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カテゴリー: 日本史(戦前)

沖縄戦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版 集英社新書
 第二次世界大戦(太平洋戦争)のとき、沖縄で多くの人が亡くなりました。もちろん上陸してきたアメリカ軍の砲撃によって殺された人もいますが、日本軍によって殺された人も少なくなかったこと、また、日本軍から自決死を強いられた人々も多かったことを明らかにした本です。
 当時の沖縄県の人口は60万人で、うち8万人は県外に疎開していたので、50万人が戦争に巻き込まれた。その結果、沖縄県民は軍人軍属、民間人あわせて12万人から15万人が亡くなった。つまり沖縄に残っていた人の3分の1が亡くなったということ。しかも、民間人のほうが軍人の死者を上回っている。なお、本土出身の軍人やアメリカ軍人をあわせると、死者は20万人をこえる。
 沖縄戦において重要な事実は、日本軍が多くの沖縄県民を殺害したこと。スパイと疑われて多くの沖縄県民が日本軍から殺されている。この事実を文部省(今の文科省)が歴史の教科書から削除しようとしたのを知って、沖縄県民総ぐるみの抗議によって削除を止めさせた。ところが、日本軍が住民に「集団自決」を強制させた事実については今日なお教科書から削除されたまま。
 集団自決については、中国本土で残虐な行為をしてきた沖縄出身の兵士たちが自分たちが中国でしたことを語り、敵(アメリカ軍)に捕まったら自分たちも同じことをされる、「鬼畜」の米兵なら、もっとひどいことをするだろうと恐怖心を煽(あお)ったことも背景にあった。
 アメリカ軍が上陸したあと、多くの住民がアメリカ軍によって保護されていることを知っていた日本軍(第32軍)や県(県知事)は、彼らをスパイだと警戒するように、南部に避難していた日本軍の将兵や民間人に繰り返して宣伝した。その結果、壕に隠れていた年寄りを日本軍(第24師団)が引きずり出して斬り殺してしまった。軍と警察が一体となった活動によって、住民・避難民は食料がなくなってもアメリカ軍に投降することもできず、飢えとマラリアで苦しみ、犠牲者を増やした。
 アメリカ軍に保護された女性や子どもたち十数人が日本兵によって浜辺に集められ、手榴弾を投げ込んで殺したという事件も起きている(5月12日、大宜味村渡野喜屋)。また、日本兵は住民を銃剣で脅してイモなどの食糧を奪った。
日本軍は捕虜になることを許さなかった。そのため、沖縄戦でも多くの戦死者が出た。
 沖縄戦では、アメリカ軍にも多数の死傷者を出したが、それだけでなく、兵士の精神にも深刻な打撃を与えている。アメリカ第10軍の戦死者は7374人、戦傷3万1807人、行方不明239人。しかし、このほか非戦闘死者2万6211人を出している。このなかに戦闘神経症による者も含まれる。たとえば、第一海兵師団第5連隊第3大隊K中隊の場合485人いたうち、作戦終了時に残っていたのは1割の50人だった。しかも、上陸時から最後まで残ったのは26人のみ。残りは戦死傷などで戦列を離れている。
海兵隊には戦闘経験のない補充兵がたくさん投入されていて、多くの死傷者を出した。
今はおもろまちは近代的な街並みになっていますが、そこにあった「シュガーローフ・ヒル」では、まさしく凄惨きわまりない死闘が日本軍とアメリカ軍によって延々と繰り返されたのでした。
 1945年5月末の時点で、天皇も大本営も沖縄への関心を失って本土決戦の準備に移っていた。しかも、6月下旬には天皇は本土決戦を断念した(そんな準備は日本軍にないことを知ったから)ので、5月末の時点で沖縄の日本軍が降伏していれば、兵士たちを含めて10万人以上が死ななくてすんだはずなのです。
 また、アメリカの学者によっても、沖縄で正面からの戦闘などする必要はなかった。沖縄を残したまま日本本土(九州)に攻め込んだほうが早く決着できたという説を読んだことがあります。つまり、シュガーローフ・ヒルのような正面からの決戦をすることにどれだけの意味があったのか、実はなかったのではないかという指摘です。なるほど、と思いました。
 今また、「台湾有事」ということで沖縄や南西諸島がすぐにも戦場になるかのような雰囲気がつくられ、大軍拡がすすんでいます。でも、戦争にならないようにするのが政治の本来の役目ではありませんか。それを忘れてもらっては困ります。
(2025年6月刊。1243円) 

