弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2009年6月25日
アイヒマン調書
著者 ヨッヘン・フォン・ラング、 出版 岩波書店
ナチス・ドイツが何百万人ものユダヤ人を強制収容所へ連行して、ガス室などで抹殺していった過程で、アイヒマンは実務的な官僚としてそれに深く関わり、遂行していた。
アイヒマンは、アウシュヴィッツとマイダネック強制収容所を視察し、そこでのユダヤ人抹殺工程を考えだした人物である。ただし、アイヒマンは他人が苦しむのを見て快楽を覚えるサディストではなかった。
アイヒマンは、ほとんど事務所の中で自らの仕事に専念し、結果として数百万の人間を死に追いやった。一官僚として、アイヒマンは死に追いやられる人間の苦痛に対して、何の感情も想像力も有してはいなかった。
アイヒマンはドイツの敗戦後、1950年春まで偽名と偽の身分証明書でドイツ国内に潜伏していた。アメリカ軍の捕虜となったこともあったが、2度も逃走に成功した。逃亡資金を貯め、バチカンルートでアルゼンチンへ逃亡した。バチカンのカトリック関係者によって元ナチ戦犯の海外逃亡支援が行われていたのだ。多くの元ナチ親衛隊員がこれによって旅券の交付を受けた。アイヒマンを支援したのは、ローマのカトリック司祭、アントン・ヴェーバーだった。1950年から、アイヒマンはアルゼンチンに居住し、偽名で働いていた。そこでは、ユダヤ人の大家に助けられていた。なんという皮肉でしょうか……。
1960年5月。アイヒマンはイスラエルのモサドの手によって、イスラエルへ連行され、警察による取り調べが始まった。このとき取り調べにあたった警察官の第一印象は、次のようなものでした。
目の前に現れた人物は、自分より少し背が高いだけの、細身というよりやせぎすで、頭の禿げあがった平凡な男に過ぎなかった。フランケンシュタインでも、角の生えたびっこの悪魔でもなかった。外見だけでなく、そのきわめて事務的な供述は、事前に抱いていたイメージとかけ離れたものだった。
アイヒマンにはユーモアが完全に欠如していた。その薄い唇に何回か笑いが浮かんだことはあったが、目は決して笑わない。その眼は、いつも嘲笑的で、同時に攻撃的だった。
とくに印象的だったのは、アイヒマンが自分の犯した凄惨な罪に対して明らかに何の感情も持っておらず、まったく悔恨の情を示さないことだった。自分のなした行為について、まったく鈍感だった。ふむふむ、ユダヤ人を大量殺害する機構の歯車は、こんな人物だったのですね。ということは、隣人がいつ大量殺人鬼になるかもしれないということです。
アイヒマンは、取調の途中、いつも食欲旺盛だった。アイヒマンは、ヒトラーの主張に賛成はしていたが、『わが闘争』を通読したことは一度もなかった。実のところ、アイヒマンは読書をしない人間だった。犯罪小説も恋愛小説も読んだことがなかった。
アイヒマンは、自分はユダヤ人の殺害とは何の関係もない、一人のユダヤ人も殺していない。ただ、ユダヤ人の移送に関与していただけだと言い張った。アイヒマンは、ユダヤ人を安住の地へと移住させることに専念していたと何度となく主張した。
実際には、アイヒマンは当時30代であり、非常に活動的でエネルギッシュな人物だった、ユダヤ人絶滅のために常に新しい計画を考案し、方法の改良に熱意を示した極めて勤勉な男だった。アイヒマンは、ユダヤ人問題の最終解決に関する命令を受けていた。
アイヒマンの尋問はすべて録音され、その反訳調書は本人がチェックして間違いないことを確認した。275時間、3564枚の調書がある。その一部が再現されていて、大変興味深い内容となっています。日本でも、戦犯に対しこのような責任追及がきちんとなされたのか、心配になりました。
(2009年3月刊。3400円+税)
2009年6月15日
フランスの子育てが日本より10倍楽な理由
著者 横田 増生、 出版 洋泉社
子どもにとって、きちんとした食事や十分な睡眠が成長に不可欠であるのと同じように、大人の注目や時間もまた、子どもの大切な栄養分なのだ。3歳までの子どもにとっては、身近にいる人間の注意や愛情を十分に受け取ることが必要なのだ。
