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カテゴリー: 日本史(戦前)

小畑哲雄が語る戦中・戦後の体験

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 小畑 哲雄 、 出版 京都・114番平和委員会
 95歳になっても反戦・平和のため自らの戦中・戦後の体験を話せるというのは実に素晴らしいことです。
 1937(昭和12)年12月、日本軍は南京を占領しました。悪名高い南京大虐殺を日本軍が敢行したときのことです。このとき、日本では、南京が陥落したので、これで戦争は終わりだ、万々歳だとして提灯行列をして喜びました。著者は10歳でした。
 日本軍が真珠湾を攻撃して開戦した12月8日は、日本で月曜日なので、アメリカ・ハワイは日曜日、安息日でみんな休んでいたところに日本は奇襲攻撃をかけたのです。
 日本軍による南京攻略のとき、日本軍の若い将校2人が「百人斬り競争」というのをして、日本の新聞で連日、大きく報道されました。これは戦場で斬り込んでいって何十人も敵兵を斬ったというのではありません。すでに「捕虜」となっていた中国人(兵隊も民間人も)を並べて首を斬ったというものです。典型的な捕虜虐待ですから、国際法違反は明らかです。戦後、この2人は中国で戦犯として裁かれ、死刑になっています。
 著者は陸軍経理学校に入ります。建前としては、日本の軍隊も私的制裁は禁止されていたそうです。初めて知りました。私的制裁が公認されているとばかり思っていました。ただ、なかには本当に私的制裁をしない上官もいたようです。
 荒川さんという区隊長は、「指揮官は部下を殺したらいけない。その部下が、将来、将校になるかもしれない」「指揮官がしっかりしていなかったら、部下を殺すことになる。ようく考えて、やり方を間違えないようにしないと、組織を壊してしまう。部下を殺してしまう」と言って、著者を戒(いまし)めたそうです。この荒川さんはレーニンの本も読んでいたそうですから、たいしたものです。
この本を読んで、「召集」と「招集」の違いを認識しました。
 「召集令状」というのは、召(め)し集めるもの。「招き集める」ものではない。
 「注記」(ちゅうき)とは、兵隊になって一番先にすることは、全部の持ち物に自分の名前を書くこと。
 「上衣(じょうい)」とは、上着のこと。
「一装」は、正式な儀式のときの制服。「二装」は儀式や外出のとき着るもの、「三装」は普段着。
8月15日の終戦を告げる玉音放送では、最後に、「朕(ちん)は、ここに国体を護持し得て」と続く。「国体」、つまり国の体制、天皇制はちゃんと残ることを日本国民に伝えた。これが一番の眼目だった。
いやあ、すごい講演録でした。高齢になっても自分の体験を客観的事実も踏まえて話せるというのは素晴らしいことです。
(2023年11月刊。500円+税)

ちっちゃな捕虜

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 リーセ・クリステンセン 、 出版 高文研
 第二次大戦中の日本軍の抑留所を生きのびたノルウェー人少女の話です。いったい北欧のノルウェー人がどうして日本軍の収容所にいたのか不思議でしたが、舞台がインドネシアだと分かって納得できました。日本軍はインドシナ半島を制圧したあとインドネシアまで占領したのです。それも他と同じように凶暴な圧制を敷いたのでした。
 日本軍によって、ジャカルタ(当時はバタビア)に住んでいたノルウェー人一家である著者たちも「捕虜収容所」に入れられたのです。
 日本軍がしたことは「点呼」(テンコー)で、まず人員確認。炎天下に飲まず食わずに並ばせ立たせておいても平気です。そして若い女性を見つけるとひっ立てて行き、小屋へ連れていきます。日本兵の慰安のためと言ってはばかりません。寝るところは不潔そのもの。ネズミがいて、ゴキブリがいて、蚊がいて…。そして、とにかく臭い。悪臭のなかでの生活。
 食べ物もろくに与えられず、病気になっても薬なんか全然なし。
 次々に死者が出て、外へ運び出し、山積み状態…。本当に、日本軍(皇軍と呼んでいました)って残虐なことをしたんですね。これでもか、これでもかって、読み進めるのが辛くなります。
 日本軍が東南アジアの民衆のために解放してやったんだという言説がいかにインチキで、真実に反しているか、嫌というほど思い知らされます。
子どもたちのために秘密の教室が開かれ、そこで教えていた若い女性は日本軍に発見されると残虐なやり方で死に至ります。
 著者は「天使の死」と名づけていますが、どんなに無念だったことでしょう。
 著者はまだ10歳の、好奇心いっぱいの少女でした。よくぞ苛酷な「収容所」生活を生きのびたものです。生きるためには、少々の「泥棒」もしています。
 日本敗戦でインドネシアに平和が戻ったかというと、簡単ではありませんでした。でも、そこはまだ少女には分かりません。そして、ノルウェーに無事に帰国したあと、両親の不仲は解消されず離婚に至ったことなど、戦争の傷跡はあとあとまで家族の心のうちに深く深く残っていたことが語られます。
 そして、ドイツとは違って日本政府が責任を認めず、学校で侵略と虐殺の歴史的事実を教えていないことを厳しく糾弾しています。本当に、そのとおりです。
 過去の事実をなかったことのようにしてしまうのは、将来また大きな間違いをする可能性があるということです。大軍拡予算がまかり通ろうとしている今、読まれるべき本の一つだと思いました。
(2023年10月刊。2700円+税)

