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こんなにおもしろい弁護士の仕事

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 千原 曜・日野 慎司 、 出版  中央経済社
弁護士になって40年以上もたつ私ですが、私にとって弁護士は天職、本当になって良かったと思っています。司法試験の受験生活はとても苦しく辛いものでしたが、なんとか辛抱して勉強を続け、弁護士になれて幸運でした。
大都会で3年あまり修業をして、故郷にUターンしてきましたが、それからはひたすら「マチ弁」です。狭い地方都市ですから下手に顧問先は増やせません。昔も今も利害相反チェックは重大かつ深刻です。
幸い懲戒処分は受けていませんが、懲戒請求を受けたことは何回もあります。サラ金会社から「処理遅滞」で請求を受けて、なんとかはね返したこともあります。ネット社会で法的処理のスピードが速くなっているにつれ、スマホも持たないガラケー族の身として、いつまで弁護士をやれるか心配にもなります。
40年以上も裁判所に出入りすると、いろんな裁判官にめぐりあいました。少なくない裁判官はまともに対話が出来て、尊敬すべき存在です。しかし、やる気のない裁判官、自分の一方的な価値観を押しつける裁判官、威張りちらすばかりの裁判官にもたくさん出会いました。先日も書きましたが、騙されたほうが悪いと頭から決めつける裁判官に出会うと、本当に悲しくなります。
以上は、この本を読んで触発された私の実感をつらつらと書いたものです。すみません。
この本の後半に出てくる日野弁護士は福岡で活躍している弁護士夫婦の子どもです。双子で弁護士になって、一人は広島で、もう一人は東京で弁護士をしているとのこと。なるほど、親の影響下にないほうが、お互いに気がねなく伸びのび弁護士活動を展開できると思います。福岡には親子一緒の法律事務所がゴマンとありますが、どうなのかな・・・、遠くから眺めています。
法科大学院で勉強してきた日野弁護士は、法科大学院の衰退を大変残念に思っているとのこと。私も、まったく同感です。昔の司法試験が万万才だったなんて、私には思えません。予備試験コースが昔の司法試験と同じ状況になっているのに、私は強い疑問を抱いています。
日野弁護士の仕事ぶりはすさまじいものです。前の日、午前3時まで仕事をしていて、2時間ほど仮眠をとって、午前7時25分の羽田発で福岡に向かい、福岡地裁で朝10時30分から夕方5時すぎまで証人尋問。6人の証人のうち、4人は敵性証人。相手方の弁護士も敵対的な態度なので尋問は長く、激しいものだった。
うひゃあ、す、すごーい・・・。今の私には、とても無理なスケジュールです。
ボス弁の生活は、もっとゆったりしています。平日ゴルフもあります。ただし、プレーの合い間にもメールチェックを怠らないとのこと。
顧問会社は150社。月額の顧問料収入が1000万円。う、うらやましい・・・です。でも、私は福岡市内で弁護士をしていませんので、顧問先の拡大なんて絶対にやってはならないことです。自分で自分の首を絞めるだけです。
刑事事件も、顧問先の関係で年に2、3件は担当するとのこと。これはいいことです。
民事訴訟の醍醐味は、三つある。
一つは、中身の充実した書面を書くこと。どのように説得力のある内容にするかという努力、テクニックがポイント。
二つは、どう解決するかという判断。判決をとるのが良いか、和解で解決するか、どのタイミングが良いか・・・。
三つは、どう交渉するかという交渉面。すべて、自分が主体的に絵を描いていく。裁判所の受け身ではなくて・・・。
まったく、そのとおりです。私は次回期日のいれ方にしても、自分のほうから先にリードするようにしています。そのほうが時間のムダも少なくなります。
裁判官のあたりはずれには、いつも苦労しているという文章には、まったくそのとおりなんです。
銀座でとても美味しい食事にめぐりあったとのこと。まあ、これは福岡にも、東京ほどでなくても美味しい店があると、ガマンすることにしましょう。
「こんなに面白い弁護士の仕事」は、田舎の福岡のさらに田舎にもある、このことをぜひ若い法曹志望の人に知ってほしいと思いました。
(2017年8月刊。1800円+税)

