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カテゴリー: 中国

中華満腹大航海

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 酒徒 、 出版 KADOKAWA
 まだ30代も初めのころ、初めてのヨーロッパ旅行でした。スイスのジュネーブに夜も遅く着いたのに、みんな腹ペコなのです。みんなで町に出てレストランを探しました。やっと見つけたのが中華料理店です。いやあ、中華料理というのはヨーロッパで食べても日本と同じ味がするんだ…と感激しました。慣れた味ですから、まったく違和感もなく満ち足りてホテルに戻りました。その後、アメリカでもチャイナタウンに行きましたが、そこも日本と同じ日本でした。  
著者はなんと、毎日、中華料理を食べる生活を送りたくて中国に留学したそうです。いやあ、それはすごい。よほど胃腸が丈夫なのでしょうね。
 この本は、奥地をふくめて中国各地に出かけて、その大地の名物料理を食べて紹介しています。いかにも美味しそうな料理の写真がたくさんあって、なるほどなるほど、これは変わっているけれど、うまそうだなと思わせます。
 中国の都市のトップバッターは上海です。私も2度行きましたが、とてつもない大都会です。人口2500万人という、中国最大にして世界最大級の国際都市です。個人経営のローカル店は家賃高騰、強制立ち退き、営業取り締まりの強化などから次々に姿を消してしまったとのこと。きっとそうだと私も思います。上海ならではの炊き込みご飯はラードを使ったもの。
 次は雲南省。ここでは漢族は少数派。ここでは、レモン鶏の料理。そして、牛肉の激苦スープ。ところが、この苦みが、あるところでスッと消えてしまう。むしろ、さっぱり爽やかな清涼感が残る。ニガウリの苦さのようなものでしょうか…。
ここの名物にドクダミの地下茎の黒酢漬けというのがあるそうです。ドクダミなら、わが家にもたくさん生えているのですが、まさか食べるとは…。
 広州市では湯(タン。スープ)にこだわりがある。ここでは食事の初めに、まずスープを飲むのが決まり。漢方薬の素材をスープとしているので、薬膳スープを飲んでいるようなもの。
 飲茶の真価は、のんびりお茶を飲みながら、ボーッと一人で考え事をしたり、家族や友人と語らったりする時間にこそある。ふむふむ、なるほど、ですね。
福建省の厦門(アモイ)では、サメハダホシムシを食べる。海底の砂地にすむ大きなミミズみたいな生物。食感はプリンプリンで、旨味(うまみ)は上品。
ウイグル自治区のトルファンには私も一度行きました。孫悟空の火焔(かえん)山のあるところです。トルファンでは禁酒のウルムチと違って、ビールやワインには寛容。ここでは、コシのある麺が食べられる。
 山車省の青島(チンタオ)は、なんといっても青島ビール。コクのあるビールが飲める。賞味期限は、なんとわずか6日間。
 湖南省の長沙市は毛沢東の生家に近い。湖南人は、1年に1人50キロもの唐辛子を消費する。ええっ、ホントですか…。
蘇州や上海では羊肉と山羊肉を区別せず、どちらも羊肉と呼ぶ。いやあ、この二つ、違うんじゃないでしょうか…。
 たしかに、この本の写真を見て、解説を読むと、中華料理といっても、いかにも幅広く、底も深いということが実感できます。こんな豊かな食生活をもっている中国と「戦争」するなんて、とんでもないことです。いたずらに「台湾有事」をあおりたて、今にも中国からミサイルが飛んでくるかのような危機をあおり立てるのはぜひやめてほしいです。
 みんなで仲良く、ゆっくり中華料理を堪能したいものです。
(2024年12月刊。1870円)
 いま、日本の食料自給率は38%です。参政党は「自給率100%」にするとしていますが、まったく不可能なことです。農業を営む人を大切にする、減反をやめて、米作を増産するという地道な政策こそが求められていると思います。
 出来もしないことを公約にかかげる参政党はまったく信用できません。

