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カテゴリー: 社会

子どもは「育ちなおし」の名人!

カテゴリー:社会

著者   広木 克行 、 出版   清風堂書店
 教育学者による鋭い指摘には、はっと目が開かされる思いがします。
 いま大阪では政治の力で異常な「教育改革」が進められている。その本当の目的は、教師のなかから人間性を奪い、政治権力の僕(しもべ)として競争と管理の教育をすすめさせようとするものだ。子どもの元気や健康など、子どもの存在そのものに関心をもってるのではなく、点数化された子どもの一部の能力を見て、もっとがんばれと叱咤激励するのが教師の仕事だという。
 しかし、能力の原理だけに人間の意識が特化されていったとき、教師と子どもとの関係は深くむしばまれてしまう。
 秋葉原事件(2008年6月)を起こした青年は、小・中学校では学年トップクラスの成績をとっていた。
 人間関係の育ちを無視した頭だけの育ちは、人格の育ちを歪めてしまうものとなる。
幼児期から学力を能力を高めて教育中心の生活が強いられ、点数にこだわり、パニック状態になる子どもが増えている。
 関係をつくる力は、目には見えない力であり、点数化することができない。失敗もつまずきも経験できる豊かな関係の中でこそ、子どもたちは人間として育ち、育ちなおすことができる。
 携帯電話という情報端末が、いじめの質を非常に悪質にし、人の心を深く傷つけるものにしている。
 点数化し、序列化すると、子どもたちから遊びを奪うことになる。子どもたちがお互いに楽しく遊び育つことができるのは、子どもたちが横並びになっているときだ。点数化されると、子どもたちは、いつのまにか縦並びになっている。縦並びになると遊びが消えていく。
 教育とは、本来、一人ひとりの子どもが自分の長所と夢を育てることを支援する仕事であり、それを伸ばして実現するために知的、身体的、精神的な力を育てる仕事である。
 学校選択制や全国一斉学力テストの導入など、政府は教育を競争の手段と化す政策を一貫して強化してきた。
 競争の教育は、子どもと青年のなかに「自信の喪失」や「悲哀感」の強まりという深刻な問題を生み出す原因になっている。与えられた問題を要領よく解くだけの勉強、つまり学習と学力では自己決定ができず、自分が何をしたいのかさえ分からなくなって、自己喪失感を強める可能性がある。
 競争の教育は、子どもを点数に変え、子どもから余暇と遊びを奪い、生活を空洞化させる。それによって自己肯定感が育たず、人間としてもっとも大切な夢が奪われる。
 この本は、そんな困難な状況のなかでも、それをなんとか乗り越えていった実例がいくつもあげられ、救いがあります。読んで元気の出てくる本でした。
(2011年10月刊。1400円+税)

