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カテゴリー: 日本史(明治)

江戸から見直す民主主義

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)

著者 田中 優子 ・ 関 良基 ・ 橋本 真吾 、 出版 現代書館

 江戸時代も末、土佐藩の山内容堂は大政奉還を建白し、それを将軍慶喜も受け入れました。将軍慶喜としては、列藩の藩主による合議体によって朝廷を動かしていき、結局のところ、再び権力を握るつもりだったようです。

それはともかくとして、大政奉還建白書には庶民も議員になれると書いてあるので、議会が出来て国づくりが進んでいたら、日本は世界に誇るべき市民改革・平和革命を実現できたことになる。

 ところが、薩摩の西郷隆盛も長州の高杉晋作たちも、幕府を暴力的に倒したかった。将軍職を離れたとしても慶喜たちが合議体の有力な一員として残るなんてことは許せなかった。それで、江戸に騒動を起こして鳥羽・伏見の戦いにもってゆき、引き続き戊辰戦争で徳川幕府は体制を倒したかった。自分たちの権力を暴力的に実現したかった。その後、明治10年の西南戦争で薩摩の力をそいで、長州の山県有朋と伊藤博文が権力を握った。なるほど、そういうことなんですね。 長州勢は公議所なんて余計なものは置かずに、自分たちの権力を築き上げたかったのです。

 イギリス公使館への放火には伊藤博文も加担している。高杉晋作は高槻藩士である宇野八郎を卑怯な手口で暗殺した。さらに、伊藤博文は、国学者の塙(ハナワ)次郎を殺した殺人犯。韓国の王妃(閔妃)の暗殺を指示した日本公使の三浦悟郎は、長州藩出身で、元は奇兵隊士。伊藤博文も奇兵隊の出身(正確には力士隊に所属していた)。三浦悟郎とは幕末以来のテロ仲間。

「五箇条の御誓文」は、神権政治のもとになった文章。天皇が神様に向かって誓っている。誓う対象は国民ではなく、神様になっている。

 江戸時代の村の寄合いは全会一致になるまで話し合うのが原則だった。「反対」ということはなく、「不承知」であって、全員が納得するまで話し合って修正していった。

 江戸時代の後半には、村役人を「入札(いれふだ)」つまり投票で選ぶ慣行が広まっていた。明治2年には、50あまりの藩で地方議会を設置していた。明治8年に、公選制による県会が開設されていたのは少なくなかった。その一つに三潴県(久留米・柳川)も含まれている。

 江戸時代において、天皇は儀礼を司る存在だった。この伝統を生かしたら、天皇は主権者になることはなく、象徴的存在だった。ところが、江戸幕府を実力(武力)で打倒した藩閥政治は、祭政一致体制として、軍事力を最優先とする国づくりが行われた。日本人は国民ではなく、臣民となった。明治維新によって生み出された「国体」は、江戸の伝統から乖離(かいり)した奇異な体制だった。

 明治維新は、江戸文明のもつ民主的な要素を否定し去ったものであることを初めて認識しました。

 

(2025年12月刊。2530円)

明治維新という建国神話

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)

著者 青山 忠正 、 出版 吉川弘文館

 徳川将軍のもとに編成された大名家は、均一化された制度としてあったのではない。たとえば、毛利家は長門・周防(すおう)2カ国を領分とし、島津家は薩摩・大隅・日向二郡を領分とする「国主」(いわゆる国持大名)だった。およそ270家の大名家のうち国主は十八家しかない(俗にいう「十八国主」)。

 慶応3(1867)年10月に将軍慶喜がした「大政奉還」において、何を「奉還」したのか…。「大政」奉還と「政権」奉還は、何が違うのか…。

 十四代将軍家茂(いえもち)は領知宛行状を発給したが、十五代将軍慶喜は領知宛行状を発給していない。

 将軍慶喜は、「政権」返上したあと将軍の辞表も提出した。すなわち幕府はみずから消滅した。しかし、薩長にとって、これでは倒幕、すなわち徳川家の勢力を排除する目的が達成できない。慶喜が新政府に『議定』という要職で入るのを排除する必要がある。そこで、慶応4(1868)年1月3日から鳥羽・伏見の戦いが始まったのを西郷隆盛は喜んだ。薩長側は、徳川家を実力で排除したかったのである。

