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世界一のトイレ、ウォシュレット開発物語

カテゴリー:社会

著者   林 良祐 、 出版   朝日新書
 毎日、大変お世話になっているトイレの便器のお話です。なるほど、日本人の繊細さによくマッチした製品はこうやってつくるのか、感嘆しながら読みすすめました。
 日本はケータイもガラパゴス的に特異な進化をみせているが、トイレについても同じことが言える。3年もすれば「古い」と言われる。本当にそのとおりです。今どきは、駅のトイレでもウォシュレット式は普通になっています。ホテルやレストランでウォシュレットになっていないと、ここは設備投資が遅れているなと不満を感じてしまいます。ましてや和式便器なんて、論外です。観光地で昔ながらのボットン式なんていったら、もう悪評ぷんぷん、誰が次から来るものですか。
 ところが、先日行ったフランスでは違うのですよね。駅ではトイレを探しあてるのに一苦労します。最近は行っていませんが、中国でもびっくりさせられましたね。
温水洗浄便座の家庭の普及率は71%。累計の出荷台数は3000万台をこえた。今や旅行のための携帯用のトラベルウォシュレットが人気で、隠れたロングセラーになっている。さすがの私も、これはまだ持っていません。
 日本人は毎日、お風呂に入って身体を洗う、きれい好き。新しいものへの抵抗感が少ない。まったく、そのとおりです。だからウォシュレットが世界に先駆けて普及しました。
お湯の温度は38度、便座の温度は30度、乾燥用の温風は50度が最適。そして、ノズルで水を出す角度は43度。ビデの方は53度。おしり洗浄は3穴、ビデ洗浄は5穴。うむむ、みんな決まっているのですね。
 ウォシュレットの語源は、レッツ・ウォッシュ。これを逆さにしたもの。今から30年前の1980年6月に完成した。
 1982年、「おしりだって、洗ってほしい」のテレビCMが茶の間に夜7時のゴールデンタイムに流れた。初めは恐る恐るだったようです。意外にも反発はされなかったとのこと。
 においをとるために、オゾン脱臭方式がとられた今では、オゾンを使わずに、空気中の酸素を有効に使う、触媒脱臭方式へ進化している。
TOTO小倉工場は小倉城に近い市街地にある。東京ドーム4個分という広大な敷地で1日あたり2000台の便器を生産する。1台の便器が完成するまで8時間かかる。
 ここでは、便器の原料として、岡山(備前焼)県産の陶石、滋賀(信楽焼)県産の長石、愛知(常滑焼)県産の粘土を混ぜ合わせる。海外の工場では現地産を中心に調達している。
 空気混入ノズルは、水に空気を含ませることで、水の粒を大型化し、従来の水量の65%の量でも、たっぷりとした量を浴びているような浴び心地になるもの。低速で噴射した水に高速で噴射した水をぶつけると、後から出た水が追いついて、水の表面張力によって固まり、水玉ができる。ワンダーウェーブ洗浄では、1秒間に70回以上の脈動を与えることにより、流量2分の1で、洗浄力は2倍アップを実現した。しっかりとあたる強い吐水と、水をセーブする弱い吐水を1秒間に70回以上繰り返して水玉を連射し、2倍の洗浄力を可能にした。
 便器のほうも、いつまでも汚れがつきにくく、落ちやすい便器を開発した。ナノレベル(ミクロンのさらに1000分の1、100万分の1ミリ)に平滑なガラス層を設けることで汚れをつきにくくした新素材「セフィオンテイト」をつくり出した。これには汚れをイオンの力で跳ね返すイオンバリア効果もある。すごいですね、これって・・・。
 日本人の生活用水の使用量は1人1日あたり298リットル。この20年間、横ばい状態。使用量の第1位はトイレ(28%)、2位は風呂(24%)、3位は炊事(23%)、4位が洗濯 (16%)、5位が洗顔・その他(9%)。そして、日本全体で1日に東京ドーム37個分の水がトイレの洗浄に使われている。
 そこで、TOTOでは、2006年以降、洗浄水量を6リットル、5.5リットル、4.8リットルと削減していった。
たかがトイレの便器、されど毎日お世話になるトイレです。ありがたいものです。すごい苦労があることを知って感謝感謝です。
(2011年9月刊。720円+税)