ビルマ、絶望の戦場

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版 岩波書店
 史上最悪の無謀な作戦と言われているインパール作戦をふくむビルマ戦における日本軍の死者16万7000人の8割は、インパール作戦が中止された1944年7月以降に命を落としていた。
 ところが、将兵を残して日本軍の最高幹部たちはいち早く飛行機に分乗してタイへ逃れていたのです。しかも、インパール作戦遂行にあたって強硬に作戦遂行を主張した張本人の田中新一ビルマ方面軍参謀長(中将)は、日本国内にまで無事帰還し、戦後も生き永らえて83歳で亡くなったのでした。こんなことって許されていいのでしょうか。疑問です。
 イギリス軍は日本軍の指導者について、次のように的確に評価しました。
「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、肉体的勇気とは異なる、道徳的勇気の欠如にある。彼らは、自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がない」
いやはや、まったく図星ですよね。これって…。
田中参謀長は「強気一点張り」の観念偏を振りかざし、図上作戦を強行させた。「放漫非常識」な作戦だった。
「わしが全責任をもってやる、という能力と気迫」で押し切った。
作戦に不満を表明した師団長や参謀は次々に更迭(こうてつ)された。こんなに上層部が混乱していたら、勝てるものも勝てなくなりますよね。「気迫」の前に装備がまったく欠如していた。ですから、ひどすぎます。
さらにイギリス軍による日本軍の評価を紹介します。
「日本軍の強さは、個々の日本兵の精神にあった。日本兵は死ぬまで戦い続け、行進し続けた」
「日本軍は、計画がうまくいっている間は、アリのように非常で大胆。しかし、計画が狂うと、アリのように混乱し、立て直しに手間どって、元の計画にいつまでもしがみつくのが常だった」
久留米にいまもある高級料亭「萃香園(すいこうえん)」がビルマのラングーンに出店し、ビルマにいた日本軍の高級将校たち専用の娯楽施設になっていたというのは初耳でした。彼らは、この萃香園で「女と酒の逸楽」に浸っていたのです。「萃香園参謀」とまで呼ばれていたそうですから、勇ましく偉そうなのは口先だけだったわけです。
「久留米から100名、大牟田と福岡を合わせて約30名の芸者がビルマへと行った」「その芸者たちのほとんどは借金をかかえていた」
ビルマ方面軍の司令官だった木村兵太郎司令官は「東条の茶坊主」と陰口された将軍。東条が失脚したので、東京からビルマ方面軍にまわされたそうです。
日本軍とは何か、何だったのか、「皇軍」の実態を改めて問い直させてくる本です。一読をおすすめします。
(2023年7月刊。2200円+税)

