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カテゴリー: 日本史(江戸)

出星前夜

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:飯嶋 和一、 発行:小学館
 島原の乱をテーマとする本は私もかなり読んだつもりですが、この本は出色の出来ばえです。 みなさんじっくり腰を落ち着けて読むことをおすすめします。540頁の大部な本ですし、中身がぎっしり詰まっていますので、速読を旨とする私もさすがに読了するのに3日かかっていまいました。次の展開がどうなるのか知りたくて、法廷のちょっとした待ち時間にもカバンから取り出して読んでいたほどです。
 島原の乱は宗教戦争という側面はたしかにあるけれど、その本質は苛政に対して民衆が決起した一揆であるという視点から、当時の農民の置かれた状況が生々しく語られています。
 ただ、最近の研究では、いわゆる百姓一揆は飢餓という極限状態にまで追いやられた農民たちが、死を賭して決起したというのは必ずしも正しくなく、自分たちの既得権益を守り、人間としての尊厳をかけて起ち上がったという側面も大きいと指摘されています。食うや食わずに陥った人には、もはや戦いに立ち上がる元気もないし、ましてや組織だって動くことは無理だ。一揆はかなり組織的で統制がよく取れていたというのです。
 百姓一揆の決起を促す文章には、飢餓状態について、かなりの誇張があるという指摘もあるのです。日本人の知的レベルの高さを忘れてはいけないという点は、私も大事な点だと思います。島原半島では、いったいどうだったのでしょうか。この本には、島原の乱の首謀者の中に、秀吉の朝鮮出兵で中国(明)軍と死闘を繰り広げた経験を持つ元武士もいたこと、熊本(肥後)の旧加藤家の武士などキリシタンでない者も多数含まれていたことが紹介されています。
 幕府側の討伐軍として出征した柳川・立花藩や久留米・有馬藩の兵士たちの不甲斐ない戦闘ぶりが描写されていますが、これって本当なのでしょうか。
 甘木には、島原の乱へ参戦するときの行列を描いた詳細な絵があると聞いていますが、私はまだ見ていません。ぜひ見たいものです。
 この著者の『神無き月十番目の夜』という本を読んだとき、私はしびれる思いでした。ええっ、ここまで臨場感あふれ、迫真の時代小説が書けるのか、と感嘆し、当時、周囲の誰彼となくすすめたものでした。同じ著者ですから、その思いが再びよみがえってきました。じっくり読むに値する本です。
 秋の夜長に満月が出ているのを見ると、つい南フランスの夏を思い出します。外のテラスで月を眺めながら、食事をゆっくり楽しみました。前にも書きましたが、なぜか蚊もおらず、虫も飛んでこないので、静かに食事ができるのです、目下、写真集を作っているところです。ブログでお見せできないのが残念です。カメラはアナログ(フィルム)とデジタルと両方持って出かけることにしています。
(2008年8月刊。2000円+税)

