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カテゴリー: 中国

懐郷

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 リムイ・アキ 、 出版 田畑書店
 台湾の小説です。それも原住民族の一つ、タイヤル族の女性が主人公です。その名前は懐湘(ホワイシアン)といいます。
 早婚です。15歳、中学生のときに結婚し(夫は17歳)、まもなく子どもを出産します。ところが、若い夫は怠け者のうえに、暴力夫でもありました。妻に手を出し、子どもたちにも容赦ありません。
 原住民のしきたりに従って結婚したので、別れるのも簡単にはいきません。その苦労、辛さが微に入り、細に入って刻明に描写されていきますので、読みすすめるのが辛くなります。でも、救いがあります。どんなに暴力を振るわれても、自分を見失うことはなく、ついに子どもを残してでも家を出て、ひとり立ちするのです。タイヤル族の女性はたくましいし、明るいのです。
 「苦境にあっても屈することなく努力を続けるタイヤル女性」というのは、本のオビのフレーズですが、まったくそのとおりです。だから、感情移入しても、なんとか読みすすめることができるのでした。
 タイヤル族にもいくつものグループがあるようですが、台湾原住民というと、私は、戦前に起きた「霧社事件」を思い出しました。台湾にある高山の中まで進出していた日本人が、1930(昭和5)年10月27日、運動会をしている最中に、現地住民(当時、日本軍が高砂族と呼んでいたタイヤル族)に襲撃され、134人もの日本人が殺害されました。これは日本軍による圧制への原住民族の反乱です。台湾にいる日本軍はもちろん放置できず、大々的な討伐軍(3千人以上)を組織して原住民族を徹底的に弾圧しました(1000人を殺害し、強制移住させました)。
 この霧社事件は日本に大きなショックを与えると同時に、台湾では英雄的な抗日事件と記憶され、今に至っています。最近も台湾映画になり、日本でも上映されました。私も天神までみにいきましたが、実に感動的な映画でした。
 いま、ガザ地区をイスラエルが暴力的に支配しようとしていますが、いかなる圧制も永遠に続くことはありません。イスラエルがガザ地区を支配できるどうかも疑わしいと思いますが、仮りに支配できたとしても、永続的に支配するなんて、まったくもって考えられません。同じように、一刻も早くロシア軍はウクライナから撤退すべきだと考えます。
 夫から暴力をふるわれた女性は、必ず悲惨な日々を送ると言われている。しかし、自信と能力と取り戻すことさえできれば、女性の生命は、男性には想像もできないほど、したたかなのだ。
 これは、弁護士生活50年になる私の実感とぴったり合致します。本当に悲惨な状況に置かれている女性が少なくないのは、弁護士として数えきれないほど目のあたりにした事実・現実です。でも、その一方で、したたかに、たくましく生き抜けている女性が多い(少なくないというより、多いというほうが適切です)のも現実です。男性だって、引きこもりを続けていたり、うつに悩んでいる人が少なくないどころか、多数います。
 タイヤル族が住むのは標高800メートルほどの高い集落、そして標高1800メートルもある高地です。主人公はこの800メートルの集落から標高1800メートルの集落へ嫁入りしたわけですから、どんなにか大変だったことでしょう。
 読み終えたとき、思わず大きく溜め息をついてしまいました。
(2023年9月刊。税込3080円)

隋、「流星王朝」の光芒

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 平田 陽一郎 、 出版 中公新書
 中国の統一王朝、隋。わずか37年間しか続かなかった隋帝国の内情を明らかにした新書です。
 隋の初代は文帝楊堅で、二代目の煬帝(ようだい)は、大運河を築き、帝国を拡大しました。ところが高句麗遠征に失敗して、唐に滅ぼされてしまったのでした。
 隋の母胎となった西魏・北周は、いわゆる漢族ではなく、鮮卑(せんぴ)を中心とする北族(ほくぞく。北方の騎馬遊牧民の流れをくむ人々)がヘゲモニーを握る遊牧系政権としての側面を有し、鮮卑よりの政治を実行した。
秦(しん)は十数年しかもたず、漢は400年続いたものの、その崩壊後は、三国時代として対抗・抗争する大分裂時代として400年も続いた。これに終止符を打ったのが隋。
北魏を支えた一番の柱は、優秀な騎馬軍事力。騎馬遊牧民は高度な騎射技術を身につけていた。
突厥(とっけつ)とは、もとアルタイ山脈方面で活動していたトルロ(テュルク)系の遊牧勢力のこと。
 遊牧社会における女性の社会的地位は、南の農耕社会に比べて相対的に高かった。
 隋の文帝は、「開西(かいせい)の菩薩(ぼさつ)天子」と尊称された。
 インド伝来の仏教を、異国の教えとして排除しようとする動きがあった。
二代目の煬帝は、604年7月、36歳で即位した。水路を利用して食料を首都等に運んだ。
 高句麗遠征のとき全軍30万のうち、損耗率8~9割という隋の大敗だった。
 煬帝期の政府は、さながら「移動宮廷」の様相を呈していた。煬帝は、その最後は、頭を押さえて、跪かされた。そして、自ら解いて渡した白い絹のスカーフで縊(くび)り殺された。50歳だった。
 唐の前の隋王朝について、少し知ることができました。
(2023年9月刊。1100円)