 孝明天皇は統仁(おさひと)というのを初めて知りました。睦仁(むつひと)とか明仁(なるひと)と読むのと同じ系統ですね。

 孝明天皇は外国嫌いで、攘夷にこり固まっているとばかり思っていましたが、「無謀の征夷」つまり異国との全面戦争は明確に否定していたのでした。外国と戦っても中国のアヘン戦争のようにみじめに敗北してしまうことを恐れていたのです。

 元治1(1864)年7月の禁門の変において、長州藩は敗退しますが、さらに四国連合艦隊が下関を砲撃する。これは、長州藩を攻撃するというより、攘夷そして横浜開港などを画策している朝廷に翻意を迫るものだった。

 版籍奉還といっても、明治維新に至る経過において徳川宗家一族を滅ぼすような計画は考えられたことも実行されたこともない。徳川家は明治から現代に至るまで健在である。「討幕」なるものは実行されていない。版籍奉還の真の狙いは、「王土王民」の理念を掲げて、あくまでも大名から領知を接収することにあった。

明治1年9月と11月に、公議所を開設するとの指示が出された。合議体は、ずっと名称を変えて構想されていた。ただし、「公議」のベースは、あくまでも大名家である。

明治2(1869)年6月、版籍奉還となり、太政官が知藩事を任命した。知藩事は当初は世襲の予定であったが、非世襲とされた。

明治新政府の「御親兵」として鹿児島から3千人、高知から1千人そして、山口からも4千人、合計8千の兵力を確保する。彼らに給付する家禄は東京府が支給し、兵士としての給与は兵部省が負担する。鹿児島藩としては、それだけ負担が軽減されることになる。

とても広い視野で、幕末そして明治維新の動きを分析していて、大変勉強になりました。 

 

(2026年1月刊。2200円)

琉球処分

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)

著者 塩出浩之 、 出版 中公新書

 明治政府が琉球を力でもって強引に支配したことを改めて認識しました。

徳川幕府は、島津氏に対して、琉球という国家の存続を前提に、その支配を認めた。琉球に日明貿易を仲介させるには、琉球が明の朝貢国であることが不可欠だった。明は、琉球を属国として維持することを重視し、引き続き朝貢を許した。琉球からすると、中国と日本の双方に付属することで、どちらにも完全には支配されず、一つの国家として行動する余地があった。

 1879年3月11日、明治新政府の太政官は琉球に対する一連の通達を発した。その要点は三つ。その一、廃藩置県を実施する。その二、沖縄県を設置し、県府を首里に置く。その三、尚寿を東京に居住させる。

 そのため、警察・軍隊を沖縄に動員した。警官160人、熊本鎮台分遣隊の380人が松田「処分官」に同行した。3月31日、日本の官吏・警官・兵員が首里城に入場して接収が完了した。4月4日、日本政府は沖縄県の設置を布告した。日本政府が警察と軍隊を動員して実施した琉球処分に、琉球は逆らえなかった。

 しかし、琉球の人々の抵抗が始まった。土族たちは、沖縄県政に対して非協力の姿勢をとった。各地の役人たちは、辞令書の受け取りを一様に拒んだ。土族たちは、いずれは清の助けを得て、琉球を復国するつもりだった。

日本政府側は尚泰の上京こそが最優先の課題だと判断した。

 5月7日、勅使と天皇の侍医が東京から沖縄に向かった。初代の沖縄県令である鍋島直彬(なおよし)も同じ船で沖縄に赴任した。

 5月27日、尚泰は、ついに東京に向かった。一行総勢は100人ほどで、那覇港には見送りのため数千人が詰めかけた。6月9日、尚泰は東京に到着し、6月17日、天皇に謁見した。

