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カテゴリー: アジア

キリング・フィールドからの生還

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者  ハイン・ニョル   出版  光文社
残念ながら映画のほうは見逃してしまいました。その映画に出演したカンボジア人が、ポル・ポト政権下の大虐殺のなかを生き延びた苛酷な体験を語っています。
カンボジアをポル・ポトとクメール・ルージュが支配したのは1975年から1979年にかけてのこと。国王だったシアヌークがクメール・ルージュと統一戦線を結成し、ポル・ポト政権が誕生しました。1979年にベトナム軍が侵攻するまで、ポル・ポト政権が続いたのです。
 ポル・ポト政権はインテリを徹底的に抹殺しました。単なる追放ではなく、文字通り大量虐殺したのです。だから、医師として働いていた著者はタクシー運転手だと詐称せざるをえませんでした。
 医師だったことを知っている人が密告して危い状況に何回も陥りましたが、一度も医師だと自白しなかったことから、なんとか命拾いをすることができました。
 クメール・ルージュがプノンペン侵攻してくるとき、交際中の彼女は著者に対して「いまなら抜け出せる」と誘ったのですが、たかをくくっていた著者は、その誘いを一蹴してしまったのです。
これは、ナチス・ドイツに全面支配される前に逃げ出そうとしなかったユダヤ人同士の会話とまるで同じです。昨日と同じ平和な生活が明日も約束されているという危想にとらわれていたのでした。平和はたたかってこそ守れるものなんですよね・・・。
逃げ遅れてポル・ポト派に捕まった著者たちは、農村へ追いやられ、そこで食うや食わずの極貧生活のなかで重労働を強いられます。生活の隅々まで、若い連中から見張られ、スパイされるという息苦しい生活が続いていきます。
 クメール・ルージュが農民に配給するのは、一日おきにエバミルクの空缶一杯のお米だけ。空腹を満たすため、野原で食べものを探す。野ネズミ、赤アリ。赤アリはスープに入れて歯触りを楽しみ、タンパク資源とする。アリの卵も料理につかう。このほか、トカゲ、タケノコ、セイヨウヒルガオ、その他の野菜をとって食べる。
 住民が健康を害していた最大の原因は、栄養失調にあった。身体の抵抗力が弱っているなかで汚い水をのんで赤痢にかかる人も多い。
 クメール・ルージュには少年兵が多い。少年たちは、まだ年端もいかないうちにスパイになり、10歳で兵士になる。
 ことのはじまりは、カンボジアを植民地支配していたフランスがカンボジア人に独立の根を植えつけてくれなかったこと。フランスは自国を統治するのに必要な教育程度の高い実力のある中産階級をつくり出してくれなかった。アメリカは、1970年にカンボジアが中道から右極化する後押しをしたため、そのせいで政治的は不均衡が始まった。そして、ロン・ノルが政権を取ったとき、アメリカはロン・ノルに腐敗政治をやめさせることが出来たし、、自らの爆撃を中止することも出来たが、そうしなかった。その誤りに気がついたときには、もう遅かった。
 アメリカの爆撃とロン・ノルの腐敗政治がカンボジアの右極化に拍車をかけた。
 コミュニストの側についた中国がクメール・ルージュに武器とイデオロギーを与えた。
 ベトナムのコミュニストは自国の利益を第一にした。そして言いたくはないが、カンボジアを崩壊に導いた一番の責任はカンボジア自身にある。ポル・ポトもロン・ソルもシアヌークも、みなカンボジア人なのだ。
カンボジア人は、面子を大事にする。カンボジア人は英語を学びたがらない。しぶしぶ覚えた単語も使おうとしない。用のないかぎり、白人とは口をきかない。
新生カンボジアの発展を祈ります。この本は1990年に発行されたものです。本棚の隅にあったのを引っぱり出してきて読みました。
(1990年5月刊。1700円+税)

