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カテゴリー: 中国

「中国」の形成

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 岡本 隆司 、 出版 岩波新書
中国の清朝といえば、強大な王権を内外ともに誇示していた存在だと思っていましたが、この本を読むと、その内実はまるで違うようです。
清朝は、明末の政体・体制をそっくり受け継いだ。権力を握った満州人は、数のうえでも組織のうえでも、そして経験のうえでも、漢人の歴史ある制度を根底からつくりかえるには、あまりに非力だった。その立場からすると、当面の苦境を克服し、眼前の混乱を収拾して生きのびるだけで精一杯の実力だった。非力な分、清朝はモンゴルに対しても、チベットに対しても、彼我の力関係に対する鋭敏で冷徹な認識をそなえていた。
ジェシェン(女真)人は、かつて12世紀に金王朝を建てた種族の末裔(まつえい)。ジュシェンのヌルハチがマンジュ(満州)として自立した。豊臣秀吉の朝鮮出兵のころのこと。
ヌルハチは、1619年のサルフの戦いで、明朝と朝鮮の連合軍を破って大勝した。
ところが、1626年、ポルトガル製の大宝(紅夷砲)に屈して、まもなく亡くなった。
後を継いだのは8男のホンタイジ。ホンタイジは、チンギス裔の血縁で権威の高いチャハル家をとりこんで皇帝に即位した。そして、大清国を自称するようになった。ホンタイジ亡きあと、ドルゴンが摂政として国を治めたが、明から清への交代は、漢人が裏面で動いてなされたものだった。ドルゴンは39歳で亡くなり、順治帝も10年おさめて、24歳で死亡した。後をついだ康熙帝はまだ9歳。8年間、辛抱したあと、権臣を排除して康熙帝はようやく実権を握った。
満州人・清朝がカオスのなかを勝ち抜き、勝ち残ることができたのは、多分に偶然であり、もっというと奇跡だった。彼らは、同時代の集団としては、必ずしも強大な勢力ではない。人口だけでみても大陸の明朝はおろか、半島の朝鮮にも及ばなかったし、モンゴルと比べてもそうだった。
相次いで押し寄せる目前の難しい局面に、生きのびるべく懸命の対処をくりかえした蓄積が、自立と興隆につながった。清朝は、それだけ自らの非力な力量・立場をよくわきまえていた。虚心な自他分析と、臨機応変の感覚に富んでいた。それが偶然・僥倖(きょうこう)を必然化させ、多元化した東アジア全域に君臨しうる資質を生み出したばかりか、清朝そのものに300年もの長命を与えることになった。
清朝はリアリズムに徹し、現状をあるがまま容認し、不都合のないかぎり、そこになるべく統制も干渉も加えようとはしなかった。漢人に対する清朝の君臨統治は、かつて「入り婿」政治と言われたこともある。
外形的に清朝の建設を完成に導いた康熙帝の当世は、内実を見たら、派閥の横行・暗闇が絶えない時代でもあった。次の雍正帝の当世は13年間。父の康熙・息子の乾隆の60年に比べると、決して長くない。だが、その治績は、父・子をはるかに上回って重要だ。
清朝が漢人を支配して大過なかったのは、漢人とのあいだにズレがあることを自覚し、緊張感をもち続けたからだ。
祖父の康熙帝は、大局的なケチ、節倹の鬼だった。これに対して孫の乾隆帝は、贅沢の権化。乾隆帝が即位したとき、清朝の在立は、なお、盤石ではなかった。最大の敵対者、ジュンガルが健在だった。
漢人社会が巨大化していき、バランスが崩れていった。清朝・満州人の複眼能力は、相対的・絶対的に衰えた。白蓮教の反乱が起きたとき、常備軍の八籏・経営が軍事的に役に立たなかった。
清朝の内実を詳しく知ることができる、面白い本でした。
(2020年9月刊。税込902円)