私も弁護士になってから35年が過ぎましたが、表情の乏しい大人の顔を見ると、きっと子どものころに親の愛情に満ちた声かけが少なかったのだろうな、と思うようになりました。親から愛情をたっぷり注ぎこまれた子どもは、大人になっても断然、その表情、とりわけ眼の輝きが違います。
日本と違って、フランスでは出生率が再上昇している。それには3つの理由がある。一つは所得格差が小さいこと。二つは職場における男女格差が小さいため、女性が仕事か子育てかの二者択一を迫られることがないこと。三つには、週35時間労働にあらわれているように、労働時間が短いため、男女とも育児や家事に参加できること。
ふむふむ、これはなるほど日本とは大違いです。
フランスでは、女性が難なく仕事と子どもの両方を選ぶことが出来る。女性が子どもを産んでも、それまでとほとんど変わらない生き方をしていけるのがフランスなのである。
うむむ、な、なるほど、ですね。さすがフランスです。
フランスで子育てが前向きにとらえられる理由の一つに、政府の支援策によって子育ての負担が大きく軽減されることがある。とくに子どもが3人以上いる家族は、大家族として手厚い支援を受ける仕組みがある。家族手当の額が増えるだけでなく、交通機関や動物園、美術館、博物館などで割引を受けられる。うひゃあ、うらやましいですよ、これって。
フランスでは、3歳から公立の学校に通える。
ええーっ、保育園ではなく、学校なのですか…?
フランスでは、ほぼ100%の子どもが3歳からエコル・マテルネルに通う。8時半から4時半まで、学費は無料。ちなみに、公立学校なら、大学卒業まで学費はタダ。
うへーっ、なんと…タダ。しかも、今、2歳からにしたらどうかと議論されているというのです。これには、さすがにまいりました。
フランスでは、日本のように夫が給料袋をそっくり妻に渡すようなことはしない。フランスの男性は、自分で稼いだお金は自分で管理する。だから、専業主婦になると、自分の自由になるお金がないことになる。ふむふむ、だからフランスの女性は働きたいのですね。
子どもに対して支払われる養育手当の財源は、企業が労働者の賃金に5%を上乗せして納める税金である。つまり、労働者に年100万円の賃金を支払っていると、5万円を企業は国に支払うことになる。これって、日本でも考えていい制度ですよね。
フランスの大統領選挙の投票率は、80%を超す。
ここですよね、日本との違いの決定的なところです。日本人の多くが、政治にあきらめてしまっています。フランスでは、そんなことはありません。政府の方針がおかしいと思うと、女子高生が一人で街頭でプラカードを手にしてデモ行進をして意思表示します。やがて、賛同者が増えて、いつのまにか道路を埋めるデモ行進になるのです。日本のような、連帯心の欠如というものがありません。みんな、明日は我が身と考えるのです。デモ行進で一時的な迷惑は受けるけれど、それよりもっと肝心なことがあるので、そちらを考えて連帯するわけです。
私の事務所のホームページのブログで、「私の本棚」シリーズを始めました。私の読んだ本をジャンル別に本棚の写真をあわせて、順次、公開していきます。ぜひ、あわせてアクセスしてみてください。
(2009年3月刊。1400円+税)
2009年4月 9日
ロシアのマスメディアと権力
著者 飯島 一孝、 出版 東洋書店
わずか64頁のうすっぺらなブックレットですが、ロシアにおけるマスメディアの置かれている状況が実に簡潔にまとめられていて、よく分かります。ソ連時代より統制は緩和されたのでしょうが、それにしても権力によるマスメディアの統制はかなりのものです。でも、よくよく考えてみれば、日本だって似たようなものでしょう。五十歩百歩という気がします。
今のプーチン首相は、1999年12月31日、エリツィン大統領の突然の辞任表明を受け、大統領代行に任命された。そして、2000年3月の大統領選で当選し、第二代ロシア大統領に就任した。このとき、マスメディアが大々的に動いて逆転勝利した裏話も紹介されています。要するに、今の日本と同じで、お金の力にものを言わせて票をもぎとったのです。
プーチンが最初に手掛けた仕事は二大メディア財閥の強制排除で、自らの出身母体である旧KGBの元同僚などをつかって、メディア財閥大物二人の国外追放に成功した。