漢字はこうして始まった。族徴の世界

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 落合 淳思 、 出版 ハヤカワ新書
 3000年以上前、中国最古の王朝「殷(いん)」で発明され、部族固有の徴章(シンボル)として青銅器に鋳(い)込まれた原初の漢字、「族徴」を紹介した新書です。
 かつて殷代の社会は氏族制だと考えられていた。実際の血縁で結ばれた集団が社会を構成していると考えられていた。しかし、近年の研究では、「氏族(クラン)」とは、必ずしも実際の血縁ではなく、仮想の祖先説話によって結合している集団だと考えられている。「同じ血筋である」という概念を共有する集団だと考えられている。その象徴のひとつとして族徴が用いられる。
 複数の血縁集団が仮想の祖先を共有して、氏族を形成したら、実際の血縁関係がないので、氏族の結束を強固にする必要がある。そこで、氏族を象徴する族徴が必要とされた。そのうえで、実際の血縁で結ばれた氏族にも族徴が普及したと考えられる。
 殷が滅亡したあと、殷系の諸族は文化を維持し、族徴を使い続けた。しかし、次の周の文化では族徴を使うことはなかった。その代わり、より大きな単位として、「姓」という社会組織を持った。姓は結婚に関わる組織であり、結婚は必ず異姓の間でなされ、同姓同士は結婚できなかった(同姓不婚の原則)。春秋戦国時代になると、族徴は使われなくなった。
 族徴は、家族(リネージ)よりも大きな単位である氏族(クラン)を表示する機能を有していた。
 族徴は青銅器だけでなく、印章(印鑑)にも使われた。族徴は漢字の一種であり、「徴」は「しるし」という意味のコトバ。
動物に由来する族徴がある。牛は貴重品だった。中国には黄河流域にも長江流域にも象が生息していた。黄河流域には虎も生息していて、人々に恐れられていた。
 殷王朝は戦車を主力兵器としていた。大諸侯は千台ほどの戦車を保有していた。
 皇帝は気前よくばらまくことが求められた。そして、この「ばらまき」に適した「威信財」として、宝貝が多用された。宝貝は、王のみが入手でき、王が与えるものだった。
青銅器に剛り込まれた古代文字を解読していくのも楽しそうですね…。
(2025年2月刊。1240円+税)

10の国旗の下で

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 エドガルス、カッタイス 、 出版 作品社
 戦前、日本が植民地として支配していた満州に生きたラトヴィア人の自伝です。ハルビンに生まれ育ったのでした(正確には、1923年2月、現在のモンゴル自治区で生まれた)。父親は満州の鉄道で働く技師。そして1926年からハルビンに勤めたのです。ソ連は東清鉄道の一部をロシアの遺産として引き継いでいました。
 ハルビンには、日本敗戦後の1950年代半ばまで外国人が数多く居住していた。ロシア正教会が26、ユダヤ教のシナゴーグが2、イスラム教のモスクが1、カトリック教会が2、ルーテル教会が1、それからアルメニア・グレゴリア教会もあった。ハルビンで中国人と結婚する白人はほとんどいなかった。いずれもロシアからの移住者の寄付によって建設された。こんなにあったのですね。
1929年、東清鉄道をめぐってソ連と中国が衝突した。しかし、中国軍はソ連の軍事力にかなわなかった。
 1931年9月、8歳の著者はYMCA(学校)に通うようになった。英語は毎日の必修。
1931年9月、柳条湖事件が起きて、満州事変が始まった。中国人は義勇軍を結成して日本軍と戦った。敵(日本軍)の銃弾を避ける呪文(じゅもん)を記した赤い紙片を自家製の酒に浸して飲み込んだ中国人たちが、日本軍の機関銃や戦車に体当たり攻撃していき、たちまち死体の山を築いた。
 1932年2月。著者はハルビンで初めて日本軍の兵士を見た。3月から、著者は「満州」に住むことになった。1934年3月、満州帝国が成立した。
このころ、ハルビンには、白系ロシア人とソビエト・ロシアの核をなす鉄道員という、相反する大きなコミュニティがあった。
 日本人は、満州に埋葬しなかったので、日本人墓地はない。
日本人は娘に花子と名づけるのをやめた。花子は、中国語で物乞いの女を意味したから。
1935年、ソ連は所有していた東清鉄道の一部を満州国政府にわずか1億4千万円で売却した。鉄道から手を引いたソ連は、以後、満州での影響力を失った。
 このころ、ハルビンは建設ラッシュだった。ハルビンのタクシー運転手のほとんどはロシア人だった。ロシア人も日本人と同じく、子どもを大切にし、教育を重視した。ロシア人のお祝いは、クリスマスと復活大祭。
ユダヤ人は、満州にも、上海や天津などの都市に数千人規模で居住していた。日本人はユダヤ人を迫害しなかった。
 満州に移住したラトヴィア人の大多数は、第一次世界大戦時とロシア革命後の難民になった。満州の大学を卒業したあとの職として公務員が人気だった。著者は、北満学院で働くようになった。
 1945年8月15日。日本の降伏から数時間すると、ハルビンの大通りに中国の国旗がはためきだした。ロシア人も自警団を組織して武装した。やがてソ連軍が進駐してきた。
 大半の中国人は、ソ連軍を心底から歓迎した。時計は、ソ連兵によって夢のまた夢のようなもので、時計に対して常軌を逸した渇望があった。
日本の手先になっていたと告発(密告)された白系ロシア系は一斉に弾圧された。
 1945年末に、ハルビン工業大学が再開された。授業はロシア語だった。著者は、ここで中国語を教えた。
 1946年6月、ハルビンの近くを蔣介石の国民党軍を支配した。
 1948年には毛沢東の人民軍が反撃して、電灯がともった。
1948年末、共産党が満州の支配を固めると、モスクワから研修生がやって来た。
1949年4月、蔣介石は台湾に逃げ出した。国民党の軍人も役人も汚職にまみれていた。
 10月1日、中国が成立した。著者は中国で10年間働いたとき、納税の義務はなかった。
 1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。ソ連から派遣された確かな知識をもつ学者たちが、中国の発展に寄与したことは間違いない。
1953年3月、ソ連でスターリンが死んだ。
そもそもラトヴィアは「バルト三国」の一つ。それがどうして中国にまで流れてきたかというと、ソ連に支配されていたから。そんなラトヴィア人の若者が満州でずっと育って戦中・戦後を生きのび、その目で見たハルビンの様子が紹介されています。満州の一断面を知ることができました。
(2024年11月刊。2900円+税)

