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カテゴリー: 日本史(鎌倉)

恋する武士

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)

著者 関 幸彦 、 出版 講談社学術文庫

藤原保昌は藤原道長・頼通の二代に仕え、「都の武者」として知られ、丹後国司となった。『和泉式部日記』で名高い和泉式部は、保昌の妻となっている。式部(35歳)が道長の娘彰子のもとに出仕していたころ、保昌(52歳)との出会いがあった。和泉式部は多情多恨の女房歌人として知られる。

あらざらむこの世のほかの思ひ出に、いまひとたびの逢ふこともがな

式部の娘が小式部内侍。

大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立

保昌は文・武両者の性格を有し、軍記作品で平安武者の原点とされる。

平安武者には、身分上昇をはかるべく摂関家に従属し、ときには政敵の暗殺をもいとわない側面を有するという共通の属性があった。

王朝武者の「兵の道」は、ときとして算術的な・ドライな世界だった。目的のためなら手段を選ばずというのは、生き抜くための「知恵」にほかならなかった。結果がすべてだった。

西行は、頼朝と同じく、武人にして歌人だった。そして、西行は恋する男でもあった。

思ひきや富士の高嶺に一夜寝て雲の上なる月をみんとは

西行が出家した原因について、『源平盛衰記』は、「恋の故」とする。

文覚上人は西行を嫌った。遁世した以上は仏道に専心すべきであって、歌道への執心は許されないと批判した。

文覚上人が出家したのは、恋慕する女性を殺してしまったことから。文覚は、恋に命をかけるほどの激情家だった。

武士出身である滝口入道(斎藤時頼)は、同じく恋ゆえに出家した。

最愛の夫が無常の道におもむいたとき、多くは後世を弔うため、妻妾も出家した。

平氏政権は、鎌倉政権と同じく、中世的な体質を有した武家政権である。

平家一門は、貴族以上に貴族らしくというのを模範とした。

義経は「恋する武士」として20余人の女性とまじわった。

曽我兄弟の仇打ちは、象徴的な事件だった。

有力御家人の安達景盛の恋女房を将軍頼家が横取りし、これを知った景盛が激昂、攻撃しようとした。

中世は自力救済がすべてだった。

北条時政は妻の牧ノ方と夫唱婦随の関係にあったが、これが時政晩年に政子・義時との関係を悪化させ、自身の更迭を招いた。

頼朝が挙兵したとき、時政は43歳。頼朝死後、遠江守に就任したのが63歳、頼家更迭(比企事件)のとき66歳。2年後に時政は退場。

鎌倉武士の世界を、色恋の観点から見るという視点が、とても新鮮で面白く読みました。

(2025年11月刊。1100円)

平家物語と太平記

カテゴリー:日本史(鎌倉)

 

(霧山昴) 

著者 足立勇一 、 出版 朝日カルチャー 

源義経が源頼朝より圧倒された経緯が、この本を読んでよく理解できました。

一の谷合戦において、源義経は「ひよどりごえ」の逆落としという奇襲によって勝利したとされていますが、それは単なる伝説であって、史実ではないとしています。まず、一の谷の背後の崖が「ひよどりごえ」というけれど、現地の地形と合致しない。源義経は「ひよどりごえ」を多田行綱にまかせ、自分は一の谷を攻めたというのが実際。

屋島の戦いのとき、源範頼軍が主力で、こちらは九州に向かって進軍した。源義経は遅れて京都を出発し、瀬戸内海の現地の豪族、武士たちを統合して、屋島に進撃した。

そして、引き続いて、壇ノ浦の合戦にのぞんだ。このとき、大きかったのは、熊野三山を統率する田辺別当の湛増を引き込み、熊野水軍を率いて壇の浦に進撃した。

義経水軍の中核は熊野水軍と阿波水軍なので、平家軍よりはるかに強大だった。まず源義経は瀬戸内海の制海権を掌握した。他方、平家のほうは食料も武器も補給がままならない状況で、明らかに劣勢。勝負は始まる前からついていた。

