著者 下川 耿史 、 出版 筑摩書房
日本では混浴風景は当たり前のことでした。いえ、戦前の話ではありません。少し前のことですが、二日市温泉で旅館の内湯に入ると、脱衣場こそ男女別でしたが、湯舟は区別がありませんでした。残念ながら、私たち以外は誰もいませんでした・・・。
40年前、司法試験受験のあと東北一人旅をしたとき、山上の露天風呂に入っていると、隣に女子校のワンゲル部員がどやどやと入ってきたので、あわてて湯から上がった記憶もあります。
もっと前、私が小学校低学年のとき、大川の農村部にある親戚宅に毎年行っていましたが、そこは部落の共同風呂があり、夕方になると入っていました。そこも男女共同でした。家には五右衛門風呂がありましたが、みんなでワイワイ楽しそうに世間話をしながら入っていました。
この本は、日本人にとって混浴というのが戦後にいたるまで、なじんだ風景であったことを写真とともに明らかにしています。
『伊豆の踊子』(川端康成)や『しろばんば』(井上靖)にもその情景が描かれているそうです。すっかり忘れていました。
ところが、実は、昔から当局は混浴を禁止しようとしていたのでした。
奈良から平安時代にかけても混浴が流行していました。奈良の街には坊さんが1万5000人、尼さんが1万人もいた。当時の奈良の人口が10万人と推定されているので、4人に1人は僧尼が占めていた。そして、朝廷は大和守・藤原園人を検察使として奈良に派遣した。藤原園人は混浴禁止令を発した(797年)。
鎌倉時代に入り、有馬温泉には「湯女」(ゆな)というサービスガールが登場した。そして、源頼朝は「1万人施浴」を実施した(1192年)。うひゃ、知りませんでした。
江戸時代の銭湯は混浴だった。江戸の女性の多くは田舎から出てきていたが、田舎では混浴があたりまえだったから、江戸の街でも男性との混浴に抵抗がなかった。
明治になって、外国人が日本の混浴風景に驚いているのを知り、あわてた日本政府は混浴禁止令を出した。
老若男女は、まるで市場や街角で出会うように気兼ねなく挨拶する。初めて目にする外国人は、この驚くべき素朴さにびっくり仰天だったのです。
今も全国には混浴温泉は、実のところ、少なからずあるようです。
(2013年7月刊。1900円+税)
2014年3月9日


