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カテゴリー: 日本史(江戸)

長崎と天草の潜伏キリシタン

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 安高 啓助 、 出版 雄山閣
 天草地方とキリシタン・島原天草一揆についての知見を深めることができました。
 この本によると、島原天草一揆への参加をめぐってキリシタン内部は分裂状態となり、一揆に参加しなかったキリシタンが「潜伏キリシタン」になっていったとのこと。
 そして「潜伏キリシタン」たちは洗礼名をもちながらも、絵踏をしたため、幕府から禁じられたキリスト教(耶蘇宗門)ではなく、別の宗教「異教」だとされた。彼らは仏教徒として寺情制度に従っていて、地域社会の構成員となった。
 文化2(1805)年の天草崩れで、5205人が検挙されたものの、「非キリシタン」の仏教徒と判断され、厳刑に処された者はおらず、差免(放免)となった。
 天草にキリスト教を伝えた宣教師のアルメイダは、育児院や病院を開設した。現世利益を重んじる人々は、そのおかげで助かりこぞってキリスト教に入信した。
アルメイダはマカオで司祭に叙せられたあと、天草に戻り、1583(天正11)年に天草で亡くなった。
 一揆当時の天草は、唐津藩の飛び地だった。
 キリシタン大名として有名な高山右近は豊臣秀吉から追放されたあと、同じくキリシタン大名だった小西行長を頼って天草へやってきた。高山右近が隠れて住んでいることがバレてしまい、結局、フィリピンへ渡っていった。
天草における一揆勢と果敢に戦い、ついには戦死した三宅藤兵衛重利は明智光秀の外孫にあたり、また細川忠利、熊本藩主と従兄弟(イトコ)の関係にあった。唐津軍は一揆勢と戦うなかで苦戦を強いられ、ついに藤兵衛は戦死してしまった。
 一揆勢は唐津軍と戦うとき、「鉄砲いくさ」の状況だった。次第に一揆勢が優勢となり、唐津軍は後退していった。
 開戦前は一揆勢に味方しなかった村人も、一揆勢の勢いと唐津軍の敗走を目のあたりにすると、続々と一揆勢に加わった。天草島内の百姓たちは戦況を見極め、優勢なほうにつこうとした。戦力としては上回る唐津軍に対して一揆勢が優勢になったのは、一揆勢の巧みな鉄砲術と強固な結束力によるところが大きい。
 一揆に敗退した藤兵衛について立派な墓が建立されたのは、幕府側から見た天草一揆としての位置付けによる。藤兵衛は、いわば「正義の名将」と昇華したようだ。
江戸時代、天草は流人処分の地とされた。江戸からの流人は一度で50人から100人ほどの大勢がやってきた。寛文4(1664)年から享保元(1716)年までに、天草には139人の流人が連れてこられた。いやあ、これはちっとも知りませんでした。流人といったら、八丈島などの遠い島々かと誤解していました。
知らない話がたくさん出てきて、面白くかつ知的刺激を受ける本でした。
 
(2023年1月刊。3520円+税)

島原・天草一揆

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 小西 聖一 、 出版 理論社
 私は原城跡には3回ほど行ったことがあります。こんなところに3万人もの農民たちが家族連れで籠城し、その数倍もの幕府軍と長いあいだ抗して戦ったのかと思うと、感慨深いものがありました。すぐ近くでは土産品を売っていますし、少し離れたところには立派な資料館もあります。
 そして、忘れられないのは、秋月(福岡県)の郷土資料館に天草一揆に従軍した秋月藩から見た戦闘状況を刻明に描いた絵巻物が展示されています。これまた必見です。
この天草一揆は、キリスト教を禁圧したことへの抗議というだけでなく、百姓の生活を厳しく圧迫した苛酷な藩政に対する抗議、つまり百姓一揆の面もあるとみられています。
そして、農民たちを戦闘の場面で指導したのがキリシタン武士たちでした。キリシタン大名だった小西行長の家来たちです。
幕府側の最高司令官は板倉重昌で、当時50歳。1万5千石の三河の小藩の藩主。ところが、続いて20数日後、老中・松平信綱が二人目の司令官として伝命された。
二人も司令官がいるなんて、異例ですよね。
戦国時代、ザビエルたち宣教師の活躍の成果として、全国のキリシタン人口は13万人。うち島原、大村、天草などに11万5千人、豊後(大分)に1万人、京都に5千人。これって、地域的にあまりに偏っていますよね、どうしてなんでしょうか…。
豊臣秀吉が、なぜ急にキリシタンを厳しく取り締まるようになったのか、いろいろ説があるようです。
 小西行長は、堺の商人の出身で、秀吉に取り立てられて大名にまで出世した。高山右近の影響でキリシタンとなり、アウグスティヌスといった。宇土に城を構え、肥後の南半分、天草の島々も支配する領主となった。
関ヶ原合戦のころ、全国のキリシタンは75万人にまで増加した。家康、秀忠、家光と、三代の将軍もキリシタン禁圧をすすめた。
 初めの司令官の板倉重昌は総攻撃を命じて、自らも進攻軍にいたところ、原城の一揆軍の鉄砲にあたって戦死した。その直後に松平信綱が幕府軍の陣営に着任した。
 このことから、板倉重昌は焦って死地を求めて無理を承知で最前線に出て、ついに戦死してしまったという説が有力です。状況としてはありえますよね…。
 原城跡を12万の幕府軍が取り囲んで、気長に待つ兵糧(ひょうろう)攻め、干乾(ひぼ)し作戦が取られた。そのうえで、幕府軍は総攻撃に移って、城内にいた3万7千人もの老若男女をみな殺しにしたのです。
 今でも、原城跡を深く堀りすすめると、当時の遺物が発見されるとのことでした。
 ぜひまた、原城跡に行ってみようと思います。
(2023年1月刊。1800円+税)

