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タクシー・ニューヨーク

カテゴリー:アメリカ

著者 若宮 健、 出版 花伝社
 当代日米タクシー事情、というサブタイトルがついていて、アメリカはニューヨークで働く日本人ドライバーを紹介しつつ、日本のタクシー運転手の置かれている状況を自分の体験をまじえつつ、熱く紹介している本です。
 私の身近な人にタクシー運転手が何人もいますが、月収20万円を超すような人はほとんどお目にかかりません。長時間のきつい、危険な仕事なのに、賃金は劣悪です。
 ニューヨークでキャブの免許を取る時には、実技試験はない。日本では、普通免許を取得してから3年以上たっていないと資格がなく、試験は学科と実技の両方を受けなければいけない。
運転免許を取得するに必要な費用は、年齢(とし)にきちんと相応するということです。ですから、還暦を迎えた私なんか60万円もかかることになります。うへーっ、ブルブル、大学時代に免許をとっておいて本当に良かったと思います。
 ニューヨークは人口800万人で、市内を走るタクシーは1万3150台。東京都内のタクシーは、5万8000台。これは、ニューヨークの4倍となる。人口比を考えたら、とんでもなく東京のほうが多いわけです。なんでも規制緩和というのは大企業の利潤追求には便宜であっても、そこで働く人々にとっては地獄をもたらすものなのです。ところが、貧しい人ほど小泉政治を支持したという奇妙な現象がありました。
運賃収入は、地方都市で1日2万円台、埼玉で3万円台、横浜で4万円台、東京が5万円台である。福岡でも本当に低賃金で働いています。
 タクシー運転手は強盗にあう心配もある。そのうえ低賃金なのだ。それでもタクシー運転手は、独立が保障されるなどの理由から人気がある。世の中の矛盾の一つですね。
(2009年3月刊。1500円+税)

骨の記憶

カテゴリー:社会

著者 楡 周平、 出版 文芸春秋
 東北の山奥から貧農の少年が上京してきます。就職した先でひどくこき使われます。何度もやめて田舎へ帰ろうと思うのですが、田舎には仕事がありません。また、帰りたくない暗い過去もあるのでした。やがて、ひょんなことから別人になりすましてしまうのです。
それが幸運の始まりでした。思わぬ土地代金が入り、勤めていた運送会社を独立して始めた運送業も大当たりです。お金が面白いように入ってきます。政治家から土地ころがしの口がかかって、大儲けもします。そして、金持ちの令嬢と結婚し、豪邸を手に入れます。
 ところが、令嬢は成り上がり者とバカにして見向きもしません。そこから復讐が始まるのです。
いったい、少年のころの暗い過去とは何だったのか、復讐はどのようになされていくのか。いやはや、すごい作家の発想力です。それも情景描写がきちんと出来ているからこそ読ませます。
 人生には常に光と影があることを考えさせてくれる本です。500ページもある力作長編でしたが、ぐいぐい本の世界、暗い、どうしようもないやるせなさのつきまとう世界ですが、そこへ引きずり込まれてしまうのでした。
 
(2009年2月刊。1714円+税)

アメリカ、自由の物語(上)

カテゴリー:アメリカ

著者 エリック・フォーナー、 出版 岩波書店
 昔、ギリシャの哲学者セネカが、次のように喝破したそうです。
 「奴隷でない人間にお目にかかりたいものだ。ある者は性の奴隷であり、またある者はお金の奴隷であり、またある者は野心の奴隷なのだ」
 うむむ、こ、このように決めつけられると、私なんか、ぐうの音も出ません。それでも……。
 18世紀、自由の理念が広まった、イギリス・フランス・オランダという国々は、すべて大西洋奴隷貿易に深く関与していた。イギリス人が非常に大切にした海洋の自由とは、自国の商人が望む、いかなる港にも奴隷を運ぶ権利を含んでいた。
 そこで、「黒人奴隷の監督者から、自由を求める最も声高い要求を聴くとは、いったいどういうことだろうか」という皮肉な指摘もなされていた。いかにして、アメリカ人は、アフリカ人の自由な権利や幸福を追求する権利を奪うことを正当化できるのだろうか、と。
 黒人奴隷制は、必ずしも白人であるアメリカ人の自由の理解とは矛盾しなかった。多くのアメリカ人にとって、奴隷を所有することは、真の自由に不可欠と広くみなされた経済的自立を保障するものだった。1857年、トーニー最高裁長官によれば、黒人は市民ではありえなかった。アメリカ国民は白人に限定された政治的家族集団を構成していると考えられていた。
 アメリカ北部の社会のもっとも顕著な特徴として、自由労働が称賛を受けても、その中にはアフリカ系アメリカ人は含まれなかった。
 1860年、400万人のアフリカ系アメリカ人がアメリカにおいて奴隷として働いていた。
 自由黒人は、西部の開拓を利用して、アメリカの自由にとって不可欠である自らの経済的地位を向上させることもできなかった。連邦法によって黒人は公有地の獲得を禁じられ、インディアナ、イリノイ、アイオワ、オレゴンの4州は、自由黒人が州内に入るのを全面的に禁止した。
 リンカーンは、人種的平等主義者ではなく、当時の社会で広く見られた人権剥奪の多くの事例を容認した。人生のほとんど最後までリンカーンは黒人の選挙権に反対し、折にふれて国外への黒人の植民について語った。
 しかし、南北戦争になって、その後半に連邦軍に20万人の黒人が入隊したことが、黒人市民権の問題は戦後に検討されるべき事項となった。
 奴隷制の廃止は、自由の誕生を自動的には意味しなかった。
 20世紀に入って、何百万人という白人女性が新しく有権者に加えられたが、民主主義を改善するという名目で、何百万人もの人々、つまり黒人・移民・労働者が有権者名簿から削除された。
 今日のアメリカがよく用いる、ダブル・スタンダード(二重基準)というものが、実は昔からのものであることもよく分かる興味深い本でした。
(2008年7月刊。3800円+税)

