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カテゴリー: ヨーロッパ

ロシアのマスメディアと権力

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 飯島 一孝、 出版 東洋書店
 わずか64頁のうすっぺらなブックレットですが、ロシアにおけるマスメディアの置かれている状況が実に簡潔にまとめられていて、よく分かります。ソ連時代より統制は緩和されたのでしょうが、それにしても権力によるマスメディアの統制はかなりのものです。でも、よくよく考えてみれば、日本だって似たようなものでしょう。五十歩百歩という気がします。
 今のプーチン首相は、1999年12月31日、エリツィン大統領の突然の辞任表明を受け、大統領代行に任命された。そして、2000年3月の大統領選で当選し、第二代ロシア大統領に就任した。このとき、マスメディアが大々的に動いて逆転勝利した裏話も紹介されています。要するに、今の日本と同じで、お金の力にものを言わせて票をもぎとったのです。
 プーチンが最初に手掛けた仕事は二大メディア財閥の強制排除で、自らの出身母体である旧KGBの元同僚などをつかって、メディア財閥大物二人の国外追放に成功した。
 プーチン政権が誕生したころ、強大な力をもつ新興財閥がメディアを利用してプーチン政権の政策を妨害するのは必至の情勢だった。そこで、新興財閥からメディアを切り離し、プーチン政権がメディアをコントロールする必要があった。
 新興財閥のなかでもグシンスキー氏とベレゾフスキー氏がもっとも強力だった。2人ともユダヤ系で、それぞれ総帥をつとめるグループは、メディアだけでなく、経済界全体をリードしていた。プーチンがメディア財閥排除を決意するに至ったのは、エリツィン時代末期の激しい政権争いを目の当たりにしたことによる。
 グシンスキー氏は逮捕されたあと、スペインへ出国、亡命した。
 グシンスキー氏は、検察庁に出頭を命じられて拒否し、イギリスに出国、亡命した。
こうやってロシアのテレビは反国ネット3局とも政府系になった。しかし、プーチン政権による強権的なテレビ支配に対して、世論の大きな反対は起きなかった。政府や経営陣の説明をそのまま受け止める人が多く、「言論の自由の問題」と深刻に考えているロシア国民は少なかった。しょせん、新興財閥とメディアの争い、とクールに眺めていた。な、なーるほど、ですね。日本の国民も、実際、あまり表現の自由に関心を示していませんよね。
 プーチン政権がマスメディアを支配できた背景には、「シロビキ」と呼ばれる旧KGBなどの治安・情報機関出身者が、政権の主流派を占めていたこともあげられる。プーチンが彼らを積極的に登用したため、政府機関の幹部の8割を占めるに至ったとも指摘されている。彼らは捜査機関や実力部隊にさまざまなネットワークをもっていて、監視もしやすいことから、メディア支配の実効はよかった。
 ソ連が崩壊した1992年から2008年までにロシアのジャーナリスト49人が殺害された。この死者の数は、イラクの135人、アルジェリアの60人に続いて3番目に多い。ロシアの犠牲者は、プーチン政権在任中の8年間だけで17人にのぼる。
 世界の報道の自由ランキングでは、ロシアは173ヶ国のうち141番目である。ちなみに、日本は29位、アメリカは36位。中国は167位、北朝鮮は172位だ。
 ロシアの世論調査によると、マスメディアに対する信頼度は、ロシア大統領、宗教団体、ロシア軍に続いて4番目と、意外なほど低い。
 マスメディアがロシア国民からあまり信用されていない理由は、民主主義が導入されると政治がよくなり、生活も豊かになるという神話が崩れ、それにともなって民主主義の旗手とされるマスメディアへの幻想も薄れたことによる。そして、メディアの大半が新興財閥や国営企業の参加に入り、国民のための報道というより、財閥や企業優位の報道というイメージが強くなったことにもとづく。
 検閲がなくなり、共産党による統制がなくなった反面、経営重視で売れる商品づくりに熱中したため、記事の質が低下した。新聞もテレビも商業主義に走り、その結果、ロシア国民の信頼を失った。
 ロシアでは、テレビの信頼度が他のメディアに比べて大きい。その信頼度で見ると、テレビが49%、新聞が21%という調査データもある。
 新聞は、人口1000人あたり91.8部で、10人に1人しか購読していない。ちなみに、日本では2人に1人。百万部以上も発行している日刊紙は、大衆紙1紙しかない。高級紙では、「コムソモリスカヤ・プラウダ」22万5000部の一紙しかない。つまり、ロシアを代表するといえる高級紙はなく、政府に影響力のある有力紙もないのである。それだけに、ロシアではテレビの影響力はますます大きくなっている。
 ロシアの政治には、もともと強権的な体質があり、国民の中にも、強い指導者を求める雰囲気が大勢を占めている。
 いやはや、ロシアに本当の民主化が定着するまでは、まだ相当の苦難が続きそうです。
(2009年2月刊。600円+税)