集団就職

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 澤宮 優 、 出版  弦書房
集団就職というと、上野駅におりたつ東北地方から来た学生服姿の一群というイメージです。実際、1967年(昭和42年)に私は東京で学生生活を始め、すぐにセツルメント活動で若者サークルに入って一緒になった若者は青森や岩手から来ていた集団就職組でした。彼らのなかには仲間を求めたり、楽しくいきたい、真剣に語りあう場がほしという人も少なくなかったので、大学生と一緒のサークルに飛び込んでくる若者がいて、また、労働学校で社会の仕組みを学びたいという若者たちがいました。もちろん、そこは男女交際の場、男女の貴重な出会いの場でもあったのです。
ところが、この本は、集団就職は決して東北の専売特許ではなくて、西日本、つまり九州や沖縄からも主として関西方面に集団就職していたことを明らかにしています。はじめに取りあげられたのは大牟田市です。関西方面へはバスで行っていたとのことです。
大牟田市の集団就職のピークは昭和38年(1963年)だった。昭和39年3月23日に大牟田市の笹林公園から中学卒の集団がバスで関西方面へ出発する風景の写真が紹介されています。これは私と同世代です。私は1964年4月に高校に入っています。ちっとも知りませんでした。関東方面へは、大牟田駅から夜行の集団就職列車で旅立ったといいます。
行った先で、彼らがどんな処遇を受けたのか、そして、その後、彼らの人生はどのように展開していったのか、それを本書は追跡しています。
集団就職者とは、高度経済成長が始まった昭和30年前後から、原則として地方から集団という形をとって列車や船などの輸送機関によって都会などに就職した少年、少女などの若者をいう。
昭和52年(1977年)、集団就職は、労働省によって廃止された。
集団就職した人の多くは著者の取材を拒否した。応じた人も、氏名を明かさないことを求めた。それが集団就職の一つの真実を物語る。
歌手の森進一も鹿児島からの集団就職組の一人。まず大阪の寿司屋に就職し、それから17回も職を変えている。
「わたぼこの唄」が紹介されています。わたしもセツルメント時代によくうたった、なつかしい歌です。
フォーク歌手の吉田拓郎の「制服」(昭和48年)という歌が、まさに、この集団就職の状況をうたっているということを初めて知りました。一度きいてみたいものです。
若者たちの大変な苦労を経て日本の経済は発展してきたことを改めて思い知らされました。私にとっても、ありがたい労作です。
(2017年5月刊。2000円+税)

