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日本は戦争をするのか

カテゴリー:社会

著者  半田 滋  、 出版  岩波書店
 今年、1月1日の新聞に天皇の感想全文が載りました。私は以前より、今の天皇の行動と言葉について心から尊敬しています。いま安倍政権のすすめている施策について、天皇が大変な危機感を持っていることが、強くにじみ出ている言葉だと思います。以下、後半の部分を紹介します。
 「本年は、終戦から70年という節目の年に当ります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京をはじめとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まる、この戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」
 天皇が過去の歴史に学べと言っているときに、安倍首相は過去を美化し、侵略戦争なんてなかったとうそぶいているのです。
 国民の疑問に丁寧にこたえ、不安を解消していくのが政治家の務めのはずだが、安倍首相は違う。国内においては、「わが国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と繰り返して国民の不安をあおり、だから憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使を容認しなければならないと声を張りあげる。
 安倍首相の唱える「戦後レジームからの脱却」によってあらわれるのは、「古くて、二度と戻りたくない戦前の日本」でしかない。
アメリカが「靖国参拝は見送るべきだ」と明言していたのに、安倍首相は、それを無視して靖国神社への参拝を強行した(2013年12月)。
さすがに、昨年(2014年)12月には参拝を強行することは出来ませんでしたが…。
 そんな安倍首相をアメリカがこころよく思うはずがありません。「大変失望した」というコメントを出したり、オバマ大統領との会談がごく短時間の形式的なものですまされてしまったりしました。
 日中交流は、これまで年間30回から40回はあっていたのが、第二次安倍政権になってから、ゼロになってしまった。
これは、ひどいですよね。政府間の交流がなくなっても民間交流のほうは続いていますし、中国からの訪日客が日本にとっての大きなビジネスチャンスになっているのに、安倍政権は「中国脅威論」をあおるだけなのです。怖くて仕方がありません。こんな人物に日本の政治を安心してまかせるわけにはいきません。
 日本の自衛隊は、たしかに相当の武器をもって海外へ出て行った。しかし、自衛隊が海外で高い評価を得たのは、武力行使をすることなく、地元(現地)の復興に役立つ「国づくり」「人助け」に徹してきたから。アメリカのように戦争しに行ったからではない。
 ある自衛隊幹部は、「尖閣諸島をめぐる日中の対立から、自衛隊が駐在する沖縄本島・宮古島が占領される恐れがある。これを奪回するのが水陸両用部隊の役割になる」と言った。中国による沖縄侵略に備えているという。しかし、日本人が住んでいる島を中国が侵略すれば国連憲章違反になるし、そんな事態は現実には考えられない。そして、もし沖縄の諸島が中国軍に占領されたとすれば、日本政府が「抑止力」と説明している沖縄の海兵隊には意味がないことになる。いずれにしても、明らかに矛盾している。
私も、本当にそうだと思います。ここにあるのは、現実的なシナリオではなく、あくまで根拠のない危機あおりだけなのです。
 北朝鮮が怖いぞ、怖いぞと安倍政権は強調する。しかし、日本を「守る」ためのPAC3は
1000基以上が必要なはずなのに、実際には32基しかない。
 日本には使用済み核燃料棒を保管する原発とその関連する施設が55ケ所もある。通常弾頭でも、それが命中すれば未曾有の量の放射線に汚染されてしまい、日本列島は廃墟と化してしまう。
 そうなんですよね。日本列島に50ケ所以上もある原発を日本の自衛隊がテロ攻撃から守りきることは不可能なのです。つまり、日本はすでに大切な我が子を人質にとられているようなものなのです。戦争なんて、口にすることすら出来ないのが今の日本なのです。
 安倍首相は、それなのに軽々しく他国の脅威をあおりたてているわけです。まったく日本人を守るべき日本の首相とは認められません。
 日本の置かれている状況を真正面から考えるのに役立つ新書として、ぜひご一読ください。
(2014年7月刊。740円+税)