プーチン政権が誕生したころ、強大な力をもつ新興財閥がメディアを利用してプーチン政権の政策を妨害するのは必至の情勢だった。そこで、新興財閥からメディアを切り離し、プーチン政権がメディアをコントロールする必要があった。
新興財閥のなかでもグシンスキー氏とベレゾフスキー氏がもっとも強力だった。2人ともユダヤ系で、それぞれ総帥をつとめるグループは、メディアだけでなく、経済界全体をリードしていた。プーチンがメディア財閥排除を決意するに至ったのは、エリツィン時代末期の激しい政権争いを目の当たりにしたことによる。
グシンスキー氏は逮捕されたあと、スペインへ出国、亡命した。
グシンスキー氏は、検察庁に出頭を命じられて拒否し、イギリスに出国、亡命した。
こうやってロシアのテレビは反国ネット3局とも政府系になった。しかし、プーチン政権による強権的なテレビ支配に対して、世論の大きな反対は起きなかった。政府や経営陣の説明をそのまま受け止める人が多く、「言論の自由の問題」と深刻に考えているロシア国民は少なかった。しょせん、新興財閥とメディアの争い、とクールに眺めていた。な、なーるほど、ですね。日本の国民も、実際、あまり表現の自由に関心を示していませんよね。
プーチン政権がマスメディアを支配できた背景には、「シロビキ」と呼ばれる旧KGBなどの治安・情報機関出身者が、政権の主流派を占めていたこともあげられる。プーチンが彼らを積極的に登用したため、政府機関の幹部の8割を占めるに至ったとも指摘されている。彼らは捜査機関や実力部隊にさまざまなネットワークをもっていて、監視もしやすいことから、メディア支配の実効はよかった。
ソ連が崩壊した1992年から2008年までにロシアのジャーナリスト49人が殺害された。この死者の数は、イラクの135人、アルジェリアの60人に続いて3番目に多い。ロシアの犠牲者は、プーチン政権在任中の8年間だけで17人にのぼる。
世界の報道の自由ランキングでは、ロシアは173ヶ国のうち141番目である。ちなみに、日本は29位、アメリカは36位。中国は167位、北朝鮮は172位だ。
ロシアの世論調査によると、マスメディアに対する信頼度は、ロシア大統領、宗教団体、ロシア軍に続いて4番目と、意外なほど低い。
マスメディアがロシア国民からあまり信用されていない理由は、民主主義が導入されると政治がよくなり、生活も豊かになるという神話が崩れ、それにともなって民主主義の旗手とされるマスメディアへの幻想も薄れたことによる。そして、メディアの大半が新興財閥や国営企業の参加に入り、国民のための報道というより、財閥や企業優位の報道というイメージが強くなったことにもとづく。
検閲がなくなり、共産党による統制がなくなった反面、経営重視で売れる商品づくりに熱中したため、記事の質が低下した。新聞もテレビも商業主義に走り、その結果、ロシア国民の信頼を失った。
ロシアでは、テレビの信頼度が他のメディアに比べて大きい。その信頼度で見ると、テレビが49%、新聞が21%という調査データもある。
新聞は、人口1000人あたり91.8部で、10人に1人しか購読していない。ちなみに、日本では2人に1人。百万部以上も発行している日刊紙は、大衆紙1紙しかない。高級紙では、「コムソモリスカヤ・プラウダ」22万5000部の一紙しかない。つまり、ロシアを代表するといえる高級紙はなく、政府に影響力のある有力紙もないのである。それだけに、ロシアではテレビの影響力はますます大きくなっている。
ロシアの政治には、もともと強権的な体質があり、国民の中にも、強い指導者を求める雰囲気が大勢を占めている。
いやはや、ロシアに本当の民主化が定着するまでは、まだ相当の苦難が続きそうです。
(2009年2月刊。600円+税)
2009年4月 8日
ナポレオン帝国
著者 ジェフリー・エリス、 出版 岩波書店
ナポレオンは9歳で陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官大学校を16歳で修了して砲兵少尉に任官した。砲兵中尉となったあと、大佐としてフランス正規軍に復帰し、トゥーロン攻囲戦で活躍して、24歳にして准将に昇進した。そして、准将のとき、1795年10月の王党派蜂起事件を鎮圧して名をあげた。