江戸の武家名鑑

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:藤實 久美子、 発行:吉川弘文館
 江戸時代の人々がどんな生活をしていたのか、何に関心を持っていたのか、また、人々が裁判好きだったことがよく分かる本でした。実は、著者には失礼ながら、期待もせずに読んでいたのです。ところが、意外や意外、面白くて興味深くて、ついつい頁をどんどんめくっていたのでした。
 武鑑(ぶかん)はプロ野球選手名鑑のようなものだそうです。といっても、プロ野球にまったく関心のない私には、プロ野球名鑑といわれてもピンときませんし、手に取ったことも(手に取るつもりも)ありません。
 この武鑑は、江戸時代に生きていた大名家や旗本家の当主・その家族(隠居した父親・妻・嫡子)、その家臣、幕府の役人をほぼ一覧できる。しかも、文字ばかりではなく、陣幕や着物や駕籠(かご)などに付けられていた紋所や、江戸市中を行きかうときの行列道具などが分かりやすく絵入りで描かれている。
武鑑は、眺めていて楽しい。江戸の雰囲気、香りがする。
 武鑑は17世紀中ごろに出版されはじめ、大政奉還(1867年)まで200年以上出版され続けた。武鑑は実用書であり、ロングセラーブックであった。武鑑は社会の需要にこたえて、年を追うごとに厚くなり、その改訂の頻度は年に数回から月に数回にまで増えた。
 武鑑は、19世紀には総丁数は500丁、600丁となり、厚さも10センチを超えた。だから、簡略化した略武鑑も出版された。こちらは懐や袂に入れて携行できるような1.5センチ以下の厚さだった。
 武鑑出版の老舗は須原屋(すはらや)茂兵衛と出雲寺(いずもでら)万次郎だった。いずれも民間の本屋が情報を収集して編集し、武鑑を出版した。須原屋と出雲寺は、武鑑の出版をめぐって、100年以上の攻防戦を展開した。
 江戸時代に本を出版するには、仲間株のみでは不十分で、さらに板株(はんかぶ)を取得する必要があった。板株とは、書籍を出版する権利のこと。単独で所有する丸株と、数人でもちあう相合株とがあり、いずれも板木を所有することを基本条件とした。
 須原屋と出雲寺のあいだの民事裁判(出版差止を求める訴え)は、何回となくたたかわされた。
 江戸時代の人々が文章をよく書き、裁判も辞さず、うえからの押し付け和解を拒むこともあったこと、裁判は証拠(書証)のない方が不利になったことなども分かります。
 日本人は昔から裁判が嫌いだった、というのは、まったく根拠のない嘘なのです。
 私も一度は武鑑の現物を手にとって見てみたいと思います。といっても、崩し字や草書体では、さっぱり意味が分かりません。ここが素人のつらいところです。 
(2008年6月刊。1700円+税)

一朝の夢

カテゴリー:日本史(江戸)

梶 よう子  文藝春秋
 時は風雲急を告げる幕末。しかし、下級武士の中には珍しい朝顔を咲かせるのだけが生き甲斐のような不埒な者もいる。そんな男が、いつのまにか幕末の大政変、桜田門外の変に巻き込まれていく。
 いやあ、見事なものです。こんな小説を私も一度は書いてみたいと思うのですが・・・。江戸時代末期、あの朝顔は多くの人の心をとらえて放しませんでした。今よりもっともっと多くの変種朝顔が世に現れ、人々がそれを愛でていたというのは歴史的な事実です。
 私も朝顔は大好きです。でも、意外に朝顔を育てるのは難しいのです。知っていましたか?
 私の庭には、今も朝顔が咲いています。去年の朝顔です。実は、何年も前からのものなんです。なぜか、色がいつも同じで、青紫なのです。これはわが家のフェンスにからまっている宿根性で、外来種の朝鮮朝顔と同じです。鮮やかな紅色の大輪の朝顔が私の好みなのですが、去年咲いていても今年は咲いてくれません。それじゃあ、と思ってタネを植えても、大きくならないし、ましてや花を咲かせてくれません。チューリップだと、植えたら何もせず放っておいても9分9厘ちゃんと花を咲かせてくれます。朝顔は、よほど気むずかしい花なのでしょう。
 主人公の興三郎は北町奉所勤めの「八丁堀の旦那」である。ただし、吟味方や定町(じょうまち)廻りや隠密廻りなどといった、奉行所でも花形のお役目ではなく、両組御姓名掛りという奉行所員の名簿作成役であった。所内でも閑職の筆頭としてあげられる役だ。
 江戸には南と北の奉行所がある。今月が南町で月番だとすると、北町は非番だ。非番だと言っても休みになるわけではない。月番の時に持ち込まれた山と積まれた訴状や吟味の未決分を処理している。月番奉行所は門を八文字に開き、訴訟や事件などの類を受けつける。非番の奉行所は門を閉ざし、潜り戸はあけているが、訴訟などは受けつけない。
  朝顔の種は、牽牛子といい、下剤や利尿などに用いられる。朝顔の種子は半月型である。弧の部分を背と言い、直線の部分を腹という。片側の端にある小さな窪みはへそと呼ばれている。
 へそを傷つけないように、背と腹の境界に傷を付ける。これを芽切りという。土に指の先端を刺し、つくった穴にへそを上にして種子を入れる。
 江戸時代、朝顔は何度ももてはやされた。朝顔の品評会を花合わせという。植木屋はもちろんのこと、商人・町人・武家といった朝顔愛好家から出品された朝顔の優劣を競う。その結果は番付にして発表される。
 朝顔にはいろんな色がある。しかし、黄色の朝顔だけはない。朝顔は、どんなに美しく咲いても、花は一日で萎れてしまう。つまり、槿花(きんか)、一朝の夢だ。これは一炊の夢と同じ例えである。
 朝顔は自家受粉、つまり自らが自らの花の中で受粉する。だからツボミが開かないようにしても種子はできる。
 江戸の変わり咲き朝顔を紹介する本もあります。江戸時代の人々は、現代の私たちが想像する以上に多種多様な生き様を認め合っていたように思います。ひえーっ、こ、これが朝顔なの・・・。こんな悲鳴ををつい上げたくなるほど、ものすごい変わり咲きの朝顔が毎年出品・展示されていたというのです。それには、人々の心の豊かさがなければ、とてもできないことだと思いますよ、私は。あなたもそう思いませんか・・・。
 すみません、この本のストーリー展開はあえて紹介しません。お許し下さい。 
 南フランスの町のあちこちで、大型犬を連れた若者たちを見かけました。いえ、大型犬を連れたおじさんやおばさんもよく見かけたのですが、若者たちは、なんだかホームレスっていう感じで気になったのです。しかも、一人で二匹も三匹もの大型犬を連れて歩いているのを見ると、犬たちの食糧費だけでもバカにならないだろうと心配しました。アルルでは、3匹の大型犬を連れた物乞い(おじさん)がいました。教会の階段に、犬たちは寝そべって、ヒマをもてあましているように思いました。
(2008年6月刊。1524円+税)

