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憲法9条を持つ国に生きて

(霧山昴) 

著者 内藤功 、 出版 旬報社

1931年に生まれ、現在95歳の著者が自分の人生を振り返った本です。

軍国少年だった著者は13歳のとき海軍経理学校に志願します。すると衛門番兵の水兵から問われた。「おまえ覚悟して来たのか。それとも憧れて来たのか」

著者は、もちろん、「覚悟して来ました」と答えた。暗誦していた軍人勅諭にあるとおり、国のためには生命を捧げますと教え込まれた「覚悟」だった。

貧乏な家に生まれ育った著者は軍隊に入ったら、米は腹一杯食べられ、軍の学校は学費がいらない。満20歳になれば徴兵されるのだから早く軍に入ったほうが良いと考えていた。

8月15日の天皇のラジオ放送は聞いてもよく分からなかったが、日本が降伏して戦争が終わったのは事実だと知った。すると、無念に思う気持ちとともに、「これでもう死ななくてもいいんだ」という安堵感が全身に広がっていった。やっぱり誰だって死にたくありませんよね。

著者は、この本の冒頭で、「戦争する国」と「戦争しない国」の違いは、国民が招集令状(赤紙)の一枚で戦場に動員され、人を殺し殺される国か、それを強要されることのない国か。これが決定的な違いだとしています。

私は、殺されたくないのはもちろん、人を殺したくもありません。

著者は敗戦した後、明治大学予科に入ります。そこで弁論部に加わり、他校との討論会にのぞみました。静岡高校の正森成二氏(のちに弁護士となり、共産党の代議士として活躍)の論法に驚嘆します。正森氏の論法は一気に7点にわたる質問を発して相手を困惑させ、回答の矛盾や隙をさらに突くという攻撃論法だった。

「敵の弱点を突く。常に攻勢に出る。データは誰もが否定できないものを使う」。これが戦術だった。なるほど、そうなんですね……。

司法試験に合格し、司法修習生だった1952年5月1日、皇居前広場でのメーデー事件に遭遇しました。六角棒で機動隊員から叩かれたものの、なんとか現場から逃げきった。上田城吉弁護士は、このメーデー事件の弁護人として名を上げています。

1954年に弁護士になって初の大仕事は、1957年9月の砂川事件刑事特別法事件。1960年の三池争議のホッパー決戦のときも、弁護団の一員として参加しています。ホッパー周辺を労働組合などが何万人と包囲して立てこんでいるなか、会社側は裁判所の妨害禁止仮処分決定をもって乗り込んできた。そのとき著者は、決定書を精査して1ヶ所訂正印が抜けているのを発見し、直ちに不適格な決定書では執行できないと指摘した。すると、執行官も会社側もヘリコプターであわてて一時撤退した。もちろん、労働組合側の士気は大いに上がった。いやぁ、たいした度胸です。

北海道で、自衛隊の存在を正面から争う憲法裁判が始まった恵庭事件、そして長沼ミサイル基地訴訟、さらに、茨城の百里基地訴訟。著者は、そのすべてに関わりました。

「弁護士というものは、一生に一度、何がなんでも、命を捨ててでも、全力をあげて飛び込まなきゃならないこともある」。著者は、これだと、このとき思ったそうです。

法廷での論戦で憲法9条を持ち出すと、相手(国側)は逃げまくるばかり。痛快な論戦で、弁護団は明るく、笑いが絶えなかった。これは大いにやり甲斐がありますね。

砂川事件の最高裁判決のとき、田中耕太郎長官がアメリカのマッカーサー大使やレンハート公使と面会し、判決の秘密を漏らし、アメリカ政府の指示を受けていたことが明らかになっています。アメリカは、この裁判における実質的な当事者ですから、こんな判決は無効とすべきものです。そして、この最高裁判決では、集団的自衛権についてまったく触れていないのに、集団的自衛権の根拠となるという自民党の「見解」は、まったくの誤りです。

95歳にして、これだけ細かく昔の事実を記述し、また理論的に解明するとは、常人のなせることではありません。

著者から贈られてきましたので、その日のうちに読了し、この文章を書き上げました。著者の今後一層のご健勝を心より祈念します。

(2026年7月刊。2420円)

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