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「清冽の炎」(第6巻)それから(上)

カテゴリー:社会

著者   神水 理一郎 、 出版   花伝社  
 1968年6月に始まり、翌1969年3月まで続いた東大闘争にかかわった学生たち、そしてセツラーの35年後を明らかにしたノンフィックションのような小説の第6巻です。いよいよ完結編となり、その前半です。
2004年のある朝、銀座でコンサルタント業を営む青垣が警察に逮捕された。東大駒場で同窓だった久能は懇意の若手弁護士、聖徳一郎に青垣の弁護を依頼した。一郎が警察署に面会に行くと、青垣は無罪を主張する。
 事件は、ベンチャー企業への融資詐欺。青垣は、北町セツルメントが活動していた磯町出身のカズヤと組んで銀行にベンチャー企業へ5億円を融資させていた。このとき、やはり同窓の芳村の勤めるメーカーが買い付け証明書を発行していたが、芳村は取締役就任を目前にしながら成績が低迷していて焦っていた。
 果たしてベンチャー企業には、どれだけの実体があったのか、銀行が融資した五億円は、どこに消えていったのか。
 青垣の刑事裁判が東京地裁で始まった。担当裁判官は佐助と駒場寮で同室だった沼尾だ。沼尾はエリートコースを歩いている。果たして学生時代の信念を裏切ってしまったのか・・・。
 法廷に被害者のメーカーを代表して証言を求められた芳村は、青垣に騙された、無能な部下をもっていたためベンチャー企業の実態を見抜けなかったと言い放ち、被告人の青垣を厳しく弾劾して自己の非を認めなかった。そして、芳村の部下の一人は、追いつめられたあげく、ホームから転落して亡くなった。
 北町セルツメントで子ども会活動をしていたヒナコは、東京の下町で中学校の理科の教師としてスタートすることができた。生徒指導をふくめて忙しくも充実した教師生活ではあったが、生物学への探究心を抑えきれず高校教師への転身を図った。ヒナコは実直な会社員と結婚して一子をもうけ、教師生活を続けていった。
 一郎は青垣と話しているうちに、1968年に起きた東大闘争のとき、青垣が東大全共闘の活動家だったことを知る。そして、意外なことに母・美由紀も青垣の活動家仲間だったという。美由紀が駒場時代のことを一郎に語ろうとしないのはなぜなのか・・・。
 東大出身の起田たちは、同窓会を開いていた。そこには官僚たちも貴重な情報交換の場として顔を出していた。
団塊の世代が一斉に定年退職し、年金生活に入っています。ところが、年金は切り下げられ、介護保険料は値上げされる一方です。そのうえ、庶民のフトコロを直撃する消費税は税率アップが決まりました。
 なぜ、かつてあれほど反逆精神が旺盛だった団塊世代なのに、今ではこんなにもおとなしく政治の流れに身をまかせてしまっているのでしょうか。今こそ再び声を上げるときではないのでしょうか・・・。眠れる獅子である団塊世代に対して熱いエールを送る本として、いま強く一読をおすすめします。
(2012年9月刊。1800円+税)

二世兵士、激戦の記録

カテゴリー:アメリカ

著者   柳田 由紀子 、 出版    新潮新書 
 第二次世界大戦当時、アメリカにいた日系人がいかに行動したかを概観した新書です。
 明治18年(1885年)、日本政府は官約移民制度をはじめ、ハワイに日本人を送った。それ以降、9年間で3万人が3年契約でハワイに行った。出身地で多いのは広島、山口、熊本、福岡。私の父の出身地(大川市)からも移民が行き、成功して帰国すると、「アメリカ屋」と呼ばれました(今も、その子孫が八女にいます)。
 3万人の官約移民のうち1万4000人が日本に戻り、2000人がハワイで亡くなり、9000人近くがアメリカ本土に渡って、残る1万3000人がハワイにとどまった。残留率は4割。
 1941年12月の日米開戦のとき、ハワイには全人口42万人の4割15万8000人の日系人が生活していた。
 日米開戦により、アメリカ軍は2世兵によって第100歩兵大隊を編成した。「ワンプカプカ」と呼ばれた。「プカ」とは、ハワイ語でゼロのこと。アメリカは日系人を強制収容所に入れた。アメリカに忠誠を誓わない日系人が1万9000人近く、ツールレイク収容所に入れられた。
 戦争が始まると、日本では敵性語として英語が禁じられたが、アメリカは逆に必死になって兵士に日本語を教育した。この情報語学兵の中核になったのは日系2世兵である。
 アメリカの日本攻略の2本柱は、暗号解読と捕虜情報だった。
 アメリカ軍が獲得した5万人の日本人捕虜のうち、5000人の日本兵がアメリカ本土に送られた。
 ハワイ第100歩兵大隊は、ヨーロッパ戦線に送られた。イタリア戦線そしてフランスで目を見張る大活躍をして歴史に名を残した。上陸したとき1300人だった歩兵大隊が、激戦のあと、半分以下の521人までに激減してしまった・・・。
 モンテカッシーノの戦い、ビフォンテーヌの森の戦いが有名です。ナチス・ドイツ軍に包囲されたテキサス兵211名を救出するため、第100歩兵大隊は800名もの死傷者を出したのでした。
 決して忘れてはならない日系人の努力だと思いました。
(2012年7月刊。740円+税)

