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カテゴリー: 日本史(鎌倉)

親鸞の信と実践

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 宇治 和貴 、 出版 法蔵館
悪人正機(この本では「正因」)説で有名な親鸞(しんらん)の教えを実践との関わりで追求した書物です。私にはとても難しくて、拾い読みしかできませんでした。私の分かったところだけを紹介します。
親鸞は権力者を頼って念仏を弘めてはならないと説いた。権力と一体化して念仏を弘めても、その内実は形式上にすぎず、念仏の真実性は失われることを熟知していた。
自律的主体の根拠となるべき念仏の教えが、従属の根拠としての念仏になり下がってしまう。弾圧する人々に対しても親鸞は憐(あわれ)みの情をもち、彼らが念仏の真実性にめざめるようにと願うことを指示した。
弾圧を受ける念仏者は、現象的には不幸だが、本当の意味で不幸なのは弾圧する側だ。なぜなら、彼らは真実が見えない人であり、聞こえない、届かない人だから…だ。
もちろん宗派は異なりますが、今の創価学会と公明党、政権与党との関係をつい考えてしまいました。
親鸞の他力信仰は、他力であるため、何もしない主体性のなさが強調され、阿弥陀仏にすべてを委ねるという言説が、現実における信にもとづく実践と無関係の主体を生みだし、ただ報恩行として念仏することのみをすすめるものと理解・解説される傾向がある。しかし、親鸞の信仰とは、そのような実践主体を成立させないものではない。
阿弥陀仏にすべてを委ねて、何もしない、できないと開き直る主体を成立させることを意味するものではない。親鸞において、阿弥陀仏に委ねるとは、廻向によって知らされた本顧にもとづいた生き方を主体的に志向する実践をともなう主体が成立するものとして理解されていた。
親鸞は、84歳のとき(1256年)、長男の善鸞を義絶した。鎌倉幕府から執拗に繰り返される弾圧によって動揺する関東の信者たちが動揺しているので、善鸞を派遣した。ところが善鸞は、親鸞の教えに従わず、かえって信者を混乱に追いこんでいた。
仏に帰依(きえ)することで利他が目的となることは、自らの欲望充足を目的としない生き方が成立すること。
信が成立することにより神を畏(おそ)れない主体が成立したということは、当該時代で無意識のうちに前提とされている価値体系から意識的に抜け出し、世間の名利等を求めなくなる主体が成立することだった。
自力の立場に立つかぎり、その閉鎖された世界からの脱出の糸口を発見できないことを深く信知している。
「非僧卑俗」。親鸞は、歴史的事実である専修念仏弾圧を契機として姿形を変え、僧でもなく、俗でもないような外見をしていたので、「非僧非俗」と言われた。しかしながら、親鸞の「非僧非俗」宣言は、親鸞の内面において行動を根拠づける信念と、親鸞が行動を繰り広げる歴史社会とを分断することなく、信心に根拠づけられた、歴史社会での具体的立場の宣言だった。
要するに、親鸞も鎌倉時代という歴史的事実を前提として、主体的に生きることを考えていたのであって、「あなたまかせ」のような脱主体性とは無縁だったということだと理解しました(これであっているでしょうか…)。
これは、12月の半ばの日曜日の午後、一生懸命に読んで勉強した成果です。
(2021年8月刊。税込3300円)