唐…東ユーラシアの大帝国

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 森部 豊 、 出版 中公新書
 唐は、文化的にも人種的にも言語的にも複雑で、多民族から成るハイブリッドな王朝だった。唐の皇室そのものが、鮮卑(せんぴ)族の血、あるいはその文化を色濃くひくばかりか、唐の歴史をひもとくと、いたるところでチュルク系の騎馬遊牧民やイラン系のソグド人、あるいは朝鮮半島出身の人など、さまざまな出自の人たちが活躍していた。
 唐の歴史は、「安史の乱」をはさんで、前半と後半とでは大きな違いがある。
 唐朝は300年近い歴史を有し、その間ずっと色濃く遊牧色をおびていたというのではない。遊牧文化と中国的古典文化の融合した帰着点が唐だった。
唐を建国した初代皇帝の李淵(りえん)は隋の政権中枢にいた。この李淵の家系は、少なくとも文化面では鮮卑族。李淵の娘は軍の先頭に立って参戦したが、これは遊牧社会の気風を反映したもの。また、これは女性が活発に活動する唐という時代を告げる象徴的出来事でもある。
 李淵は、軍の教練に突厥(とっけつ)方式の騎馬戦術をとりいれていた。なので、李淵軍の進軍スピードはきわめて速く、群雄との決戦で優位に立った。
 李淵の妻は匈奴系の一族出身だった。また、ソグド人のグループも李淵に協力した。ソグド人は中央アジアのオアシス国家の住民。ソグド商人たちのネットワークは情報をやりとりしていた。ソグド人が信仰していたのはゾロアスター教。
 唐は隋の統治システムを踏襲した。その根本となるのが律令。また、唐は隋の官制も引き継いだ。唐の政策は、皇帝のもとにおかれた宰相たちの合議で決定された。
 李淵、すなわち初代皇帝・高祖には22人の子がいた。そのうち匈奴系の皇后とのあいだに生まれた次男の李世民が第二代皇帝となった。李世民は兄の李建成と仲は悪くなかったが、次第に溝が出来て、ついに先手を打った。李世民は皇帝太宗として23年ものあいだ君臨した。貞観(じょうかん)の治である。中国内に安定した平和が続いた。天下泰平となり、よく人材を登用した。
 太宗が臣下の意見をよく聞きいれる態度を「兼聴」といい、これは『貞観(じょうかん)政要』を貫くテーマとなっている。
突厥(とっけつ)とは、チュルクトというソグド語で伝わった音を漢人が写したもの。「鉄勒(てつろく)」と表記することもある。
 『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった僧・玄奘(げんじょう)は唐の太宗の時代の人。中国での仏教教義の研究に限界を感じ、唐を密出国してインドへ求法(ぐほう)の旅に出た。
 ただ、このころ唐の皇室が重視したのは仏教ではなく、道教だった。ちなみに、隋は仏教帝国。太宗が僧玄奘を重用したのは、仏教信仰からではなく、中央アジアに勢力をもつ西突厥をほろぼすため、玄奘のもつ最新の中央アジアの情報を必要としていたから。
中国史上、唯一の女性皇帝となったのは武則天。高宗は病弱だったので、そのパートナーだった武則天が一気に浮上した。武則天を日本では則天武后と呼ぶほうが多いが、これは彼女が皇帝になったことを暗に認めないという史観が反映している。
 日本は唐へたびたび使節を派遣した。遣唐使である。結局、唐にたどり着いたのは15回のみ。阿部仲麻呂もその一人。仲麻呂は日本へ戻ろうとした船が季節風で流されベトナムに浮着した。このため、結局、中国に70歳で亡くなるまで住んでいた。
 唐の歴史を概観することができて、大変勉強になりました。
(2023年3月刊。1100円+税)