敗北を悟った平家一門は次々に入水した。このとき、二位尼は安徳天皇を抱いて、「海の底にも都はありましょう」と言い聞かせながら入水した。

これは源頼朝にとっては大きな誤算だった。三種の神器のうち宝剣と神璽(しんじ)をもっての入水だった。神璽は回収されたが、宝剣は海の底に沈んだ。

義経が平家に降伏の機会をあたえず、性急に攻撃した結果、頼朝の終戦構想(三種の神器の回収)とはまったく異なる形で源平合戦は終結した。これが頼朝と義経の対立の伏線となった。

また、戦功を立てる機会を奪われた源範頼下の東国武士たちから義経は恨まれることになった。その意味で、義経の孤立と没落は必然だった。

頼朝は、義経が鎌倉に入るのを禁じて待機を命じた。頼朝は、自分の許しをえずに勝手な行動を繰り返す義経に深い怒りを覚えていた。なるほど、そういうことだったのですか……。

平家物語、そして太平記の生い立ちと位置づけをしっかり理解することができる本でした。

(2026年1月刊。990円)

運慶講義

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)

著者 山本 勉 、 出版 新潮社

 運慶は平安時代の末に、奈良仏師・康慶の子として生まれた。運慶は、平安時代から鎌倉時代にかけての70年あまりを仏師として、数々の名作をつくり出した。

法橋(ほっきょう)の上は法眼(ほうけん)で、その上の最高位は法印。運慶の前、三派仏師と総称される三系統があった。円派と院派そして、奈良仏師。

 玉眼(ぎょくがん)とは、木彫像の眼の部分をくり抜いて、内側から瞳を描いた水晶のレンズをはめこむ技法。仏像を生身仏(しょうじんぶつ)として表現するための手近な工作として、また光沢ある眼球の現実感を表現する画期的な技法として、鎌倉時代以降、一般的となった。生身仏とは、生身の身体をもった仏、すなわち現生に具体的な形をあらわした仏像のこと。

円成寺大日如来像は、まるく張った頬や、胸を張って高い位置で智拳印を結び、腰をひきしめて坐る姿勢は緊張感に富み、はずむような若々しい肉体として表現されている。構造はヒノキ材の寄木(よせき)造りで、玉眼を獃入する。

 源平合戦の渦中で、東大寺・興福寺が焼かれ、大仏ほか多くの古像が失われた。それを知った右大臣の九条兼実(かねざね)は、「仏法王法、滅亡しおわんぬか」と、慨嘆した。

 正願院の本尊弥勒像をつくったのも運慶だった。北条時政のために仏像をつくったのも運慶である。

願成就院の毘沙門天像は、不動の筋肉が隆々と盛りあがり、毘沙門の甲(よろい)はたくましい肉体を内側に封じこめて、はりきれんばかり。そこには、ある種の野趣さえ感じさせる。

 六波羅蜜寺の地蔵菩薩像は堂々たる体軀や流動感に富んだ衣文になっていて、凛々(りり)しさをもった秀麗な面貌である。

 快慶は運慶の僚友にあたる。康慶門下の両雄といえる。

運慶は建久8(1197)年5月から翌年の冬にかけて、大仏師として小仏師数十人をひきいて東寺講堂内の仏像の修理にあたった。

 高野山の一心院にある八大童子像も運慶作とされている。運動感に富む体軀と玉眼のきらきら光る表情をもつ童子堂はいきいきと動き出しそうである。

 運慶は早くから京都を本拠にしていたと思われ、京都の貴族社会や宮中との関わる姿が目立つ。後鳥羽院政権の造像にも運慶は食いこんだ。

 東大寺俊乗堂の重源坐像は、深くくぼんだ上瞼、左右の大きさの異なる眼、たるんだ下まぶた、こけた頬、固くへの字に結んだ口、筋と皮だけの頸など、その老貌の写真は容赦ないほどに克明。

 運慶は法印という極位にのぼった。建仁3(1203)年のこと。同じく快慶も法橋となった。

 奈良の名だたる仏像をつくり出した運慶の足跡を、仏像の解説とともにたどることが出来ました。

(2025年8月刊。2750円)