ナポレオン帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ジェフリー・エリス、 出版 岩波書店
 ナポレオンは9歳で陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官大学校を16歳で修了して砲兵少尉に任官した。砲兵中尉となったあと、大佐としてフランス正規軍に復帰し、トゥーロン攻囲戦で活躍して、24歳にして准将に昇進した。そして、准将のとき、1795年10月の王党派蜂起事件を鎮圧して名をあげた。
 この事件は、一般市民を鎮圧するためフランス大革命以降初めてパリ市中に公然と正規軍が投入されたという点で重要であり、先例となった。
 1796年3月、未亡人ジョゼフィーヌ32歳と結婚したとき、ナポレオンは26歳だった。彼女には前夫との間に子どもが2人いた。
 第一統領となったナポレオンは、秘密警察を配置して警察事態をひそかに監視しようと考えた。この業務をおもに担当したのがパリ警視庁である。警視総監は、名目上フーシェの指揮下に置かれていたが、実際にはナポレオンに対してのみ責任を負った。つまり、パリ警視庁は警察省から事実上独立して動いていた。
 ナポレオンは革命期の党派抗争を非建設的なものだったと考え、抗争を超越する立場に自身を置き、抗争が政治に及ぼしかねない衝撃を解消しようとした。
 1800年12月、ナポレオンを爆弾で暗殺しようとした企ては失敗に終わったが、わずか数秒差のことだった。犯人は王党派であったが、ナポレオンは事実を捻じ曲げてジャコバン派やバブーフ主義者130人を国外追放する口実に利用した。
 1810年までにパリで刊行を許された新聞は4紙のみとなり、いずれも政府の代弁機関であって、ナポレオンの戦勝を念入りに賞揚した。そのプロパガンダの狙いは、市民兵の士気を高揚せることにあった。
 ナポレオンは、信心深いわけでなく、カトリックの教義に好感を抱いてはいなかったが、その有用性をはっきり認識していた。社会の基盤をなし、イデオロギーによる鎮痛剤として有用なものとみ、教会に対して和解を持ちかけた。
 ナポレオンは民法典をつくる4人の委員会に頻繁に出席し、議長をつとめ、陣頭に立って草案内容に指示を与えた。これによって妻は法律上、夫に従属する存在となった。つまり、民法典の成立によってもっとも不遇をかこったのは、間違いなく女性であった。
 ナポレオンに仕える軍の将官の大部分は、さまざまなブルジョワ階層出身者であった。
 ナポレオンの大陸軍の将校集団は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政名士という新改装を生み出そうという構想だった。
 普通の兵士のほとんどは、貧困層出身、とくに小作農階層出身の青年男子であった。
 金銭にゆとりのある者は、代理人を立てて徴兵を遁れることができた。
 脱走兵は年平均で9600人にも及ぶと推計されている。徴兵は各地で抵抗運動を引き起こし、不正行為も誘発したが、山賊との戦いについてはナポレオンの憲兵隊に有産階級から期待が集まっていた。
 ナポレオンは、白紙から出発した変革者というより、既に知られ実践されてもいた軍事手法を整理し、一つにまとめあげた人物であった。そして、ナポレオンは天賦の即興の才を発揮した。しかし、ナポレオンは自分の大権を他人と共有することをひどく嫌った。ナポレオンが戦場で手にした成功は、その場しのぎの結果だった。
 以下、省略しますが、大変興味深い記述が続いており、ナポレオンそのものとナポレオン帝国の実相がよく分かる本でした。
 チューリップ500本が見事に咲きそろいました。一番に咲いていたものは花びらが落ち始めています。
 今年はじめて、玄関わきの植え込みにチューリップを植えてみました。ピンク・白・黄色の大きな花です。朝、出るときにそのカラフルな花を眺めると、さあ、行ってくるよ、と足取りが軽くなります。
 チューリップのほか、フリージアが咲き始めました。赤や黄色の小さい花をたくさんつけ、とても甘い香りをふりまいています。
 ボタンのつぼみが大きくなってきました。5月を待たずに4月のうちに咲いてくれるかもしれません。楽しみです。隣家の玄関脇にライトブルーのアイリスの花も見えます。我が家の庭は、春真っ盛りです。
(2008年12月刊。2600円+税)