ある紅衛兵の告白(下)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 梁 暁声 、 出版 情報センター出版局
 私と同世代の中国人は、かの文化大革命の大嵐のなかで、もまれにもまれ、命を落とし、迫害のなかで発狂し、家族をバラバラにされてしまいました。
 学校も工場も、まともに機能しなくなったため、学術・文化が停滞し、大量の文盲が生まれました。そして、工場だけでなく農業も生産活動がほとんどストップし、行政機能が崩壊したため、大量の餓死者を出してしまいました。
 それでも、私と同世代の青少年は、はじめは気楽なものでした。学校の授業がなくなり、教師が打倒され、権威というものは毛沢東のほかには何もなく、無料で北京まで行って、憧れの毛沢東を一目見ることができたのです。
 権威がなくなると、たちまち群雄割拠です。紅衛兵にも、いくつものグループが生まれ、「我こそは正統派、毛沢東公認だ」と、それぞれ主張して収拾がつきません。すると、いったい、人々はどんな生活を過ごすことになるのか…、実に惨たんたる有り様が、次から次に展開していきます。
 親を反動派と告発する、ごく親しかったはずの近所の人を「黒五類」と関わりあいがあると密告する…。人間関係がギシギシして、ちょっとした言葉づかいの間違いが命とりになってしまうのです。
さらに、紅衛兵のグループ同士の抗争が始まります。すると、そこには、権威ある上部機関なるものが存在しないのですから、あとは物理的な力が決めることになります。
 毛沢東は軍隊だけは文化大革命の外に置きたかったようです(軍隊は自分が動かすだけだと毛沢東は考えていたのです)。そうもいきません。軍隊を巻き込んだ紅衛兵の集団同士の衝突は武力抗争そのもの。戦車や装甲車が出動し、小銃だけでなく、機関銃も登場し、まさしく内戦状態に陥ってしまいます。
 工場を、どちらの紅衛兵集団がとるのか、どちらが毛沢東に認めてもらえるのか…、緊迫した状況が続くなか、ついに毛沢東は一方を支持すると通知したのです。それに反した集団は当然ながら反革命集団として迫害されることになります。それも、言論だけではなく、銃撃戦があり、肉体的な抹殺をともなうのでした。
主人公の父は大騒動のなかで所在不明が続いています。主人公の若き男性(14歳から16歳)は、一方の紅衛兵集団に足を踏み入れ、危うく、銃撃戦のなかに巻き込まれ一命を落としてしまうところでした。なんとか助かったものの、母親は発狂したか、発狂寸前のありさま。
いやはや、中国の文化大革命のときの地方(ハルピン)における実情が手にとるように理解できました(と思いました)。
(1991年1月刊。1500円)

旧満州に消えた父の姿を追って

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 諸住 昌弘 、 出版 梓書院
 著者の父親・諸住(もろずみ)茂夫は、明治44(1910)年10月に小樽市で生まれ、日大専門工科を卒業して間(はざま)組に入社した。24歳のとき満州に渡り、土木工事を従事したが、そのなかで水豊発電所の建設に土木技師として関わった。水豊発電所は鴨緑江上流に今もある巨大なダムで、間組が朝鮮側、西松組が満州側を担当してつくり上げた。
 ところが、父、茂夫は1945年5月、34歳で臨時招集された。日本軍の敗色は濃く、精強を誇っていた満州の関東軍は南方そして日本本土へ転出して「張り子の虎」状態になっているなか、兵員のみ充足するという召集だった。茂夫は派手な見送りもなく、ひっそりと軍隊に入営した。軍人としての基本訓練もないまま、ソ連との国境地帯に配備された。
 茂夫の所属する124師団は1万5千の兵員を擁していたが、関東軍の1945年1月の作戦計画では「玉砕」することになっていた。8月9日にソ連軍が突如として侵攻してくると、最新のT―34型戦車によって日本軍の陣地は次々に撃破され、8月13日、茂夫は戦死した(ことになっている)。
 しかし、茂夫の妻、すなわち著者の母親は、「死んだという証拠はないから生きている」と言い続けた。それを受けて、間組は、茂夫を未帰還者として扱い、17年ものあいだ休職扱いで給料を支払った。この給料によって著者たち一家は戦後を生きのびることができた。間組って偉いですね…。このような扱いは異例なのでしょうか、知りたいところです。
 著者は1943年5月に安東市(今の丹東市)で生まれています。なので3歳のときに日本へ引き揚げころの記憶はありません。しかし、記録をもとに、丹東市を訪問し、旧宅付近を探索し、また、日本への引き揚げの行程をたどったのでした。
 日本に帰国したとき、母親29歳、5歳と3歳の兄弟、そして1歳の娘という3人の幼な子を連れていたのです。いやはや大変な苦労をされたと思いますが、母は「忘れてしまった」と、子どもである著者に詳しいことはまったく話さなかったとのこと。それだけ思い出したくない、辛い体験だったわけでしょう。
 それでも、著者は父親と同じ師団にいて生き残った人から詳しい話を聞き取ったりして、当時の状況を詳しく再現しています。その意味で大変貴重な記録になっています。著者より贈呈を受けました。ありがとうございます。
(2019年10月刊。1300円+税)

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