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カテゴリー: 日本史(戦国)

徳川家康と武田信玄

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 角川選書
 「どうする家康」が始まりましたが、その時代考証を担当する学者の本です。同じ著者の『長篠合戦と武田勝頼』も読みましたが、武田勝頼をすっかり見直しました。なかなか実証的な論述に、とても説得力があります。
 さて、「どうする家康」です。家康は簡単に天下取りを実現したのではありません。もちろん強運もあったでしょうが、部下の武将に恵まれたこととあわせて、本人の決断の正しさもあったのだと思います。
 三河一向一揆が勃発したのは元禄6(1563)年12月のこと。三河国は始祖の親鸞(しんらん)が布教し、蓮如も布教活動をすすめたことから、一向宗が広がった。家康と三河一向宗寺院は、不入権をめぐる対立が頂点に達し、ついに門徒らが蜂起した。
 不入権とは、諸役(諸公事)免許などの経済的特権と、守護や領主の検断(警察権)不入によって構成される。家康は、今川氏の不入権政策を踏襲していた。
 この大一揆の原因については諸説あって固まってはいない。そこで、著者は、当時は元禄の大飢饉(ききん)の真只中にあり、兵糧米の貸借をめぐってのもつれが原因ではないかと推測しています。そして、一向一揆に対して、少なくない家臣が一揆側に味方した。これは大変ですね…。ただし、一揆側に明確なリーダーがおらず、一揆を大事にするつもりはなく、不入権を確保したいというのが根拠だった。
 なんとか一揆側を和睦(わぼく)できた家康は、三河において一向宗を禁制とした。家康は一向宗寺院や道場をすべて破却した。
そして、三方原合戦で家康は武田軍に大敗してしまいました。なぜ、家康がこのとき武田軍に歯向かっていったのか…。それは自らの拠点である浜松城への補給路確保だった。
 武田信玄は家康について信長あっての家康だと認識していた。本心では、家康を格下だと侮っていた。ところが実は、信長と家康は対等の関係であり、従属関係ではなかった。信長は家康に対して実行を命令し、強制することはできなかった。
 これは意外でした。信長のほうが強大なので、主従のような関係だとばかり思っていました。
 信玄は宿敵上杉輝虎との和睦に踏み切った。これは、まさしく驚天動地の外交だった。
 武田家は、元亀3(1572)年に家康を攻め、三方原(みかたがはら)合戦が起きた。
 武田軍は、徳川・織田連合軍の真ん中を切り破った。このため、徳川・織田連合軍の鶴翼は寸断され、総崩れとなった。ところが、このころ、武田信玄と同盟していた朝倉義景が越前に撤退して、信玄は大いに落胆してしまった。やがて、信玄の体調が急変した。信玄の病気は胃ガンだと推定されている。信玄は元亀4年4月に53歳で死亡した。家康の前半生において、もっとも脅威だったのは、武田信玄だった。
本当に危いところで、信玄が死んでくれて家康は助かったというわけです。家康が26歳から32歳までのことです。これをどのように役者たちが演じるのでしょうか…。
(2022年11月刊。税込1980円)

里見義尭(よしたか)