鎌倉殿と執権北条氏

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 坂井 孝一 、 出版 NHK出版新書
なぜ源頼朝が苦労してうちたてた鎌倉幕府が、いつのまにか妻・政子の出身母体である北条氏一門で牛耳られるようになったのか…。北条政子は自分の子より、なぜ実家を大切にしたのか…。鎌倉時代には不思議なことが多いですよね。
源頼朝が伊豆で挙兵したとき、まず一番にやったのは山木攻め。このとき、わずか3~40人ほどの兵力で奇襲をかけた。この奇襲において北条氏は頼朝軍のまさしく中核だった。
ところが、石橋山合戦では頼朝軍は大敗し、頼朝自身も闘わずして上総・安房(あわ)に逃れた。
鎌倉時代には、敵対者の子が男なら、たとえ赤ん坊や幼児であっても命を奪うのが常だった。
このころ、武士は、恩を施してくわる者こそ主君だとみていた。
源平合戦の一つとして有名な「富士川の戦い」においては、甲斐源氏はともかく、兵力差におじけ(怖気)づいた追討軍のなかから数百騎が脱走したため、やむをえず撤退したのではないか…。
北条義時は、忠実なる御家人として頼朝に仕えた。
北条時政は、頼朝の期待にこたえた。ただし、少し調子に乗りすぎた。
頼朝自身は53歳で死亡。政子は、源家の若い当主である頼家を支える家長。御家人たちも政子の意見には従った。頼家は「暗君」ではない。積極的に幕政に関与し、将軍親裁(しんさい)を執行していた。
「比企(ひき)の乱」は、追いつめられた北条時政ら北条氏の側が仕かけたクーデターであり、その実態は「北条の乱」と呼んだほうがいい。
源実朝が鎌倉殿を承継したときは、わずか12歳だった。このときから北条時政の独走が始まった。
牧氏事件は、政子と北条義時ら、方丈時政前妻の子たちが将軍実朝と協力し、時政と後妻の牧の方を追放した事件。
北条義時は、情勢分析がうまく、適切なチャンスが来るまで、じっと待機していた。チャンス到来と判断すれば果断、迅速に行動した。
和田合戦で和田義盛の和田氏が滅びてしまった。
承久の乱における北条氏と後鳥羽上皇の駆け引きが詳しく紹介され分析されているところは、なるほど、そういうことだったのかと思わず膝を叩いてしまいました。
後鳥羽上皇が許せなかったのは、大内裏(だいり)焼失の原因をつくった鎌倉幕府が再建に協力しないこと。
後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発した。これに対して、義時の姉の政子が動いた。「尼将軍」政子の演説は、今も日本史上に残る名演説です。このとき、政子は簾中(れんちゅう)から言葉を発するという手続を踏んだ。この政子の演説によって御家人たちは激しく心を動かされた。
このとき、後鳥羽上皇が命じたのは、朝敵義時の追討だったのに、あたかも幕府本体への攻撃だったと政子はうまくすりかえた。すなわち、政子は義時追討を「三代の将軍の遺跡」幕府そのものへの攻撃であるかのように巧みにすり替えた。
そして、幕府を構成する御家人たちの危機感があおられ、鎌倉幕府の解体の危機がつきつけられた。その状況からして、御家人たちには「鎌倉方」を選択するしかなかった。
義時の率いる鎌倉勢は、圧倒的な実戦経験があった。和田合戦などで実戦を通じて学んでいた。これに対して、京方の将兵は実戦経験に乏しかった。
後鳥羽上皇は、さすがに「治天の君」として策略を立て、三段がまえの戦略を立てた。しかし、万が一に備えておくこともしなかった。
執権北条って、決して盤石ではなかったということがよく分かりました。歴史のダイナミックを実感させられる本です。
(2021年9月刊。税込1023円)

徒然草

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 川平 敏文 、 出版 中公新書
「徒然草」の著者を「吉田兼好」とするのは正しくないとのこと。驚きました。「卜部(うらべ)兼好(かねよし)」か「兼好法師(けんこうほうし)」が正しいというのです。というのも、「吉田」というのは、卜部(うらべ)氏の一流が室町時代以降に名乗った姓だから、なのです。
兼好は、在京の侍のような存在だったが、30歳のときに出家し、「遁世者」(とんせいしゃ)として公家社会にも出入りするようになった。世の交わりを絶ち、ひとり静かに草庵に暮らしていた「隠者」ではない。ええっ、そ、そうなんですか…。
兼好は、公家に出入りしながら歌人として活動し、40歳から50歳のころに「徒然草」を執筆し、75歳ころに亡くなった。兼好自筆の「徒然草」原本は存在しない。
兼好が章段番号を割り振ったこともない。
「徒然草」には、「枕草子」のような文学性、「大草子」のような実用性、漢籍の「随筆」および「詩話」、「歌話」のような学術性、いくつかの特徴がごちゃまぜに存在している。話材の多様さ、表現の的確さ、評論の鋭利さにおいて「徒然草」に伍しうる作品は、それ以前にも以後にも、おそらくない。
「徒然草」には、朱子学をベースとして現実主義的・合理的な思弁が認められる。
「つれづれなるままに」は、「退屈なので」「手持ち無沙汰で、所在ないままに」の意。「なすこともない所在なさ、ものさびしさにまかせて」と解される。かつては、「さびしき」であって、「退屈」と解するのはなかった。
「つれづれ」は漢語の「徒然」)とぜん)と同義で、「冷然」「寂莫」の意。
筑後地方の方言に、「とぜんなか」というのがあります。ひまで退屈しているという意味で使われる言葉だと思います。この本によると、「とぜんなか」という方言は全国各地に残っているとのこと。これまた驚きです。古語が方言として残ったからでしょう。同じように、お腹が減ったという意味で「ひだるか」とも言いますが、これまた古語の「ひだるし」からきた方言です。
大学受験で必須の古文を改めて勉強した気分になった本です。
(2020年3月刊。税込990円)