ミッドウェー海戦(第2部)運命の日

カテゴリー:日本史

著者   森 史朗 、 出版   新潮選書  
 下巻の冒頭は、日米両空軍の航空線の模様が、あたかも実況中継されているかのような迫力があります。飛行機乗りたちの心理描写、生の声まで記述されていますので、その場に居合わせているかのようです。
 「本日、敵機動部隊、出撃の算なし」
 なんと、のどかな敵情判断だろう。このように著者は厳しく弾劾しています。こんな甘い状況判断によって、日本海軍は完膚なきまでに叩きのめされたのでした。まさに、日本海軍トップの状況判断には致命的な誤りがありました。
 二つのアメリカ空母グループが北方方向からひそかに接近し、その前段として味方の攻略船団が発見され、B17型爆撃機によって空爆を受けた。ミッドウェー基地からの反撃は必至であり、行方の分からないアメリカ軍機動部隊が突如として姿をあらわすかもしれない。それにしても、ずいぶん緊張感を欠いた信令だ。
この大胆な、甘すぎる情勢判断は、過去半年にわたる連戦連勝気分による油断の頂点たるものであり、アメリカ海軍の戦意を軽んじきった驕りの気分に満たされている。
向かうところ敵なし。自信過剰の南雲司令部は、それゆえ警戒心を忘れていた。
 南雲中将は、決して自分から判断を下さない将官であった。水雷船のエキスパートでありながら、航空戦指揮は不得意だとして指揮をすべて航空参謀にゆだねる、他人まかせの一途な頑固さがあった。未知の分野には手を出さず、得意な分野だけ大事にする守旧型のリーダーである。そして、革新による変化をひどく恐れ、臆病なところがある。
 日本軍のゼロ戦対策として、アメリカ軍は「サッチ戦法」を編み出した。当時37歳のジョン・S・サッチ少佐が考えついたもの。ゼロ戦に対抗するには、日本機の特異な単機格闘戦法ではなく、2機ずつのペアが縦列を組み、同高度、同一方向で二列に並んで飛行する。そして、戦場では、互いに円を描いて位置を変え、それぞれのペアが相手ペアの後方に注意を払う。ゼロ戦が後方から接近すると、反対側のペアが素早くターンして攻撃にむかう。この二機ずつのペアが互いに交叉しあうことから、サッチ・ウィーヴ戦法と名付けられ、ミッドウェー海戦以降のアメリカ海軍戦闘機の有力な戦法となった。日本側は何も気づかず、アメリカ軍機をお得意の戦機格闘戦に引き込んで、かえって逆襲され、手痛い目にあった。
 日本軍の艦船はアメリカ軍飛行機に次々にやられていった。この状況を見て、南雲長官も草鹿参謀長も黙然として、事態への対応がまったく出来ない。源田実参謀の頭の中は真っ白になった。真珠湾以来、世界最強とうたわれた第一航空艦隊司令部は、その内実は強固な戦闘集団ではなく、組織的にもろい、危機管理能力が皆無にひとしい集団であることを曝露してしまった。
 南雲司令部は、機能喪失状態に陥った。被弾してから、軽巡長良に司令を移乗させるまでの20分間に、南雲中将は麾下の部隊に何の命令も発していない。草鹿参謀長も同様で、まったく石のように動かず、あとに「参謀長は泰然として腰をぬかした」とからかわれた。
アメリカ海軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーを装備して待ち受けており、日本海軍は準備不足、作戦発起の性急さ、人事異動による士気低下の悪条件のもとで戦闘に突入した。
 ミッドウェー海戦の推移を詳細に点検していくと、日本側の敗北の原因は技術的なものであった。南雲忠一中将を頂点とする司令部官僚たちは、戦闘にあたって冷静な判断力と臨機応変の対応力、勇断や決定力の資質が欠けていた。いたずらに判断を先送りし、結果的には一般艦の主力三空母は1機の反撃航空機も送り出すことなく、乗員ともども海底に没した。涙をのんでミッドウェー沖に沈んでいった若き戦士たちの無念が思いやられてならない。
 日本海軍は、ミッドウェー海戦の敗北を極秘扱いとし、一切の戦訓研究を禁じた。アメリカ海軍は、詳細に研究した。
日本海軍の被害は空母4隻、重巡1隻沈没、重巡一隻損傷、搭載航空機285機を喪失した。そして、熟練の乗員のうち、艦戦39人、艦爆33組、艦攻37組、合計109組を喪い、著しく戦力を低下させた。
 アメリカ海軍は、空母1隻、駐遂艦1隻沈没、航空機147機を喪失した。
 これだけの大敗北を喫しながら、日本海軍は戦史から戦訓・戦術の反省点を学ばなかった。山本長官は、自ら、失敗から教訓を導き出す作業を封印してしまった。
 本来なら、関係者を集めて研究会をさせるべきだった。それをしなかった理由は、突っつけば穴だらけだし、今さら突っついて屍にむち打つ必要まではないと考えたことによる。そして、なぜ失敗したのかの責任論は封印されてしまった。そのうえ、敗戦の真相隠しが始まった。大本営発表は虚像にみちたものとなった・・・。
 無責任、そして嘘だらけ。いやですね。軍人の世界って・・・。まるで三流政治家ではありませんか。
(2012年5月刊。1750円+税)