ペーターという名のオオカミ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 那須田 淳、 出版 小峰書店
 私はドイツに2回だけ行ったことがあります。はじめは黒い森(シュヴァルツヴァルト)の酸性雨の被害調査です。今から20年以上も前のことでした。なるほど、黒い森の一角が立ち枯れていました。自動車の排ガスのせいだろうということでした。
 実は、このとき私が驚いたのは、そのことではありません。苦労して登っていった山の上の辺鄙なところに実に立派な山小屋レストランがあったことです。
 そこには、たくさんの老若男女がつめかけていて、昼から美味しい料理とビール、そしてワインで盛り上がっていました。ドイツ国民は山歩きが好きなんですね。ワンダーヴォーゲルという言葉(私の学生時代は、ワンゲルと略称していました)を実感しました。
 そのとき、実のところ私たちはズルをして車に分乗して山を登ったのですが、山小屋にいた人々は、もちろん、自分の足を頼りに登った人ばかりです。当然のことながら、まわりには私たちの車以外、車なんて見当たりませんでした。
 そこのレストランで出た料理はまことに本格的なものなんです。もちろん、ソーセージも本物です。電子レンジでチンという、ありきたりのファーストフードでないことに、私は深く感動してしまったのでした。
 2回目はベルリンです。このときに驚いたのは、アメリカのイラク侵攻の直前だったのですが、それに抗議するドイツの高校生のデモ隊が延々と続いていたことです。うひゃあ、これはすごい。正直、そう思いました。私も大学生のときには数限りなくデモ行進に参加しましたが、高校生のときにはまるでノンポリでした。東京ではデモなるものをやってるんだねー……というくらいでした。ところが、ベルリンの高校生たちは、顔にアメリカのイラク侵攻反対のペインティングをやって、明るく元気に大通りをデモ行進しているのです。この元気を今の日本の若者にも持ってほしいものだと、つくづく思いました。
 ずいぶんと前置きが長くなってしまいましたが、この本は少年少女向けのようですが、いやいや私のような還暦も過ぎてしまったいい大人向けの本でもあると思いました。いかにもみずみずしい感性で書かれた本です。
 主人公は7歳のときからドイツのベルリンに住んでいる日本人の少年です。今は14歳になり、新聞記者の父親には7年ぶりに日本への帰国命令が下っています。主人公は、そんな親の都合には振り回されたくなんかないと、プチ家出をします。家出をした先は日頃から付き合いのある家庭。だから、親もそっと見守っているだけです。そこへ、オオカミの子が迷い込んできて、話はややこしくなります。
 うまいんです、その筋立てが……。そっかー、こういう風に筋を組み立てていくと読者は魅かれるのか。ついつい、作家志向の私など、一人合点しながら読み進めていきました。
 それにしても、現代ヨーロッパにまだオオカミがいたなんて信じられません。そのオオカミの生態を踏まえて、よくストーリーが描けています。しかし、なんといっても話に深みを持たせているのは人間社会の闇です。東ドイツがあったとき、人々がどんな思いで暮らしていたのか、ベルリンの壁がなくなるとは、どういうことなのか、よくよく考えさせてくれます。
 そして、自然のなかに生きるオオカミを大切にするということが、人間の自由と尊厳を守ることに通じることまで考えさせてくれるのです。
 少し気分転換してみたいというときにおすすめの本です。
(2003年12月刊。1800円+税)