6月から沖縄県庁による弾圧が始まり、9月に収束するまで続いた。奉職命令を妨害したとして警察に拘留し、拷問した。その人数は300人から400人。その結果、ついに県庁への奉職を誓約した。

 清の北洋大臣の李鴻章は介入には消極的だった。結局、宮古・八重山諸島を清の領土とし、残るは日本の領土とする案を受諾することにした。清にとって重要なのは、日本とロシアによる挟みうちされるのを避けることだった。

 沖縄には、黒党、頑固党、開化党の三派があった。運動の手段は異なっていたが、琉球復国という目的は同じだった。

琉球処分の実際を初めて詳しく知ることができました。

(2025年6月刊。1100円+税)

自由民権創成史(上)

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店
 明治の初め(7年、8年ころ)、新聞の発行部数は、「日日」が223万部、「報知」206万部、「朝野」55万部、「曙」80万部、「真事誌」53万部となっている。新聞史上の戦国時代だった。すごい部数ですね。今はどの新聞も大激減し、みんな青息吐息の状況です。
新聞の絶大な威力に脅威を感じた太政官政府は、本腰を入れて対応しはじめた。
 「真事誌」が目の上のコブとなっていたことから、政府は編集者のブラックを内国人でないとして編集にあたられないようにした。明治8年6月、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が制定・公布され、内務省の所管となった。そして、「曙」、「朝野」、「報知」の各編集長が、禁獄2ヶ月とか罰金20円などに処せられた。
 明治5年、民事訴訟の代理人として代言人を制度化した。刑事訴訟の弁護が認められるのは明治15年1月の治罪法施行のあと。
 福沢諭吉も代言人制度には強い関心をもっていて、塾内に代言社を組織した。
明治8年5月から、大審院以下の裁判所制度が行政と分離して確立しはじめるなかで、全国の代言人の数は増加していった。
 当初は、裁判所の許可さえあれば、誰でも代言人をつとめることができた。しかし、明治9年2月、代言人規則を制定し、代言人試験に合格したものだけに資格を付与することにした。明治9年から、年に数回の試験が実施された。
幕府を倒すのに力があったのは頼(らい)山陽で、今は福沢諭吉だ。そう言われるほど、福沢諭吉の影響力は絶大だった。
 太政官政府は、王政復古と廃藩置県という二大変革を断行することによって、近世天皇、朝廷制度を確固として支え続けてきた将軍制度、そして大名制度を結果的に廃棄してしまった。
 明治8年6月、第1回の地方官会議が木戸孝允の議長のもとで開会した。この開催前に、公選民会を既に開催しているところがあった。ただし、福岡県にはなかった。
国会設立が先か、地方民会が先か、こんな論争があり、刃傷沙汰まで発生した。
 国会開設運動の中心には士族民権的色彩の強いものと、反華士族の立場を明確にした平民民権的なものとが混淆(こんこう)していた。
 士族の廃藩処分に対する思いは複雑だった。家禄を支給されつづけている士族たちは、数年前までの支配階級としての身分意識・自尊心を抱きつつ、自らの社会的存在意義を示す必要を痛感せざるをえない。
彼らにとって、対外危機は絶好の機会となる。士族の不満を外に転換させるための台湾出兵決定は、明治7年2月のこと。
 百姓・町人の立場からは、士族がその識を失ったあとも家禄が支給され続けていること自体が問題だった。すなわち、士族は人民保護の役割が消滅したと同時に、士族の兵役義務も存在しなくなった。
 士族以外の平民が民選議院の主体にならなくては、国政の根本的変化を惹起させることは不可能だというのが、平民民権論だった。華士族の家禄泰還こそが平民の辛苦を除去する方法とするのが平民民権論の特徴の一つだった。
 民選議院設立建白そのものが日本全国に衝撃を与え、全国の農民に新しい視野と斬新な展望を与える起爆剤となった。
 明治初めのころの激動する日本の実情を生き生きと紹介している本でもあります。
(2024年10月刊。3800円+税)

