法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(戦後)

カテゴリー:日本史(戦後)

日本占領史 1945-1952
(霧山昴)
著者  福永文夫 、 出版  中公新書
  本書は、戦後体制がつくられた7年間を濃密な7年間と呼んでいます。本当に、そうなのでしょうか・・・。
  1945年7月26日、アメリカ、イギリス、中国の3ヶ国はポツダム宣言を発した。このとき、トルーマンは、ソ連をはずした。
  ポツダム宣言の内容は、軍事主義の排除。日本の領土を本州・北海道・九州・四国そして周辺小島に限定する。日本軍の武装解除の民主主義的傾向を復活強化する。言論・宗教・思想の自由と基本的人権を尊重する。
7月27日、最高戦争指導会議は、黙殺することにした。連合国は、黙殺を拒否と受けとった。8月6日の広島そして9日の長崎への原爆投下につながった。
  マッカーサーは、1951年4月に解任されるまで、東京を離れることはほとんどなかった。そして、日本人の目の前に姿を現すことも、直接語りかけることもなかった。
  マッカーサーは自分の部下たちに絶対的な忠誠を要求した。
  そして、日本人自身の問題に介入することを嫌い、日本人自身によって処理させる方針を貫いた。
  日本の占領は、マッカーサーの占領となった。アメリカ政府は、もともと交戦中の直接軍政を前提に、日本進駐を考えていた。しかし、ポツダム宣言では、日本政府を通じての間接統治をうたっていた。日本の降伏が予想よりかなり早かったため、ポツダム宣言を受けて日本本土の間接統治以外に方針がないまま、連合国の占領は始まった。
  ホイットニー民政局長は、GHQでもただ一人、マッカーサーと約束なしに面会でき、2人は、毎夕5時から1時間ほど話すのを常とした。ホイットニーは、マッカーサーの非常に複雑多様な思考を正確に読みとることのできる才能をもち、いかなる問題についても、マッカーサーの考えを正確に表現でき、筆跡までも似ていた。
  GHQは、決して一枚岩ではなかった。
  日本の敗戦により、沖縄の占領目的があいまいになり、ワシントンでも、沖縄の処理が定まっていなかった。沖縄の現地アメリカ軍は、本国政府から明確な統治方針や予算を得られないまま、統治にのぞむことになった。そこで、その政策は、計画性を欠き、場当たり的なものとなった。
  憲法制定前に、主権在民を唱えたのは共産党のみだった。政府と進歩党は天皇に、自由・社会の両党は主権は国家にあるとしていた。
  マッカーサーは、天皇の存在が占領を円滑に進めるために必要と考え、明確に天皇擁護へと動き出した。
  民生局は、GHQの他のセクションを排して憲法草案をつくることで、マッカーサーの「政治的参謀」としての位置を確立した。以後、日本の「民主化のエンジン」として機能し、改革の旗手にふさわしい維識再編を行っていった。
3月6日の憲法草案の公表は、アメリカ国務省にとって、寝耳に水だった。草案の実物は国務省になかった。しかし、内容自体は、ワシントンをあわてさせるものではなかった。
  公職追放をめぐって、軍諜報部の代表(ウィロビー)を先鋒に、軍関係の4局はかたく結託して追放に反対した。しかし、追放を民生局が指示した。ホイットニーは、他局を排して、公務追放、選挙法改正問題を解決したことでGHQ内部での民政局の立場を強化した。
  1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、6年8ヶ月に及ぶ占領が終結した。
  日本の戦後の実際がコンパクトによくまとめられた新書です。
(2014年12月刊。900円+税)
日曜日、早起きして仏検(準一級)を受けてきました。年に2回の苦行です。これまでは単語中心にしていましたが、今年は文章を書いて覚えることに重点を置きました。動詞を名詞に、名詞を動詞に置き換えるというときに、単語だけでなく、文章として覚えようというのです。やはりコトバは単語ではなくて文章なのです。基本文型を覚えるときに、覚えた単語を増やしていきます。
昨年は安保法の講師を引き受けたために受験できませんでした。実は、1997年度から欠かさず(昨年の1回だけ抜けていますが)、受験してきたのです。ですから、過去問を復習するといっても一週間はかかってしまいます。
土曜日と日曜日に早朝からフランス語文章を書いた成果でしょうか。自己採点で87点でした。120点満点ですから、7割とったことになります。書きとりなんて、もうバッチリです。なにしろ、NHKラジオ講座(CD)で毎朝かきとりしているのですから、準一級の書きとりなんて、やさしいものです。