中世の裁判を読み解く

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 網野 善彦・笠松 宏至 、 出版 学生社
45年以上も弁護士をしている私は、日本人は昔から裁判を嫌っていたと高言する人に出会うと、とても違和感があります。裁判が大好きな人も少なくないし、弁護士を言い負かすことを生き甲斐にしているとしか思えない人もいるという日頃の実感があるからです。
聖徳太子の「和をもって貴しとなす」をもってくる人がいたら、このコトバは、それほど争いごとを好む人が昔から多かったので、おまえらいいかげんにしろ、平和(平穏無事)が一番なんだぞとさとしたコトバなんですよと反論し、教えてやります。誤った思い込みほど怖いものはありません。
この本は鎌倉時代の裁許状(今日の判決文)を歴史学の二大巨頭が対談形式で解説しているものです。これを読むと、日本人は昔から裁判が大好きな人間だったんだなと、つくづく思います。
鎌倉幕府の裁許状ほど、内容の豊かな文書群はあまりない。これは、鎌倉幕府の裁判制度が、前近代においては、世界史的にみても例のないほどに充実した手続にもとづいて行われていたことによる。
裁許状とは裁判における裁許、すなわち判決の内容を記した文書。裁許状のほとんどは、下知状(げちじょう)と呼ばれる文書形式を採用していた。
鎌倉幕府は、執権北条泰時のイニシアティブのもとに、法曹系評定衆を起草者として制定された御成敗式目(ごせいばいしきもく)51ヶ条を定めた(1232年)。
この本の一番目の裁許状で地頭が敗れたのは、証人たちから裏切られたからとなっています。
このころ村の中に湯屋があり、それは、集会の場所であり、刑罰の場所であり、饗応する場所でもあった。湯屋は、風呂というよりサウナのようなもの。
百姓は、それぞれ栗林をもっていた。栗の木は、建築用材だった。
中世の日本では、和与(わよ)とか贈与という行為が非常に大きな意味をもっていた。
代官は必ず荘園の現地に来て、きちんとつきあっていた。正月には、百姓たちと盛大に酒を飲む。そのときの酒がまずいと百姓たちが問題にした。百姓は、一面でいえば、そんなにヤワではない。この費用は、お祭りの費用と同じく、必要経費として控除された。
遠くから客が来ると、必ず接待するというのは、日本社会の基本的な儀礼になっている。この接待費も必要経費として年貢から落せる。
訴訟を公事(くじ)というのは、訴訟はおおやけごとだから、公事というようになった。つまり、公の事務ということ。
詳しい裁許状(判決文)があるということは、原・被告の双方が詳しく書面で主張を展開していたことを前提としています。当事者間で書面による激しい応酬があっていたのです。
鎌倉幕府には、民事訴訟専門の機関として引付(ひきつけ)制度があった。3~5方の部局に分かれ、訴訟を審理し、判決の原案を評定会議に提出した。この引付制度の発足によって鎌倉幕府の訴訟制度は急速に発達した。
もうひとつ、よく分からないなりに、裁許状についての議論を読んでいきました。唯一分かったことは、鎌倉幕府は刑事裁判だけでなく、民事裁判も大切に扱ってきたということです。裁判は人々の関心の的(まと)だったのでした。むしろ今のほうが、民事も刑事も裁判に関わりたくないと高言する人が増えているようで、そちらがよほど心配です。
(2007年8月刊。2400円+税)