衝撃の絵師・月岡芳年

カテゴリー:日本史(明治)

平松 洋 新人物往来社
 おどろおどろしい絵に度肝を抜かれます。しかし、我慢して頁をめくっていくと、江戸時代の浮世絵調になって救われます。幕末・明治を生きた最後の浮世絵師。血みどろの無残絵、迫力の妖怪絵から麗しき美人絵、気品あふれる歴史絵まで・・・。
 これがオビのうたい文句ですが、実にそのとおりです。
 目をそむけたくなる無残絵は目をつぶって通り過ごしましょう。
 歴史絵として、桜田門外の変が描かれています。まさしく血みどろの闘いであったことが手にとるように分かります。目撃したわけでもないでしょうに、あたかも実況中継のように氏名入りで活写されているのに驚きました。
 月岡芳年は天保10年(1839年)の生まれ。12歳で浮世絵師の歌川国芳の門をたたいた。芳年が「血みどろ絵」を描いたのには、その当時の時勢の影響も大きい。安政の大獄、桜田門外の変、安政の大地震、コレラによる大量死、大政奉還、明治維新というなかで、多くの人が実際に血みどろの屍を目にしていた。
 その後、新聞社に入って時事絵を描き、また絵入新聞で活躍した。このときには時給100円という破格の待遇だった。
 そのドラマチックな場面構成は、現代の劇画に通じる。
 「血みどろ絵」は三島由紀夫が愛好していたそうですが、なんとなく分かるような気がします。
 芳年は精神の病を得て、54歳という若さで生涯を閉じた。
一見の価値ある絵です。ただし、お化け屋敷なんて絶対にのぞかないという人にはおすすめしません。気分が悪くなると思いますので…。
(2011年6月刊。2100円+税)

刀伊入寇

カテゴリー:日本史(平安)

著者   葉室 麟 、 出版   実業之日本社
 ときは平安朝。平和な日本のなかで貴族たちは安穏に日々を過ごしていると思いきや、朝廷内では高級貴族たちが激しい暗闇をくり広げていて、しかも中国・朝鮮という外国の争乱までも日本に影響を及ぼしていたのです。
 この世をば 我が世とぞ思う
望月の欠けたることもなしと思えば・・・
藤原道長もこのような得意絶頂としてではなく、その地位が不安定な高級貴族の一人として登場します。そしてまた、『源氏物語』を書いた紫式部、さらには『枕草子』の清少納言も登場し、その不安定な地位を前提として語るのです。
 平安時代に生きる人たちも決して平穏無事に、のんべんだらりと泉水のある庭園でゆったり和歌づくりに専念していたわけではない。そのことを自覚させられる本になっています。
 夜郎自大(やろうじだい)の国。夜郎とは、中国(漢)の時代に西南の夷にあった国のひとつ。漢が大国であることを知らず、自らを強大と思って漢の使者に接した。うむむ、自戒すべき言葉ですね。
 紫式部は清少納言が好きではなかった。清少納言は漢籍の知識をしたり顔でひけらかすが、たいしたことはない。猿楽言(さるがるごと)とは、冗談のこと。
さがな者とは、荒くれ者、性悪者だという意味である。
 刀伊国の50艘の船が壱岐島に来襲し、家を焼いたほか島民を殺し、捕らえて連行していった。これを刀伊(とい)入寇という。その警戒にあたる責任者として、京都から藤原隆家が太宰府に派遣された。藤原家の率いる貴族たちがまるで武士であるかのように来襲してきた刀伊と戦うなんて、ええっ、本当なの・・・と叫びたくなります。
 平安時代を中国・朝鮮からの外圧とたたかっていたとみる視点が新鮮でした。そして、信長の不安に満ちた生の声が聞こえてくるストーリーも奇想天外でした。
(2011年6月刊。1600円+税)