宋美齢秘録

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 譚 璐美 、 出版 小学館新書
 ドラゴン・レディとも呼ばれる蔣介石夫人の栄光と挫折の人生を紹介した新書です。
ドラゴン・レディと呼ばれる有名な中国人女性は2人。もう一人は、清朝末期の西太后。パワフルで狡滑、短気で傲慢的、神秘的なアジア人の女傑を表わすコトバ。
宋美齢は三女で、軍人の蔣介石と結婚した。長女の宋靄齢(あいれい)は財閥の孔祥煕(こうしょうき)と結婚し、二女の宋慶齢は革命家の孫文と結婚した。
 両親は富豪でクリスチャン。上海で生まれたが、父の教育方針で、兄弟姉妹6人全員がアメリカで学校教育を受けた。
孫文が宋慶齢と出会ったのは亡命先の日本。二人は英語で会話しただろうとみられています。孫文は広東語、慶齢は上海語を話し、お互い外国語のように通じないからです。
 ところが、孫文は52歳、慶齢は22歳なので、30歳も離れているのに二人は結婚に踏み切ったのでした。
 蔣介石は勉強嫌いで、落ち着きがなかった。蔣介石もまた日本に留学した。清国人専門の軍事基礎学校・東京振武学校に入学した。蔣介石が孫文を助けたことから孫文に重用され、1924年、黄埔(こうほ)軍官学校の校長に任命された。軍人教育の仕事は蔣介石にとって天職だった。
 1927年12月、蔣介石40歳は29歳の宋美齢と結婚した。蔣介石は宋一族の一員に加わったことから、軍資金が得られるようになった。
 1936年12月、西安事件が発生。張学良が蔣介石を拉致監禁した。このとき、宋美齢も西安に乗り込み、蔣介石の解放のために動いた。
 宋美齢はアメリカに向かって、またイギリスに向かって得意の英語を駆使して激しい日本批判を展開した。
 アメリカのスティルウェル中将は蔣介石と「水と油」の関係だった。「蔣介石は無能で、アメリカが支援する価値なし」という報告書をルーズベルト大統領に提出した。スティルウェルは、国民党政府の汚職体質と、蔣介石の身勝手なやり口に腹を立てていた。
1943年2月、宋美齢は全米を講演してまわった。侵略国である日本の印象が悪化し、中国に同情する世論が高まった。
 1937年から1940年ころ、中国には四大財閥があった。宋靄齢の夫・孔祥煕の孔家、宋子文の宋家、蔣介石の蔣家、それに陣果夫の陳家。
 国共内戦に負けたあと蔣介石は台湾に移り、宋美齢のほうはアメリカに住んだ。そこは、東京ドーム3倍超の豪邸。
 2003年、105歳で宋美齢は死亡。ニューヨーク州の高級墓地には、宋美齢の墓石そのものはない。
 ドラゴン・レディの実体を少し知ることができました。
(2024年6月刊。1100円+税)

