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明治維新と横浜居留地

カテゴリー:日本史(明治)

著者   石塚 裕道 、 出版   吉川弘文館
 幕末から明治の初めにかけて、横浜に大量の英・仏軍兵士が駐屯していたこと、アームストロング砲はともかくとしてガットリング機関銃のほうは、まだまだ欠陥が多くて、実戦ではそれほど役に立たなかったことなどを知りました。世の中って、本当に知らないことだらけだとつくづく思います。
 英仏両軍の横浜駐屯は文久3年(1863年)から明治8年(1875年)までの12年間に及んだ。その間、この横浜のフランス山、トワンテ山一帯は、いわば外国軍隊による占領に近い異常事態のもとにあった。
 横浜には、明治11年(1878年)ころ、中国人1850人をふくめて外国人が3200人、進出している外国商社は60社に及んでいた。横浜港は日本全国の小銃輸入量の6割を占めていた。20万丁をこえ、小銃取引の一大拠点となっていた。相手かまわず利益を追求する、ヤミ空間に暗躍した外国商人がそこにいた。
 文久3年(1863年)、イギリスとともにフランスにも駐屯権が承認され、それまで公使館の護衛兵程度にすぎなかった兵士たちに加えて、大規模な英仏共同の軍事行動のかたちで、続々と両国軍の士官・兵卒が香港や上海などから横浜へ進駐を開始した。
 四国連合艦隊による下関砲撃事件は文久3年(1863年)から翌年にかけてのこと。長洲藩が合計6回にわたって外国艦隊を砲撃して交戦したが、結局、敗北した。英国陸軍の制式砲に採用された最新鋭の後装式施条砲であるアームストロング砲の攻撃力により、4日間の交戦で長州藩の敗北に終わった。その長い射程距離、高い命中精度、旧型球弾に代わる尖頭型炸裂弾の使用など、アームストロング砲は薩摩と長州側からすれば、地上最強の究極兵器に見えたことだろう。
 列強艦隊の中心は英・仏の兵力であったが、その6割を占めたのはイギリス海軍であった。この対外戦争の実態は「日英戦争」であった。英国公使オールコックは強硬派であり、対馬占領そして彦島の占領、さらには城下町萩まで侵略する作戦を主張した。これについて、英仏の現地軍司令官は兵員不足と不利な地形から反対し、占領侵略作戦は実施されなかった。かの有名なオールコックが、日本占領・侵略を主張していた強硬派外交官だったとは知りませんでした。
 オールコックは、基本的にはイギリス本国の自由貿易政策の保護者でありながら、当面の戦略では、ロシアの南下作戦に対する危機感から対馬ついで彦島の占領を提案したのだった。
 戦時に、アームストロング砲は故障が続出するなど、装備に欠陥があった。
 イギリスは、極東で保有する軍事力の3割を日本へ派遣していた。さらに日本で緊急事態が発生すれば、英仏軍合計6600あまりの横浜駐屯軍に加えて、日本への増派可能な軍事力として、2、3日中にも上海から、その3倍ほどの増援部隊を移動・派遣することが可能であった。
 ところが、日本の市場価値の低さもあって、イギリスには幕末日本を植民地化するという永続的・長期的な方針はなかった。それが幸いしたのですね。市場価値があるとみられた中国に対しては、イギリスはアヘン戦争を仕掛けたわけです。
 戊辰戦争のなかで長岡藩家老「軍務総督」河井継之助の戦力とその指揮力が近年高く評価されている。河井総督の最後の切り札はアームストロング砲とともに高性能のガットリング機関銃だった。これは、手動回転式6銃身、弾薬後装360発、砲架(砲車)に搭載移動、1門の価格6000両だった。ところが頼みの最新兵器ガットリング機関銃の性能は期待はずれ、陣頭指揮者であり射手として銃の手動回転を操作した河井総督も狙撃されて負傷し、更迭されてしまった。
このころは外国人の武器商人が双方の陣営に深く入りこんでいたのでした。アメリカでガットリングが新型銃を完成して売り出したが、不評だった。そのため、内乱列島の日本が兵器売り込み市場の一つとして注目され、海外市場の開拓として日本に売り込まれた。
 ガットリング機関銃は南北戦争でもわずかしか利用されず、南北戦争のあとにアメリカ陸軍が制式採用した兵器であった。ヨーロッパでは、まだ試用段階で、その性能は疑問視されていた。
 立ったまま銃身を手動回転させるので、敵から狙撃されやすく、毎分200発も発射できるといっても、それに必要な大量消費できる弾薬補給・輸送体制が確立していなかった。
幕末・明治にかけて、アメリカでは南北戦争が、フランスでは、パリ・コミューンがあって、日本どころではなかったというのが明治維新による変動が国内要因だけで成功した条件だったようです。まさに、昔も今も世界は連動しているのですね。
(2011年3月刊。2700円+税)