力道山

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 斎藤 文彦 、 出版 岩波新書
 力道山(りきどうざん)というプロレスラーがいました。ともかく強いのです。狭いリングのなかで、いかにも悪役という外人レスラーが反則技ばかりするため、それこそ一時はタジタジとなりつつも、ついに堪忍袋の緒をふり切って得意技の空手チョップを繰り出し、とうとう悪漢レスラーをやっつけてしまうのです。胸のすく思いとは、このことでした。もちろん、生のリングを見ているのではありません。まだ全部の家庭にはなかった時代、わが家のテレビを見ていたのです。
 力道山は、日本におけるプロレスの父である。
 力道山のプロレスは、戦後そのものであり、昭和そのものであり、テレビそのものであった。力道山はプロレスラーであると同時に、「力道山」という、ひとつの社会現象であった。
 力道山が現役のプロレスラーのまま殺害されて亡くなったのは1963(昭和38年)12月のこと。私は15歳、中学2年生でした。
小売酒屋の主(あるじ)だった父がプロレスの大ファンで、私も一緒にみていましたが、父は力道山になりきったようにして、画面をくい入るように見て、肩をいからせ、かけ声を茶の間で上げていたのを思い出します。
 まさしく、力道山はヒーローでした。
 力道山が生まれたのは、今の北朝鮮であり、両親ともに朝鮮人。当時の朝鮮は、日本の植民地支配下にあった。美空ひばりも同じく朝鮮人でしたが、二人そろって戦後日本の輝けるヒーロー、ヒロインでした。
 若き力道山にとって、相撲とりになることが貧困からの脱出を意味していた。本名は、金信洛。三男で末っ子。戸籍上は百田光浩。ところが、生年月日のほうは、大正11年、12年、13年。7月4日、7月14日、11月14日と、確定していない。
 力道山がプロレスラーとしてデビューしたのは、1951年10月28日。1ヶ月にもならないトレーニング期間だった。
 プロレスでは、殴る、蹴る、地獄突きといった反則をする悪役、憎まれ役をするプロレスラーがいたけれど、力道山は、一度もこんな憎まれ役を演じることなく、ベビーフェイスで正統派のポジションを維持した。
日本テレビの正力松太郎オーナーはテレビを通じたプロレスの父でもあった。
1954(昭和29)年2月、蔵前国技館を借り切ってプロレスの国際大試合が3日間連続で開催された。この初日、新橋駅前の西口広場に特設された街頭テレビに2万人をこす見物客が押し寄せた。その写真が紹介されていますが、まさしく、黒山(くろやま)の人だかりです。大変な熱狂ぶりでした。まさしくスター誕生の瞬間だった。このあとも全国を巡行して、興行総収入は8千万円をこした。これって、大変な巨額ですよね。
力道山を主役としたプロレスブームは社会現象となり、プロレス中断を独占していた日本テレビは1953年8月の開局から、1年足らずの1954年上半期に黒字経営に転じた。
子どものころ熱中して見ていた私は、プロレスは毎回、真剣勝負だと信じ切っていました。それがショーだったというのは、東京で学生生活を始めたあと、それを知らされて驚いたのでした。純朴そのものでした。
著者はプロレス・ライターだそうです。そんな職業があるとは知りませんでした。
ともかく、力道山が戦後の社会現象であることは間違いありません。でも、いったいなぜ殺されたのでしょうか…。
(2024年12月刊。960円+税)