原始仏典を読む

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者  中村 元 、 出版  岩波現代文庫
 仏教の経典は本当は難しいものではない。日本で仏教が難しいものだと思われているのは、日本のことばに直さないで、今から数百年前の中国のことばで書かれたものを、そのまま後生大事にたもっているから。
 パーリ語で書かれた原始仏典を「三蔵」という。サンスクリット語は、インドの雅語で、バラモンが多く用いていた。パーリ語は、南方仏教の聖典用語。パーリ語は聖典語ともいう。
老いというのは嫌なもの。なんじ、いやしき「老い」よ!いまいましい奴だな。おまえは、人を醜くするのだ! 麗しい姿も、老いによって粉砕されてしまう。
死は、あらゆる人に襲いかかる。朝(あした)には多くの人々を見かけるが、夕べにはある人々の姿が見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝にはある人々の姿が見られない。
他人が罵(ののし)ったからといって、罵り返すことをしてはいけない。善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの死は、信徒にとって永久に忘れられない出来事だった。
ゴータマ・ブッダが神的存在として描かれている文章は後代の加筆である。そうではなく、人間らしい姿が描かれているのは、多分に歴史的人物としての真相に近い。
ゴータマ・ブッダの実在は疑いなく、紀元前463年に生まれ、前383年に亡くなった。
ゴータマ・ブッダは王宮の王子として育ったが、王宮の歓楽の世界にあきたらず、出家して修行者となった。
ゴータマ・ブッダはネパール生まれの人であった。
ゴータマ・ブッダは「戦争なんかしてはいけない」と頭から言わず、諄々と説いた。
ブッダは共和の精神を強調した。共同体の構成員が一致協力して仲よく暮らすというのを大切にした。この精神をもっていると、たやすく外敵に滅ぼされることもないと強調した。 
「おれは世を救う者である。おれに従えば助かるけれども、そうでなかったら、地獄におちるぞ」そんな説き方をブッダはしなかった。
日本の天台宗は、草木も国土もすべて救われるという教えを説いた。
「南無」は「ナム」で「屈する」という意味。屈する、頭をたれる、つまり敬礼し、敬礼し奉るという意味。
インドの挨拶言葉、「ナマステー」の「テー」は「あなたに」という意味。だから、「ナマステー」とは、「あなたに敬礼いたします」という意味。
「法」という字の「サンズイ」は水で、水は水平、公平意味する。「法」は一種の神獣を意味し、直ちに罪を知る。
「マヌ法典」は、この法律によって弱者も、その生活を擁護され、強者もむやみに弱者を迫害しえない。弱いものでも法の力を借りるならば強者を支配することをインド人は早くから自覚していた。
仏教では、人間は人間である限り平等であるという立場を表明した。生まれによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
自己を愛するということが、まず自分を確立して行動を起こす出発点なのである。同様に他の人々もそれぞれ自己はいとしい。ゆえに自己を愛するものは他人を害してはいけない。 
人は、なぜ嘘をつくのか。それは何ものかをむさぼろうという執着があるから。人間が嘘をつくのは、とくに利益に迷わされたときが多い。
著は1912年に生まれたインド哲学を研究する仏教学者です。さすがに、仏教とブッダについて深い学識を感じさせられます。原始仏教について少し勉強してみました。
(2014年9月刊。1360円+税)