この事件は、一般市民を鎮圧するためフランス大革命以降初めてパリ市中に公然と正規軍が投入されたという点で重要であり、先例となった。
1796年3月、未亡人ジョゼフィーヌ32歳と結婚したとき、ナポレオンは26歳だった。彼女には前夫との間に子どもが2人いた。
第一統領となったナポレオンは、秘密警察を配置して警察事態をひそかに監視しようと考えた。この業務をおもに担当したのがパリ警視庁である。警視総監は、名目上フーシェの指揮下に置かれていたが、実際にはナポレオンに対してのみ責任を負った。つまり、パリ警視庁は警察省から事実上独立して動いていた。
ナポレオンは革命期の党派抗争を非建設的なものだったと考え、抗争を超越する立場に自身を置き、抗争が政治に及ぼしかねない衝撃を解消しようとした。
1800年12月、ナポレオンを爆弾で暗殺しようとした企ては失敗に終わったが、わずか数秒差のことだった。犯人は王党派であったが、ナポレオンは事実を捻じ曲げてジャコバン派やバブーフ主義者130人を国外追放する口実に利用した。
1810年までにパリで刊行を許された新聞は4紙のみとなり、いずれも政府の代弁機関であって、ナポレオンの戦勝を念入りに賞揚した。そのプロパガンダの狙いは、市民兵の士気を高揚せることにあった。
ナポレオンは、信心深いわけでなく、カトリックの教義に好感を抱いてはいなかったが、その有用性をはっきり認識していた。社会の基盤をなし、イデオロギーによる鎮痛剤として有用なものとみ、教会に対して和解を持ちかけた。
ナポレオンは民法典をつくる4人の委員会に頻繁に出席し、議長をつとめ、陣頭に立って草案内容に指示を与えた。これによって妻は法律上、夫に従属する存在となった。つまり、民法典の成立によってもっとも不遇をかこったのは、間違いなく女性であった。
ナポレオンに仕える軍の将官の大部分は、さまざまなブルジョワ階層出身者であった。
ナポレオンの大陸軍の将校集団は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政名士という新改装を生み出そうという構想だった。
普通の兵士のほとんどは、貧困層出身、とくに小作農階層出身の青年男子であった。
金銭にゆとりのある者は、代理人を立てて徴兵を遁れることができた。
脱走兵は年平均で9600人にも及ぶと推計されている。徴兵は各地で抵抗運動を引き起こし、不正行為も誘発したが、山賊との戦いについてはナポレオンの憲兵隊に有産階級から期待が集まっていた。
ナポレオンは、白紙から出発した変革者というより、既に知られ実践されてもいた軍事手法を整理し、一つにまとめあげた人物であった。そして、ナポレオンは天賦の即興の才を発揮した。しかし、ナポレオンは自分の大権を他人と共有することをひどく嫌った。ナポレオンが戦場で手にした成功は、その場しのぎの結果だった。
以下、省略しますが、大変興味深い記述が続いており、ナポレオンそのものとナポレオン帝国の実相がよく分かる本でした。
チューリップ500本が見事に咲きそろいました。一番に咲いていたものは花びらが落ち始めています。
今年はじめて、玄関わきの植え込みにチューリップを植えてみました。ピンク・白・黄色の大きな花です。朝、出るときにそのカラフルな花を眺めると、さあ、行ってくるよ、と足取りが軽くなります。
チューリップのほか、フリージアが咲き始めました。赤や黄色の小さい花をたくさんつけ、とても甘い香りをふりまいています。
ボタンのつぼみが大きくなってきました。5月を待たずに4月のうちに咲いてくれるかもしれません。楽しみです。隣家の玄関脇にライトブルーのアイリスの花も見えます。我が家の庭は、春真っ盛りです。
(2008年12月刊。2600円+税)
2009年4月 3日
ペーターという名のオオカミ
著者 那須田 淳、 出版 小峰書店
私はドイツに2回だけ行ったことがあります。はじめは黒い森(シュヴァルツヴァルト)の酸性雨の被害調査です。今から20年以上も前のことでした。なるほど、黒い森の一角が立ち枯れていました。自動車の排ガスのせいだろうということでした。
実は、このとき私が驚いたのは、そのことではありません。苦労して登っていった山の上の辺鄙なところに実に立派な山小屋レストランがあったことです。