ジュゴン

カテゴリー:生物

著者   池田 和子 、 出版    平凡社新書 
 見ていると、何かしら心がほのぼのと温まる、人魚のモデルになったジュゴンについての本です。
 ジュゴンは、イルカやクジラと同じ、海に棲み哺乳類。ところが、ジュゴンは、浅い海で草を食む唯一の草食性哺乳類だ。どおりで、牛に似たのんびりした雰囲気があるわけです。
 ジュゴンがいるのは、日本では沖縄周辺のみ。いま話題の辺野古(へのこ)海岸あたりを活動分野としている。
ジュゴンは、かつては食料として、また骨製品の素材として使われていた。
 イルカには体毛がないが、ジュゴンには全身に毛がある。ジュゴンの脳は、軽くて、のっぺりしている。ジュゴンの骨は組織が緻密で、堅く、重い。これは水中生活に適応したもので、海底に沈みやすくなっている。
 ジュゴンは、脱力すると、自然に体が沈み、海底に着地するようになっている。海底の海草を自然に食べられるように発達してきた。
 ジュゴンは、基本的に海藻は食べないし、消化できない。うひゃあ、これには驚きました。ジュゴンが食べられるのは海草であって、海藻ではない。ジュゴンは、食べたものを長い腸で長時間、微生物の働きを借りて消化し、陸上の植物と比較して栄養価の低い海草を最大限に利用している。
 何もなければジュゴンは50年以上も生きる。もっとも長寿のジュゴンは73歳だった。
現在、世界中のジュゴンは10万頭。東南アジアに100頭、インドに150頭いると推測されている。オーストラリアの7万7000頭が最多。
 ジュゴンについて簡単に知ることのできる貴重な新書です。
(2012年6月刊。840円+税)
 福岡で弁護士の不祥事が続いていますが、とても残念なことです。これらのケースは弁護士が大量に増えたことは関係ありません(少なくともほとんど関係ないと思います)。なぜなら、懲戒された弁護士は、弁護士生活30年、20年、10年といったベテラン弁護士だからです。個別にいろいろ理由はあるのでしょうが、そもそも弁護士に向いていなかったのではないかという感想をもつようになりました、
 弁護士は毎日毎日、他人のトラブルに首を突っ込んでいます。ほとんどのケースで、どちらかが一方的に悪くて、どちらかは一方的な被害者であり、善であるということはありません。そうでなくて、双方に大小の差はあっても言い分があります。そのなかで、社会的にも適正妥当な解決を見出していくよう努めます。そのとき肝心なのは、信頼者への説得です。弁護士の意見を押しつけるわけはいきませんが、依頼者に利害損失をよく理解してもらって、一緒に落としどころを探っていきます。このとき、人生観、価値判断がぶつかりあいます。そして、弁護士はそれに「勝ち抜く」ことが求められるのです。
 処分を受けた弁護士には、その点がとても弱かったような気がします。依頼者の「言いなり」になって、しかも、事件がまわらない、まわせない。これでは弁護士としてやっていけません。
 受けるべきではない事件は受任してはいけませんし、途中でそのことが分かったら、さっさと手を引く必要があります。
 弁護士が急激に増えている昨今は、文書作成能力はあるけれど、対人折衝が弱いという若手弁護士が増えている気がします。
 自分に向かない職業だと思ったら、さっさと転身を図る、また周囲がそれを勧めるのは相互の利益になるように思います。いかがでしょうか・・・。