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 滝川 恒昭 、 出版 吉川弘文館
 曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、まさしく血湧き、肉踊る武勇伝ですよね。江戸時代にベストセラーになって、今も大人気の物語です。本書は、その里見氏の実像をとことん明らかにしています。
 いやあ、戦国時代を生き抜くって、実に大変なことなんだと、思わず追体験した気分になりました。身もフタもありませんが、結論から紹介すると、里見家は結局、江戸時代初めに没落してしまったのです。
 房総から鳥取の倉吉に3万石に減封のうえ転封された。そして、倉吉の領地も取り上げられ、大名里見家は消滅してしまった(1622年)。
 ところが、里見氏が安房(あわ)を去ったあとも、一族の大半はそのまま安房の地に残って百姓や医者、村の指導者層になった。そして、改めて里見氏の歴史を軍紀ものとしてつくりあげていったというのです。なるほど、その気持ちはよく分かりますよね…。
 この本の主人公は、里見氏のなかでもっとも輝いている義尭に焦点をあてています。
 里見氏は、清和源氏八幡太郎義家の子孫で、里見郷(群馬県高崎市)を名家の地とした。里見家に天文の内乱(1533年)が起きた。これは、北条氏と密かに結んで下剋上をも起こしかねない叔父の里見義尭とそれに与(くみ)する正木氏などの勢力に対し、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と連携していた里見義豊が機先を制して誅伐を加えたというもの。
 里見氏は、強大な実力を有する北条氏と江戸湾をはさんで対峙していたが、それは江戸湾で活動する野中氏や吉原氏のような地元勢を、その配下として握っていたことによる。
 江戸湾岸に暮らす人々は、北条と里見という双方の勢力に対して年貢を納める(半手(はんて)、半済(はんぜい)と呼ぶ)ことで、安全を確保していた。
 上杉謙信が関東侵攻をしていたころ、里見氏は上杉氏と同盟関係を結んで北条氏と対抗していた。上杉氏の関東侵攻に北条氏が対応しているスキを見て、北条氏勢力が手薄になった地域に侵攻することを基本戦略としていた。
 天文の内乱に勝利して、里見家の家督と安房国主の座を得て以来、40年間、里見氏を名だたる東国の諸大名と肩を並べる地位にまで義尭は押し上げた。その義尭は1574(天正2)年6月1日に亡くなった。享年68歳。その後、里見家は秀吉の時代に、安房一国だけの領有を認められた。当主の義康が31歳で亡くなった(1600年)。
 当主が20代や30代でなくなると、配下の武士たちがテンデンバラバラになってしまうというのが、今の私にはよく分かりません。それでも、実は武士の領主も辛い立場にあって、気楽な存在ではないことだけは、よく分かりました。
(2022年8月刊。税込2530円)

最上氏三代

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版 ミネルヴァ書房
 出羽(山形)の雄将として名高い最上(もがみ)氏三代の栄衰史です。あまり期待もせずに読みはじめたのですが、いやいや、どうしてどうして、とても面白い盛衰記でした。
 初代の最上義光は家康の意を受けて、関ヶ原の戦いのとき、上杉景勝と一歩も引かずに激闘したおかげで、関ヶ原に上杉勢は行くことができなかった。その功績を家康は高く評価し、戦後、天皇に面会するとき義光を同行させたほどです。しかも、領地を一度に増やしてやりました。
 このときの家康の会津(上杉勢)攻めは、豊臣秀頼の許可を得て、秀頼から金2万枚、米2万石をもらっていた。つまり、これは家康の私戦ではなく、豊臣秀頼の承認のもとに行われた、豊臣軍による征討だった。
 ところが、石田三成が秀頼に働きかけて、家康を弾劾するようになったので、上杉景勝を征伐する大義を失った。それで、伊達政宗も二股外交に走り、上杉方と停戦するに至った。それでも最上義光は上杉勢との戦闘を続けた。しかし、上杉が120万石に対して、最上は13万石でしかない。単独で戦えば、勝敗は明らかだった。しかし、関ヶ原の戦いで西軍の石田方が敗北したことで、大きく局面は変わった。
 上杉勢に石田方敗北の報は9月30日に入った。結局、最上義光は13万石から57万石の大名となった。
 ただ、最上勢のなかに1万石をこえる大名クラスが15人もいて、山形藩の統治は難しかった。
 山形城には天守閣がない。城下整備などの土木事業は、百姓の疲弊をもたらす。最上義光は「民のくたびれにまかりなり候」と考えていた。
 最上義光は、父の義守と親子対立し、死闘を繰り広げた。そして、自分自身も子の義康と対立し、横死させてしまった。何の因果か…。
 これには、義康が豊臣秀頼の近習であったことから、家康が秀忠の近習だった家親を最上家の跡継ぎとするよう、そのため義康を排除するように義光に指示したのだろうとされています。
 なるほど、最上家にも豊臣秀頼と徳川秀忠のどちらにつくか、二つの流れがあったわけです。
 そして、その家親。家親は、秀忠の近習として、大変信頼されていたようです。ところが、家親はずっと秀忠のそばにいたため、山形藩のなかに直臣を形成することができなかったうえ、なんと36歳という若さで急死してしまったのです。
 すると、その次、三代目は、まだ12歳。いかにも頼りがない。重臣たちが、勝手気ままに分裂して、まとまりのない藩になった。そこで、「家中騒動」(重臣の不知)を理由として、改易を申し渡され、1万石に転落した。さらには、大名ではなく、5千石の旗本にまで降格された。
 最上家には、もう一つの悲劇が襲った。義光の娘が豊臣秀次に嫁入りしていたところ、秀吉に子(のちの秀頼)が出来たことから秀次は切腹させられ、同時に、秀次の妻妾たちも一挙に惨殺された。そのなかの一人に義光の娘が入っていた。しかも、娘の死を追うようにして義光の妻まで死んでしまった(恐らく自死)。
 戦国時代の武将が、なかなか厳しい人生を送っていたことを実感させられる本でもありました。
(2021年12月刊。税込3850円)

