法律相談センター検索 弁護士検索

ブッシュのホワイトハウス(下)

カテゴリー:アメリカ

著者:ボブ・ウッドワード、出版社:日本経済新聞出版社
 いまイラクに駐留するアメリカ軍は13万人。当初の計画では、3万人ほどにするということであり、最大でも6万人のはずだった。ところが激しい武力衝突が絶えないため、アメリカは減らすことができない。1ヶ月にアメリカ軍が攻撃される件数は500件もある。2003年9月は750件、10月には1000件になった。1日に30件以上の武力衝突が起きている。
 イラクに大量破壊兵器があるか調査していた調査団のケイ団長は、公式に発言した。
 私自身を含めて、我々は間違っていた。イラクで大量破壊兵器の備蓄が発見されると考えられる根拠は何もない。過ちを認めることが大切だ。イラクは、あたかも大量破壊兵器を保有しているかのようにふるまっていただけ。
 そうなんです。ことは明白です。アメリカのイラク侵攻に何の根拠もありませんでした。ところが、ブッシュ大統領も日本政府もいまだに自分の誤りを認めていません。ひどい国際法違反です。
 アメリカ政府の高級スタッフがイラクに派遣されて見たものは、次のとおりです。
 イラクは、見た目も雰囲気もまさに戦場だった。攻撃は一ヶ月に1000件。アメリカ軍の食堂が迫撃砲で攻撃を受けたこともあった。ヘリコプターで移動するときには、常にドア銃手が機関銃を下に向けていた。スタッフは抗戦ベストを着用した。
 2004年8月から、攻撃を受けるのは月に3000件になった。
 2003年5月にブッシュ大統領がアメリカ軍の輸送機で到着し、大規模な戦闘は終わったと宣言した時点と比べると、武力衝突は10倍に増えている。
 2005年9月、アメリカ政府の高級スタッフがイラクを視察した。反政府勢力がイラクの大部分で自由に作戦行動できるのに、アメリカ軍は兵力を分散して、手薄になっていることを知った。武装勢力は、従来よりも殺傷性の高いIEDを使用し、それがアメリカ軍将兵多数の死因となっている。
 3年のあいだにイラク人3万人が死んだ。イラクの人口がアメリカの15分の1だということを考えると、この3年間、毎週、9.11同時多発テロの被害者と同数の死者が出ていることになる。9.11が毎週くり返されたら、アメリカの社会にどれほどの心理的打撃を与えるか、想像できる。イラクの社会にもそういう打撃を与えているわけだ。
 いやあ、本当です。この指摘はあたっていると私も思います。
 世論調査によると、スンニー派の50%が反政府運動に賛成している。スンニー派は、人口の20%を占めているので、イラク国民の10%、つまり200万人が武力抗争に賛同していることになる。
 ブッシュは、景気のいい楽天的な発言をするばかりで、イラクの陥っている状況について、アメリカの国民大衆に真実を伝えていない。
 これは、ちょうど安倍首相が貧困層が日本に増大している現実を無視して美しい国・日本を愛しましょうという美辞麗句を並べたてているのと同じことです。

江戸の躾と子育て

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:中江克己、出版社:祥伝社新書
 江戸の親たちは、子育てに熱心だった。その証拠に、じつに多くの育児書や教育書が出版され、さまざまなことが述べられている。
 赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人(めのと)やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない。
 これには私もまったく同感です。子どもたちが赤ん坊のころ、私もせっせと話しかけたものです。おかげで、表情が豊かになったと私は考えています。
 江戸時代の子どもたちは、たいそう本好きで、子ども向けの本も数多く出版された。部数はよく分からないが、当時の日本は出版王国といってよいほどで、江戸時代に6万点から7万点の本が出版された。
 文化年間(1804〜1817)のころ、京都に200軒、江戸に150軒の出版元がいた。その多くは、出版と卸・小売を兼業していた。当時は1000部も売れるとベストセラーだった。それだけ読書人口が多かった。庶民の識字率が高く、知的好奇心も強かったことによる。
 子ども向けの本は赤本と呼ばれた。表紙が赤色だったからで、中身は挿絵と短い文章を添えた絵本だった。値段は安く、宝暦年間(1715〜63)で5文(125円)、享和年間(1801〜03)には10文(250円)した。当時、屋台のかけそばは一杯16文   (400円)だから、はるかに安い。
 識字率は、江戸市中では男女ともに70〜80%、武士階級は100%。幕末期の江戸には1500の寺子屋があった。享保6年(1721)には、800人の師匠がいた。生徒が200人いたら、師匠は俸禄20石の下級武士並みに生活できた。教科書は「往来物」と呼ばれ、7000種類もあった。うち1000種は女子用である。
 農民の子どもたちは、「農業往来」「百姓往来」「田舎往来」によって農業を学んだ。
 漁村用には「浜辺小児教種」船匠用には「船由来記」があった。
 すごいですよね。江戸時代の人々って、現代日本人とあまり変わらないっていう気がしますよね。ところで、いわゆる大検(大学入学のための検定試験)がなくなったそうですね。私の知人の塾教師から教えてもらいました。これまでは大検受験のために勉強している高校を中退した若者などを相手に教えていたのが、大検がなくなったので、その分野の生徒が来なくなって困っているということでした。高校卒業の認定で足りるようになったけれど、予備校が高校認定を受け、レポート提出で足りるという運用をしている、とのことでした。本当にそんなんでいいのかな、と不安に思ってしまいました。
 いま、我が家の庭に咲いているのは、黄色いカンナ、モヤモヤとしたピンクの合歓(ねむ)の木、ヒマワリ、淡いピンク色と白のエンゼルストランペット、そして、淡紅色のサルスベリです。台風で少し倒れたせいもあって、キウイの雌の木を大きくカットしました。その足元にひ弱なキウイの雄の木があります。雄の木はこれで5代目です。今度こそ大きくなってほしいのですが・・・。