そこには、たくさんの老若男女がつめかけていて、昼から美味しい料理とビール、そしてワインで盛り上がっていました。ドイツ国民は山歩きが好きなんですね。ワンダーヴォーゲルという言葉(私の学生時代は、ワンゲルと略称していました)を実感しました。
そのとき、実のところ私たちはズルをして車に分乗して山を登ったのですが、山小屋にいた人々は、もちろん、自分の足を頼りに登った人ばかりです。当然のことながら、まわりには私たちの車以外、車なんて見当たりませんでした。
そこのレストランで出た料理はまことに本格的なものなんです。もちろん、ソーセージも本物です。電子レンジでチンという、ありきたりのファーストフードでないことに、私は深く感動してしまったのでした。
2回目はベルリンです。このときに驚いたのは、アメリカのイラク侵攻の直前だったのですが、それに抗議するドイツの高校生のデモ隊が延々と続いていたことです。うひゃあ、これはすごい。正直、そう思いました。私も大学生のときには数限りなくデモ行進に参加しましたが、高校生のときにはまるでノンポリでした。東京ではデモなるものをやってるんだねー……というくらいでした。ところが、ベルリンの高校生たちは、顔にアメリカのイラク侵攻反対のペインティングをやって、明るく元気に大通りをデモ行進しているのです。この元気を今の日本の若者にも持ってほしいものだと、つくづく思いました。
ずいぶんと前置きが長くなってしまいましたが、この本は少年少女向けのようですが、いやいや私のような還暦も過ぎてしまったいい大人向けの本でもあると思いました。いかにもみずみずしい感性で書かれた本です。
主人公は7歳のときからドイツのベルリンに住んでいる日本人の少年です。今は14歳になり、新聞記者の父親には7年ぶりに日本への帰国命令が下っています。主人公は、そんな親の都合には振り回されたくなんかないと、プチ家出をします。家出をした先は日頃から付き合いのある家庭。だから、親もそっと見守っているだけです。そこへ、オオカミの子が迷い込んできて、話はややこしくなります。
うまいんです、その筋立てが……。そっかー、こういう風に筋を組み立てていくと読者は魅かれるのか。ついつい、作家志向の私など、一人合点しながら読み進めていきました。
それにしても、現代ヨーロッパにまだオオカミがいたなんて信じられません。そのオオカミの生態を踏まえて、よくストーリーが描けています。しかし、なんといっても話に深みを持たせているのは人間社会の闇です。東ドイツがあったとき、人々がどんな思いで暮らしていたのか、ベルリンの壁がなくなるとは、どういうことなのか、よくよく考えさせてくれます。
そして、自然のなかに生きるオオカミを大切にするということが、人間の自由と尊厳を守ることに通じることまで考えさせてくれるのです。
少し気分転換してみたいというときにおすすめの本です。
(2003年12月刊。1800円+税)
2009年3月29日
ヒトラーの特攻隊
著者 三浦 耕喜、 出版 作品社
第二次大戦のとき、日本軍は無謀なカミカゼ特攻隊を組織し、あたら有為の青年を多く死に追いやってしまいました。知覧に行くと、純真な青年たちの顔写真がたくさんあり、胸を痛めます。特攻を命じた軍上層部は敗戦と同時に「鬼畜米英」にすり寄っていき、その後輩たちはいまもってアメリカのいいなりの政治に加担しているのですから、浮かばれません。
このカミカゼ特攻隊をナチス・ドイツも一回だけ真似したことがあるというのが本書で紹介されている話です。ところが、あのナチス・ドイツでは有為のドイツ青年を無駄死にさせるのはもったいないということで、一回きりで終わったというのです。戦前の日本は本当に人命軽視の国でした。
1945年4月。ドイツの上空に侵入してくる連合国軍爆撃機の編隊に対して、機関砲などの戦闘能力を取り外し、急降下して体当たりするだけの特攻隊「エルベ特別攻撃隊」が出撃した。ドイツ北部のエルベ川周辺に展開したため「エルベ特攻隊」と呼ばれる。戦闘機180機が出撃し、80人が戦死・行方不明となった。