JUSTICE、中国人補償裁判の記録

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 、 出版 高文研
裁判の記録というタイトルから、なんとなく無味乾燥な記録ものというイメージをもって読みはじめました。すると、たちまち、そのイメージはぶっ飛び、いろんな意味で大変困難な課題に若き日本人弁護士たちが中国そして日本で苦闘し、少しずつ成果を勝ちとっていったという、人情味いっぱい、血わき肉踊るとまではいきませんが、日本と中国の関係を下から何とかいい方向に変えようとがんばった苦労を、ともに味わっている気分にさせてくれる本でした。その意味で、タイトルをもっと今どきの若者向きに、読んでみようと思わせるものにしてほしかったです。しかも、製本まで固くて、これでいったい日本の若者は手にとって読んでみようと思うのかしらんと、不安に駆られてしまいました。
 いえ、内容はすばらしいし、若手弁護士の大変な苦労が報われていく過程が見事に語られていて、読ませるのです。なので、タイトル・体裁に少し注文をつけてみたということです。ご容赦ください。
日本人(日本軍)が中国で信じがたい残虐な行為を大々的にしたことは消すことのできない歴史的事実です。ところが、多くの日本兵は中国での自らの残虐な行為について、日本に戻ってからは沈黙し、ほとんど語ることがなかった(軍当局は語らせなかった)ことから、良き父、善良な夫が残虐な加害行為なんかした(する)はずもないと内地の日本人は思い込んでいったのでした。ところが、この本には、自ら残虐行為をしたことを認め、犠牲者の遺族に謝罪した勇敢な元日本人兵士も登場します。
加害者は加害行為を忘れようとし、忘れたふりをして沈黙できます。ところが、被害者は忘れようがないのです。自分の母親が目の前で日本兵によって殺されたことを打合せ段階では日本人弁護士にも告げず、法廷でいきなり語ったという場面も紹介されています。
そして、日本人弁護士との打合せのときには適当なつくりごとを言っていたという話も出てきます。手弁当でやってきた日本の弁護士を、現地の人々は当初は信頼できなかったということです。
東京地裁で請求棄却の敗訴判決を受けて中国に説明に出かけた泉澤章弁護士は、中国側の激しい非難・攻撃を一身に受けることになった。いわば当然の状況ですが、それでも、中国人原告のなかに泉澤弁護士をかばってくれる人がいたことも紹介されています。
国家無答責の法理というものがあり、日本の裁判所の多くが、これに乗って原告らの請求を棄却した。この法理は、国の権力的行為によって生じた損害について、国は賠償責任を負わないとする考え方をいう。戦後、国の責任を認める国家賠償法が制定されるまで、国の賠償責任は否定されていた。ところが、この法理は、実は確固不動の法理ではなく、明治憲法下の判例の積み重ねによって徐々に形成されたものにすぎない。明治憲法ではなく、日本国憲法の下では、戦前の判例に絶対的に拘束されるのはおかしい。
芝池義一・京都大学教授の明快な意見書は、まったくもって、そのとおりです。
そして、もうひとつの壁は、「時の壁」。つまり「除斥」(じょせき)。これは、20年たっているから、もうダメだというもの。でも、裁判を起こしたくても起こせないような人たちに、「20年たったからもうダメ」と切って捨てるのは、あまり酷すぎる。これを打ち破るには、被害者・遺族・原告の置かれている実情を丁寧に聴きとる必要がある。
ところが、言葉の壁もあった。それは、中国の方言を北京語の通訳すら分からず、家族に言い換えてもらって、ようやく理解することになるので、実は日本人弁護士が正確に理解しているという保証はなかった。
それにしても日本の裁判官はひどいですね。国家無答責の法理で簡単に請求を棄却したり、請求権を認めると、「紛争の火種を残すに等しく、将来の紛争を防止するという観点からして有害無益」とした裁判官がいるというのです。呆れた裁判官です。この本の欠点は、そんな裁判官たちの名前が書かれていないことです。
そして、最後にもう一つ。小野寺利孝弁護士は、弁護団に加入するよう呼びかけたとき、「経済的負担はかけない」と保証したとのこと。実際には、どうだったのでしょうか…。請求棄却が相次いでいますから、国から費用をもらえたとも思えません。その点についてどうだったのか、カンパを集めてまかなったというのなら、そのことにも触れてほしいと思いました。
いろいろ注文もつけましたが、大変貴重な労作です。318頁、2500円という、ずっしり重たい本ではありますが、日本の若き弁護士たちが勇敢にも現実と取り組んだことを知って、勇気が湧いてくる本です。法曹を志す若い人たちに広く読まれることを心から願います。
(2021年1月刊。税込2750円)