「国連子どもの権利委員会最終所見の生かし方」

カテゴリー:社会

著者   世取山 洋介 、 出版  子どもと教育・文化、道民の会
 国連子どもの権利委員会は2010年6月、日本政府に対して第3回最終所見を出しました。
 日本の子どもたちをめぐって国連がどんなことを言っているのか、どうせたいして分かっていないんだろうなという先入観があって読みはじめたのですがどうしてどうして、思わず居ずまいをただされるような素晴らしい内容でした。
 世取山(よとりやま)洋介・新潟大学教育学部准教授の講演によって、その内容を知ることができましたので、その講演の一部を紹介します。
 1997年に日本のNGOが国連に提出した報告書は「豊かな社会、日本における子ども期の喪失」というタイトルで次のように日本を説明した。
 「豊かであるにもかかわらず、子どもたちは本来保障されるべき子ども時代を喪失している。その原因は、競争主義的な制度が子どもの生活全体を覆い、子どもたちが家庭の中でもその競争に乗るように親からプレッシャーを与えられ、ありのままに受け入れられる人間関係を失っていることにある」
 これを受けて、国連子どもの権利委員会は、次のような最終所見を示した。
 「高度に競争主義的な性格の公教育制度が発達の歪みをもたらしている」ことへの懸念が示された。本来なら子どもの人格の全面的発達を実現するはずの公教育制度が、日本においてはそれとはまったく逆に子どもの発達の歪みをもたらしているという非常に強烈な評価が示されたのである。
 今回(第3回)の最終所見に向けて日本のNGOが出した報告書のタイトルは、「新自由主義社会日本における子どもの期の剥奪」だった。これは、いくらすり寄っても成果を上げなければご褒美がもらえないという新自由主義社会の構造が、家庭や公教育にまで浸透し、新たな困難を子どもに引き起こしていることを告発するものである。
 最終所見は、「本委員会は日本の学校制度が並み外れてすぐれた学力を達成していることを認識しているものの、学校および大学の入学をめぐって、競争する子どもの数が減少してるにもかかわらず、過度な競争への不満が増加していることに留意・懸念している。本委員会は、また、高度に競争主義的な学校環境が就学年齢にある子どもの間のいじめ、精神的障害、不登校・登校拒否、中退および自殺に寄与しうることを懸念する」と指摘している。
  そして、日本のNGOは、この10年間、日本の子どもたちの状況を海外の人に説明する場合に、四つの指標を使った。いじめ、不登校、校内暴力そして、自殺である。これは非常に競争主義的な学校に対して、子どもがとる対応のパターンをうまく表現するものとなっている。いじめはプレッシャーの他人への転嫁。不登校はプレッシャーの忌避。校内暴力はプレッシャーを与える相手の破壊、つまり原因の暴力による除去。そして、自殺はプレッシャーを感じる自分の破壊を意味する。この四つの指標の推移をみていくと、日本の子どもたちが直面している問題がわかる。
 最終所見は伝統的な困難に加えて、新しい困難も懸念として指摘した。パラグラフ60では、「本委員会は驚くべき数の子どもが情緒的幸福度の低さを訴えていることをしめすデータならびに、その決定要因が子どもと親及び子どもと教師の間の貧困さにあることを示すデータに懸念し、留意する」と書かれている。「情緒的幸福度の低さ」とは何か。ユニセフが行った調査で15歳未満の子に「あなたは寂しいですか」と訊いたところ、はいと答えた子供が、OECD諸国の平均値は7パーセントだったのに対して、日本では30パーセントを越えた。すなわち情緒的幸福度の低さとは、子どもが感じている「孤独感」のことなのである。
 子どもは、生まれた時から周りに働きかける能力をもっていて、そこから自分の欲求を満たすものを引き出して、それを内面化して、成長していく。そして、子どもの欲求表明に応答する大人との関係があってはじめて、このような主体性が生きたものになる。つまり、大人に依存して初めて主体的になりうるというのが、子どもの特徴である。
 子どもが事実としてもっている主体性を保障できるような人間関係をきちんと子どもたちにつくることが、子どもの権利の中核とならなくてはいけない。
 大切なことは、子どもの自己決定でもなく子どもを支配することでもなく、子供が主体的でありえるような人間関係をきちんと子どもに保証していく、それにもとづいて子どもの成長発達を、すべてのところで、家庭でも学校での現実しているくということである。
 では、子どもでは子どもの権利が実現されている、というのはどのような形をとっているのか。学校で子供の権利が実現されているかどうかを見極めるには何を見るのが良いのか。授業を始めると流れるような会話が教師と生徒との間で展開しているのかどうかが鍵になる。
 教壇に立って教材を子どもの前に呈示すると、子どもたちから面白い、面白くない、あるいは、わかる、わからないといった反応がすぐさま起き、それに自分が応答すると、次の会話が展開していく。次々と会話が流れ、いつの間にかチャイムがなって「はい終わり」となっているかどうか。
 子どもの自己決定論は基本的に間違いである。子どもが子どもであるということを無視して、子どもが大人と同じであることを強調したところで、日本における子どもの問題は解決しない。
 子どもに、大人がもっている権利―これは一般人権といわれる―子どもに拡大することではなくて、大人にはない子どもの固有の権利を日本社会にきちんと確立するためにこ子どもの権利条約を使うべきである。この条約は子ども固有の権利を軸にして成立していると理解することが正しい。
 自己決定権は、独りぼっちになれる権利である。独りぼっちになって決定を下し、その決定から生まれる事態に対して一人ぼっちで責任をとるということである。
 近代人権のエッセンスである自己決定権と比べたときに子どもの権利条約が画期的なのは、子ども時代は〝自律した個人″である必要はなく、逆に、依存してもかまわないし、依存しているべきなのだということをはっきりさせた、ということにある。
 「指導」という言葉は、日本政府代表が国連子どもの権利委員会による審査でたびたび用いてきた言葉である。「指導」の名の下に、大人が子どもの欲求をありのままに受け入れて、子どもの成長発達を実現するための活動を行っているのではなく、逆に、大人の欲求を子どもに押しつけていることへの懸念が今回の最終所見で示されている。
 自分のなかに、自分のことを肯定する自分、なぜ今のままで良いのか、なぜ変わらなければいけないのかを説明してくれる自分が育っていない。
 大卒資格を得ても、60%くらいの卒業者しか就職できない。つまり、競争の期間が大卒まで続き、しかも、大卒資格も安定した雇用を保障しない、「目当てのない」競争になっている。これを変えるためには、若者の雇用問題にメスを入れて、若者の雇用を拡大するという施策がどうしても不可避になる。
(2011年6月刊。  円+税)