日本の、カミカゼ特攻隊の第1号は1944年10月25日、レイテ沖でアメリカ艦船に体当たり攻撃を敢行した敷島隊である。このとき、関行男大尉(23歳)は、「僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本はおしまいだよ」と出撃の前に言った。いやあ、本当にそうですよね。未来は青年のものです。今の日本のように、平然と派遣切りをしながら、国を愛せなどとうそぶき、青年から仕事も未来も奪ったら、日本の将来はありませんよね。
ドイツで体当たり特攻作戦が立案されたとき、ヒトラーは命令を下すのをためらった。あくまで自由意志だと強調し、自分の命令であるというのを避けた。
「特別攻撃隊」という名前は、おおっぴらには使えず、「エルベ教育講習会」という名称で集められた。特攻隊の隊員は、熟練の飛行士ではなく、未熟な若者たちばかり。燃料は1時間分のみ積まれた。動員された180機のうち、故障や燃料不足のため、実際に飛び立ったのは150機ほど。そして、不時着したり、故障のため帰投する機が相次いだため、実際に敵に接触したのは100機程度。
アメリカ軍の記録によると、墜落8機、大破5機、機体に損傷を被ったのは147機。本帰還者はドイツ側の記録によると77人。ゲッペルスは、日記に「期待したほどのことはなかった」と書いた。そして、エルベ特攻隊は解散してしまった。
この特攻隊の指揮者だったハヨ・ヘルマンは戦後、弁護士の資格を得てネオ・ナチの弁護人となり、ネオ・ナチ運動に協力していった。95歳の今も健在だ。うへーっ、ひどいものですね。といっても、日本でも岸信介のように戦前の「革新」官僚が戦後日本の首相になったわけですから、ドイツのことを笑うわけにはいきません。
人命軽視の戦前の日本の考え方は、今も根強いんじゃないかと思います。派遣切りも同じようなものですよね。
(2009年2月刊。1800円+税)
2009年3月28日
空白の日記
著者 ケーテ・レヒアイス、 出版 福音館日曜日文庫
舞台はオーストリアの小さな村です。ナチスの影が平和な村に忍び寄ってきます。あのヒトラーもオーストリアの生まれでした。ですから、ヒトラーを賛美する村人もいます。もちろんヒトラーを軽蔑する人もいました。お城に住んでいるユダヤ人の伯爵夫妻は、ついに村を出ていかなければならなくなります。
1938年3月、オーストリアにヒトラーが入ってきました。人々は、反対したくても反対できなくなっていました。ドイツへ併合されることを決めた国民投票でも、監視されるなか反対投票することはできなかったのです。人々はヒトラーの旗を家の前に立ててナチスを歓迎せざるをえません。学校の教室にもヒトラーの写真が掲げられるようになりました。
ナチスが支配するようになると、浮浪者は借り集められ、「病死」させられました。それに異を唱えた司祭も逮捕されます。
そして、村の若者たちが次々にナチスの軍隊にひっぱられていきます。やがて若者たちの戦死公報が村に届きます。そのうちドイツ本土も連合軍によって空襲されるようになりました。ドイツの敗戦も間近になったのですが、村人たちは今度は連合軍の攻撃に悩まされるのです。
12歳の少女の目から見た第2次大戦前と戦中・戦後の日常生活が淡々と語られます。
子どもたちを含めて、当時の多くの人々がナチスによる嘘で固めたいつわりの理想に強く惹きつけられていたいた日常生活の様子が細かく描写されています。
「空白の日記」とは、あのころの高揚感に燃えた日々のことは、そのあとにきた失望と悔悟の思いから、その反動として記憶から消し去っていたことを意味しています。
日本人にも、戦前・戦中のことを真正面から向き合いたくない人が多いように思えます。いかがでしょうか。
(1997年5月刊。1700円+税)
2009年3月23日
中世世界とは何か
著者 佐藤 彰一、 出版 岩波書店
ヨーロッパ中世のころ、土地は皇帝から下賜された。法的に完全な所有権の名義で領有できたが、領主が皇帝の不興を買うような不始末をしたときには、その土地が皇帝のもとに回収された。その意味で、皇帝への忠誠とねんごろな奉仕を条件として与えられた目的贈与であった。授与者への忠誠を条件とする譲渡という法的性質が、主君への忠誠を条件とする封建制度の封にも継承されたのである。
封建制は、このように、もともと別個に発展してきた2つの制度である主従制と恩貸地制とが結合したことにより生まれた。
カール・マルテルは、732年のトゥール・ポワティエの戦いで、イスラーム騎馬兵の脅威に震撼し、本格的な徴兵制への転換を図った。