「敦煌」と日本人

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 榎本 泰子 、 出版 中央公論新社
私は幸いにも敦煌に行ったことがあります。莫高窟(ばっこうくつ)にも中に入って見学しました。すごいところです。井上靖の『敦煌』は読みました。残念なことに映画『敦煌』は見ていません。そのうちDVDを借りてみてみたいものです。
井上靖は戦前の1932年に京都帝大に入学し、哲学科で美学を専攻していた。そして30歳のとき日中戦争にも駆り出されている(病気のため、すぐに帰国)。知りませんでした。戦争の愚かさも身をもって体験していたのですね…。
敦煌は、中国の西端にあるオアシス都市で、漢代より漢民族が西方に進出する際の拠点として栄えた。遠くローマに至るシルクロードにはいくつかのパートがあるが、それらが交差する交通の要衝(ようしょう)が敦煌。中国の絹はここを通って西方へ運ばれ、西方からは、玉や宝石やガラス製品がもたらされた。敦煌は東西の文化の行きかう場所だった。
敦煌の南東20キロの砂漠の中に4世紀の僧によって開闢(かいびゃく)された莫高窟がある。鳴沙(めいさ)山の断崖に穿(うが)たれた500あまりの石窟には、千年以上の長きにわたって各時代の人々によって製作された仏教壁画や仏像が遺されている。
1900年、ここで暮らしていた道士(道教の僧侶)が、偶然、大量の古文書を発見した。その後、日本からは西本願寺の大谷光瑞の主宰する探検隊が活躍した。
砂漠のなか、大谷探検隊のラクダ隊が収集品を運んでいる写真があります。私も鳴沙山でラクダに乗りましたが、意外に高くて、怖さのあまり顔がひきつってしまいました。
井上靖の『敦煌』は、行ったこともないのに、同世代の学者だった藤枝晃から資料をもらい、教わりながら、5年かけて執筆されたもの。歴史学と文学の幸福な出会いのなかに生まれた小説だ。すごい想像力ですね。戦後、井上靖は、亡くなるまで26回も中国を訪問した。これまた、とてもすごいことですよね…。
NHKテレビが1980年4月から「シルクロード」を月1回、12回にわたって放送したのが大反響を呼びました。毎回20%もの視聴率を記録するという大ヒット作品でした。石坂浩二のナレーション、喜多郎のシンセサイザーの前奏も印象に残ります。井上靖も案内人として登場します。さらに平山郁夫の絵がまたすばらしい。
この本では、日本人のあいだにシルクロードのイメージを広め、ブームを定着させた最大の功労者は平山郁夫としています。なるほど、そうかもしれないと思います。やはり、絵の訴求力は偉大です。
西安の兵馬俑と敦煌は、コロナ禍が収束したら、ぜひ再訪してみたいところです。もし、あなたが行っていなかったとしたら、ぜひ行ってみてください。現地に行って実物を見たときの感動は何とも言えないものが、きっとあります。
(2021年3月刊。税込2090円)

清華大生が見た中国のリアル

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 夏目 英男 、 出版 クロスメディア
清華大学といったら、中国の超エリート大学です。中国のトップ大学は、精華大学と北京大学。現在の国家主席の習近平、その前の胡錦涛も精華大学の卒業生です。工業系大学としては、マサチューセッツ工科大学(MIT)を抑え世界1位と評されています。
著者は、そんな精華大学の日本人学生なのです。すごいですね…。
清華大学に入ると、学生は全員が大学寮に入る。全寮制。門限はないが、消灯時間は夜の11時。4人1部屋。
清華大学のキャンパスは東京ドーム84個分の広さで、そこに5万人の学生と4千人の教職員が住んでいる。そこは何でもそろっている学園都市。
「海亀」(ハイグイ)は、開学のトップ大学に留学し、卒業したあと、中国に帰国した学生のこと。2018年の中国人海外留学生は66万人強。チャイナ・イノベーションは、海亀が牽引している。
習近平の中国共産党は「天下の人材を一堂に集めて活用する」という戦略をとっている。なるほど、ですね。
ところが、日本人学生の海外留学は減少傾向にあります。パスポートをもっている日本人は、人口の23%のみ。G7では最下位。若者が海外の治安の悪さに恐れをなして、海外へ出ていこうとしない…。
日本の大学生は、アルバイトするのがあたりまえ。ところが、中国や韓国では、学生はアルバイトをほとんどしていない。中国では学費が安く、寮費がタダで、食事も安く食べられるから…。
清華大学では、朝8時からの第1時限の講義を聞くため、自転車が集中して渋滞まで起きる。ええっ、大学内で自転車の渋滞だなんて…、信じられません。
アリババの創始者であるジャック・マーとテンセントの創始者であるポニー・マーの2人についても詳しく紹介されています。
変化の速い中国の実情の一端が日本人大学生の目で紹介されている、面白い本でした。
(2020年10月刊。税込1628円)