日無坂

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:安住洋子、出版社:新潮社
 いやあ、うまいですね。すごいですよ。ただただ感心しながら電車のなかで夢中になって読みふけりました。いつのまに終着駅に着いたのかと思うほど、あっという間でした。
 父と息子がお互いに理解するのはとても難しいことだというのが、この小説の大きなテーマです。それを女性作家が見事に描き出しています。
 父のようになりたくはなかった。いや、なれなかった。薬種問屋の主人におさまった父と、浅草寺裏の賭場を仕切る息子。
 親と子の、すれ違い。謎解きが感涙に変わる江戸市井小説の名品。親と子のわがかまりと情を描き尽くす市井小説の名品。
 あの日の父の背中が目に焼きついて離れなかった。
 跡継ぎになることを期待されながら父利兵衛に近づけず、反発し、離れていった。あの日から10年、長男の伊佐次は、すっかり変わり果てた父とすれ違う。父は万能薬という触れ込みの妙薬をめぐって、大店の暖簾を守ろうとしていたのか、それとも・・・。
 以上はオビにある、うたい文句です。この本の内容を的確に簡潔にまとめています。山本一力の江戸世話物の世界とは一味違います。時代小説界の次代を担う新鋭の傑作長編というキャッチフレーズに異論はありません。次作が楽しみです。タイトルは、ひなしざか、と読みます。
(2008年6月刊。1400円+税)