ヨーロッパでそれまで飼育されてきたのは、イスラーム騎馬兵が乗りこなしている馬と比べて、馬体も小さく、重量も軽い、見劣りする馬種だった。そこで、カール・マルテルはアラブ馬を入手し、それを基礎とした高速移動の騎馬隊の整備に乗り出した。
鐙(あぶみ)の使用による大きな槍のしっかりした固定化、これが騎兵の威力を格段に高めた。重装騎兵の誕生である。
軍隊の高速かつ機動的な展開に必要な騎馬兵を大量につくり出す目的で、カール・マルテルとその息子たちは、教会や修道院の土地を没収して家臣たちに配分した。騎馬兵制は、歩兵制に比べて、装備と訓練に多額の費用がかかるために、兵に十分な経済的基盤を与える必要があった。
生まれ育った家や故郷を離れ、地位を求めて遍歴する二男、三男層の騎士の中には、僥倖を得て、上層の貴族の末娘を妻に迎える者もあった。新たな門地を立てるのに成功した騎士の血統の高貴さは、往々にして母方の血統からもたらされた。男系血族優位の趨勢の中でも、一門の栄光の源泉として女系の寄与もまた看過しえないものがあった。
このようにしてヨーロッパの歴史において、初めて身分としての貴族が誕生した。
事実上の貴族から法的身分としての貴族に脱皮するには、騎士理念の普及・長子の単独相続制という、それまでのヨーロッパにおいて原理として確立していなかった新しい要素が必要だった。
国王の権威によって、一片の書状(貴族叙任状)により貴族の列に加わることができたということは、それまでのヨーロッパにはなかった、まったく新しい貴族像の出現を意味した。1500年までの200年間に、年平均10通の貴族叙任状が発給され、合計で2000通を数えた。
中世フランスの身分貴族にとって、イングランドとの百年戦争(1337~1453年)は一大惨禍であった。1300年に存在していた貴族家門の大部分が、1500年には断絶していた。1424年にシャルル7世が敗北を喫したヴェルサイユの戦いで、シャルル王の騎士貴族の大半が戦死した。そして捕虜となった家族の身代金調達は、多くの門閥を疲弊させ、没落させた。このあと貴族となったのは、中世貴族との系譲関係をもたない新参者たちの家系であった。
中世イングランドでは、フランスと同じ意味での貴族身分は成立しなかった。
フランスのような貴族叙任状が発給されることはなかった。荘園領主、国王役人、地方政治の主要メンバーである騎士などが圧倒的多数の平民に君臨していた。
イングランドでは、中世の貴族を規定するための唯一有効な定義は、その者が貴族のような服装をして、貴族のように振舞って、物笑いにならないことである。そして、イングランド王権は、議会という枠組みのなかで貴族を位置づけた。
十分に理解できないところも多々ありましたが、貴族の発生についてのフランスとイギリスの違いは、面白いと思ったことでした。ヨーロッパでは、今でも事実上、貴族身分というのが生きているそうですから驚きます。
春らんまんの候となりました。朝、雨戸を開けると、色とりどりのチューリップが目に入ります。パステルカラーというのでしょうか、鮮やかなピンク色のチューリップがひと固まり咲いて、春だよ、うれしいなと声をかけあっています。見ていると、心が軽く浮き浮きしてきます。
朝、咲いている本数を数え、午後からまた数えると、倍近くも増えています。20日の午前中に数えたら、80本ほどでした。
(2008年11月刊。2800円+税)
2009年3月20日
ミレニアム1(下)
著者 スティーグ・ラーソン、 出版 早川書房
衝撃の結末です。その内容は読む人の楽しみを奪ってしまいますので、紹介を遠慮しておきます。上巻につづいて、ハラハラドキドキの展開が続き、意外な犯人、予期せぬ真相が語られ、舞台は国際的になるとだけ言っておきましょう。
オビの文句、幾重にも張り巡らされた謎、愛と復讐、壮大な構想で描き上げるエンターテインメント大作、というのは、大いにうなづけます。面白さいっぱいの本でした。
主人公は、スウェーデンの刑務所に2ヶ月間収監されるのですが、週末の外出許可というくだりにはあっと驚きました。刑務所内にはジムがあり、休憩時間には仲間と賭けポーカーをしたりします。そして、独房内にパソコンを持ち込んで本の執筆にいそしむのです。