下山事件

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  柴田哲孝 、 出版  祥伝社
 1949年(昭和24年)7月5日、初代国鉄総裁である下山定則は出勤前に日本橋の三越本店に立ち寄ったあと、そのまま消息を絶った。これが下山事件の始まりである。
 そして、翌7月6日未明、足立区五反野の常磐線の線路付近で遺体となって発見された。
 この本は、下山殺害の犯人をアメリカ軍の下にいた謀略部隊として話を展開しています。
 下山定則は、国鉄総裁を辞めたあとは、国政選挙に出て代議士になるつもりだった。つまり、自殺するような動機はまったくなかった。
 下山を三越本店に呼びつけたのは、計画的に拉致する目的からなされたこと。ただし、拉致したあと、殺害するしかないと考えていたグループと、下山の考えを改めさせればよいと考えていたグループの二つに分かれていた。
 GHQのなかにも、国鉄の利権で甘い汁を吸っているグループと、それほどでもないグループがいた。利権派は、下山を役人としてクリーンすぎる、コミュニストに寛容だし、国鉄の電化に反対しているとして嫌っていた。
GSのケーディス大佐を失脚させたのは、吉田政権であり、旧内務官僚と日本の警察関係者だった。スキャンダル(女性問題)を騒ぎたてたのだ。
 下山は、アメリカ軍(GHQ)了解の下で、日本の特殊機関の連中から血を抜かれて死亡し、現場に運ばれて列車からひかれた。だから、血が少なかったし、身につけていたはずのものが、いくつも見つからなかった。
 これらは自殺だったら、ありえないこと。ところが、法医学教室の鑑定も結論が「まちまち」だった。強引な「自殺」説に符丁をあせた「鑑定」書が出されたのだ。
 戦後まもなく日本では謀略がまかり通っていたのですね・・・。
 中国大陸で何人も人を殺してきた体験者が下山殺害の実行犯だったようです。
 小説(フィクション)だからこそいろいろ書けたようで、勉強になりました。
(2015年6月刊。2000円+税)

中尉

カテゴリー:日本史(戦後)

                                 (霧山昴)
著者  古処 誠二 、 出版  角川書店
 戦後生まれ、いま40代半ばの著者がビルマ戦線の日本兵を描いています。
 白骨街道とも呼ばれるほど無惨に敗退した日本軍の敗残兵の様子を、その生き残りの一人が体験談を書いたと思える迫真の描写に、思わず引き込まれてしまいます。
 戦争の愚かさを、しみじみと実感させてくれる本です。
いま、日本では好戦的な安倍首相の下で、「挙国一致」体制をつくって、戦前のように「戦争する国・ニッポン」へ逆戻りさせようという動きが強まっています。とんでもないことです。
戦前のような美しい国・ニッポンを取り戻せという人がいます。しかし、現実には、美しいどころではなく、戦前には汚らしい、腐敗した日本があったのです。軍部独裁。暴虐の限りを尽くした知恵のない軍部によって、東南アジアへ侵略していき、大勢の罪なき人々を殺傷し、あげく日本列島は焦土と化しました。そんな状況に逆戻りさせられてはたまりません。
日本の若者が意味もなく殺され、路端やジャングルの中で白骨化していくなんて、それが「美しい」なんて絶対に言ってほしくありません。
 戦争は最大の人権侵害です。弁護士会はいま、全国で、安倍内閣が戦争する国に変えようとするのに反対し、安倍内閣のもとでの道徳教育の押しつけなど、戦争推進体制づくりに抗して立ちあがっています。
 それにしても、作家の想像力のスゴさには脱帽です。モノカキ志向の私にとって、もうひとまわり精進しなくてはいけないと思わせる戦争小説でした。
(2014年11月刊。1800円+税)

皇后考

カテゴリー:日本史(戦後)