オウム真理教事件・完全解説

カテゴリー:社会

著者  竹岡 俊樹 、 出版  勉誠出版
 オウム真理教が横浜の坂本弁護士一家を殺害したのは、1989年11月4日のこと。そのころ、オウム真理教の信者は5千人足らず。
 私は、坂本弁護士一家の遺体が発見される前、まだオウム真理教が殺害犯だと判明していないときに、殺害現場のアパートを見に行ったことがあります。つましい、どこにでもあるような2階建ての木造アパートでした。どうやら、たまたま出入り口のカギがかかっていなかったようなのです(本当でしょうか・・・)。
 オウム真理教の発展を邪魔する存在だという麻原の指示によって、一家三人とも殺害されてしまったのでした。こんなものが宗教の名に価するはずがありません。にもかかわらず、この殺人教団が今も名を変えて日本に存続していることに、鳥肌が立つと同時に、世の中が信じられません。この本は、そんなオウム真理教に深く立ち入って分析しています。今から15年前の本ですが、大変勉強になりました。
 著者の結論を先に紹介します。
 オウム真理教事件は、戦後の日本社会がたどりついた負の極点、最大の汚点であった。
 オウム真理教は、我々が非論理的、非科学的として葬ってきたことをかき集めて再構築している。
恐ろしいのは言語化できない肉体、感性的な事象である。それが論理によって組みあわされ、意味づけられてしまえば、当人がその是非を判断することなど不可能になってしまう。信者たちは、修行によって得られる甘美な肉体感覚によって麻原の虚偽の深みへとはまり、いつの間にかサリンを撒くようになる。オウム真理教という特異なシステムの中に入ったら、誰だってサリンを撒く可能性が十分にあるのだ。
 ひえーっ、これって、とても恐ろしいことですよね。また、これが本当だからこそ、オウム真理教事件が単なる過去のことではなく、現代日本に今なお尾を引いているのでしょうね。だからこそ、15年前に刊行されたこの本を読む意義は、今も大いにあるというわけです。
 オウム真理教が発足したのは、1987年。このときの信者数はわずか6人。そして8年後の1995年には1万人の信者を擁した。信じられないほどの急成長です。
 1995年、オウム真理教の出家修行者は女性が6割近い661人、男性が41%の459人だった。信者の最終学歴は、大学院2%、大学卒38%、短大7%、専門学校17%、高卒
25%、中卒2%だった。
 吉本隆明は、オウム真理教を高く評価していた。なんということでしょうか・・・・。
 信者には、オウムの教えが心の奥底まで浸透し、潜在意識の中にまで入り込んでいる。本人が、ほとんど無意識の状態の中で、教えを叩きこまれている。
 オウム真理教は、1990年にボツリヌス菌の培養、波野村(熊本県)でホスゲンの生成プラントを建設した。そして、1992年には炭疽菌の培養をはじめ、1994年にサリンの生成に成功した。LSDも同年、その生成に成功した。
麻原は、本人が「絶対者」となって人々の上に君臨したいという強い欲求をもっていた。また、麻原の神格化は、麻原自身と側近たちがともに推進した。麻原の神格化の表れが巨大な椅子である。
麻原に気に入られようとする打算的な人間が少なくなかった。子羊のように従順で、純朴な人たちが多かった。幹部たちは麻原にゴマをすった。みんな、地位や権力に執着していた。
 教団は、麻原を信者とが一対一で結ばれている、奇妙な集団だった。信者同士の横のつながりというのはほとんどなかった。信者同士の横のつながりを麻原がひどく嫌っていた。
 ステージとホーリーネームは、麻原による教団支配のための格好の道具であった。
 みんな、教祖である麻原に気に入られたい、かわいがられたい、認められたい、その一心で、競いあっていた。そのためには、手段を選ばない風潮ができあがっていた。本当に恐ろしい、特殊な世界ですよね。
 教団は、麻原を絶対的な頂点とした権力組織へと変わっていた。麻原自身は家族とも切れていなかった。麻原一家の住む部屋は、すごくデラックスで、食事も信者とは別の者だった。
 麻原が否定したのは、憎しみの対象である現実社会そのものだけで、自分自身ではなかった。麻原は、自らにエゴやプライドを温存し、巨大化し、それを正当化した。
宗教を道具として利用し、信者たちを兵器へと仕立てあげていった麻原は宗教者ではない。この日本社会を滅ぼしにやって来た悪魔であるとしか言いようがない。
 本当に怖い「えせ宗教」です。そんな「エセ宗教」が名前を変えて今も生き続けていることに改めて恐ろしさを感じます。
(2009年11月刊。900円+税)
 明けましておめでとうございます。
年末年始は、娘たちが帰ってきてくれて、にぎやかに楽しいお正月を過ごすことができました。そして、例年どおり、庭仕事に精を出しました。
 いま、ロウバイの花が真っ盛りです。黄色い丸い粒々の花です。黄色というか、ハチミツの固まりのような花で、甘い香りが漂います。
 暮れにチューリップを植え終わりましたので、地上部分の枯れた球根類を掘り起こして植え替えします。すると、チキチキというよりタキタキという音がします。頭を上げると、すぐ目の前にジョウギビタキがいます。
 「何してんの?」と言わんばかりに、わざわざ近寄ってきて、私の作業を眺めるのです。
 ぷっくらしたお腹で、黒を黄色に、少しだけ白い部分があります。尻尾をチョンチョント振って挨拶してくれます。人を恐れず愛敬たっぷりのジョウビタキとともに庭仕事を続けます。
夕方、薄暗くなったら早々に風呂に入って身体を温めます。極楽、極楽という心地に浸ります。