原発推進者の無念

カテゴリー:社会

著者   北村 俊郎 、 出版   平凡社新書
 原子力をやってきた人間が原発の立地地域に棲まないでどうするんだという気持ちから、福島第一原発から7キロの富岡町に住んでいた著者の避難体験記です。本当に悲惨な体験で、読んでいて、その無念さが伝わってきて涙が出そうになりました。
 3.11によって、著者は人生観、世界観を変えられた。今まで原子力を推進してきた者として、無念さを感じるとともに、大いなる反省をせざるをえなかった。
 著者は技術者ではありません。経済学部を卒業して、日本原子力発電に入社し、管理部門を歴任してきたのです。
 7月に著者は一時帰宅したのですが、このとき、被曝線量は1時間あたり4マイクロシーベルト。もし、そのまま居住していたとすると、1年間に44ミリシーベルトの被曝を覚悟しなければならない。これは一般人の年間許容線量である1ミリシーベルトの44倍である。原発作業員の許容線量年間50ミリシーベルトと同じくらいになる。恐ろしいほどの線量ですね、これって・・・。
 富岡町と内村の人口をあわせると2万人。避難所に入っている人は、その2割程度。あとの8割は、親戚・知人を頼って各地に移り住んでいるということになる。
日本の原子力界は「原子カムラ」と呼ばれ、閉鎖的だとされているが、世界の原子力界も閉鎖的な傾向がある。30年間も原発を建設していないアメリカでは、多くの企業が原子力から撤退した結果、人材が枯渇し、原子力界は最盛期から何十年も原子力に関わってきた一部の人たちにより維持されている。どの国も原子力にかかわるメンバーが固定化する傾向にある。
 今回の原子力災害は、著者をいきなり避難者の立場にした。その立場で考えると原子力関係者が、いかに視野が狭く、現実的な視点が欠けていて、形式主義だったことが分かった。これが事故原因にも、避難の際の混乱にもつながる。異端を排除し、事なかれ主義が横行していては、原子力の安全は覚束ない。
 原発の是非には対する世論は原発のメリットと危険性を天秤にかけるという終わりのない論議から、安心して暮らせる社会はいかにあるべきかの方向に移行しつつある。世間に「原発は時代遅れのものだ」と烙印を押されることが、原発廃止の最大の決め手になる可能性がある。
 私は、九州でいうと玄海原発そして川内原発を直ちに廃炉にすべきだと考えています。といっても、運転停止をしても放射性物質をいったいどこへ持っていくのかという厄介な問題があります。九電は安全だと主張しているわけですから、九電本社のある電気ビルの地下に収納してもらえるのなら、それが一番いいと思うのですが、周囲がそれを許さないでしょう。では、いったいどこへ持っていったらいいのでしょうか・・・。九電の首脳部に答えてほしい問題です。
(2011年10月刊。780円+税)