清代知識人が語る官僚人生

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 山本 英史 、 出版 東方書店
 中国には「陞官発財(しょうかんはつざい)」という言葉がある。役人になって金を儲けることを意味する。
 警察を含めて官庁に裏金があり、大問題になったことがあります。ところが、自民党の国会議員が何千万円、いえ何億円もの裏金を手にしていたことが暴露されても、それを恥じて辞めた議員はいませんし、自民党の総裁選の9人の候補者は全員が裏金問題は済んだことと知らん顔をしています。まさしく無恥厚顔の党です。こんな政党に票を入れてはいけません。そして、投票所に行かないのは、自民党に投票するのと同じです。
子どもは、勉強を始めると、儒教の基本教典を丸暗記させられる。
 童試という試験は三段階。県試、府試、院試。県試の最初の試験は、夜明けに試験場に入り、日が暮れる前に答案を提出する、丸一日の試験。
 試験の不正もあった。カンニングペーパーの持ち込み。そのため、世界最小の印刷物が生まれた。替え玉受験もあった。本人確認が難しい時代なので、案外簡単だった可能性がある。童試に合格すると、生員になれる。庶民と違った扱いを受ける。
 清朝は中国支配のため、科挙を復活させた。試験本番は2泊3日、独房のような、窓も何もない小さな部屋にこもって答案を作成する。この2泊3日を3度も繰り返すので、6泊9日を過ごすことになる。ほとんどの受験生が徹夜の状態。そして、丸々3日間、試験官以外は誰とも話してはいけなかった。
 科挙を受験するのは14万人ほどで、そのうち全国で1400人前後の挙人が誕生した。会試に合格すると、1ヶ月後に殿試がある。そして、最優秀者は「状元」という称号が与えられた。清朝268年間に、状元は114人が誕生した。
中国の知識人は、身なりを整えた者が酒に酔い潰れている姿を見るのを昔も今も嫌がる。
 中国の県は、現代日本の感覚では「市」に近い。役所の置かれた場所は県城と呼ばれ、城壁で囲まれた町の中心にある。知県は、地元を直接に統治するので、地方官とも呼ばれた。知県の二大業務は、銭殻と刑名。銭殻とは、住民税を中心とする財務行政。刑名とは、裁判を中心に紛争を解決し、治安を維持する司法行政のこと。
 知県は、硬軟両方の措置を講じて租税を確保しなければならない。思うように徴税できない知県の責任は重大で、厳しい処分が待っている。
 裁判のときは、入れ知恵し、訴訟をそそのかす訟師(しょうし)という生員崩れの専門家が背後にいることが多い。裁定(判決)を下すのが、月に40件、年に300件くらいあった。知県の午後は、訴訟の審理に当てられる。知県の俸禄(給料)は70万円ほど。
 中国では、伝統的に官僚の給料は著しく低い額に抑えられていた。
 知県は実質的な収入が莫大なものになった。年に2~3万両の給料をもらえた。官僚の世界での上司対処のコツは、敬意と忠謹にあると考えている。
 官僚は全員、3年ごとに勤務評定を受けた。不謹(不真面目)、罷軟無為(無気力)、浮躁(軽率)力不足、年老、有疾の6ランクがある。清朝の官僚には定年退職の規定がなかった。
 清朝時代の官僚の実際を知ることのできる本でした。
(2024年4月刊。2400円+税)

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