江戸時代の医師修業

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  海原 亮 、 出版  吉川弘文館
 私が江戸時代へのタイム・スリップしたくないと思う理由の一つは、医学の発達です。
 もちろん、漢方薬その他の昔の人の生活の知恵を頭から否定するつもりはありません。でも、身体のかゆみを止める皮膚科の塗り薬や、目のかゆみを止める目薬などは、断然、今のほうがいいように思うのです。
 江戸時代も、たくさんの医師がいました。もちろん国家試験なんてないわけですから、誰でも医師になれたかのようにも思えます。しかし、どうやら、そうではなさそうです。
江戸時代は、病気や医療について、国家レベルで検討されることは、ほとんどなかった。
 徳川吉宗の享保期は例外的だった。漢訳洋書の輸入緩和、小石川養成所の設置、採薬調査・薬園整備・朝鮮人参の国産化計画など・・・。
幕府(公儀)は、医師の給与の指標を定めただけで、医師身分とは何かを明確に定義することはなかった。
 「誰でも医師になれた」というのは単純すぎる言い方で、史実とは異なる。百姓や町人であっても、長男でなく継ぐべき家をもたないとき、医の道に転するという選択肢があった。
 尾張藩だけは、医師門弟の登録と開業の許認可制を採用していた。
医師として収入を得ようとすると、同じテリトリーで活動するほかの医師の承認を得る必要があった。
 医師は、専門性の高い知識、技術を得るため、いずれかの学統に所属し、互いに競いあって、学問の習得につとめていた。
 江戸時代には、かなりの僻地(へきち)にまで医師が活動していた。
 当時の医師たちは、師弟関係を軸として同業集団(学統)を自発的に形成していた。
 江戸時代に医学の発展は、藩医身分の医師が主導した。
江戸時代には杉田玄白以前にも死体解剖がやられて、その実見図がいくつもあるとのことです。
(2014年11月刊。1800円+税)

満蒙

カテゴリー:日本史

著者  麻田 雅文 、 出版  講談社選書メチエ
 ロシアのウィッテは、実力者(首相や大蔵大臣を歴任する)として中国や朝鮮に港と鉄道支線を獲得することに執念を燃やした。シベリア鉄道をヨーロッパをアジアを結び一大運送会社にするためである。
 大連の建設は、ロシア人のサハロフ市長が指揮した。当初はアメリカ風にするつもりだったが、地形が合わないことに気がつき、パリを参考にして中心の広場から放射状に通りがのびる案が採用された。
 中国の義和団戦争の一因は、中国人とロシアの支配する中東鉄道の土地をめぐる争いだった。
 ウィッテは、1903年8月に大蔵大臣を解任されてしまった。
 日本の参謀本部は、シベリア鉄道が完成し、ロシアの兵站能力が格段に上がるのを恐れ、先手を打つことを決意する。1904年2月のことである。
 日露戦争において、日本側は日露両軍は、それぞれ30万人の戦闘員を動員すると目算した。しかし、それは甘かった。戦中の20ヶ月間に、ロシアは130万人の将兵を鉄道で中国東北へ運び入れた。それに対して停戦時の日本軍は69万4千人だった。このとき、ロシア軍は、沿海州(中国東北部)に100万近い精鋭部隊を展開していた。
 1909年10月26日、中東鉄道のハルビン駅で伊藤博文が暗殺された。
 満鉄は標準軌だったが、中東鉄道は広軌なので、列車を乗り換える必要があった。伊藤博文は、このとき身辺警護を断った。身に迫る危険を感じていなかったし、ロシア側に配慮もしていた。
 暗殺犯の安重根は、1910年3月26日、旅順の監獄で絞首刑に処せられた。処刑は伊藤博文の月命日だった。
 シベリア出兵からの完全撤退を考えていた原敬首相は、1921年11月に東京駅で刺殺された。シベリア出兵は、ボリシェヴィキ政権、ソ連による全国統一を数年送らせて、現地の人々の恨みを買っただけで終わった。
 1939年5月からの4ヶ月間、日本の関東軍と満州国軍とが国境のほかに何もないところで戦争した。
戦中の中国東北部である満州の変遷をたどりつくことのできる本でした。
(2014年10月刊。850円+税)

風花帖

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  葉室 麟 、 出版  朝日新聞出版社
 もちろんこれは、小説なのですが、どうやら史実をもとにしているようです。
 北九州の小笠原藩に、家中を真二つに分けた抗争事件が起きたようです。文化11年(1815年)のことです。
 小倉城にとどまった一派を白(城)組、黒崎宿に籠もった一派を黒(黒崎)組と呼んだ。白黒騒動である。白黒騒動は、いったん白組が敗れたものの、3年後に白組が復権して、黒組に対して厳しい処罰が加えられた。
派閥抗争は、こうやって、いつの時代も後々まで尾を引くのですね。
 根本は、藩主・小笠原忠固が幕府の老中を目ざして運動し、そのための費用を藩財政に無理に負担させようとすることから来る反発が家中に起きたことにあります。要するに、藩主が上へ立身出世を試みたとき、それに追従する人と反発する人とが相対立するのです。
 それを剣術の達人とその想い人(びと)との淡い恋愛感情を軸として、情緒たっぷりに描いていきます。家老などが360人も引き連れて城下を離れて藩外へ脱出するなどということは、当時にあっては衝撃的な出来事でしょう。幕府に知られたら、藩主の処罰は避けられないと思われます。下手すると、藩の取りつぶしにつながる事態です。
 双方とも武士の面子をかけた争いです。
 江戸末期の小笠原藩の騒動がよく描けた時代小説だと思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)

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