中国共産党

カテゴリー:中国

著者   リチャード・マクレガー 、 出版   草思社
 北京支局長として中国を見てきたイギリス誌の記者による中国論です。さすがに深い分析力だと感心しました。
 現代中国には、あまりに多くの驚くべき矛盾があり、人々を混乱させるため、世界最大の共産主義国家から「共産主義」というイメージが消えてしまったのも、ある意味で納得できる。
 かつて革命政党であった政党が、今では確固たる体制の側にいる。共産主義者は、権力の腐敗に対する国民の怒りをエネルギーにして政権を奪取したが、今や自らも同じ腐敗という病に蝕まれるようになった。指導者層は今でも公にはマルクス主義を標榜しているが、その実、貪欲な私企業が雇用を創出するシステムに依存している。党は国民の平等を語るが、一方、その政策はアジアのどの国よりも大きな所得格差を生み出している。
 中国でも格差の拡大はすごいものがあります。とは言っても、日本人に批判できる資格があるのでしょうか・・・。
 かつて共産主義者たちは買弁(ばいべん)と呼ばれる、革命以前の中国の事業家を侮辱していたが、1997年に香港がイギリスから返還されるや否や、臆面もなく香港実業界の大物たちと手を組んだ。
 中国共産党のレトリック、「中国は社会主義国である」というフィクションと現実とのギャップは年々大きくなっている。しかし、党はこのフィクションを守り抜かなければならない。なぜなら、政治的現状を維持するために、それが必要だからである。
 このところ中国には行っていませんが、たしかに北京や上海に行くと、東京と同じで、これが社会主義国家だとはとても思えない繁栄ぶりです。
政治組織として見ると、中国共産党は驚異的ともいうべき独特の特徴をもつ奇才である。2009年の党員数は7500万人、全国民の12人に1人という割合である。
 わずか一世代のあいだに党のエリート層は、陰気な人民服を着た残忍なイデオロギー集団から、スーツを着た、企業を支援する金持ち階級へと変身した。
この指摘は、かなりあたっているような気がします。
 2009年5月、中国には15万人の弁護士がいる。その3分の1の4万5000人が共産党員だ。また、弁護士事務所のほぼすべて95%に党委員会があり、そこで弁護士の給与査定が行われるが、評価基準としては法律業務能力だけでなく、党への忠誠心も加味される。ふむふむ、これは日本とはまったく違った特徴ですね。
 法制度のなかに深く入り込むことで、党は弱体化するどころか、ますます権力基盤を強固なものにしている。なーるほど、法治ではなく、人治だとよく言われます・・・。
 裁判所の判決に党が介入するとき、党の側は、それは介入ではなく、指導と呼ぶと反論する。
中国の裁判官のトップに立つ最高人民院の王勝俊院長は、法律を学んだ経験がない。ただ、日本でも最高裁判事には外交官とか行政官僚出身者がいます。
 党が払いのけられないほどの大きな法律の壁など中国には存在しない。保安当局は、憲法前文の「共産党指導のもと」という一文によって、どんな人物でも逮捕できる。
 政府の要職を守るための選挙や公の試験もないため、要職をめぐる舞台裏での抗争が、中国では政治の本質になっている。そして、情報を集め人事権を握る組織部が、党システム全体の中核となっている。
 毎年、新たな百万長者が生まれているこの国で、公的立場を利用してお金をもうけるという誘惑に打ちかつのは難しい。多くの人間が政府の仕事に就きたがるのは、その地位が現金に直結するからだ。役人の給与が微々たるものであることもまた、収賄を促す要因となっている。家や車、生涯うけとり年金などに関する特権はあるにしても、正規の現金収入は高級官僚であっても惨めなものであるため、違法な収入によって常に水増ししている状態にある。
 すべての役人には三つの生活がある。公人としての生活、個人としての生活、そして秘密の生活だ。
 中国の実情についての鋭い分析だと思いながら一気に読みすすめました。
(2011年8月刊。2300円+税)

アフガン諜報戦争(上)