B-29の昭和史

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 若林 宣 、 出版 ちくま新書
 第二次大戦の末期、日本全土を焼け野原にしたのは、アメリカ軍による空襲です。そのときの爆撃機がB-29。日本を石器時代に戻してやると豪語していたカーチス・ルメイ将軍は、戦後、その「功績」を認められて、天皇から勲一等を授与してもらいました。当時も今も、アメリカのやることには一切タテつかない(つけない)という卑屈すぎる日本政府当局者の姿勢は不動です。
 パレスチナにイスラエルが大々的に空襲をかけ、地上軍を侵攻させても、日本政府はアメリカの顔色をうかがうばかりで、イスラエルは戦争やめろという国連の決議に棄権してしまいました。涙が出るほど、情けないです。
 B-29の開発は1940年初めに始まった。当初、B-29はトラブルの多発に悩まされた。とりわけ深刻だったのはエンジン。しばしば離陸時に火災を起こした。
 1944年に入っても、作戦可能なB-29はそろわなかった。
 B-29は全身30メートル、全幅43メートル、自重30トンという大きな機体。機内は高々度に備えて与圧される。機内の空気はエンジンの熱を利用して暖房できた。乗員は11人。爆撃搭載量は9トン。航続距離は5000キロメートルという超重爆撃機。
 B-29の生産は、ボーイング社だけでなく、ベル社もマーチン社でもおこなわれた。その部品製造には自動車産業も加わり、アメリカ工業界あげての生産体制だった。
 B-29の日本爆撃の初回は、1944年6月15日から16日の八幡製鉄所を目標とする北九州爆撃だ。アメリカ軍による日本東土空襲の始まりは1942(昭和17)年4月18日の「ドゥーリットル空襲」。このときは、B-29ではなく、B-25爆撃機。このとき、B-25が16機やってきて、空襲によって日本人50人以上が死亡している。
 高々度を飛んでくるB-29に対して、日本軍の戦闘機はまるで歯が立たなかった。
 1945年8月15日、日本が敗戦したことを告げた直後、大阪と福岡では捕虜殺害が始まった。
 1945年8月10日、福岡市内の油山で逃げなかった捕虜8人を処刑した。うち5人は斬首により、残る2人も空手の技を試されたあと、斬首。そして、8月15日の午後、玉音遊送のあと、捕虜17人の残りを油山で処刑した。
 1950年代に入ると、さしものB-29は次第に旧式化した。
 当時3歳くらいだった姉は夜にB-29が焼い弾を投下するのを見上げて「きれいかねー」と叫んだといいます。夜空の花火ならいいのですが…。
 B-29は、まさしく「空の要塞」であり、日本全土を焼き尽くしていったのでした。
 今、ガザ地区はどうなっているのでしょうか。毎日、心が痛みます。
(2023年6月刊。980円+税)

飴売り具学永

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 キム・ジョンス(文)、ハン・ジョン(絵) 、 出版 展望社
 関東大震災で日本人民衆に虐殺された朝鮮人青年の物語です。このとき数千人の朝鮮人が虐殺されましたが、この具学永(ク・ハギョン)は名前と年齢が判明していて、虐殺されたあとまもなく日本人によって墓も建立されたのでした。
 そんな例は他になく、唯一人のようです。
 事件発生から80年後、今から20年前、2003年、日弁連(日本弁護士連合会)は日本政府に次のとおり勧告した。
 「国は、関東大震災直後の朝鮮人・中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者・遺族および虚偽の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者・遺族に対し、その責任を認め、謝罪すべきである」
 残念なことに、日本政府は責任を認めることも謝罪することもありませんでした。それどころか、松野官房長官は確認できる記録がないなどと平然とウソの答弁をして開き直りました。東京都の小池都知事も同じです。自分に都合の悪い事実は認めず、シラを切って通そうとするのが、この国のトップ政治家です。ある意味で、戦前の大本営発表と共通していて、怖いと思います。
 大震災のあと、恐ろしい内容の流言飛語(デマ)を飛ばしたのは、ほかならぬ政府当局でした。9月3日、大震災の2日後のことです。東京の内務省から埼玉県に電報が届きました。
 「東京で不逞(ふてい)鮮人の不穏な動きがある。当局者は非常事態に際して適切な方策を講ぜよ」
 こんな内容です。政府が公文書で指示するのですから、多くの日本人が信じたのは無理がありません。すぐに自警団が組織され、検問が始まります。「15円50銭」と言わせて、発音がおかしいと朝鮮人だとして、警察署に収容されました。
 警察署長が、「不逞鮮人ではない」と言っても、300人近くにふくれあがった日本人の自警団員たちは警察署の中に押し入り、留置場にいたク・ハギョンを竹槍と日本刀で襲いかかって惨殺してしまったのでした。
 ク・ハギョンの体には62ヶ所もの刺傷がありました。ひどいものです。いくら狂気の集団とはいえ、ひどすぎます。何の罪もない、無抵抗の人をよってたかって刺殺してしまうとは…。
 ク・ハギョンと仲の良かった日本人青年(宮沢菊次郎)がお寺に墓碑を建ててくれるように頼んだのです。墓碑には、ク・ハギョンの故郷の住所、殺害された年月日と、28歳という年齢も刻まれ、今も埼玉の正樹院にあります。
 わずか110頁の本です。よく出来た絵によって、視覚的にも分かりやすくなっています。ぜひ、あなたも手にとって読んでみてください。
(2022年4月刊。1650円)

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