ヒトラーの特攻隊

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 三浦 耕喜、 出版 作品社
 第二次大戦のとき、日本軍は無謀なカミカゼ特攻隊を組織し、あたら有為の青年を多く死に追いやってしまいました。知覧に行くと、純真な青年たちの顔写真がたくさんあり、胸を痛めます。特攻を命じた軍上層部は敗戦と同時に「鬼畜米英」にすり寄っていき、その後輩たちはいまもってアメリカのいいなりの政治に加担しているのですから、浮かばれません。
 このカミカゼ特攻隊をナチス・ドイツも一回だけ真似したことがあるというのが本書で紹介されている話です。ところが、あのナチス・ドイツでは有為のドイツ青年を無駄死にさせるのはもったいないということで、一回きりで終わったというのです。戦前の日本は本当に人命軽視の国でした。
 1945年4月。ドイツの上空に侵入してくる連合国軍爆撃機の編隊に対して、機関砲などの戦闘能力を取り外し、急降下して体当たりするだけの特攻隊「エルベ特別攻撃隊」が出撃した。ドイツ北部のエルベ川周辺に展開したため「エルベ特攻隊」と呼ばれる。戦闘機180機が出撃し、80人が戦死・行方不明となった。
 日本の、カミカゼ特攻隊の第1号は1944年10月25日、レイテ沖でアメリカ艦船に体当たり攻撃を敢行した敷島隊である。このとき、関行男大尉(23歳)は、「僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本はおしまいだよ」と出撃の前に言った。いやあ、本当にそうですよね。未来は青年のものです。今の日本のように、平然と派遣切りをしながら、国を愛せなどとうそぶき、青年から仕事も未来も奪ったら、日本の将来はありませんよね。
 ドイツで体当たり特攻作戦が立案されたとき、ヒトラーは命令を下すのをためらった。あくまで自由意志だと強調し、自分の命令であるというのを避けた。
 「特別攻撃隊」という名前は、おおっぴらには使えず、「エルベ教育講習会」という名称で集められた。特攻隊の隊員は、熟練の飛行士ではなく、未熟な若者たちばかり。燃料は1時間分のみ積まれた。動員された180機のうち、故障や燃料不足のため、実際に飛び立ったのは150機ほど。そして、不時着したり、故障のため帰投する機が相次いだため、実際に敵に接触したのは100機程度。
 アメリカ軍の記録によると、墜落8機、大破5機、機体に損傷を被ったのは147機。本帰還者はドイツ側の記録によると77人。ゲッペルスは、日記に「期待したほどのことはなかった」と書いた。そして、エルベ特攻隊は解散してしまった。
 この特攻隊の指揮者だったハヨ・ヘルマンは戦後、弁護士の資格を得てネオ・ナチの弁護人となり、ネオ・ナチ運動に協力していった。95歳の今も健在だ。うへーっ、ひどいものですね。といっても、日本でも岸信介のように戦前の「革新」官僚が戦後日本の首相になったわけですから、ドイツのことを笑うわけにはいきません。
 人命軽視の戦前の日本の考え方は、今も根強いんじゃないかと思います。派遣切りも同じようなものですよね。
(2009年2月刊。1800円+税)

空白の日記

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ケーテ・レヒアイス、 出版 福音館日曜日文庫
 舞台はオーストリアの小さな村です。ナチスの影が平和な村に忍び寄ってきます。あのヒトラーもオーストリアの生まれでした。ですから、ヒトラーを賛美する村人もいます。もちろんヒトラーを軽蔑する人もいました。お城に住んでいるユダヤ人の伯爵夫妻は、ついに村を出ていかなければならなくなります。
 1938年3月、オーストリアにヒトラーが入ってきました。人々は、反対したくても反対できなくなっていました。ドイツへ併合されることを決めた国民投票でも、監視されるなか反対投票することはできなかったのです。人々はヒトラーの旗を家の前に立ててナチスを歓迎せざるをえません。学校の教室にもヒトラーの写真が掲げられるようになりました。
 ナチスが支配するようになると、浮浪者は借り集められ、「病死」させられました。それに異を唱えた司祭も逮捕されます。
 そして、村の若者たちが次々にナチスの軍隊にひっぱられていきます。やがて若者たちの戦死公報が村に届きます。そのうちドイツ本土も連合軍によって空襲されるようになりました。ドイツの敗戦も間近になったのですが、村人たちは今度は連合軍の攻撃に悩まされるのです。
 12歳の少女の目から見た第2次大戦前と戦中・戦後の日常生活が淡々と語られます。
 子どもたちを含めて、当時の多くの人々がナチスによる嘘で固めたいつわりの理想に強く惹きつけられていたいた日常生活の様子が細かく描写されています。
 「空白の日記」とは、あのころの高揚感に燃えた日々のことは、そのあとにきた失望と悔悟の思いから、その反動として記憶から消し去っていたことを意味しています。
 日本人にも、戦前・戦中のことを真正面から向き合いたくない人が多いように思えます。いかがでしょうか。
 
(1997年5月刊。1700円+税)

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