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「戦場体験」を受け継ぐということ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  遠藤 美幸 、 出版  高文研
 元日航・国際線スチュワーデスだった著者(現在は歴史学者)によるビルマ戦線における日本軍全滅戦を記憶・再現した貴重な本です。
戦争というものの悲惨さ、というより、むごさをじわじわと実感させてくれます。というのは、拉孟(らもう)の陣地にたてこもる日本軍守備隊1000人近くが中国軍によって全滅させられた事件を丁寧に掘り起こしているからです。
 それができたのは、数少ない生存者がいたこと、その生存者にインタビューできたこと、さらには、現地に出向いて、現地の攻めた中国軍からも取材できたことによります。10年という長い歳月をかけての取材が本書に結実しています。
日本軍の将兵の無残な戦死を記録する貴重な本だと思いました。そして、それらの将兵の多くは、九州出身だったのです。本当に哀れです。
 1944年6月、米中連合軍4万が日本軍の拉孟陣地を包囲した。
 3ヵ月あまりの死闘の末、9月7日、日本軍の拉孟守備隊は全滅した。その拉孟全滅戦の実情が本書によって明らかにされているのです。
 1944年3月、北ビルマを起点としたインド侵攻作戦(インパール作戦)が始まった。これは、ビルマ奪回を狙うイギリス軍の作戦拠点であるインド東北端のインパールを攻略し、さらにはインド独立運動に乗じてインドの反英独立運動の気運を醸成し、イギリスの支配からインドを分断しようということだった。ところが、補給をまったく無視したインパール作戦は史上最悪の作戦となり、日本兵の「白骨街道」を残して終わった。
 1944年7月3日、日本軍大本営はインパール作戦の中止を命じた。
 インパール作戦の失敗後、中国雲南西部の山上陣地であった拉孟の戦略的な重要性が一挙に高まった。
 1944年6月から、拉孟守備隊1300人と、4万人の中国軍とのあいだで、100日間の攻防戦が続いた。日中の兵力差は15倍以上だった。
 連合軍(アメリカ)からの軍事援助で補強された中国軍に日本軍の拉孟守備隊は全面的に包囲され、武器・弾薬そして食糧の枯渇のなかで、1944年9月7日に拉孟守備隊、そして続いて9月14日に騰越守備隊が相次いで全滅した。これによって、日本軍は北ビルマから完全に排除された。
拉孟守備隊1300人と言っても、傷病兵300人をふくんでいるので、実質的な戦闘力は900人もいなかった。それに対する中国軍の総兵力は4万人を上まわっていた。
 この拉孟陣地にも、従軍慰安婦が20人ほどいた。朝鮮人女性15人、日本人5人だった。
 これらの女性の存在理由は、日本軍将兵の性欲はけ口以外のなにものでもなかった。女性たちの恥辱と苦恨は、心身から生涯、消えることはなかった。
 そして、日本軍の拉孟守備隊のなかに、朝鮮人志願兵がいた。それは全体の2割を占めている。
 著者は1985年8月のJAL御巣鷹山事故のとき、JALの社員でした。そして、飛行の安全のためにJALの第二組合を脱けて第一組合に加入したのです。それは、「当然のように」、さまざまな嫌がらせと差別を伴ったのでした。若い女性には耐えられない、ひどさでした。
 日本軍の無謀な戦争と、現代日本における違法・不当な大企業における労務管理の生々しい実態を図らずも結びつけた貴重な本です。
(2014年11月刊。2200円+税)

日清・日露戦争をどう見るか

カテゴリー:日本史(明治)

