな考えの人から批判されます。しかし、子どもである以上、それを知り、それなりの責任をとるしかない。それは自然の流れだと著者は考えるのです。
 亡き父親との対話をロールプレイとして再現する場面が出てきます。そこまでしないと、親を乗りこえることはできないものなのか、改めて負の歴史の重たさを思い知らされました。
 どこまでが事実にもとづく小説なのかよく分かりませんが、私と同世代の著者が必死になって自分と向きあおうとしている姿勢に、私は深い感銘を受けました。

フランス暴動

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著者:陣野俊史、出版社:河出書房新社
 フランスでは、日本と違って、ストライキが生きた言葉として通用しています。デモも同じで、大衆デモが時の政府を大きくつき動かします。日本のマスコミが街頭デモをまったく無視し、危険視しているため、政治に対する影響力が大きく減殺されているのとは大違いです。
 1968年5月。私も大学2年生としてベトナム反戦デモに参加していましたが、フランスでは600万人がストライキに参加し、ドゴール政権の弱体化をすすめました。
 1986年12月には、シラク首相(今のシラク大統領)の教育改革に大学・高校生が反発し、100万人の参加するデモがありました。ドヴァケ高等教育相が辞任しました。
 1995年には、ジュペ首相による公務員の社会保障改革に対して200万人がデモに参加し、ジュペ内閣は1997年の総選挙で大敗して退陣しました。
 2003年5月には、公的部門の労働者が年金制度改革に反発し、200万人が参加するデモが起きました。
 そして、この2006年3月に始まったCPE(初期雇用契約)法への反発です。既に法律は成立したものの、事実上凍結され、ついに撤廃されました。はじめは高校生・大学生から始まったデモでしたが、フランス全土での労組ストライキに発展していきました。すごいエネルギーです。日本も大いに見習うべきだと思います。
 ところで、この本はCPEではなく、移民の若者たちが起こした2005年10月に始まる暴動の内情を探ったものです。
 北アフリカ出身の移民労働者が多数を占めるクリシー・ス・ボワ市では、失業率が20%に近い。暴動は3週間ほどで沈静化した。
 1968年に反抗した若者たちはブルジョワ家庭で育った学生たちだったのに対して、2005年秋に反抗したのは主に移民の2世および3世たち。社会の片隅に追いやられ、失業状態に苦しむ人や、学歴のない人たちがほとんど。
 1968年に反抗した若者たちのリーダーは、フランスやドイツでは、政財界の中枢にいるようです。そこも日本と違うところです。かつての全共闘の闘士だった人が何人か国会議員になったりはしていますが、日本では団塊世代で政治家になった人は、その世代比率の高さに反比例して圧倒的に少ないというのが現実です。いったい、なぜなのでしょうか?
 ラップが暴動をあおったとしてフランス政府からにらまれたそうです。いったいどんな歌詞だったのか気になりますので、少しだけ紹介します。
 オレたちの社会は多民族社会、一緒に行動しよう、そして共同体をつくろう、なぜって、ずっと以前から、そう、あまりに前から世界が世界である以上、色は境界線だったから、バリア、それは明らかだった
 オレは宣言する。全世界へ向けて、権威主義の裏側にある戦争を、オレは一掃する。闘う。一人また一人と打ち倒す。
 FN、スキンズ、アパルトヘイト、ゲットー。お前の色がどうであれ、お前の性格がどうであれ、どんな人種も優れちゃいない、ということを。なぜなら、成功者になるためには色なんて関係ないからさ・・・ NTM「白と黒」より
 なんだか、すごく政治的な歌詞ですよね。感心しました。

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