「トゥイーの日記」

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 ダン・トゥイー・チャム 、 出版 経済界 
かつて「ベトナム戦争、反対」の声をあげた人に、そのベトナム戦争の実情がどんなものだったのかを知るため、ぜひ読んでほしい本です。実話です。
北ベトナムで医師の娘として生まれ育ち、医師となって志願して南ベトナムの戦場へ行き、苛酷な戦場で3年あまりを過ごして、ついにアメリカ兵の銃弾にたおれた若き女医さんが、ずっと日記をつけていたのです。それを「敵」のアメリカ兵がアメリカ本国へ持ち帰り、英訳し、またベトナムで出版されたのでした。
この日記を手にして読んだ南ベトナム軍の兵士が「燃やすな。それ自体が炎を出しているから」と叫んだというのです。持ち帰ったアメリカ兵は、今、アメリカで弁護士をしています。
実は、この本を紹介するのは二度目です。前にこのコーナーで紹介したのを目に留めた「NPO津山国際交流の会」から映画のDVDを寄贈していただきました。本当にありがたいことです。もちろん日本語字幕つきです。この本とあわせて、この映画が広く日本でも上映されることを願っています。
涙なくしては読めない日記です。うら若い女性が、日々の戦場の苛酷さを紹介し、また、そのなかで人々の温かい愛情に包まれながらも、揺れる心情を率直につづっています。公開を前提としない日記ですから、若き男女の思いが交錯している様子も悩みとともに書きつづられていて、胸をうちます。胸がキュンと締めつけられます。
「午後、いつものように双胴戦闘機が村の上空を旋回していた。すると突然、ロケット弾がファーアの13の村落に投下され、続いて、ジェット機が2機、代わる代わる攻撃を開始した。飛行機から放たれた爆弾は重々しく落下し、地上に突っ込む。爆弾が炸裂すると激しい炎が上がり、煙がもうもうと立ち込める。四角い形をしたガソリン弾は太陽の光の中できらきらと照り返り、それから地面に触れた瞬間に真っ赤な火の玉が上がり、空が厚い煙で覆われる。戦闘機は唸るような轟音を上げて飛び続けている。そして旋回するたびに爆弾が投下され、耳をつんざく爆音が響き渡る」(1969年7月16日)
「昼夜を問わず爆音が空気を揺さぶり、頭上を旋回するジェット機や偵察機、ヘリコプターの轟音が鳴り響く。森は爆弾と銃弾の傷痕が生々しく、残った草木も敵が散布した薬剤のせいで黄色く萎び、枯れてしまった。薬剤は人体にまで影響するらしく、幹部たちは皆、ひどい疲れと食欲不振を訴えている」(1969年6月11日)
「アメリカ軍は昨日の朝から進攻を開始し、私たちは今朝4時に起きた。7時、敵の攻撃が始まる。私たちは壕にもぐった。壕にもぐって1時間あまりたったころ、中の雨水がだんだん増えてきて、あと少しで水面が胸元まで届くほどになった。私たちは寒さに震え、ついに耐えられなくなった。アメリカ兵がどこにいるか分からないが、とにかくここを出ると決心して、蓋を持ち上げて外に飛び出し、草むらの中にもぐり込んだ」(1969年10月30日)
「戦争はあまりにも残酷だ。今朝、燐爆弾で全身を焼かれた患者が運ばれてきた。ここに来るまでに1時間以上はたっているというのに、患者の体はまだくすぶって煙が立ちのぼっていた。患者は20歳のカインという少年だ。いつも楽しそうに笑っていた真っ黒な目は、今はただの小さな2つの穴にすぎない。茶色く焼け焦げたまぶたからは、燐の焦げ臭い煙がまだ立ちのぼっている。その姿はまるでオーブンが出されたばかりのこんがり焼いた肉塊のようだ」(1969年7月29日)
「一斉攻撃の最中でも、周囲に落とされる爆弾を見ながら、岩の隙間で日記や手紙を書き続けた」(1969年2月26日)
「日曜日の午後。日差しが強く、成熟しきった森の中を激しい風が吹き抜けている。ラジオはちょうど『世界の音楽』の時間。小さな部屋で仕事をしていると、この空間がとても平穏であることに気づく。砲弾も戦火も、肉親を失う苦しみもふと消え、胸中には、ただメロディーから生まれる感動が残るだけ」(1969年1月19日)
「日曜日。雨の後の空は快晴で、涼しい風が心地よい。木々の緑もつやつやしている。部屋のテーブルの上野花瓶には、今朝取り替えたばかりのヒマワリ。ラジオの光沢のある本棚に影を落としている。レコードからは耳慣れた『ドナウ川のさざなみ』の音楽が流れ、訪ねて来た友人たちの笑い声がしている」(1970年6月14日)
日記は1970年6月20日で終わり、その2日後、トゥイーはアメリカ兵の銃弾にたおれた。 
この日記が書かれていたのは、私の大学2年生のころから3年生のころのことです。他人事とは思えず、読むたびに涙がこみあげてきます。
才能あり、感情豊かな女性を戦争のせいで失くしたというのを実感させられます。
戦争の怖さと愚かさ、平和の大切さをしみじみ実感させてくれる貴重な日記です。
映画(DVD)を寄贈していただいて、本当にありがとうございました。
(2008年8月刊。1524円+税)

ネパール、村人総出でつくった音楽ホール

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 横井 久美子 、 出版 本の泉社 
 心がじわんと温まる、いい本です。ネパールの山中に、音楽堂をつくり、子どもたちにギターを教え、大集会で合奏を披露したというのです。すばらしいことです。こんな話を聞くと元気が出ます。
著者は、田川の亡き角銅立身弁護士が懇意にしていた歌手でもあります。私も著者のCDは何枚も持っています。聞いて元気の出る歌が私は好きです。
 ネパールには、もちろん私は行ったことがありませんが、ヒマラヤを遠望できる山地です。
 標高1400メートルの秘境。電気もガスも水道もない。山奥の大自然のなかで、自給自足で生きるマガール族64家族500人が暮らすサチコール村。
 ここに、著者はなんと8回も訪問しています。ジープを降りてから、サチコール村にたどり着くまで4時間も歩いて登らなければいけません。私より少し年長の著者は登山の経験もないというのに、これに挑戦したのでした。偉いですね・・・。
 そして、2014年3月、サチコール村に日本人の寄付によって音楽ホールが堂々完成したのです。つくったのはサチコール村の村人たち。すべて人力で、つくりあげた音楽ホールは100人を収容する。
 たくさんの写真によって、そのイメージを具体的につかむことが出来ます。
 サチコール村の食事は朝10時と夕方7時の1日2食。ただし、朝7時と午後2時にお茶の時間がある。主食はトウモロコシやお米。肉を食べることは、ほとんどない。
 村人にとって、お客をもてなす最大のものは、ご馳走である水牛の子ども。祈りを捧げてから、子牛をさばく。この村で出されるミルクも水牛のミルク。
 サチコール村の子どもは、小さい子でも自己肯定力が強く、自分はできると信じて疑わず、何でもやりたがる。また、できる子は、すぐにそれを他の子に教えたがる。
これって、いいことですよね。ネパールの山奥にも学校があり、子どもたちはそこで一生けん命に勉強しているのです。
 この村では、何か新しいことをするときには、全員集会を開いて決める。これまた、とてもいいことですね。
村人はきれい好きで、トイレもきれい。洗濯もよくするし、食器や鍋などもピカピカにきれいにしている。ただし家の中に床はなく、土の上で裸足で暮らしている。
きらきら目の輝いてる子どもたちにギター演奏を教えると、たちまち上手に弾ける子が出てきます。それで、大集会で演奏することになります。すごいことです。
やっぱり、子どもにとって必要なのは、親のたっぷりした愛情の次は、なんといっても教育なんですよね・・・。
 とてもいい本です。ぜひ、みなさん買って読んでみてください。
(2016年3月刊。1400円+税)