百姓の力

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:渡辺尚志、出版社:柏書房
 現代日本人の代表的な行動特性に、狭い人間関係のなかでの評価には非常に敏感で、過剰なほどまわりに気をつかうというものがある。会社や学校などの小さな社会のなかで、自分の本心を隠してでも周囲から浮かないことを心がけ、場の空気を読んで行動し、集団の和を重視する。ところが、その世間を一歩出ると、とたんに周囲には無頓着となる。タバコのポイ捨て、電車内での携帯電話、人前での化粧など、何とも思わなくなる。こうした日本人の行動パターンは、狭い村が世間そのものであり、そこから排除されるとたちまち生活基盤の崩壊につながった江戸時代の村人の暮らしから生まれた。このように、現代日本社会は、江戸時代の社会の延長線上にある。ふむふむ、このように言われると、なるほどと思ってしまいますね。
 江戸時代における全国の村の数は、元禄10年(1697年)に6万3000ほど。平均的な村は、人口4000人ほどだった。
 江戸時代に庶民の識字率は上昇した。明治8年(1875年)の学齢人口(6〜11歳)の就学率は男子54%、女子19%。全国の寺子屋は明治8年までに1万5500校あった。19世紀には、1軒の寺子屋に平均して男43人、女17人の子どもが在籍していた。
 村には文書を保管するための専用倉庫(郷蔵)が建てられた。半紙に一行かかれただけの短い文書であっても、千金にかえがたい貴重な価値があるとされた。
 1600年ころの日本の総人口は1500〜1600万人、耕地面積は163万5000町歩。享保6年(1721年)には人口3128万人、297町歩へ急増した。人口は2倍、耕地面積は1.8倍に増えた。人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるものだった。
 日本人の多くが江戸時代、古くても戦国時代までしか先祖をたどれない。これは記録がないからではなく、それ以前には、百姓の家そのものが成立していなかったことを意味する。うむむ、そういうことだったのですね。安定的な「家」なるものは、中世前にはなかったわけなのですか・・・。私も祖先のルーツを少し調べてみましたが、私の家では江戸時代にまでさかのぼるのがやっとでした。お寺の過去帳までは調べることができなかったのです。知人に100回忌を永年営んでいるという人がいます。私はそれを聞いて驚きました。古くからのお寺が存続しているから、そんなことができるのです。
 近代になる前の社会では、土地の所有権は一元化されず、一つの土地に複数の所有者がいる状態が、むしろ普通だった。百姓と武士とが、それぞれ権利の内容を異にしながら、ともに所有者として一つの土地に関係していた。領主の所有権は国家の領有権に近い性格をもっており、百姓の所持権とは位相が異なっていた。そして、注目すべきは、村も所有者として土地に関係していたということ。
 割地(わりち)とは、村が主体となって定期的に農地を割り替えること。何人かに一度、くじ引きなどによって、村人たちが所持地を交換していた。年貢負担の不平等をなくすためである。割地がなされていた村では、村人は割地から次の割地の間だけ、その土地の耕作権を保障されていた。村の耕地は、全体として、村の管理下にあった。
 土地を質入れして、流れてしまっても、元金を返済しさえすれば、何年たとうと戻せるという慣行が広く存在していた。無年季的質地請戻し慣行だ。これは村の掟だった。村の土地は村のものであり、個々の百姓の土地所有権は村によって管理・規制されていたという事情がある。
 そして、村人は村を出ていくときには、その所有地を無償で村に返した。その所持地は、村に住み、村の一員として耕作に従事し、領主に年貢などをきちんと納めている限りにおいて、その所有と認められていたのである。村の成員の資格を失ったら、土地を自由に処分することはできないものであった。そういうことなのですか、知りませんでした。
 零細錯圃制(れいさいさくほせい)という言葉を初めて知りました。個々の百姓の所持地は、屋敷地の周囲など1ヶ所に固まっていることは少なく、村内のあちこちに少しずつ分散しているのが一般的だった。自然災害などの危険を分散できる利点があった。なーるほど、ですね。江戸時代、子どもは村の未来を担う宝であり、その成長には村も責任を負っていた。子どもは「家の子」として育てられると同時に、「村の子」としても育てられるべき存在だった。
 江戸時代には、「7歳までは神のうち」という言葉があった。乳幼児の死亡率が高かったということです。
 7歳をすぎた子どもは「子供組」という集団をつくった。15歳になったら一人前の村人と認められ、男は「若者組」、女は「娘組」に属し、集団の規律を学んだ。
 若者たちは、村役人の監督下に、青年にふさわしい役割を果たしつつ、村のルールを身につけていた。若者組も娘組も、村のなかの一組織であり、村の教育機関としての役割をもっていた。
 現代日本人は訴訟を敬遠しがちだが、江戸時代の百姓は頻繁に訴訟を起こしていた。江戸時代は健訴社会だった。19世紀になると、百姓たちの訴訟技術は向上し、百姓のなかに公事師的存在が増えた。ときに、偽の証拠や証言まででっち上げた。百姓は一面において、したたかで狡猾だった。
 いやあ、これってまさに現代日本人そのものではありませんか。まこと、江戸時代の日本人は今の日本人と変わらない存在なのですね。
(2008年5月刊。2200円+税)

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