明智光秀

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 早島 大祐 、 出版 NHK出版新書
 明智光秀は医者だったようです。光秀は牢人時代に医者をして食べていたようだ。つまり、越前で牢人医師をしていた。光秀は、京都代官のとき、医者である施薬院全宗のところによく泊まっていた。
 足利義昭が没落したあと、光秀は織田信長の家臣となった。そして、京都の市政を担当する代官となった。村井貞勝と2人で代官の職務をとった。
 光秀の妹、御妻木殿(おつまきどの)が信長に側室として仕えていた。
 これは、知りませんでした。そして、この妹は光秀と信長とを結ぶ重要な役割を果たしていたというのですが、天正9(1581)年8月に死んでしまったのでした。妹は機転がきいていて、信長の意向全般に通じていたそうです。そんな重要な位置にいた妹を失ったことが本能寺の変を光秀が決断する遠因となっている、とのこと。これはまったく初めての知見です。
 信長は、訴訟の基本方針だけを示し、あとは信長の意向を忖度(そんたく)して、光秀らが裁許した。信長の指示は、「当知行安堵(あんど)」、すなわち現在、管理、運営している者を優遇せよ、というものだった。
 本能寺の変の前、信長は一族優先等に切り替え、着々と実行していた。つまり、織田一族に連なる、重代の家臣、直属の家臣たちの権威を高めていた。一族を中心に織田家中が序列化されていっていて、その意味で信長の周囲には、組織の自由な雰囲気は失われ、硬直化しつつあった。「外様」の光秀は、これによってはじき出されつつあったようです。
土地調査の方法として、秀吉は現地に出向いて調査して土地台帳をつくるようにした。これを検地という。これに対して光秀は、自らは現地に行かず、現地からの報告にもとづいて土地台帳を決定した。これを指出という。
いろいろ知らないことが書かれていて、勉強になりました。
(2020年1月刊。税込968円)