ロシアのマスメディアと権力

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 飯島 一孝、 出版 東洋書店
 わずか64頁のうすっぺらなブックレットですが、ロシアにおけるマスメディアの置かれている状況が実に簡潔にまとめられていて、よく分かります。ソ連時代より統制は緩和されたのでしょうが、それにしても権力によるマスメディアの統制はかなりのものです。でも、よくよく考えてみれば、日本だって似たようなものでしょう。五十歩百歩という気がします。
 今のプーチン首相は、1999年12月31日、エリツィン大統領の突然の辞任表明を受け、大統領代行に任命された。そして、2000年3月の大統領選で当選し、第二代ロシア大統領に就任した。このとき、マスメディアが大々的に動いて逆転勝利した裏話も紹介されています。要するに、今の日本と同じで、お金の力にものを言わせて票をもぎとったのです。
 プーチンが最初に手掛けた仕事は二大メディア財閥の強制排除で、自らの出身母体である旧KGBの元同僚などをつかって、メディア財閥大物二人の国外追放に成功した。
 プーチン政権が誕生したころ、強大な力をもつ新興財閥がメディアを利用してプーチン政権の政策を妨害するのは必至の情勢だった。そこで、新興財閥からメディアを切り離し、プーチン政権がメディアをコントロールする必要があった。
 新興財閥のなかでもグシンスキー氏とベレゾフスキー氏がもっとも強力だった。2人ともユダヤ系で、それぞれ総帥をつとめるグループは、メディアだけでなく、経済界全体をリードしていた。プーチンがメディア財閥排除を決意するに至ったのは、エリツィン時代末期の激しい政権争いを目の当たりにしたことによる。
 グシンスキー氏は逮捕されたあと、スペインへ出国、亡命した。
 グシンスキー氏は、検察庁に出頭を命じられて拒否し、イギリスに出国、亡命した。
こうやってロシアのテレビは反国ネット3局とも政府系になった。しかし、プーチン政権による強権的なテレビ支配に対して、世論の大きな反対は起きなかった。政府や経営陣の説明をそのまま受け止める人が多く、「言論の自由の問題」と深刻に考えているロシア国民は少なかった。しょせん、新興財閥とメディアの争い、とクールに眺めていた。な、なーるほど、ですね。日本の国民も、実際、あまり表現の自由に関心を示していませんよね。
 プーチン政権がマスメディアを支配できた背景には、「シロビキ」と呼ばれる旧KGBなどの治安・情報機関出身者が、政権の主流派を占めていたこともあげられる。プーチンが彼らを積極的に登用したため、政府機関の幹部の8割を占めるに至ったとも指摘されている。彼らは捜査機関や実力部隊にさまざまなネットワークをもっていて、監視もしやすいことから、メディア支配の実効はよかった。
 ソ連が崩壊した1992年から2008年までにロシアのジャーナリスト49人が殺害された。この死者の数は、イラクの135人、アルジェリアの60人に続いて3番目に多い。ロシアの犠牲者は、プーチン政権在任中の8年間だけで17人にのぼる。
 世界の報道の自由ランキングでは、ロシアは173ヶ国のうち141番目である。ちなみに、日本は29位、アメリカは36位。中国は167位、北朝鮮は172位だ。
 ロシアの世論調査によると、マスメディアに対する信頼度は、ロシア大統領、宗教団体、ロシア軍に続いて4番目と、意外なほど低い。
 マスメディアがロシア国民からあまり信用されていない理由は、民主主義が導入されると政治がよくなり、生活も豊かになるという神話が崩れ、それにともなって民主主義の旗手とされるマスメディアへの幻想も薄れたことによる。そして、メディアの大半が新興財閥や国営企業の参加に入り、国民のための報道というより、財閥や企業優位の報道というイメージが強くなったことにもとづく。
 検閲がなくなり、共産党による統制がなくなった反面、経営重視で売れる商品づくりに熱中したため、記事の質が低下した。新聞もテレビも商業主義に走り、その結果、ロシア国民の信頼を失った。
 ロシアでは、テレビの信頼度が他のメディアに比べて大きい。その信頼度で見ると、テレビが49%、新聞が21%という調査データもある。
 新聞は、人口1000人あたり91.8部で、10人に1人しか購読していない。ちなみに、日本では2人に1人。百万部以上も発行している日刊紙は、大衆紙1紙しかない。高級紙では、「コムソモリスカヤ・プラウダ」22万5000部の一紙しかない。つまり、ロシアを代表するといえる高級紙はなく、政府に影響力のある有力紙もないのである。それだけに、ロシアではテレビの影響力はますます大きくなっている。
 ロシアの政治には、もともと強権的な体質があり、国民の中にも、強い指導者を求める雰囲気が大勢を占めている。
 いやはや、ロシアに本当の民主化が定着するまでは、まだ相当の苦難が続きそうです。
(2009年2月刊。600円+税)