                               (霧山昴)
著者  原 武史 、 出版  講談社
 日本は万世一系の天皇制だという人がいますが、実は、神武天皇とか神功皇后の扱い、さらには南北朝をどうみるのか、ずっとずっと定まっていなかったのです。
 神功皇后は、戦前には教科書にのっていて、学校では実在の人物とされていた。自ら海を渡って朝鮮半島まで行って外国と戦いに勝ったという天皇はほかにいない。
 神功皇后を天皇にカウントしないと、仲哀天皇と応神天皇との間に70年近くの空位の期間が出てきて、まずいことになる。
 皇后は、ずっといたわけではない。二人の皇后がいたこともある。歴代天皇の配偶者が、ずっと皇后と呼ばれていたのでもなく、中宮と呼ばれていたこともある。明治天皇(睦仁・むつひと)の配偶者、美子(はるこ)は、中宮を経て、皇后になった。
 皇后に統一されたのは、皇室典範の発布された1889年のこと。
神武天皇が第一代の天皇として確定したのは、大日本帝国憲法発布の2年後の明治24年(1891年)のこと。それまで確定していなかった。
 神功皇后を天皇に加えるべきか否かも、明治維新のときから問題になっていた。
 江戸時代には、二人の女性天皇がいた。明正(めいしょう)天皇と後桜町(ごさくらまち)天皇である。
 江戸時代までに、8人、10代の女性天皇が存在している。大正天皇(嘉仁)の生母は権典侍(ごんてんじ)、つまり明治天皇の側室の一人で二位局と呼ばれた柳原愛子(なるこ)だった。ところが、嘉仁は、満8歳のとき、皇后美子の実子と定められた。
 明治天皇は、日清戦争も日露戦争も、開戦に消極的だった。ところが、皇后(美子)は対照的に積極的だった。
 大正天皇(嘉仁)は、明治33年(1900年)に、15歳の節子と結婚したとき満20歳だった。節子は、黒姫さまと呼ばれるほど色黒だった。健康にまったく問題がないというのが、結婚が実現した理由だった。
 ところが、その容姿が問題となった。美人でなければ、外交上のマイナスがあるからだ・・・。大正天皇(嘉仁)は、自らの欲求を抑えることのできない性格だった。
 要するに、大正天皇の女性遍歴はかなりのものがあったと言うことです。
 そして、皇后(節子)に、三人息子への愛情に濃淡が生まれた。長男の裕仁(ひろひと)よりも、二男の雍仁に対して熱かった。皇后(節子)は二男の雍仁を偏愛していた。
 大正天皇と皇后とのあいだでは10年以上も子どもが生まれなかった。三笠宮(崇人・たかひと)が生まれたのは1915年のこと。
 大正天皇の病気はアルツハイマー病ではないと著者は断言しています。
天皇になった嘉仁の精神的なストレスは、複数の女性と性関係をもっていた父親の睦仁と同じく、若くて美しい女官を必要としていたのかも知れない。
 大正天皇の皇后・節子は、極度の近眼だった。「あの近目さん」と言う人もいた。昭和天皇の妃選びの家庭で大きな発言力をもっていたのは、皇后・節子(ながこ)だった。
 皇后(節子)は、裕仁よりも雍仁に愛情を注ぎ、裕仁と良子との結婚について快く思っていなかった。皇太后が死んで、ようやく自分の時代が来たと思った皇后(節子)が、自分をとびこえて、皇太子妃となる若い女性にばかり注目が集まったことに、不快の念を抱いたのは想像に難くない。おそらく、皇太子妃の美智子をもっとも憎んでいたのは、お見合いをしたこともあるという、三島由紀夫であったろう。
 現在の天皇、明仁の家族重視は逃避主義ではない。砦としての必要性のためにも、家庭を築いて維持することに血のにじむ努力をしてきた。
 私は、今の天皇夫妻がペリュリュー島で慰霊の旅をしたことについて、心から敬意を表したいと思います。小さな島で、1万人以上の前途ある日本人の若者たちが戦死、しかもその大半が飢え死にしていったのです。これは東京の軍部当局の間違った作戦の犠牲でしかありません。靖国神社に英霊としてまつっているから我慢せよなんて、誰が言えるものでしょうか・・・。
天皇、そして皇后について、戦後の関わりをはじめ誰でもなるほどと納得できる内容になっています。ぜひ、あなたも手にとって、お読みください。
(2015年2月刊。3000円+税)
無敵の「ゼロ戦」の実際について、ゼロ戦搭乗員だった本田稔(92歳)氏は、次のように語りました。
「ゼロ戦は全くの無防備。パイロットや燃料タンクの防弾壁もありません。ちょうど着流しの侍が鎧兜の侍と戦うのと同じ。こちらは相手の13ミリ機銃1発で墜とされます。向こうはこちらの7.7ミリ機銃の1発や2発では墜ちない。こういうハンディをもって戦いを続けていました。だから常に特攻でした。もう少し人の命を大切にしてほしかった」
「ソロモンではゼロ戦を軽くして、いくらかでも長く跳ぶために落下傘を外させられました。無線機も取り外した。そんな状態で戦争を続けました」(2003年8月10日の講演)。
ゼロ戦については、格闘機能と航続力に優れていたが、最大の欠点は弾丸タンクや操縦席に防弾鋼板がないことだった。ゼロ戦の場合は、海軍の設計要求項目に防弾タンクの要求も操縦席の防弾鋼板の要求もなく、議論にもならなかった。
 アメリカ軍はゼロ戦対策を練りあげました。
ゼロ戦1機が燃料タンクに被弾し、無人島への不時着に失敗して、米海軍の捜索隊によってほとんど原型のままのゼロ戦が捕獲され、徹底解剖された。その結果、急降下速度制限が低く、防弾装置をまったく施さず、航空性能の不足など、ゼロ戦の力の限界が明らかになった。以後、米軍はゼロ戦の弱点を突く空戦を取り入れ、2機が一体となってゼロ戦に攻撃を加える戦法に切り換え、また一撃離脱という新しい戦法も考え出した。
 ゼロ戦を持ち上げすぎるのは、考えものなのです。