薩摩スチューデント、西へ

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:林 望、出版社:光文社
 あのリンボー先生による初めての長編時代小説です。「小説宝石」に2004年5月から2年にわたって連載されていました。
 明治維新の前夜、まだ海外渡航が禁止されていた時代、薩摩藩は、前途有為な若者たち15人を、ひそかにイギリス留学へ旅立たせた。藩としての秘密使節4人が同行した。
 外国への渡航は死罪にあたる国禁であったから、発覚したときには藩上層部の責任が問題になるのは必至である。しかし、海外との密貿易をすすめて財を得ていた薩摩藩は、巨額の資金とともに若者たちを送り出した。
 若者たちは、全員脱藩の扱い。出発するのもこっそり。長崎のグラヴァーが迎えの船を用意し、乗り込む。最年少の長沢はまだ13歳。次に15歳、そして19歳が2人いて、大半は20台前半の若者たちである。
 船中で英語を学び、船酔いに苦しみ、慣れない洋食に悪戦苦労していく様子が描かれていきます。文明開化を取り入れた先達の苦労が偲ばれます。
 この本で圧巻なのは、日本の若者たちがヨーロッパ文明に圧倒されながらも、気後れするだけでなく、すすんでその技術を身につけようとする様子です。好奇心旺盛な彼らは、ヨーロッパ文明をひとつひとつ自己のものにしていきます。それは、科学・技術だけでなく、商売の点でもそうですし、工場運営などについても大いに学んでいくのです。
 その2年前に薩摩藩はイギリス軍と鹿児島湾内で戦い、圧倒的な武力の差に惨敗し、町を焼き払われています。わずか2年後に敵国イギリスに若き俊英をひそかに送りこんだわけです。その大胆な発想の転換には驚かされます。
 イギリスで薩摩藩使節たちは最新式の武器を大量に購入しました。今のお金で22億円相当というのですから、なんともすごいものです。小銃2300挺などです。
 かつての日本の若者の意気の高さを、現代日本に生きる我々は見習いたいものだと思いました。
 雨の多い梅雨でした。蝉の鳴き声をずっと聞くことができませんでした。朝、雨が降っていないのに蝉が鳴かない日は、やがて雨が降るということです。どうやって蝉は地上の天気を知るのでしょうか。このままずっと雨が降り続いたら、地中の蝉は来年の夏を待つことになるのか、心配していました。朝から元気よく鳴き蝉の声を聞くと、うるさくもありますが、やっと夏が来たという実感に浸ることができます。

武田信玄と勝頼

カテゴリー:日本史(中世)

著者:鴨川達夫、出版社:岩波新書
 タイトルだけからすると、信玄と勝頼という戦国大名の親子の葛藤を古文書にもとづき再現・分析した本のように思えます。しかし、本の中味は、文書にみる戦国大名の実像というサブ・タイトルのとおりです。そして、それはそれなりに面白い内容です。
 私は、ひやあ、そうだったのか、知らなかったなあ、と思いながら、とても興味深く読みすすめていきました。くずし字の古文書を著者のようにスラスラと解読できたら、どんなに世界が広がるかと、私には著者がうらやましくてなりません。
 文書は手紙系の書状と書類系の証文とに大別できる。書状には年紀をつけない。相手が家臣や近隣の大名であるときは、堅切紙(たてぎりがみ。通常の紙を縦に半分程度に切ったもの)が、遠隔の大名のときには切紙(きりがみ。横に半分に切ったもの)が多く使われる。
 証文は、信玄や勝頼が決定した施策や確認した事項を、公式に通達する文書である。各級の家臣や寺社、商工業者や郷村の人々まで、領国内の諸階層に幅広く与えられていた。中身は多岐にわたるが、土地の領有を新規にまたは継続して認めたもの(充行状・あてがいじょう、安堵状・あんどじょう)、各種の義務の免除など何らかの特権を認めたもの、戦場における功績を確認したもの(感状)などが目立つ。体裁は必要な事柄を事務的に記したうえで、「仍って件の如し」(よってくだんのごとし)という文言で結ぶのが原則。そして、年紀が必ず記入される。
 信玄は永禄9年(1566年)夏ころ、証文のつくり方を変えた。それまでは折紙(おりがみ。紙を横に二つ折りにしてつかう)をつかっていたのを、堅紙(たてがみ。紙の全面をつかう)に改めた。また、信玄自身の名義で出すものと、当該案件の担当奉行名義で出すものとに二分し、前者には花押を書き、後者には龍の朱印を捺(お)すことにした。そこで、信玄名義で花押のあるのを判物、奉行名義で朱印のあるものを朱印状と称する。身分の高い相手や重要な案件については判物、それ以外の大半の案件については朱印状というのが原則であった。つまり、朱印状より判物のほうが格が高い。
 出馬と出陣とは違う。出馬は一軍の大将が出動するときにつかう。大将がどこかに滞在することを馬を立てるといい、行動を終えて帰還することは馬を納めるという。大将の下にいる将兵が出動するときには、出陣という。
 信玄の直筆の手紙からすると、信玄には気の小さい、臆病なところがあったと解される。しかし、その一方、きわめて強気な態度を示すこともあった。
 信玄は、遠江・三河を攻めたとき、そのまま京都に攻め上り、天下を取ろうとしたのだという通説に対して著者は疑問を投げかけています。
 信玄の標的が岐阜であり、信長を主敵と考えていたことは間違いないとしても、それは必ずしも本意ではなかった。朝倉義景や本願寺など、当時、信長に圧倒されていた勢力によって反信長陣営に主将として引っぱり出されただけ。
 なーるほど、そうかもしれません。戦国大名の統治形式と心理をうかがい知ることのできる手がかりが得られる本です。