ナポレオン帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ジェフリー・エリス、 出版 岩波書店
 ナポレオンは9歳で陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官大学校を16歳で修了して砲兵少尉に任官した。砲兵中尉となったあと、大佐としてフランス正規軍に復帰し、トゥーロン攻囲戦で活躍して、24歳にして准将に昇進した。そして、准将のとき、1795年10月の王党派蜂起事件を鎮圧して名をあげた。
 この事件は、一般市民を鎮圧するためフランス大革命以降初めてパリ市中に公然と正規軍が投入されたという点で重要であり、先例となった。
 1796年3月、未亡人ジョゼフィーヌ32歳と結婚したとき、ナポレオンは26歳だった。彼女には前夫との間に子どもが2人いた。
 第一統領となったナポレオンは、秘密警察を配置して警察事態をひそかに監視しようと考えた。この業務をおもに担当したのがパリ警視庁である。警視総監は、名目上フーシェの指揮下に置かれていたが、実際にはナポレオンに対してのみ責任を負った。つまり、パリ警視庁は警察省から事実上独立して動いていた。
 ナポレオンは革命期の党派抗争を非建設的なものだったと考え、抗争を超越する立場に自身を置き、抗争が政治に及ぼしかねない衝撃を解消しようとした。
 1800年12月、ナポレオンを爆弾で暗殺しようとした企ては失敗に終わったが、わずか数秒差のことだった。犯人は王党派であったが、ナポレオンは事実を捻じ曲げてジャコバン派やバブーフ主義者130人を国外追放する口実に利用した。
 1810年までにパリで刊行を許された新聞は4紙のみとなり、いずれも政府の代弁機関であって、ナポレオンの戦勝を念入りに賞揚した。そのプロパガンダの狙いは、市民兵の士気を高揚せることにあった。
 ナポレオンは、信心深いわけでなく、カトリックの教義に好感を抱いてはいなかったが、その有用性をはっきり認識していた。社会の基盤をなし、イデオロギーによる鎮痛剤として有用なものとみ、教会に対して和解を持ちかけた。
 ナポレオンは民法典をつくる4人の委員会に頻繁に出席し、議長をつとめ、陣頭に立って草案内容に指示を与えた。これによって妻は法律上、夫に従属する存在となった。つまり、民法典の成立によってもっとも不遇をかこったのは、間違いなく女性であった。
 ナポレオンに仕える軍の将官の大部分は、さまざまなブルジョワ階層出身者であった。
 ナポレオンの大陸軍の将校集団は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政名士という新改装を生み出そうという構想だった。
 普通の兵士のほとんどは、貧困層出身、とくに小作農階層出身の青年男子であった。
 金銭にゆとりのある者は、代理人を立てて徴兵を遁れることができた。
 脱走兵は年平均で9600人にも及ぶと推計されている。徴兵は各地で抵抗運動を引き起こし、不正行為も誘発したが、山賊との戦いについてはナポレオンの憲兵隊に有産階級から期待が集まっていた。
 ナポレオンは、白紙から出発した変革者というより、既に知られ実践されてもいた軍事手法を整理し、一つにまとめあげた人物であった。そして、ナポレオンは天賦の即興の才を発揮した。しかし、ナポレオンは自分の大権を他人と共有することをひどく嫌った。ナポレオンが戦場で手にした成功は、その場しのぎの結果だった。
 以下、省略しますが、大変興味深い記述が続いており、ナポレオンそのものとナポレオン帝国の実相がよく分かる本でした。
 チューリップ500本が見事に咲きそろいました。一番に咲いていたものは花びらが落ち始めています。
 今年はじめて、玄関わきの植え込みにチューリップを植えてみました。ピンク・白・黄色の大きな花です。朝、出るときにそのカラフルな花を眺めると、さあ、行ってくるよ、と足取りが軽くなります。
 チューリップのほか、フリージアが咲き始めました。赤や黄色の小さい花をたくさんつけ、とても甘い香りをふりまいています。
 ボタンのつぼみが大きくなってきました。5月を待たずに4月のうちに咲いてくれるかもしれません。楽しみです。隣家の玄関脇にライトブルーのアイリスの花も見えます。我が家の庭は、春真っ盛りです。
(2008年12月刊。2600円+税)

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