カテゴリー:アメリカ

著者    スティーブ・コール 、 出版   白水社
 1980年代後半から1990年代初めにかけて、ソ連占領軍やアフガンの共産主義者と戦う盟友として、アメリカのCIAはマスードとそのイスラム・ゲリラ組織に月20万ドルもの現金および武器などの物資を注ぎ込んでいた。
 そうなんです。今、アメリカが敵とするアフガニスタンのイスラム・ゲリラ組織は、元はと言えばアメリカが大金を注ぎ込んで育成したものなのです。
 1986年、CIAはアフガニスタンの戦場にスティンガー・ミサイルを持ち込んだ。CIAの供給を受けたアフガン反乱軍は、1986年から89年にかけて、スティンガーによって多くのソ連軍ヘリコプターと輸送機を撃墜した。そして、ソ連軍が撤退したあと、テロ組織やイランのような敵対国が出回っているスティンガーを買い付け、アメリカの民間旅客機や軍用機に向けて使うのではないかとCIAは思い悩んだ。
 戦争中、CIAは2500近くのミサイルをアフガン反乱軍に提供した。その多くが反過激派イスラム指導者とつながる司令官たちに渡ってしまっていた。イランも数基を手に入れた。
 そこで、ブッシュ(父)大統領とクリントン大統領は、CIAに対して可能な限りスティンガーを現在の所有者から買い戻すよう命じた。
 1990年代中頃、CIAがスティンガーの買い戻しに支出した金額は、同時期にアメリカ政府の他部局がアフガン人道支援に注いだ総額に匹敵した。スティンガー買い戻しは、空の安全を向上させたかもしれないが、アフガンの町や村を破壊している軍閥に多額の現金を与えることにもなった。
 ウサマ・ビンラディンの父親のムハンマド・ビンラディンは1930年代から40年代にかけて、建設業をつくり上げた。家を建て、道路をつくり、会社やホテルを建設し、サウジ王室との関係をもつくりあげた。ビンラディンは何人もの妻をめとって、50人の子どもをもうけた。
 サウジアラビアのサウド国王そしてファイサル国王のもとで、ビンラディンの建設会社はサウジ有数の請負業者になった。友人であり、事業上のパートナー、政治的盟友だった。
 ファサル国王はムハンマド・ビンラディンを公共事業相に任命した。国王の後援によって、ビンラディン家は王室の明白な支援を手にし、建設事業で数十億ドルの富を確実に得た。
 1992年にアフガニスタン国内に存在した個人用兵器は、インドとパキスタンの合計よりも多かった。過去10年間にアフガニスタンに運び込めれた兵器数は、世界中のどの国より多かったという推定もある。ソ連はアフガニスタン共産革命の当時から、360億ドルから480億ドル相当の軍用物資を送り込んだ。同じ時期にアメリカ、サウジアラビア、中国が送った支援の総額は60億ドルから120億ドル相当だった。
 海外でのCIAのスパイ作戦や準軍事作戦は秘密裡に執行され、アメリカの国内法廷の検討対象にはならない。CIA工作員は、情報収集のために常習的に海外大使館に忍び込んだ。CIAはアメリカの敵の内部情報を得るために、軍閥や人殺しにお金を払った。CIAがこうして集めた情報は、アメリカの法廷では証拠として使えないことが多かった。
 タリバンの軍事力が成長するにつれて、タリバン指導者とサウジアラビアとの接触の幅と深さも成長した。サウジ情報当局は、パキスタンのISIと密接な直接の関係を保っており、ベナジル、ブット文民内閣との接触を省略することができた。
 1996年1月、CIAのテロ対策センターは、ウサマ・ビンラディンを追跡する新しい部門を開設した。CIAは、これまで一人のテロリストのために、こんな編成をしたことはなかった。
 タリバンがカブールを占領したころ、反ソ戦争中にCIAが配布したスティンガー・ミサイル2300発のうち600発が行方不明のままだった。CIA担当者は、イランは100発のスティンガーを買い入れたと推定した。
 売り手が売り惜しみするので、スティンガー・ミサイルは一式で7万ドルから15万ドルまではね上がった。タリバンがカブールを占領したあと、CIAはタリバン指導部からスティンガーを直接買い戻す方針を決めた。当時の相場でCIAがタリバンの所有するスティンガーを全部買い取ると、タリバンは800万ドル近い現金収入を保つはずだった。
 1996年秋に、アメリカがタリバンを味方と見ていたのか敵と見ていたのかは明確ではない。アフガニスタンにおけるアメリカ、とりわけCIAの暗躍がよく描かれています。しかし、アメリカには民衆の平和と安全、福利の向上のためにはどうあるべきかという視点がまったく欠落しています。アメリカはすべてを軍事力に頼ろうとしていますが、それでうまくいくとはとても思えません。
(2011年9月刊。3200円+税)

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