サバイバル

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 服部 文祥 、 出版  ちくま文庫
サバイバル登山とは、食料や装備をできるだけ持たず道なき道を歩く長期登山のことをいう。山に持ち込む食料は、調味料と少々の米だけ。電池やコンロ、テントも燃料も持っていかない。登山道や山小屋も出来るだけ避けて通る。
今では、エベレストの山頂に登るのに必要なのは、2ヶ月の自由な時間、600万円、平年並みの好天、健康な肉体、そして、登山の基本だけ。エベレスト登頂者の最高年齢は76歳だということが、これを証明している。
サバイバル登山は、電気製品を山に持ち込まない。ケータイも、無線も、そしてラジオも持たない。つまり、明日の天気予報は知らないということです。台風が来るのかどうか、山で分からないって、怖いですよね・・・。
時計がないので、太陽の角度から時刻を知る。うひゃあー・・・、す、すごいです。
ところが、夏のサバイバル登山で、一番つらいのは、ライトがないことでも、時計がないことでも、空腹でもない。害虫の攻撃だ。アブ、ヤブ蚊、ブヨ・・・。これは怖いし、つらい。やっぱり、蚊取り線香は欠かせない・・・。
昔の人やヒマラヤ民のほうが、多くの食料を持って山を歩いていた。日本の山人は、干しエビや干し魚、味噌などをもって山を歩いていた。ヒマラヤの民は、ヤギの乳からつくる発酵バターを持ち歩く。
天然の岩魚(イワナ)は、夕食で刺身として食べる。口に入れると、ねっとりとしていて、しかも歯ごたえがあり、身切れがいい。シマアジに近い。
山には三種類の人間がいる。登山客、登山者、登山家。登山客とは、山岳ガイドや山小屋の客。登山者とは、山にまつわる出来る限りの要素を自分たちで行ない、その内容にも自分で責任をもつ人。登山家とは、登山者のなかでも登山関係で生活の糧を保ていたり、登山の頻度と内容からして、人生のほとんどを登山に賭けてしまっているような人のこと。
白米に比べて玄米のほうが栄養分の繊維も多く、味があってうまいうえ、排便の調子がいい。大便は沢の近くで出し、沢の水でお尻を洗う。
どうでもいいようで、ないと困るのが、まな板。
焚き火に火をつける現代的な焚きつけの総称がメタ。
サバイバル登山では、摂取カロリーが低いので、雨天には行動しないのが原則。光のない夜を過ごし、朝を迎える。これこそ、現代人が忘れている喜びだ。
ヒキガエルは食料。ヘビは、山では貴重なタンパク源。マムシは、山ウナギとも言われ、ヘビのなかでは、もっともうまい。ええーっ、ホ、本当でしょうか・・・。
今の私には、とても出来ませんけれど、50年前だったら、少しは真似していたかもしれないとは思いました。
(2016年7月刊。800円+税)
映画『少女ファニーと運命の旅』をみました。ユダヤ人の子どもたちがフランスからスイスへの逃亡に成功したという実話が映画化されているもので、主人公のモデルの女性は今もイスラエルに元気にいるとのことです。
主人公の少女ファニーは13歳。まだ大人ではありません。ファニーが逃走チームのリーダーに選ばれたのは賢いからというより性格が頑固だからというのです。なるほどと思いました。そして、泣き顔を見せずにメンバーを引率しろと励まされます。
引率者の青年が途中でいなくなったりして、逃走過程はハプニング続出。それでも知恵と勇気で、ようやくスイスにたどり着くのでした。
子どもたちのけなげさに心が打たれる映画でした。

時空のからくり

カテゴリー:宇宙

(霧山昴)
著者 山田 克哉 、 出版  講談社ブルーバックス
宇宙の話です。理解できないまま、ともかく、何か分からないまま必死に最後まで読み通しました。
光は質量をもっていない。光の質量は、正確にゼロ。質量をもたない光がなぜ重力場に反応するのか。重力場が空間を曲げるために、光線はその空間の曲がりにそって進む。道筋が曲がっているのに光が進むのは最短距離になる。光は、必ず最短距離を選んで突きすすむ。
光速度不変の原理。何に対しても、光の速度はまったく同じで、常に秒速30万キロメートル。光の速度は、誰がどう測ろうとも、観測者が動きながら測定しようと、光源が動いていようと、はたまた観測者も光源もどちらがどちらの方向に動いていようと、観測者が測定する光速は、秒速30万キロという、たった一つの値しか示さない。
ええっ、これって、不思議ですよね。世の中に「絶対」は存在しないはずなのに・・・。
高さ450メートルの東京スカイツリーの展望回廊にいつまでもいると、時間が速く過ぎるため、地上にいるより早く年齢(とし)をとる。太平洋を横断する飛行機は上空1万メートルを飛ぶので、地上にいる人よりは早く年齢をとる。高いところほど時間は速く進む。
では、どれだけ早く年齢をとるのか・・・。100年につき、100万分の1秒ほど早く。
なあんだ、まったく心配するような時間の速さじゃないんだ・・・。
質量が時空を曲げるという「時空のゆがみ」こそが重力波の発生原因となる。質量がなぜ時空をゆがませるのか、その根本原因は今もなお分かっていない。しかし、重力波の検出が成功したことによって、間違いなく時空がゆがんでいることが確認された。
この重力波の検出に、100年もの時間がかかったのは、ひとえに重力波があまりにも微弱すぎて、そのわずかな空間の伸び縮みを観測することがきわめて困難だったから。
地球で観測された時空のゆがみは、長さ1メートルに対して、10のマイナス19乗センチという気の遠くなるような小ささだった。
この本を読んで、私が理解したということは何ひとつありません。でも、たったひとつだけ、世の中は不思議にみちていること。そして、もう一つ。学者が果敢にそれを究明していて、私には理解不能な数式で「証明」しているということです。
まあ、分からない分野があることを知るだけでも意味があると思いましょう・・・。
(2017年7月刊。1080円+税)