幸徳秋水伝

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 栗原 康 、 出版 夜光社
 無政府主義者宣言というサブタイトルがついた本です。幸徳秋水はアナーキストとして活動していて、官憲ににらまれ、ついに大逆事件で捕まり、刑死させられました。
高知県に生まれ育つなかで自由民権運動に触れ、東京に出て中江兆民の書生をし、万朝報(よろずちょうほう)で記者をつとめます。平民社で活動したあと、アメリカに渡って見聞を広め、日本に戻って足尾銅山の鉱毒事件に関わって田中正造翁とも結びつくのでした。
 足尾銅山で従業員が暴動を起こしたのは、1907年2月4日のこと。古河鉱業も経営する足尾銅山には8千人以上の坑夫たちが働いていた。強圧的に働かされていた坑夫たちが怒りを暴発させ、事務所や会社役員宅に放火し、略奪していった。
 ついに軍隊が出動。高崎連隊3個中隊、300人が到着して、600人以上を逮捕。うち182人が起訴された。会社の被害は28万円、今の9億3千万円にあたる。
 このとき、幸徳秋水は35歳で、アメリカから帰国したばかりだった。「平民新聞」を発刊して宣伝していた。
 幸徳秋水は、高知県の四万十市で1871年11月5日に生まれた。本名は伝次郎。父は薬種業、酒業をいとなむ商人。14歳のとき、高知市に出て勉強し、さらに東京へ出た。東京では自由民権運動が再燃していて、それに関わるうちに東京を追放された。伝次郎はまだ16歳。
 いったん郷里に戻り、再び東京に出た。そして中江兆民の書生(学僕)となる。中江兆民は24歳のとき、フランスに渡って、パリ・コミューンに遭遇した。
 19歳の伝次郎は東京で英語を勉強した。
 「万朝報」は、1895年に発行部数6万6千部もあった。そこで、片山潜などの社会主義者と出会った。このころ秋水は教育の「無償化」を呼びかけていた。
 ところが、この「万朝報」が1903年10月、突然日露開戦論を打ち出した。戦争に反対したら、「非国民」のレッテルを貼られてしまう。秋水は、「万朝報」をやめた。このとき31歳。
 平民社をつくって活動するようになった。片山潜や木下尚江、安部磯雄などが同志。
1903年11月、秋水たちは、週刊「平民新聞」を発刊した。平民社の3本柱は、「平民主義」、「社会主義」、「平和主義」だ。
日露戦争が1904年に始まると、ラジオの代わりに新聞が大いに売れるようになった。
「天子、金持ち、大地主。人の血を吸う、ダニがおる」
1909年10月初め、「ぼくと一緒に天皇を殺しませんか」と誘ったら、即答で「賛成」。同年11月3日、爆弾実験が成功した。同年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文は安重根よりピストルで暗殺された。
1910年6月1日、秋水は警察隊に捕まった。平沼騏一郎は、大逆事件でアナキストを大量に殺戮(さつりく)した。その功績が認められて、平沼は異例の大出世をとげてゆく。
平沼は、なんとしても大がかりな暗殺計画があったことにしたい。一大事件をフレームアップ(でっちあげ)して、社会主義者の血の雨を降らせる決意だった。
1911年1月18日、大逆事件の判決は、24人を死刑、残る2人は懲役11年と8年。そして、判決からわずか6日後の1月24日の午前7時10分、死刑が執行された。
450頁もの厚さの本に、一風変わった文体で、幸徳秋水の一生が語られていきます。読みやすくもあり、分かりにくいところもある伝記ですが、幸徳秋水の人柄は、よく伝わってくる本でした。
(2024年9月刊。3080円)

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