河原ノ者、非人、秀吉

カテゴリー:日本史(戦国)

著者    服部 英雄 、 出版    山川出版社 
 豊臣秀吉は、子どものころ乞食をしていて、6本指だった。そして、その子、秀頼は実子ではないというショッキングなことが書かれています。いずれも目を疑わせる記述です。
秀吉(藤吉郎)は、養父の筑阿弥(ちくあみ)と折りあいが悪く、家を出て放浪していた。若き日の秀吉は針を売って歩いていた。妻となった「ね」は連雀(れんじゃく)商人の家の出だった。秀吉は、道中、猿芸を続けながら放浪していた。この芸で多量の針を売って生活していた。貧農の子に生まれた秀吉は、ムシ口を携行する生活、つまり乞食生活を経験している。
そして、秀吉は6本指だった。織田信長は6本指の秀吉を「六つ目」と呼んでいた。
秀吉については、古くから私生児説があった。父の縁威は明らかでない。
秀吉は縁者ならすべてを登用したわけではない。苦境に遭ったときの自分を支援したものだけを登用していた。
 秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロである。
 秀吉は多くの女性と愛し合うことができたが、一人の子も授からなかった。茶々以外の女性は妊娠できなかった。秀吉とのあいだでは子ができなかったが、別の男性とのあいだでは子を産めた女性が少なくとも3人は確認できる。つまり、男性の側に欠陥があった。俗に秀頼の父は、大野修理(治長)とする見方が多数派である。
 ルイス・フロイスの報告書には、秀吉には子種なく、子どもをつくる体質を欠いているので、その息子は秀吉の子どもではないとしている。
 茶々は、秀吉自身が指示・命令した結果として妊娠し、出産した。決して不義密通の子ではない。茶々が産む子は豊臣の子であり、織田の子なのである。
 茶々の相手となったのは僧侶ないし陰陽師だった。その人格をもたないことが必須の条件だった。人格があると豊臣家の将来に禍根を残す。親権者の登場は避けなければならなかった。
 秀次は、そのことに反発したのではないか。それに対して、ひとりでも秀吉の方針に根本的な疑問をもつものがいるのは許されなかった。だから、、秀次だけでなく、妻子まで全員が殺害された。
700頁もの大作です。秀吉に関するものは、そのうち200頁にもなりません。前半500頁近くは犬追物(いぬおうもの)や河原ノ者などの実情を解明しています。
 犬追物とは、武士が馬に乗って弓で犬を射る芸のことです。犬は弓で射られると死ななくても傷つきます。二度とその犬は使えません。ですから、大量の犬を捕まえるのが職業として成りたっていたようです。
 そして、傷ついた犬はどうしたのか?みんなで犬を食べていたようです。もちろん、武士もです。かつて、中世の日本では、犬をためらいなく食べていたといいます。今も韓国では(恐らく北朝鮮でも)犬を食べているとのことです。でも、犬って、食べる気にはなりませんよね。
(2012年4月刊。2800円+税)

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