教育をめぐる危機と展望

カテゴリー:社会

著者  日本民主法律家協会 、 出版  「法と民主主義」
    最新の『法と民主主義』(465号)は「教育をめぐる危機と展望」という特集を組んでいます。大阪で教育基本条例が制定されようとしています。橋下徹前府知事が提案したものです。教師をがんじがらめに統制しようという大変な条例です。こんな条例のもとで、子どもたちがのびのび学べるはずはありません。橋下市長はグローバル社会に勝ち抜く人材養成を目指すというのですが、かえって日本の子どもたちの学力を低下させるだけだと思います。問題は、こんなひどい条例案を支持する風潮があることです。
  それがなぜなのか、不思議に思っていましたが、その点について佐貫浩教授が次のように指摘していますので、紹介します。
  「高度成長の巨大な流れのなかの、学校教育は、競争的サバイバルの場へと変化していった・・・。勝者と弱者を区分する場として学校の学習・教育の過程を意味づけ、多くの子どもの挫折や希望剥奪を生み出さざるを得なくなり、教師をそのようなシステムの担い手、見方によっては『手先』という感覚でとらえられる位置へと追いやった。そして、落ちこぼれ、学校嫌い、不登校、いじめ、校内暴力、学級崩壊、等々の学校の危機、教育の危機が連続的に深刻化していった。
  その結果、70年代後半からの国民的な学校体験の様相が大きく変質する。今学校に子どもを通わせている親たち(1980~2000年頃に学校に通っていた)の学校体験からすれば、学校での学力競争に勝ち抜いてきた階層は、冷たく差別的な視線にさらされた否定的な場と捉えているのではないか。そしてその体験に、学習権実現を温かく支えてくれた学校や教師の記憶を求めることは難しくなっているのではないだろうか」
  「今求められているのは条件整備ではなく公費の非効率をもたらしている学校の閉塞性や密室性にあるとして、学校選択制や人事考課制度を導入し、市場の論理でもって教師と学校を、行政や親の要求に適合させるように競争させることこそが教育改革であるとした。そのため学校は、急速に過重化する学校教育課題に対処困難となり、学校の荒れや子どもの困難に取り組む力を失い、誇りや創造性を奪われた教職員の疲弊や病気が拡大し、しかもそれらの困難すらもが教師の力量不足や労働倫理の欠如によるものとして批判が教師に向かうという悪循環が展開している」
  「大阪の橋下知事(現大阪市長)は、大阪維新の会の『教育基本条例案』への文科省見解について『バカみたいなコメントに従う必要はない』と応答したという。そのような暴言を、公の責任あるトップの位置に就いている人物が表明しても、放置・容認されてしまうところに、現在の一つの特徴があると言うべきだろう。実はそこに公共性の問題がある。暴言的ですらある言説に対する心情的な同意が一定程度存在し、その指示を見込んで居直りとも言える態度が選ばれているとみることができる」
  「首長が公務員をその政策目標の実現のために命令・管理し、評価・統制することが当然とされる、それは住民要求の実現のためであり、それに対して教師の自由を掲げて教師が反対運動を行うのは、むしろ住民要求に対する敵対行為とみなされてしまう。こういう論理の下に、従来であれば〝教育の自由を侵す政治権力の介入″という文脈で読み取られた政策が、今日では、教師の専門性や倫理性を高めるために欠かせない〝教師と教育実践課程への管理・監督″、住民要求実現のための近代的教育管理という文脈での受け入れられてしまうことになるのである」
  「一向に事態が改善しない学校教育の実態、そしてその学校のあり方に親や住民がもの申す回路が閉ざされている実態に怒りすら覚えるなかで、しびれを切らした親・住民が、首長主導の上からの権力的な教育改革を―しかも『学力向上』というまさに教育の内容や価値にかかわる改変を―推進することへの期待すら生まれてしまう」
  「今、子どもの権利のための教育として前提されている学校教育の学習=教育の過程が、実態としては、正規雇用を確保するための個人化されたイス取りゲームになり、その失敗は自己責任とされてしまう。イスが減らされれば、教師がどうあがいても脱落するものが増え、学習権の実現、生存権を支える学習権とは何であるのかを問うこと自体困難になる」
  「国旗・国歌裁判における教師の権利の主張が、子どもの権利実現にとってどういう意味を持つかについての深い理解と同意を得ることを介して、教師の良心の自由や表現の自由、内心の自由が国民的に了解されるという論理の回路が豊かに作り出される必要がある。
  そもそも教育における教師の権利は、親・住民の願いに対する責務を背負った、そういう意味では二重の公共性を持った権利である」
(2012年1月刊。1000円+税)
 寒い朝でした。庭に霜柱が立っています。陽が差してくると、ダイヤモンド・ダストのようにキラキラと輝き出しました。チューリップの芽がぐんぐん伸びています。春が待ち遠しい、このごろです。