検証・治安維持法

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 荻野 富士夫 、 出版 平凡社新書
 私の父は、1927(昭和2)年から7年間、東京で苦学生として暮らしていました。戦争へ突き進んでいく日本の暗く厳しい社会のなかで、庶民は映画やカフェーを楽しんでもいました。そして、流れに抗して立ち上がった人も少なくなかったのです。労働者や小作人は果敢にストライキをし、デモ行進をしていました。そして、大学でも学生と教授たちが、さらに兵士や華族のなかにも「赤い」人々がひそかにではあれ声を上げ、横の結びつきをつないでいこうとしていました。そんな人々の動きに恐れおののいた権力が持ち出してきたのがこの治安維持法です。
1925年の発足から今年は100年になります。日本国内の判決では治安維持法違反を理由とする判決で死刑判決はない。いや、ちょっと待って、小林多喜二は警察で虐殺されたではないか…。いやいや、死刑を命じる判決がないということなんです。もっとも、朝鮮・台湾という日本が植民地支配していたところでは、死刑判決は出ていますし、満州国でも、たくさんの死刑判決が出ています。
 治安維持法は1925年4月22日に公布され、5月12日に施行された。そして、1929年に、「死刑」が導入され、「目的遂行罪」が加えられた。この改正に反対した山本宣治が暗殺されたのは1929年3月5日のこと。
 この「目的遂行罪」はもっとも有効に活用された。ほとんど限界がないほど、広範に適用することが可能だった。3.15事件で治安維持法違反とされた知人のうち、実に27人が目的遂行罪だった。
検束の蒸し返しが横行した。検束は一応、期間の定めがあったが、その期間が来ても再び検束するから、期間など、あってないようなものだった。「ケンムシ」と呼ばれ、よく起きていた。
 1941年に治安維持法は改正された。しかし、刑罰規定が厳重化されただけでなく、刑事手続と予防拘禁の規定が導入され、条文も65条に増えたので、信治安維持法と呼ぶべきもの。この新治安維持法は士気の上がった思想検事たちを、さらに抑圧取締に駆り立てた。
 1941年に検挙者は1000人台となり、1942年以降も毎年500人以上が検挙された。民族独立と宗教の比率が高くなり、起訴割合も37%となって、処罰が厳重化した。1942年以降は、転向を表明しても仮釈放されなくなった。
 特高警察官は拷問の事実を公認と認めていた。拷問こそ事件の全貌を把握するためのもっとも効率的な手段とされていた。
裁判所は検察の意向を尊重、実は追随する関係にあった。むしろ、検事の意見に従うことが評価されていた。
 治安維持法の運用された20年間の受刑者は約3千人超。
 思想犯保護観察法は、1936年11月から1945年10月までの9年間のあいだ運用され、5千人超(5353人)が保護観察法の審査対象とされた。
新書版で500頁もある大作です。しっかり読みごたえがありました。勉強になりました。
(2024年12月刊。1980円)