著者  原 朗 、 出版  NKH出版新書
 来年(2015年)は、敗戦から70年になります。実は、明治維新(1868年)から敗戦の年までは、なんと77年間しかありません。この77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦という4つの大きな戦争を担っています。そして、第二次世界大戦は、15年戦争とも呼ばれています。
 戦前の日本は、ほぼ10年に1度の割合で大きな戦争を遂行していたのですから、まさしく好戦国ニッポンだったわけです。ところが、戦後70年になろうとしている日本は、平和な国ニッポン、戦場で人を殺したこともなければ、日本人が殺されたこともないという、世界にまれな国になってしまいました。
 日本ブランドは、平和、なのです。そんな平和の国、日本のパスポートの価値が高いのも当然です。
 明治・大正・戦前の昭和までの日本は、ほぼ10年ごとに戦争を起こしていた国だった。もっと言うと、日本は、ほぼ5年ごとに戦争ないし出兵をしていた国だった。
 日清戦争、日露戦争というのは、その戦争目的は、最初から最後まで朝鮮半島の支配権を争うものだったし、戦場もほとんどが朝鮮半島だったから、この二つの戦争は、「第一次・第二次朝鮮戦争」と名づけたほうが、より戦争の「実相」に近い。
 1894年7月23日、日清戦争の直前、日本軍はソウル(漢城)の朝鮮王宮を正面から攻撃してこれを占領、朝鮮軍を武装解除し、朝鮮国王の高宗に対して父の大院君を国政総裁とするように強制した。
 日本軍が朝鮮王宮を占領したのだから、これは明確な日本と朝鮮との戦争である。だから、最近では、「7月23日戦争」とも呼ばれている。
 伊藤博文は、陸奥宗光とは違って日清協調派で、日本と清国とが協力して朝鮮の改革を進めようと考えていた。日清戦争は、陸奥と同じ強硬派だった陸軍参謀本部の川上操六・次長の二人で進めた。
 陸奥宗光の日記(「蹇蹇録」)によると、日本は欧米に対しては神経をはりめぐらせ、注意深く慎重に、ほとんど卑屈とも言えるほどの態度をとりつつ、返す力で朝鮮と清国に向かうときには、傲岸不遜ともいえるほどに拳骨を振り上げる。その二面性の対照が興味深いものであった。
明治政府の対外政策は、欧米には、徹底的に丁重に、朝鮮と清国に対しては徹底的に弾圧的にというものだった。
日清戦争の前、日本人の多くは、内心では、誰だって「支那」を恐れていた。ところが、戦争で日本が次から次に勝利をおさめていくと、だんだん勇ましい感情をもち、中国を軽蔑・憎悪するようになっていった。メディアも、中国人を愚弄・嘲笑するような報道を始め、その記事を庶民が楽しむようになっていった。
 このようにして、日清戦争は、日本人の中国に対する感情の一大転換点となった。日清戦争によって、日本に「国民」が誕生し、天皇の権威も確立した。
日露戦争のあと、1905年に「日比谷」焼打事件が起きて、政府は戒厳令を布いた。
 日露戦争のあいだ「勝った、勝った」という宣伝を信じていた民衆は、ポーツマス条約の内容を知って、賠償金もなく、領土の獲得も南樺太だけ、獲得できた利権があまりに少ないと憤慨し、東京など各地で反対集会や警察等への襲撃・焼打ち事件を起こした。
政府は、この事件を小さく見せるために、「日比谷」焼打事件という名前を付けたが、実際には、東京市全体にわたって交番などが焼打ちされ、さらには神戸や横浜など各地にも広がり、初めて戒厳令が布(し)かれた。戦前の日本で戒厳令が布かれたのは3回のみ。このときと、関東大震災、そして二・二六事件のとき。
 「日比谷」焼打事件について、司馬遼太郎が、明治日本はこのときから転落しはじめたと言っている。しかし、その反対に、このときから民衆が政治に登場し、大正デモクラシーに向かって進みはじめたといえる。
 民衆は、勝った、勝ったと思い込んでおり、本当は、日露戦争が「痛み分け」だったことを知らなかった。そして、日清戦争にも勝った、日露戦争にも勝った、日本は不敗の国だと信じ続けていくことになった。これって恐ろしい迷信ですよね。
 司馬遼太郎の小説に書かれていることを史実と思わないようにという指摘が何度も繰り返されています。なるほど、そうなんだと私も思いました。日清・日露の両戦争の意義をとらえ直すことのできる、貴重な新書だと思いました。
(2014年10月刊。780円+税)

アルピニズムと死

カテゴリー:人間

著者  山野井 泰史 、 出版  ヤマケイ新書
 ここまでして山登りするのかと、ついつい深い溜め息が出ました。
 何度も死の危険に直面し、山の仲間が何人も死んでいます。そして、凍傷のため手足の指は満足にありません。さらには、山の中を走っていて熊に顔をかじられ、鼻をなくしたというのです。いやはや・・・。
 山に出かけるのは、年間70回。40年の間に3000回近くも山へ登りに行って、なんとか生きて返ってきて今日がある、というわけです。それでも、著者が死ななかった理由。
 それは、若いころから恐怖心が強く、常に注意深く、危険への感覚がマヒしてしまうことが一度もなかったことによる。
 自分の能力がどの程度あり、どの程度しかないことを知っていたから。
 自分の肉体と脳が、憧れの山に適応できるかを慎重に見きわめ、山に入っていった。
 山登りがとても好きだから、鳥の声や風や落石や雪崩の音に耳を傾け、心臓の鼓動を感じ、パートナーの表情をうかがいつつ、いつ何時でも、山と全身からの声を受けとろうと懸命になる。雪煙が流れる稜線、荒い花崗岩の手触り、陽光輝く雪面、土や落ち葉の色、雪を踏みしめたときの足裏の感触・・・。山が与えてくれるすべてのものが、この世で一番好きだ。
ソロクライマー(単独登山家)はリスクが高い。実際にも、多くの悲しい現実がある。しかし、この世のもっとも美しく思える行為は、巨大な山にたった一人、高みに向けてひたすら登っているクライマーの姿なのである。
山中でトレイルランニングをして身体を鍛える。家でも腹筋運動のほか、酸素をたくさん取り込めるように、15分間は腹式呼吸の練習をする。
 脂肪はもちろん、大きな筋肉をつけないように注意し、毎日、体重計に乗る。
 体力に余裕があれば、登山中でも視野を保て、危険を見抜く能力を保つことができる。
 トレーニングは、肉体だけでなく、想像するイメージトレーニングもする。下半身に乳酸をためないようにする。
私は、著者が今後も無事に、好きな山登りを続けてほしいと思いました。
(2014年11月刊。760円+税)