私記・白鳥事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  大石 進 、 出版  日本評論社
 白鳥事件と言えば、弁護士にとって再審の門を大きく開いた最高裁判決として有名です。というか、再審についてすこしでも関心をもつ人なら知らないはずがありません。私にとっては、白鳥事件とは網走刑務所に入れられて無罪を訴えていた村上国治氏であり、松川事件と並ぶ日本の冤罪事件でした。 
 村上国治氏は、その生前、私も元気な姿を何回も遠くから見たことがあります。出獄後は日本国民救援会の副会長として活躍していました。人の良さそうなおじいちゃんでした。
 白鳥事件が起きたのは、1952年1月21日の夜7時40分ころ。札幌市中央区南六条西16丁目の路上で、自転車に乗って走行中の白鳥一雄警部(札幌市警の警備課長)が、同じく自転車に乗った男によって射殺された。
この白鳥警部を射殺した犯人は、日本共産党の中核自衛隊員であり、それを命じたのは、日本共産党札幌市委員会の責任者である村上国治だった。このとき、村上国治は若冠28歳である。
 白鳥事件は、権力のデッチアゲではない。冤罪事件ではないのである。日本共産党は、白鳥事件の主犯格の3人と、幇助犯をふくめて事件を深く知る周辺の7人の合計10人を中国に密出国させた。
 7人のほうは、197年から順次、日本に帰国してきた。主犯格の3人は中国にとどまったままだった。
実は、この本の著者も日本共産党の中核自衛隊に誘われて、入隊していたのでした。1954年の初夏のころです。群馬県の山村で巡回映画を上映してまわったというのです。
16ミリ映写機と映画フィルムをもって妙義山中に点在する部落をまわって毎夜、上映会を開き、子どもたちに喜ばれた。1955年、六全協のあと、晩夏に武器を廃棄した。
 このように中核自衛隊にかかわっていた著者が、白鳥事件に関心をもつようなったのは必然のことですね・・・。
 「白鳥事件を、三鷹事件や松川事件と同列に論ずるわけにはいかない。この事件を冤罪と思っている人は北大には一人もいない」。これは1955年の北大生の言葉だった。
 岡林辰雄弁護士の言葉。「村上国治の無罪、共謀共同正犯の不成立は主張できるかもしれないが、彼の部下の誰かが白鳥を射殺したという事実は消えない。村上には組織の責任者として思い政治的責任がある。もし、実行犯が逮捕されて、重刑を課され、村上が無罪とされたら、村上は生きていない」
 岡林は、村上を英雄としてではなく、罪人として認識していた。岡林は、「幌美峠で発見されたという銃弾は、まぎれもなく偽造証拠だが、あの場所で彼(白鳥)の指示のもと、党員による射撃演習が行われたことは疑いのない事実だ」、そう語った。
 このように、弁護士は、いつの時代でも、表と裏との、合法と非合法の接点にいることを運命づけられる。
 著者は、射殺の実行犯は佐藤博だと断定しています。そして、佐藤博も村上国治も軍隊経験者なのです。人を殺すことを使命とする組織にいて、その訓練を受けてきた人間でした。
 この時期にとられた軍事方針は、日本革命のためというより、外圧によるものだった。日本共産党の「武闘」は、ソ連と中国共産党、すなわち事実上のコシンテルンに対する「見せかけ」、ないしアリバイづくりに過ぎなかった。派手なだけで、朝鮮半島の戦局に対する影響皆無の火炎瓶投擲でお茶を濁していた。
おそらく、学生・失業者・民族組織に根をもたない朝鮮人、元国際分派などが消耗品として軍事に投入されたのだろう。
「手記」と銘うってあるように、著者の実体験をふまえて白鳥事件の真相に迫った本です。
 いかなる組織も自らの誤りを率直に認めることは至難のことです。しかも、自分がやったわけではない先輩たちの誤りを自己批判するなんて、考えただけでも気が遠くなります。
 それでも、歴史の闇は明らかにしなければならないのではないか。この本を読みながら、そのように私は思いました。いかがでしょうか・・・・。
 (2014年11月刊。2000円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.