陸軍作戦部長 田中新一

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 川田 稔 、 出版 文春新書
 石原莞爾を失脚させ、武藤章と激突、佐藤賢了を殴り、東条英機を罵倒した男。このようにオビで紹介されている人物です。
 田中新一作戦部長と部下の服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課戦力班長の3人が日米開戦の強力な主唱者だった。そして、有力な対抗者だった武藤章軍務局長は日米開戦に慎重な姿勢をとっていた。ところが、日本敗戦後、慎重論の武藤章はA級戦犯として死刑になったのに対し、開戦論の田中新一のほうは戦犯指定も受けず、1976年(昭和51年)に83歳で亡くなった。東京裁判では証人として出廷して証言しただけ。ええっ、なんて不公平なことでしょう…。
 韓国映画(たとえば「ソウルの春」)をみてると、軍部内に「ハナ会」という秘密結社があって陸軍を牛耳っていたという情況が出てきます。戦前の陸軍にも、皇道派と統制派というわけでなく、「一夕(いっせき)会」という非公然組織があって、陸軍の人事で暗躍していたようです。メンバーには、永田鉄山(陸軍省内で斬殺されました)、石原莞爾、東条英機そして田中新一がいました。
 武藤章と田中新一は陸士(陸軍士官学校)同期で、作戦課長と軍事課長をそれぞれつとめた。
 田中新一は軍事課長として、石原莞爾の不拡大方針に反対した。日本の中国大陸における権益を保持するには、不拡大方針は棄てるべきだと主張した。田中新一は、全面戦争は望まないが、協力かつ短切なる武力の行使が必要だと主張した。
 1937(昭和12)年8月、武藤作戦課長と田中軍事課長は今や田中全面戦争は避けられないと一致した。そして、上海で日中両軍は交戦状態に入った(第二次上海事変)。
 ところが、日本軍は優勢な中国軍によって苦戦した。中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導と援助のもとで張り巡らされたトーチカ陣地によって果敢かつ強力に抗戦してきた。日本軍は3ヶ月あまりのうちに4万人の死傷者(戦死者1万人)を出した。
 このころ、田中新一は、次のように述べた。まさしく侵略戦争だと宣言、自白したのです。日中戦争は、中国の征服に乗り出すものであり、元や清の中国支配に比肩するものだ。
なんという思い上がりでしょうか、信じられません。
 石原莞爾は日中戦争が長期戦になることを恐れていた。ところが、早期解決の可能性はまったくなくなった。1938年、陸軍中央から石原系の軍人は一掃された。
1940年10月、田中新一は、作戦部長に就任した。47歳だった。これは東条英機陸相の意向によるものだった。
 田中作戦部長は、タイ・仏印の勢力圏下を考えていた。
1941年6月22日、ドイツはソ連領内に侵攻した。田中作戦部長は独ソ戦がドイツの電撃的勝利に終わり、北方で好機が到来するとみた。しかし、その後、陸軍内でもっとも強硬な親独派の田中でさえ、ドイツとの連携を脱する「対米英親善」を再検討した。
 1941年8月、田中作戦部長は、即時対米開戦決意のもとに作戦準備を進めるべきとした。その理由としては、日本軍のジリ貧、アメリカ軍の大増強によって、比率がどんどん悪化していくということ。やるなら今のうちしかないというのは、初めから勝てるはずがないということですよね。無責任な大ボラ吹きもいいところです。でも、当時は、勇ましい決意表明だということで、批判を圧殺していったのでしょう。
海軍は、開戦して2年間は自信があるが、アメリカを軍事的に屈服させる手段はないとしていた。これは開戦前のことなんです。いかにも無責任きわまりありません。よってたかって、どいつもこいつも、軍のトップ連中はみんなそろって無責任なんですが、口先だけはいつだって勇ましいのです。
 今でも同じことですね。「日本を守る」といったって、国民のことは眼中になく、ミサイルなどの軍事産業育成だけなんです。自分がもうかったらいい。国民保護なんて、ハナから眼中にありません。嫌になってしまいます。
(2025年1月刊。1210円)

脱露

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 石村 博子 、 出版 角川書店
 日本敗戦後、シベリアに送られた日本人は軍人だけではなかったのですね。
 敗戦後はソ連領になった南樺太(カラフト。サハリン)で民間人として生活していた日本人。鉄道員、炭鉱夫、大工、運転手…などさまざまな職業の人たちがソ連軍によって逮捕され、一方的な裁判で囚人としてシベリアのラーゲリ(収容所)に連行される。
 ラーゲリで苛酷な労働を強いられたあと、刑期が明けてもどこかに強制移住させられ、ソ連本土に残留させられた。その後も、いろいろな理由で日本へ帰れないまま、数十年にわたって生死不明の状態が続いた(このとき「戦時死亡宣告」とされた人もいる)あと、ソ連の崩壊によって「発見」された。この人たちを「シベリア民間人抑留者」と呼ぶ。
 元日本兵がシベリアに抑留されたのは57万5000人、うち5万5000人が死亡した。民間人については、200人ほどしか判明していない。
シベリア民間人抑留者は3つのグループに分けられる。その一は、一般人として暮らす元軍人。その二は、軍隊経験のない正真正銘の民間人。その三は密航者。サハリンから密航して北海道に上陸した人は少なくとも2万5000人いる。
 民間人抑留者の集団帰国が実現したのは、日ソ両国赤十字社代表による共同コミュニケが1953年11月に調印されてからのこと。1956年12月まで11回の引き揚げがあった。
しかし、日本に帰らず残留を選択した日本人も少なくなかった。現地の女性と結婚し、子どもをもうけた人たち。285人が判明している。
 現地の女性と結婚したといってもロシア人とは限らない。朝鮮人だったり、ドイツ人だったり、いろいろだ。ロシア人は、夫を戦争で亡くした女性がたくさんいた。
この本に登場する日本人は著者が話を聞いたりしていますので、その所在が日本側に判明した人であり、また80歳になっても元気でいる人に限られる。
 亡くなった人のお墓には、生前の顔写真が大きくはめこまれているのが、ほとんどです。日本にはない風習ですが、ソ連そしてロシアではよく見かけます。
 貴重な記録が掘り起こされています。
(2024年7月刊。2250円+税)

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