福島の原発事故をめぐって

カテゴリー:社会

著者    山本 義隆 、 出版   みすず書房
 著者は、かの有名な東大全共闘の元代表です。「敵は殺せ」をスローガンとして、バリケード占拠・帝大解体を呼号して乱暴狼藉を働いていた集団のリーダーでしたから、率直に言って、今でもあまり印象は良くありません。ただ、東大闘争については一切のマスコミ取材を拒否し続けてきたことでも有名ですので、何かしら忸怩たる思いか、思うところがあるのでしょう。
 まあ、それはともかくとして、科学史家としても高名な著者が福島原発事故をどう考えているのか知りたくて読んでみました。すると、とても素直な筆致で、すっきり原発それ自体の間違いを指摘した内容であり、著者の思いがすんなり胸に入ってきました。わずか90頁あまりの小さな本ですが、原発についての指摘としては、ずっしり重たい内容だと思います。
 日本で原子力発電所の創立は、核の技術を産業規模で習得し、核武装という将来的選択肢も可能にしておくという大国化の夢であった。つまり私企業としての電力会社の自発的な選択としてではなく、政権党の有力政治家とエリート官僚の強いイニシアチブで進められたものだった。
 原子力発電の真の狙いは、その気になれば核兵器を作り出しうるという意味で核兵器の潜在的保有国に日本をすることに置かれていた。核の平和的利用と軍事的利用とは紙一枚の相違である。いや、紙一枚すらの相違もない。
 日本における原子力開発、原子炉建設は、戦後のパワーポリティックスから生まれた。岸首相にとって、「平和利用」のお題目は、鎧のうえに羽織った衣であった。
 アメリカから日本に導入されたのは黒鉛炉ではなく、軽水炉だったが、それは黒鉛炉が原爆製造のためのものであって、この副産物によるプルトニウム生産が日本の核武装につながることをアメリカ政府が懸念したことによる。
 日本は、今では核兵器1250発分に相当する10トンのプルトニウムを貯めこんでいる。これは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランスに次いで世界で5番目であり、アジアでは断トツに多い。
 先日、ドイツが脱原発を宣言したが、それはドイツが今後も核武装をする意図はないことを国際社会に明確なメッセージを送ったことを意味する。
原子力発電は、無害化することが不可能な有害物質を稼働にともなって生み出し続けるものであって、未熟な技術と言わざるをえない。
 原子力発電は、日常的に地球環境を汚染し、危険で扱いの厄介な廃棄物を生み出し続け、その影響を受益者の世代からみて何世代、いや何十世代も先の人類に負の遺産として押し付ける。
 原子力発電は、たとえ事故を起こさなくとも、非人道的な存在なのである。
 原発は、その事故の影響は空間的には一国内にすら止まらず、何の恩恵も受けていない地球や外国の人たちにさえ及び、時間的には、その受益者の世代だけではなく、はるか後の世代もが被害を蒙る。
 原発を止めれば今のような快適な生活はできなくなるという電力会社の主張は信じられない。しかし、もしもそのとおりであったとしても、生活がいくら不便になるとしても原発は止めなければならない。地球の大気と海洋そして大地を放射性物質で汚染し、何世代、何十世代もあとの日本人、いや人類に、何万年も毒性を失わない大量の廃棄物、そして人の近づくことのできない、いくつもの廃炉跡、さらには半径何キロ圏にもわたって人間の生活を拒むことになる事故の跡地などを残す権利は我々にはない。そのようなものを後世に押し付けるというのは、子孫に対する犯罪そのものである。
 いやはや、まったく著者の言うとおりだと思います。今なお、原発に頼ろうという人の正気を私は疑います。