承久の乱

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 坂井 孝一 、 出版  中公新書
承久の乱は、一般には後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒す目的で起こした兵乱とされています。しかし、この本によると、最近では、後鳥羽上皇は執権北条義時の追討を目指しただけで、倒幕ではなかったとされているとのこと。知りませんでした。
そして、後鳥羽上皇についての、時代の流れが読めない傲慢で情けない人物という人物は誤解であって、今では「新古今和歌集」を主導して編纂した優れた歌人であり、諸芸能や学問にも秀でた有能な帝王だったとされています。
同じことは、暗殺された三代将軍の源実朝(さねとも)にもあてはまる。実朝は「政治的には無力な将軍」のイメージが強いが、実は将軍として十分な権威と権力を保ち、幕政にも積極的に関与していた将軍だった。さらに、後鳥羽上皇の朝廷と源実朝の幕府は、対立どころか親密な協調関係を築いていた。実朝が暗殺されたことは、鎌倉幕府だけでなく、朝廷に衝撃を与え、乱の勃発に重大な影響を及ぼした。
このような序文を読んだら、いやおうにも本文を読みたくなるではありませんか・・・。
承元3年(1209年)、鎌倉幕府では18歳になった三代将軍実朝が将軍親裁を開始した。実朝は、主君としての穀然たる姿勢と気概をもち、統治者として次々に政策を打ち出して成果をあげていった。
実朝は、地道な努力を積み重ねて擁立された将軍から、御家人たちの上に君臨する将軍へと自立し、その権威と権力で御家人たちを従えていた。
将軍実朝のもとで、和田合戦が始まり、北条義時が和田義盛の一族を滅ぼした。この和田合戦のあと、将軍と執権とが直接対峙することになった。
北条政子、義時そして大江広元らの幕府首脳部にとっても、実朝暗殺による突然の将軍空位は想定外の危機だった。
実朝は、後鳥羽上皇の朝廷から支援を受け、頼朝をはるかに超える右大臣・左近衛大将という、武家ではとうてい考えられない高い地位に昇った大きな存在だった。
後鳥羽上皇の院宣は、問題が幕府の存続ではなく、北条義時の排除一点にしぼられているうえ、最大の関心事である恩賞に言及していて、御家人に受け入れやすい内容になっていた。後鳥羽上皇が目指したのは、北条義時を排除して鎌倉幕府をコントロール下に置くことであって、倒幕でも武士の否定でもなかった。
北条政子は、金倉幕府創設者の未亡人にして、二代、三代将軍の生母、従二位という高い位階をもち、幼き将軍予定者を後見する尼将軍として、聞く者の魂を揺さぶる名演説を行った。そして、そこには北条義時ひとりに対する追討を、三代にわたる将軍の遺産である「鎌倉」すなわち幕府そのものに対する攻撃にすり替える巧妙さがあった。幕府存亡の危機感を煽られ、御家人たちは異様な興奮の中で、「鎌倉方」について「京方」を攻めるという選択をした。
このとき「京方」を迎撃する戦術をとっていたら、幕府の基盤である東国武士が離反する恐れがあっただけでなく、長期戦となれば、畿内の近国や西国の武士たちが大量に朝廷側の追討軍として組織される可能性もあった。
「鎌倉方」は8年前の和田合戦で激闘を経験ずみであったから、戦況に応じた適格な指示を出すことができた。
「承久の乱」の敗北によって、「京方」は三人の院が流罪になる「三上皇配流」という前代未聞の結末を迎えた。後鳥羽上皇の流人生活は19年に及び、60歳で隠岐島で没した。あとの2人の上皇もそれぞれの配流地で死を迎えた。
歴史を学ぶことは、人間と社会を知ることだと、つくづく思わせる新書でした。
(2019年1月刊。900円+税)

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