木挽町のあだ討ち

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 永井 紗耶子 、 出版 新潮社
 いやあ、読ませました。電車に乗る前にホームで読みはじめ、車中ではあっというまに終点に着き、少し時間がありましたので、コーヒーショップに入って読了しました。心地良い感触に浸りながら、梅の香りの漂う目次地へ、いつもよりゆっくり歩いていきました。もう春も間近だと実感しながら…。
 冒頭に仇討ち(かたきうち)が無事になし遂げられたことが知らされます。場所は芝居小屋の裏手、雪の降る中です。赤い振袖をかぶった若い女性が傘を差して立っているところに、おおがらな博徒が歩み寄り、声をかけた。すると、かぶっていた振袖をとると若い男性で、白装束になって仇討ちの名乗りをあげた。
 「我こそは伊能清左衛門が一子、菊之助。その方、作兵衛こそ我が父の仇、いざ尋常に勝負」
 そして真剣勝負の切り合いが始まり、若衆が博徒を切り倒し、首級(しるし)をもって立ち去っていく。見事に仇討ちは成功するのです。目出たし、目出たし…。
 さて、では、この話は次にどう展開するのでしょうか。若衆の仇討ちに成功するまでの苦労話が紹介されるのでしょうか…。
 オビに書かれているのは、「雪の夜の惨劇。目撃者たちの証言に隠された、驚愕(きょうがく)の真相とは」です。読んだあと、このオビのフレーズに私はまったく異議ありません。見事なドンデン返しというか、謎解きが少しずつ進んでいくので、最後まで目が離せません。
 そして、若衆を取り巻く人間模様がなんとも心地よいのです。少しばかり悪人も登場はしますが、全体として、人情味あふれる人たちが次から次に登場してきて、そうなんだよな、この社会もそんなに捨てたもんじゃないよね。自殺するなんて、そんなもったいないことしないで、もう少しだけがんばってみたら…と、お互い声をかけあいたくなります。
 よくできた時代小説として一読をおすすめします。
 この著者の『商う狼、江戸商人杉本茂十郎』(新潮社)も面白かったですよ。
(2023年1月刊。税込1870円)