(2011年10月刊。1000円+税)

 弁護士会で日の丸・君が代問題についてディベートをやりました。聴衆は大学生がほとんどだったのですが、どちらが説得的だったかの投票結果は17対12でした。つまり、日の丸・君が代の起立・斉唱の義務づけは合意だというものです。若い人には、なんでそんなことに目くじらたてるのかという感覚が多いこともアンケート結果で分かりました。日本が侵略戦争をしてきたことの反省が十分に伝えられないのではないかと感じ、いささかショックでした。

五感で学べ

カテゴリー:社会

著者    川上 康介 、 出版   オレンジページ
 読んでうれしくなる本です。だって、日本の農業を担う若者たちが、こんなに育っているのを知るなんて、とても喜ばしいことじゃありませんか。
 そして、その若者育成法は半端ものではありません。昔から軟弱な私なんか、一日で脱落しそうなハードさです。今どきこんな寮生活が考えられますか?
 全寮制で相部屋。朝7時に起床し、夜11時に消灯。門限は午後10時。寮内での飲酒は厳禁。テレビは禁止、ケータイも制限あり。外出、外泊は要届出。ケンカしたら、即刻退学。在学中は、帰省したときもふくめて、自動車・バイクの運転は禁止。部屋の整理整頓、掃除は義務で、月1回は校長による抜き打ち検査あり。うひゃあ、これはすごーい・・・。
 本科生(1年生)60人、専攻生30人。18~24歳の男子限定。ところが入学費・授業料・寮費・会費はすべて無料。ええーっ、では、誰が費用を負担しているの・・・?
しかも、研究費として、専攻生で月に1万6千円、本科生に月1万2千円が支給される。これって、いわば小遣いですよね。
 ここはタキイ種苗が設立した農業エリート養成所。正式名称は、タキイ研究農場付属園芸専門学校。なんとなんと、こんな専門学校が日本にあったのですね。ちっとも知りませんでした。私の日曜園芸はもっぱらサカタのタネを利用しているのですが、タキイって、こんな素晴らしい専門学校を運営しているのですね。すっかり見直しました。
 ちなみに、タキイの種苗は従業員700人、海外11ヶ国に拠点をもち、売上高424億円という日本最大、世界第4位の種苗会社。江戸時代の天保6年に創業されたというのですから、恐れいります。
 学校運営の経費は年間1億円。巨額ですが、それで日本農業の骨格をつくりあげるわけですから安いものですよね。国の援助がないのが不思議でなりません。
 新入生は、高卒37人、大卒12人、農業大学校卒が4人、専門学校卒1人。定員60人に90人の応募があったという。これは、近年の農業志向の見直しによる影響。
 生徒たちは、ここでハードな実寮生活を過ごすと、確実にやせ、タフになる。100キロの体重が、あっという間に80キロにまで落ちる。
 ここでは、トラクターではなく、原則として、すべて人力で行う。ここは、徹底した集団生活のなかで鍛えられる。誰も、ひとりぼっちにしない。濃密な人間関係が作られ、それは卒業してから生きてくる。農業は一人ではなく、集団の知恵で営まれるもの。
いかにもハードな実習と生活ですが、ここには哲学が生きていると思いました。
 こんな専門学校があることは、もっと世の中に知られていいと強く思いました。
 それにしても、この取材のために40歳の身でありながら実習に参加した著者に対して、心より敬意を表します。

(2011年7月刊。1429円+税)

 今度、事務員3人が秘書検定試験を受けることになりました。初めてのことです。そのためのテキストを少しめくってみたところ、弁護士も知っていたほうがいいことがいくつもありました。
 私もフランス語検定試験(準1級)を近く受験します。毎年2回の苦難の日です。それでも、少しは集中して単語を覚えますので忘却を食い止めるのには役に立っています。