ブラックウォーター、世界最強の傭兵企業

カテゴリー:アメリカ

著者  ジェレミー・スケイヒル 、 出版  作品社
 「殺しのライセンス」を持つアメリカの影の軍隊は、世界で何をやっているのか?
 これが本の帯についたフレーズです。イラク戦争での民間人の虐殺、アルカイダ幹部など反米分子の暗殺、シリア反体制派への軍事指導などの驚くべき実態。そして、アメリカの政府界の暗部との癒着が暴かれています。
この悪名高いブラックウォーター社は今ではありません。といっても、名前を変えただけです、今では、「アカデミ」と名乗っているとのこと。シリアでの反アサド勢力の武装兵士たちを訓練し、同社の傭兵がトルコからシリアへ数千人単位で派遣されているという。また、ウクライナにおける動乱にもかかわっている。
ブラックウォーターは、日本では、つがる市(旧車力村)のレーダー警備にあたっていた。
 イラクで2005年6月から2007年9月までに、ブラックウォーターが関わって死者が出た発砲事件は少なくとも10件あった。
 ブラックウォーターは、単なる警備会社の一つではなく、アメリカによるイラク占領でもっとも重要な役割を果たしていた傭兵企業だった。ブラックウォーターが、この役目を担い始めたのは、2003年夏に2700万ドルの随意契約を受注してからのこと。それは、ポール・ブレマー大使の警護をする契約だった。
 イラクでの最初の契約から2007年後半までのブラックウォーターは、国務省を通した「外交安全保障」関係だけでも10億ドルの契約を得た。
 マリキ首相はブラックウォーターの追放を訴えたが、その後もブラックウォーターはイラクに居続けた。これは、イラクに主権がないことをはっきり示したということ。
 イラクでサービスを提供していた傭兵企業は170以上あったが、ブラックウォーターは、これらのなかで最新鋭集団と広く認められていた。
アメリカ要人の警備にあたっては、イラクの一般市民の生命はまったく軽視された。
 ブラックウォーターは、軍ではなく、アメリカ政府直属の監督下にあった。
 2005年から2007年10月までにイラクにいたブラックウォーターの要員が砲火を開いた件数は195件、そのうち80%以上で、最初に発砲したのは、ブラックウォーターだった。
 ブラックウォーターは、イラクにいる隊員を120人以上も解雇した。これは、イラク派遣の人員の7分の1にあたる。
 イラクの戦場には、推定10万人の民間契約要員がいた。
 対テロ戦争とイラク占領は、アメリカに多くの企業を生み出したが、ブラックウォーターほど華々しく権力と利益を手にし、隆盛を成しとげた企業は、ほとんど存在しない。
 ブラックウォーターは、アメリカをふくむ9ヶ国に2万3000人以上の傭兵を派遣している。ブラックウォーターは、武装ヘリコプターを含む20機以上からなる航空隊を擁している。
 ノースカロライナ州にある本部は、世界最大の民間軍事施設であり、1年に数万人の警察官や「友好国」の部隊が訓練を受ける。
ブッシュ政権が宣言した「対テロ戦争」で最大の受益者となったのは、ブラックウォーターだった。オサマ・ビン・ラディンが、今日のブラックウォーターを作ったのだ。
 多くのアメリカ兵は、傭兵に恨みを抱いていた。平均的なアメリカ兵(歩兵)が1週間かかって稼ぐお金を、傭兵は一日で稼いでいる。
ブラックウォーターの契約要員は、殺されるか不具にされる可能性が高いことを知りながら、自らすすんでイラクへ行った。契約書には、その点が明記されていた。
 ブラックウォーターは、アメリカ国内のカトリーナ災害のときにも出動し、巨額の利益をあげた。
2008年、イラクにおけるアメリカ軍の現役兵の人数と民間契約要員数は1対1だった。
 アメリカ当局の個人警備サービスは、2003年には500万ドルの支出だったのが、2006年には6億1300万ドルまではね上がっている。
 民間軍事企業に戦争の重要な役割を任せることは、必ず大きな腐敗を生み出すものだと思いました。そして、それは、また無責任体制ともつながっていきます。「イスラム国」の「隆盛」も、この民間軍事会社頼りと無関係ではないでしょう。軍事に頼るだけでは、本当の解決にならないことに一刻も早く、アメリカ国民は気がつくべきだと思いました。
 500ページもある大部な労作です。
(2014年8月刊。3400円+税)