この生あるは

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 中島 幼八 、 出版 幼学堂
中国残留孤児だった著者が3歳のとき中国と実母と生き別れ、16歳のときに日本に帰国するまでの苦難の日々をことこまやかに描きだしています。
それは決して苦しく辛い日にばかりだったというのではありません。人格的にすぐれ、生活力もある養母から愛情たっぷりに育てられ(いろんな事情から養父は次々に変わりますが…)、近所の子どもたちとも仲良く遊び、また教師にも恵まれ、ある意味では幸せな幼・少年期を過ごしたと言える描写です。読んでいて、気持ちがふっと明るくなります。
この本には底意地の悪い人間はまったく登場してきません。「日本鬼子」と言って幼・少年期の著者をひどくいじめるような子どももいなかったようです。
著者の育ったところが、そこそこの都会ではなく、へき地ともいえる環境(地域社会)なので、お互いの素性を知り尽くしていたからかもしれません。
子どものころの自然環境の描写もこまやかで、見事です。車に乗って出かけるというと、それは自動車ではなく、牛車です。
靴は布を何枚も重ねた布靴で、養母の手づくり。友人のなかには、布靴がすり切れたらもったいないので、裸足で学校に来る子もいます。
3歳の日本人の男の子を引きとった養母は「私が育てます」と宣言し、消化不良でお腹だけが大きくふくらんでいたので、夜と朝、お腹を優しく揉んでやった。食べ物も消化のいいものにして、主食の粟(あわ)をお粥(かゆ)にして、それを口移して食べさせた。
実母は日本に帰る前に著者を引き取ろうと養母の家にやってきた。村の役人は、3歳の著者に実母か養母か選択させることにした。3歳の子は、まっしぐらに養母のもとに駆け込んだ。そのころの子どもって、やっぱりそうなんですよね。毎日、面倒みてもらっていたら、そちらになつくのが自然です…。
なので、著者は3歳のときに実母と生き別れ、16歳で来日するまで実母とは会えませんでした。それでも、その後の中国での日々は養母に愛情たっぷりに育てられたことがよくよく分かる話が続きます。
小学生のとき「小日本」と蔑称でいじめられた。そのことを教師に告げると、言った生徒は教師から補導された。しかも、行政当局から小学校に連絡がきて、日本の留置民に対して侮辱的な言葉をつかう生徒がいる。その傾向を是正するよう教育を強化せよというものだった。それは全校で徹底された。当時の中国は理想に燃えていたのですね。
あとの文化大革命のときには、日本人はスパイとか外国に内通しているとか、無謀な罪名をつけられましたが、幸いにして著者はその前に日本に帰国しています。
著者は小学校ではクラスメイトにも教師にも恵まれて楽しく過ごしたようです。章のタイトルも「愉快な学校生活」となっていて、養母に愛情たっぷりに育てられていたため、変にいじけることもなく、教師からもきちんと評価されて少しずつ自信をつけ、のびのびと楽しく過ごしたのでした。ここらあたりは、読んでるうちに楽しさがじんわり伝わってきます。
河でザリガニを捕まえて自宅にもち帰る、穀物の精製に使うローラー状の石臼で圧搾する。その絞り汁をスープに入れると、蟹(カニ)豆腐のようになる。なんとも言えない美味の感覚が今も舌先に残っている。うむむ、ザリガニをスープに入れて味わうなんて…。
著者は1955年、日本に帰国するが尋ねられたとき、次のように返事した。当時13歳なので、今の日本の中学1年生に当たるだろう。
「ぼくを無理矢理に汽車に乗せても、汽車から飛び降ります。絶対に日本へ行きません」
これは著者の本心で、誰からも強制されたものではなかった。養母の顔をうかがって言ったというものでもなかった。これは、中国で育つなかで、日本は他国を平気で侵略する恐ろしい国だという強いイメージをもっていたことにもよる。
ところが、さらに年齢(とし)をとると、外の世界への憧れ、親しい物事への好奇心が強まり、背中を押してくれた教師の言葉から日本へ帰国することになった。
このあたりの心理描写はよくできていて、なるほどと説得力があります。そして、ついに16歳のとき慌しく日本に帰国したというわけです。
400頁をこす大著ですが、なんだか自分自身も子ども時代に戻って、そのころの幸せな気分を味わうことができました。いい本です。一読をおすすめします。
(2015年7月刊。税込1650円)

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