武田氏滅亡

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版  角川選書
ええっ、この本は何なの・・・。新書でないことは覚悟のうえ。選書といっても、こんな厚さの本って、ないでしょ。なんと、この本は750頁もあるのです。
主人公は、織田信長に滅ぼされた武田勝頼です。勝頼については、偉大な父・信玄のバカ息子というイメージが強かったのですが、最近は見直されて、信長は、何度となく息子の信忠に勝頼をあなどってはいけないと警告しています。実際、勝頼は知謀もあり、武力もすぐれていたのですが、時の運には見捨てられた存在でした。この本も、勝頼=バカ殿様説はとっていません。
勝頼の最期は、「天目山」とされているが、実際には、そのような名前の山はない。そして、正確には、武田氏が滅亡したのは、「天目山」ではなく、「田野」(たの)である。
勝頼に最後まで付き添っていた武田軍の武将たちも裏切り、脱走が相次いでいて、ついに勝頼たちは、この「田野」で進退谷(きわ)まった。勝頼は、このとき37歳、妻は19歳、長男信勝は16歳だった。信勝は、最初で最後の戦場で亡くなったことになる。
勝頼の最期は、戦死したのか自刃したのか、まだ確定していない。
武田氏は天正15年(1582年)3月11日に滅亡した。このとき、勝頼の周囲にいたのは、武士40人ほど、侍女50人ほどだった。
その前、信長は、長男の信忠に対して、勝頼を弱敵と侮っていけないと再三再四、いさめる書面を送りつけていた。指示を無視して、とんでもないことになったら、もう会うこともないという脅しまで書いていた。つまり、信長にとって、武田勝頼は決して「バカ殿様」という存在、ではなかったのです。
では、勝頼は、なぜ、時の運がなかったのか・・・。この本は、その点について、徹底的に考察しています。
武田信玄は、1573年に53歳で亡くなったのですね。早すぎる死でした。
勝頼は、突然の父死亡により、当初から権力基盤は不安定だった。それは、そうでしょう。若いというだけではなく、勝頼は「諏方」(すわ)勝頼であって、武田勝頼ではなかったのですから・・・。
長篠合戦で武田軍が大敗したのも、勝頼が「バカ殿様」だったからというのではないようです。ただし、勝頼は、織田軍の勢力を過小評価していたようではあります。索敵が甘かったと著者は評しています。
長篠合戦での鉄砲三段撃ちは、ありえないという批判が克服されて、今では、三段撃ちもありえるということになっています。そして、武田軍にも、それなりに鉄砲隊はいたようなのです・・・。
勝頼は、上杉家の内紛、そして北条家とのたたかいなど、まさに戦国の厳しい時代を戦い抜かなければいけなかったのですが、いかんせん時の運から完全に見放されてしまいました。信長方の謀略にひっかかって寝返りをうつ武将が相次ぐのを止められなかったのです。時の流れというのは恐ろしいものです。
ともかく、武田勝頼を「暗愚」な戦国大名とみるわけにはいかないことを決定づける大著です。学者は、すごいです。
(2017年4月刊。2800円+税)

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