江戸にラクダがやって来た

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 川添 裕 、 出版 岩波書店
 江戸時代、2頭のラクダが日本にやって来て、西日本一円を巡業していたというのです。
 文政4(1821)年にオランダ船に乗ってラクダがやってきた。これは、オランダ商館のカピタンから江戸の将軍家への献上品のはずだった。ところが、将軍家は献上を認めながらも出島に留め置くようにと指示した。その理由は分かりませんが、ラクダを養うことの大変さを考えてのことだったのではないでしょうか。
 江戸時代の日本にラクダがやってきたのは、実は、これが3度目。ただし、1回目は将軍家光への献上品となって庶民は見物できなかった。2回目は、アメリカ船が運んできたものだったので、すぐに戻された。
 江戸では3年後の文政7(1824)年8月から両国広小路でラクダの見世物が始まり、半年間も続いた。見物料(札銭)は32文。これは、歌舞伎の最安の入場料の4分の1なので、安い。つまり、庶民が楽しめた。
 2頭は、5歳のオスと4歳のメス。夫婦ではなかったかもしれないが、世間は仲の良い夫婦をラクダにたとえるようになった。
 ラクダを見て狂歌師たちはたくさんの句(狂歌)をつくり、また、絵師たちが写生してラクダ絵図として売り出した。
 ただ、ラクダ見物は1回目こそ熱狂的に人が集まったものの、2回目は、不入り、不評となった。というのは、ヒトコブラクダは人に馴(な)れた、おとなしい動物であり、何か芸が出来るわけでもなかったから。それで、日本人が唐人風の装いをして、ラクダの周囲で太鼓を叩いたり、「かんかんのう」を歌い踊ったりして、その場を盛りあげた。
 ラクダが運べるのは長距離だと160キログラム、近距離でも最大300キログラム、そして、平均的な1日行程は48キロメートル。ところが、ラクダ見物を誘うチラシには900キログラムを運べるとか、100里つまり390キロメートルも行くなどと、「白髪三千丈」式の誇張した表現がなされた。まあ、広告とは、そういうものでしょうよね、昔も今も…。
 ラクダを見ることで、悪病退散の効能を庶民は期待したようです。江戸時代も、今のコロナ禍以上に何度も感染症などに襲われて、大量の死者を出していました。
 それにしても、12年間もラクダが日本各地を巡業してまわっていたなんて、知りませんでした。鎖国といっても、日本人は世界への目はもっていたのですね…。
 とても面白い本でした。
(2022年9月刊。税込3190円)

豪商の金融史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高槻 泰郎 、 出版 慶応義塾大学出版会
 著者には失礼ながら、学者の金融に関する小難しい論文集だろうと、まったく期待もせずに読みはじめたのでした。ところが、予期に反して、意外や意外、とても面白くて、江戸時代の豪商の生きざまを知り、また、その息吹きを感じることができました。
 NHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」(2015年9月より全156回)の主人公である廣岡浅の関係する廣岡家の古文書が発掘され、それにもとづいているので、話がとても具体的で分かりやすいのです。
 旧家の大蔵に古文書が埋もれていたのです。それは2万点超もありました。
 大同生命の創業一族にあたる廣岡家は、江戸時代には、三井、住友、鴻池と肩を並べる豪商でした。姓は廣岡、屋号は加島(かじま)屋久右衛。東の大関が鴻池で、西の大関を加島屋久右衛門(加久。かきゅう)がつとめていたのでした。
 江戸の商人の多くは現金決済していたのに対して、大坂商人は手形決済を主としていた。大坂には「大坂法」と呼ばれる独特な法制度が敷かれていた。債権者を保護する傾向の強い法制度である。
 18世紀までは京都商人のほうが優位にあった。しかし、大名貸がうまくいかずに、京都商人は没落し、その代わりを大坂商人が担った。大坂は物流の拠点にある点に強みがあった。
 大坂の米市場では、米切手(米手形)が登場し、流通した。
 「加久」は、大名貸をするだけでなく、江戸幕府の経済政策のなかで知識の提供を求められた。資金と市場知識の両面で幕府の経済政策に豪商は組み込まれていた。
 大坂の堂島米市場で、帳合米(ちょうあいまい)商(あきな)いという画期的な取引方法が始まった。一種の先物取引である。しかし、今日の先物取引とは異なり、現物の受渡を予定しないものなので、今日の指数取引をみるべきもの。
 江戸幕府が堂島米市場のこの取引を公認したのは1730年8月のこと。米価が底値をつけたとき。
 「加久」は萩藩との関係では「館入(たちいり)」となった。蔵屋敷の出入りを許され、大名の資金繰りや資金調達の相談に応じたり、優先的に融資する関係にあった。
 大名は自らの詳細な財務情報を大名貸商人に開示し、そのことで安定的な融資を受ける。大名貸商人は、得られた財務情報にもとづいて大名の座性運営を監視し、規律を与えることで融資の安定性を担保する。このような長期間で密接な関係を相互に構築した。
 廣岡家(「加久」)は、全国120以上の諸家(将軍家、大名、旗本など)へ貸付していた。そして、維新政府にも協力的だった。要するに、大名貸は得られる利益が大きいかわりに、リスクも大きい。そこで、リスクを少なくする方法があれこれ考えられていたのです。さすが、江戸時代を生きのび、明治以降も苦難を乗りこえたわけです。
 2万点超の古文書を読み解いて、時系列に並べたり、項目ごとに比較したり、大変な作業だったと思います。心より敬意を表します。
(2022年10月刊。税込2970円)

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