論争、関ヶ原合戦

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 笠谷 和比古 、 出版 新潮選書
 いやあ、とても勉強になりました。関ヶ原合戦についての俗説・珍説を徹底的に論破していて、胸のすくほど小気味よい論述のオンパレードです。
 私とほぼ同じ団塊世代の著者は、関ヶ原合戦論を公刊しはじめて25年にもなるそうです。なので、その論述は、いかにも重厚で、説得力にあふれています。
関ヶ原合戦において、もっとも多くの果実を得たのは徳川家康ではなく、家康に同盟して戦った豊臣系武将であった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂の所産であり、それに家康の天下取りの野望が複合したもの。
著者の関ヶ原合戦の核心は、西軍決起の二段階論にあります。第一段階では、石田三成と大谷吉継の二人だけの行動だった。この時点では、大坂城にいる淀殿も豊臣家三奉行(前田玄以、増田長盛、長東正家)も関与しておらず、むしろ会津(上杉)討伐に出征していた家康に早く上方に戻ってきて、この不穏な情勢を鎮静化してほしいと要請していた。すなわち、三成決起の第一段階では、淀殿と豊臣三奉行という豊臣公儀の中枢は家康支持だった。そして、第二段階は、淀殿も豊臣三奉行も家康討伐の陣営に加わることを決断し、家康が謀叛人と位置づけられ、三成方西軍に豊臣公儀の正当性が与えられた。
石田三成が加藤清正ら反三成派に攻めたてられたとき、家康の屋敷に逃げこんだというのが昔の通説だったが、今では誤りで、三成は伏見城内にあった自分の屋敷にたてこもったことが確定している。家康は、伏見城の外に屋敷を構えていたので、三成は、あくまで伏見城内の自分の屋敷に入って、立て籠もった。通説も間違うことがあり、変わるものなのですね。
家康への上杉方の直江兼続の挑発的な内容の書面は格好の口実を与えるものだった。これによって、上杉の会津征討を呼号し、家康は大軍を率いて出陣する。そのために上方から脱出でき、家康にとって天下とりの好機が到来した。
小山の評定は実在した。
関ヶ原合戦場に向かう秀忠の軍勢は3万8千。中山道をたどって関ヶ原に到着するはずだった。なぜ、中山道か…。その最大の眼目は、信州上田城の真田勢を制圧することにあった。この秀忠配下には、榊原康政、井伊直政、本多忠勝がいて、徳川謙代の三大武将が配属されていた。彼らは、前線を担当する攻撃型戦力である秀忠軍の軍事能力の中核をなしていた。
家康は、もし西軍が豊臣秀頼を先頭にいただいて出陣してくるような事態になったとき、果たして福島正則以下の豊臣武将たちは、家康とともに東軍として戦い続けてくれるのかどうか、大いなる不安があった。なーるほど、それはそうでしょうね…。
この不安と迷いがあったからこそ、家康の出陣は9月1日と遅れた。徳川郡の主力部隊を率いていたのは家康ではなく、秀忠だった。家康の部隊3万は、家康を中心とする本陣を守護する旗本本部隊であり、本質的には防御的な性格の部隊だった。
福島正則たち、東軍にいた豊臣武将たちは、家康に味方して三成方西軍を打倒するという意識と行動は、「秀頼様御為」への配慮が両立するものと考えていた。つまり、家康に従った豊臣武将たちは、豊臣家を見限って家康についたのではなく、豊臣家と秀頼に対する忠誠心を保持したうえで、家康に従っていた。
もし、家康ぬきで、家康が江戸にとどまったままで、この東西決戦の決着がついてしまうならば、家康の立場はどうなるか。家康の武将としての威信は失墜し、戦後政治における発言力も指導力も喪失してしまうことは明白ではないか。軍功がすべての政治的価値を決定する武家社会なのだから。家康は、岐阜合戦における豊臣武将たちの華々しい戦果の報に接したあと、前線に相次いで使者を派遣して新たな作戦の発動を停止して、家康・秀忠の到着を待つよう、繰り返し指示した。
三成側が秀頼を戦場にひっぱり出すことは絶対に避けなければならないことだった。そのためには、家康の行軍は秘匿しておかなければならなかった。
関ヶ原合戦における豊臣系武将たちの貢献度は絶大であり、秀忠ひきいる徳川軍主力軍の遅参という不測の事態がそれを加速した。
関ヶ原合戦のあと、家康は大坂城に入って、秀頼・淀殿に会っているが、まだ、このときには豊臣家側のほうが依然として家康より上位にあった。
いやはや、家康のほうも危い綱渡りをさせられていたのですね…。これこそが、まさしく関ヶ原合戦の真相だと納得できます。
(2022年7月刊。税込1650円)

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