末尾についている解説を紹介します。
アガサ・クリスティーが得意とした閉ざされた孤島という設定を大きく拡大し、スケールの大きな不可能状況下での人間(少女)消失事件。死者からの贈り物、暗号解読、連続殺人、見立て殺人など、ミステリ趣味が次々に描き出される。
さらにスウェーデンという国のかげの部分を指摘する社会派色も強い。とりわけ暴利をむさぼる実業家や金もうけ至上主義が容赦なく糾弾される。
本書の最大の特徴は、全篇にみなぎるジャーナリストとしての気骨である。著者は雑誌ジャーナリズムの出身だけあって、権力的なモノや巨悪に対して不屈の精神を持っている。
私も、スウェーデンの「刑事マルティコ・ベック」シリーズ(マイ・シューヴァルとペール・ヴァールー)は読んでいますが、このシリーズより一段と味わい深いものがあると感じました。
さあ、あなたも読んでみてください。
今朝、庭に出てチューリップの咲いている花を数えてみると、28本ありました。まだ庭のあちこちにポツポツ咲いているという感じです。近所の桜も花を咲かせ始めました。日本のソメイヨシノが全国的に老木となっているそうですね。心配です。
(2008年12月刊。1619円+税)
2009年3月15日
ディファイナンス
著者 ネハマ・テック、 出版 ランダムハウス講談社
ナチスに占領されたベラルーシでナチスと戦い、ユダヤ人1200人とともに森の中を生き抜いたユダヤ人3兄弟の話です。この実話が同じタイトルで映画となりましたので、私も福岡の映画館で観ました。この本を読むと、ユダヤ人3兄弟には問題行動もあったようですが、それでも同じユダヤ人といっても階層も考え方も違う1200人もの人々をまとめて生き延びたことは偉大な成果だったことは大いに評価されてよいと思いました。
ユダヤ人もただナチスに殺されていった人たちだけではなく、銃を持って戦った人たちもいたわけです。でも、そこにも問題がありました。
主人公のトゥヴィアは、他の何よりも重要なのは同胞(ユダヤ人)を助けることだ。20人のドイツ人を殺すことより、1人のユダヤ人の命を救うことのほうが大切だ、と強調した。
しかし、人々は生き延びたいから森にやって来た。子どもや女、武器を持たない男たちの数が増えることは、お荷物が増えるということでもある。森の中に全員にいきわたるだけの食料が果たして確保されるのか。だから、役に立たない人たちを切り捨てたいと考えるものもいた。
ところが、トゥヴィアは、武器を持っているか、戦闘力があるかどうかに関係なく、基地にたどり着いたあらゆるユダヤ人を迎え入れた。しかし、部隊の規模拡大は、内部の緊張を生み出した。
メンバーの4分の3が年寄りと子供だった。武装した青年や武器を扱える人びとは20~30%だった。大半はあまり教育を受けていない人々だった。上流または中流階級の出身者はごく少数しかいなかった。この少数派の大半は、女性だった。
ナチスの虐殺の初期のターゲットは、ユダヤ人エリートたちであり、ユダヤ人指導者の中で逃げ切れた人はごく一部だった。そして、彼らは都市生活者だったので、森の中での暮らしを選んだ人はほとんどいなかった。
食事について、原則として全員が同じ分量と種類の食事がもらえるはずだったが、実際にはそうはいかなかった。2種類の炊事場が作られ、一つは司令部と3兄弟一族用、そしてもう一つは残りの人々用とされた。
公平でいるのはとても難しかった。3兄弟と家族は、ロマノフ王朝と呼ばれていた。そんな証言もある。
単純で平凡な若者たちが、戦争前なら手の届かない存在だった社会的地位を持つ女性をたやすく手に入れることができた。女性たちは自分を守ってくれる男性と出会い、生き延びる道を選んだ。
ユダヤ人部隊は、ソ連のパルチザンとも提携していたが、反ユダヤ主義の影響を受けているソ連のパルチザンとは、かなりの緊張関係にもあった。この点は、映画にも反映されています。
ポーランド人のパルチザンは、ソ連の支配下にはいるのを嫌った。ナチスと戦う点では一致しても、内部には複雑な状況があった。こんなこともこの本を読むとよく分かります。
そんな難しいなかで、よくぞ1200人ものユダヤ人がまとまって生き延びたものです。工場があり、学校があり、刑務所まであったというのです。たいしたものです。
(2009年1月刊。1500円+税)