西の魔女が死んだ

カテゴリー:社会

著者   梨木 香歩 、 出版   新潮文庫
 わずか20頁あまりの薄い文庫本ですから、旅行の友として持ち歩いてみてはいかがでしょう。読後感も爽やかで、すーっと心が軽くなっていきますよ。
 中学生のころって、大人にはまだなりたくないけれど、もう子どもではないと宣言したくなる自分がいるじゃないですか。でも、やっぱり子どもの時代のままでもいたいし・・・。
 親からは早く自立したい。いろいろ親から言われると、それがたまらなくうっとうしい。でも、そうは言っても中学生が一人で自活できるわけでもない。友だちも深く突っこんで話せるような人はいない。心を許せる友人って、意外にいないもの・・・。
 主人公のまい(女の子)も登校拒否になってしまいます。ずっと優等生できたのに・・・。
 扱いにくい子。生きにくいタイプの子。母親からも、こんなレッテルを貼られてしまうのでした。そこで、まいは、田舎のおばあちゃんが一人住む家にしばらく預けられることになったのです。このおばあちゃんは、なんと日本人と結婚したガイジンさんなのです。自然のなかでゆったり過ごすおばあちゃんの家で生活しているうちにまいもいつのまにか生きていく自信を取り戻すのでした。
私自身は、小学校のころまでは家一番の笑い上戸でした。よく母親から、あんたは箸が転んでも笑う子だねと言われていました。ところが、中学生になると、親とはほとんど口を利かなくなりました。そして、高校生になると、優等生でしたから、親からガミガミ言われることはありませんので、内心、親を小馬鹿にしていました。自分ひとりでこの世に生まれ育ち、大きくなったかのような錯覚にとらわれていたのです。
 大学に入って、いろんな境遇の人と交わるようになって、自分が間違っていたことが少しずつ分かるようになりました。そして、弁護士になって10年ほどして、父親がガンにかかってから、その生い立ちを記録しようと思いたち、聞きとりを始めてその苦労を知ると同時に、親の歩みが実は日本の戦前戦後の歴史そのものだということを知って、大変な衝撃を受けたのでした。父そして母の伝記を本にまとめたのですが、私にとっても感銘深い冊子です。
 自分を見つめるには、なかなか時間がかかるものだということを実感させられる、いい本でした。
(2002年9月刊。400円+税)

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