イラクの混迷を招いた日本の選択

カテゴリー:社会

著者:自衛隊イラク派兵差止訴訟全国弁護団連絡会議、出版社:かもがわブックレット
 イラクでは毎日のように自爆攻撃がくり返され、大勢のイラク人が殺されています。日本の新聞では小さく報道されますが、テレビで報道されることはほとんどありません。あまりに毎日おきて、あたかもルーティンワークのようになってニュース(目新しいもの)にならなくなってしまったからです。
 そんなイラクで日本の自衛隊が今なおアメリカ軍の下働きをしています。航空自衛隊です。200人の自衛隊員がイラク内で輸送業務に従事しています。
 アメリカ軍兵士を輸送する航空自衛隊C−130H輸送機は「アメリカ軍の定期便」と言われている。C−130H輸送機は、乗員は6人で、最大輸送人員92人、完全武装兵でも64人を乗せることが可能。搭載量は20トン。ジープや大砲、装甲車も運べる輸送機だ。
 撤退した陸上自衛隊はイラク・サマワで何をしていたのでしょうか。日本のマスコミはテレビも新聞も、本当のことをまったく伝えませんでした。
 当初は、たしかにサマワ市民への給水活動を多少なりともしていた。しかし、2006年2月からは給水活動は何もしていない。治安が急激に悪化したため、自衛隊は郊外にある宿営地から出ることができなくなった。そして、給水活動をしていたとき、実はサマワ市民とあわせてアメリカ軍やオランダ軍への給水活動もしていたのではないか。砂漠地帯では、兵器は水冷ディーゼルエンジンで動いている。水がなければアメリカ軍は戦うことができない。日本の自衛隊はアメリカ軍の下支えとしての給水活動をしていたと思われる。このように、サマワの自衛隊は、広大なイラク南部砂漠地帯の占領政策を遂行する多国籍軍に、軍隊にとっての「命の水」を安定的に供給するという後方支援活動、つまり軍事活動を担っていた。
 なーんだ、そういうことだったのか・・・。またまた日本人は日本政府から欺されてしまったのですね。
 イラクにいるアメリカ兵は15万人。これまで3600人ものアメリカ兵が戦死した。しかし、イラク市民の死者はケタが2つも違う。65万5000人と推計されている。さらに、家族を失い、家を破壊されるなどして国外に難民として流失した人々が200万人国内避難民は170万人。イラク戦争が始まったときのイラクの人口は2700万人。3年間でイラクの人口の一割が減少したことになる。
 ですから、イラク人女性の次のようなブログ上の発言には、つい、そうだよな、と同感せざるをえないのです。
 この4年でアメリカ兵が3000人死んだんだって。本当? それはイラク人の一ヶ月の死者の数にもみたないじゃない。アメリカ人には家族がいた? それはお気の毒さま。でも、それはイラク人にとっても同じことよね。イラクの道ばたの遺体や遺体安置所で身元確認を待っている遺体たちもね。アメリカ兵の命は私たちのいとこの命よりもっと大切だって言うの? 私はそうは思わないわ。
 愛する家族や友人を奪われた人々の心の中に憎しみが生まれてくるのも当然です。報復の連鎖はどこかで止めるしかありません。
 日本のマスコミは、イラクで日本の自衛隊が何をしたのか、いま何をしているのか、自衛隊が後方支援しているアメリカ軍がイラクで何をしているのか、もっと事実を正しく報道すべきです。
 いったい、今、イラク国内に日本のジャーナリストはいるのでしょうか。どこに何人いるのでしょうか? 私は、ぜひ知りたいです。こんな基本的なことも明らかにしないで、日本を「美しい国」だなんて、言わせません。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.