柿のへた

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   梶 よう子 、 出版   集英社
 うむむ、読ませます。よく出来た青春時代小説です。オビには次のように書かれていますが、そのとおりです。
「楽しく、愛しくて、もっと読みたい」
 綽名(あだな)は、水草どの。水上草介はのんびりや。小石川御薬園につとめる同心の水上草介が主人公です。
 小石川御薬園は、薬草栽培と、御城でまかなう生薬の精製をし、サツマイモ(甘藷)や御種人参の試作なども行ってきた幕府の施設だ。ヘチマ水を大奥へ献上もしている。4万5千坪の御薬園に450種類もの草木が植えられている。
水上家は、代々、薬園勤め。草介も、幼いころから本草学(ほんぞうがく)をみっちり学んできた。本草は主として薬効のある動植鉱物を採取し、研究する学問だが、博物学的な要素も強い。
 草介には、御薬園の仕事が一番、性に合っている。植物は草介をせかすこともなく、手をかけてやれば、きちんと応えてくれる。まさに、水を得た水草のごとく、日々お役に励んでいる。まる一日、植物の葉を眺めていてもまったく飽きがこない。
 小石川養生所は百名ほどの入所者を抱えている。そして、そこに17歳の干歳が登場する。若衆髷を結い、袴姿で剣術道場に通うお転婆だ。
 豊富な漢方薬の知識をもとに話が展開していきます。私も庭でいくつか草花を育てていますので、このような舞台設定には心が惹かれます。ずんずん話のなかに引きずりこまれ、胸のうちがほわっと、ほんわかするなかで、いつの間にか読了してしまい、残念な思いのうちに頁を閉じました。
(2011年10月刊。1600円+税)

藤原 道長

カテゴリー:日本史(平安)

著者  朧谷  寿    、 出版   ミネルヴァ書房   
 平安貴族の栄華を極めた藤原道長が、実は、長く病気に苦しめられていたことを初めて知りました。決して順風満帆の生涯ではなかったのです。
 平安貴族の上層部においては、地位や生活が安定していたとは言えないようです。藤原道長は、嫡男の頼通が具平新王の娘である隆姫女王と結婚したとき、こう言った。
「男は妻がらなり。いとやむごとなきあたりに参るべきなめり」(男の価値は妻次第で決まるものだ。たいへん高貴な家に婿取られていくのがよいようだ)(『栄花物語』巻第八)
この言葉は、道長が天皇家との縁組により、力をつけていったことを象徴している。この世をば我が世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば。この歌をよんだとき、道長は病に苦しんでおり、実は、悲哀もないまぜになっている。道長は、病とたたかいながら頂点を極めた男だった。
院政の主である上皇と摂関とでは似て非なるものがある。上皇には選択の余地が少なく、自ずと決まってくる。摂関では、個人の力量とその結果とが必ずしも一致せず、他力本願的な要素に左右される面が強い。その第一は娘に恵まれること。第二に、その娘が成長したあかつきには天皇ないし将来天皇になりうる人に配すること。第三に、そこに皇子が誕生すること、である。外戚の地位を確立するためには、このように人力を超えた要素が介在する。これに成功を収めたのが道長だった。
道長は関白にはなっていない。道長の日記自筆本が14巻(計7年分)が現存し、これが最古の自筆日記を位置づけられる。この道長の日記を読むと、病む人・道長の像が浮かびあがってくる。
道長には、正式の妻が2人いた。その倫子も明子も、ともに源姓であり、藤原姓にはならない。当時は夫婦別姓の時代だった。ですから、いま夫婦別姓にしようという動きに対して右翼・保守側から、そんなのは日本古来の伝統を破壊するものだ、という意見が出ていますが、これは明らかな間違いなのです。
妻は墓も父親と同所でした。当時の女性は、生家と深い関係を維持し続けた。
有名な紫式部と道長との関係も取り沙汰されています。著者は二人の関係は親密だったとします。紫式部が道長と出会わなかったら、『源氏物語』は生まれなかった。この物語の内容形成にも道長は深く関わっている。
内覧と関白は違う。内覧は宣旨、関白は詔勅による任命という違いがある。内覧は、太政官と天皇との間を往復する文書のみで、関白はすべての文書に目を通すことができた。道長は内覧であり、1年ほど摂政になったが、関白にはなっていない。チャンスを待っての道長の動きは、機を見るに敏なるたとえそのもの。焦らず、着実にという道長の心情は生涯の重要な局面でよく見られる。
道長は出家してもなお、政治への介入になお健在ぶりを示した。
藤原道長、そして平安貴族の一生を改めて考えさせてくれる本です。
(2011年6月刊。3000円+税)

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