ベトナム・勝利の裏側

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者  フィ・ドゥック 、 出版 めこん 
 「アメリカのベトナム侵略戦争、反対」
このスローガンを大学生のころ、何度叫んだことでしょうか・・・。私の大学生のころは、世界を見渡せば、ベトナム侵略戦争まっさかり。そして、中国では文化大革命が深く静かに(不気味に)進行中でした。
中国の文化大革命は、その名前に日本でも騙された人が少なくありませんでしたが、結局、毛沢東のひとりよがりな、勝手気ままな独裁政治を貫徹するための陰謀に多くの人々が騙され、傷ついてしまったのです。その正確な実情と本質が解明されたときには、私は弁護士になっていました。
ベトナム侵略戦争が終結したのも、私が弁護士になって2年目のことでした。メーデーの日に参加した会場で知り、とてもうれしく思ったことを今もはっきり覚えています。
サイゴンの首相官邸(独立宮殿)にベトナム解放軍の戦車が突入していく映像を見ました(と思います)。ところが、このときの戦車は、実は中国製のT59型戦車だったのに、マスコミに公表されたときにはソ連製のT54戦車とされていた。
この点は、その場にいたフランス人ジャーナリストのとった写真で明らかにされた。20年たった1995年のことである。
この本によると、ベトナムの大学生は、ベトナム戦争にまったく関心を示さないとのこと。政府の教えるストーリーを小学校以来、ずっと聞かされて、うんざりしているといいます。
この本の著者は、ベトナム解放戦争の裏側で起きていたこと、そして、勝利したあとの苦難な国政運営の現実、また中国やカンボジアとの「戦争」について、政府見解ではなく、独自の取材によって論述していますので、なるほど、そういうことか、そうだったのかと読ませます。
4月30日の時点で、南ベトナム軍の50万人もの士官や兵士は基地で待機していた。自宅には戻っていなかった。
5月1日、北ベトナムは、南に「3派連合政権」は許さない方針をうち出した。政府のメンバーに「アメリカの手先」が入るのは許さないとした。
4月30日の時点で、サイゴンにいた共産党員は735人のみ。ところが、5月末までに6553人となった。
サイゴンに入ってきた北ベトナム軍の兵士は、ほとんどが貧しい農村の出身で、水洗トイレも見たことがなかった。
サイゴンでは3万世帯近くの資本家世帯が改造の対象となった。
全国の華人人口は120万人。うち100万人が南部に住み、ホーチミン市(サイゴン)に50万人以上がいた。
中国がベトナム戦争においてベトナムを支援したのは、ベトナムがアメリカを喰いとめて、中国の近くまで進攻できないようにするという狙いからだった。
1979年1月、中国軍は、ベトナムとの国境付近に45万人の兵力を集結させ、20万人を投入した。精鋭60個師団でベトナム軍を攻撃した。ところが中国軍は、長らく戦場を経ていない軍隊の弱さをさらけだした。中国は「ベトナムに教訓を与える」としたが、現実には、ベトナムこそが中国に教訓を与えた。このようにマスコミは論評した。
そして、3月上旬、中国は「勝利」宣言を出し、ベトナムから撤退した。
ベトナム政府のドイモイ政策に至るまでの苦難な歩みをたどっています。とりわけ実情を無視した北部式の経済政策は悲惨な結果を南部にもたらしたようです。
ベトナムのジャングルでたたかうよりペンによる経済政策の立案・実施のほうがよほど難しいのですね。資本家のやり方に学ばなければならないとされた。
ベトナムには一度だけ行き、ハノイとホーチミンの両方をみてきました。若々しい国です。経済政策では大きな誤りもしたようですが、これから大いに発展するのではないでしょうか・・・。
(2015年12月刊。5000円+税)

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