中東民族問題の起源

カテゴリー:アラブ

著者  佐原 徹哉 、 出版  白水社
 20世紀はじめのトルコにおけるアメニスト人虐殺事件がとりあげられています。
オスマン体制のもとで、アルメニア人は、よく順応し、長くスルタンにもっとも忠実なキリスト教臣民と見なされていた。
 オスマン時代の都市は、居住地区と商工業地に明確に分かれていた。居住地区では、同じ宗教に属する者たちが集まって暮らす傾向にあり、ムスリム、アルメニア人、ギリシア人、ユダヤ人などといった宗教ごとの街区(マハラ)が存在した。街区は、モスクや教会などの宗教施設を除くと民家が集まっているだけの場所であり、とくに用事のない限り、よそ者が入っていくことはなかった。他方、商工業地区は、宗教・民族の違いをこえた都市住民の共通空間ある。都市に居住するアルメニア人の多くが商人・手工業者であったため、ムスリムが彼らと接触する場所も市場だった。市場付近には、大きなモスクもあり、ムスリムが結集しやすい条件も備えていた。そのため、暴動が市場地区で始まり、居住区に向かうのは、暴動が自然発生的であったことを示唆している。
 アルメニアとトルコの双方に陰謀説がある。しかし、両方の説とも荒唐無稽なものであり、史料にざっと目を通すだけで欠陥が明らかになるお粗末な代物だ。ところが、今もって権威ある定説としてまかり通っている。
 武器商人たちが、公衆の面前で武器を売り歩いた。この商人たちは、武器の売り上げを増やす目論見から、虐殺や反乱の噂を利用した。あるときは、キリスト教徒が、またムスリムがまもなく虐殺をはじめるという話が、武器商人のセールストークを通じて拡散した。そのため、人々の疑心暗鬼はとどまるところを知らなくなり、先を争って武器弾薬を手に入れようとする風潮が広まった。さまざまな武器が市場で、店頭で、また道端で堂々と売られた。
 新聞は、武器の入手が合法であり、家族の命と財産と名誉を守るために必要だというキャンペーンを展開し、アルメニア人コミュニティの指導者たちも武器の購入を奨励していた。聖職者たちも武装することを推奨した。
 多数のアルメニア人が軍事訓練をはじめた。このようにして、アルメニア人は、一方的に武装をはじめた。
 アルメニア人の地主は、ムスリム地主よりも、農業経営に熱心だった。あからさまな経済格差が、宗派コミュニティ間の緊張を生む原因となった。半飢餓状態で暮らすムスリム農民たちは、アルメニア人たちのいい暮らしぶりをねたんだであろうし、ときには敵意すら感じただろう。
騒乱がアルメニア人の陰謀でなかったことを証明する、おそらく最良の証拠は、騒乱の間中、アルメニア人が一貫して専守防衛に徹していたことだろう。アルメニア人の方からムスリム側の陣地に攻撃を仕掛けることはなかった。
 アルメニア人たちの一致団結した戦いに比べて、ムスリム人たちの攻撃は、場当たり的だった。人数こそ圧倒的だが、ムスリム人は島合いの衆にすぎなかった。ムスリムたちは、せいぜい拳銃程度の火器しか準備していなかった。ほとんどのムスリム暴徒たちは、手近にあった道具を武器代わりにしていた。これは襲撃に計画性がない、何よりの証拠である。
暴動の小さかった地区では、多くの行政官と治安当局者がアルメニア人を敵視せず、混乱の原因がムスリム民衆の動揺にあると分析していた。この適切な状況認識にもとづいて効果的な予防措置を講した。役人たちが冷静で慎重な態度を示したことで、ムスリムとアルメニア人の双方が一定の信頼関係を保ち、しばしば共同して防衛体制を構築することができた。これは、正しい判断と適切な措置を講じることによって破滅的な事態を回避できたことを意味する。
暴動や略奪を開始したのは、難民や季節労働者だった。
 20世紀の初めに起きた虐殺事件の総括から、冷静な対応によって防止することが出来るものだという教訓が導き出されています。今の日本のような「ヘイト・スピーチ」は、まさに日本を戦争への道にひきずり込もうとする危うい道なのです。絶対に繰り返してはなりません。大変に勉強になりました。
(2014年7月刊。3200円+税)

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