吾妻鏡

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 藪本 勝治 、 出版 中公新書
 「吾妻鏡(あずまかがみ)」は鎌倉幕府の歴史を詳細かつ生き生きと記録している。しかし、実は、これはすべてフィクションであることが今では判明している。
 ええっ、そ、そうなんですか・・・。誰が、いったい、何のために、虚構のストーリーを考えたというのでしょうか。それを解明している本書の著者は、なんとかの有名な灘(なだ)中、高校の教員なのです。さすが灘の教員のレベルの高さに恐れ入ります。
徳川家康も「吾妻鏡」の愛読者の一人だった。
「吾妻鏡」は、一見すると正式な記録のようだが、実は意外に杜撰(ずさん)である。有名な以仁王(もちひとおう)の令旨や義経の腰越状も偽文書の可能性が高い。
 「吾妻鏡」は、北条貞時による得宗(とくそう)政権がいかに正当なものであるか、いかに絶対的なものであるかを、歴史的に裏付けるための過去像を創出した物語である。
 そもそも貴族と武士とは対立関係でとらえられるものではなく、幕府のアイデンティティは、貴族社会の中心たる王権を守護することにあった。
 「吾妻鏡」の主眼は、京都に対する東国の主張というところにはなく、あくまで得宗家の歴史的正当性を裏付けるところにある。
 頼朝が以仁王の命により挙兵したというのは虚構である。頼朝の挙兵は、清盛に幽閉されていた後白河院の密命によるもの。そして、義経が頼朝の同意を得ずに任官したというのも「吾妻鏡」の創作で、実際には頼朝の合意があったと考えられる。
 頼朝の妻・北条政子が嫡男・頼家を産むと、北条時政にとって義経は鎌倉殿の外戚になるうえで邪魔な存在となっていた。
 頼家が頼朝を継いで鎌倉殿になったが、この二代目将軍の評価は低い。しかし、実のところ頼家は有能で意欲的な政治家だった。訴訟も論理的かつ公平に裁許していた。
 そして、梶原景時は頼家政権にとって不可欠の有能な幕臣だった。
 これを此企能員(よしかず)と北条時政が危惧し、協力して追い落としたと考えられる。
 「北企(ひき)氏の乱」と呼ばれる事件の実態は、むしろ「北条氏の乱」というべきもの。自家のため、北条時政が此企能員を謀殺し、北条政子が我が子・頼家を押し込め、北条義時が一幡・頼家を暗殺したというもの。
 このとき、一幡が廃され、実朝が将軍に就いたことこそが、その外戚の北条氏の立場を確立させ、執権政治そして得宗専制の時代を導いた転換点であった。
 和田義盛が挙兵し、結局、討たれてしまった「和田合戦」は、侍所と政所の別当を兼ね幕府最高職としての「執権」という地位を誕生させた事件である。
 三浦氏は北条氏に匹敵しうる強大な御家人であった。
 すごいです。鎌倉幕府の内実をことこまかく分析し、認識していなければ、とても書けない詳細な記述に圧倒されてしまいました。
(2024年8月刊。1100円)

海を破る者

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 今村 翔吾 、 出版 文芸春秋
 日本が外国の大軍によって襲撃・占領されたのは、先のアメリカ軍と、その前の元冠(中国・元軍と朝鮮・高麗軍)だけですよね。朝鮮半島へ出かけて行って、白村江の戦いでは日本は大敗しています。文禄・慶長の役ではいったんは朝鮮のほぼ全土を制圧したかと思うと、結局はほうほうの態(てい)で日本侵略軍は日本に逃げ帰ってきました。その次は、またもや朝鮮侵略そして台湾支配ですね。
 そこで、元冠です。先日、テレビで唐津あたりの海底に眠っている元の船の発掘調査の模様、そして、その意義を語る番組が放映されていました。
元軍は4000隻もの大量の船で日本に押しかけてきて、日本占領を企図していたようです。ところが、事前予想に反して、日本軍は乏しい武器を駆使して最大限の抵抗をしたので、元軍がもたもたしているうちに台風(神風)が吹いてきて、元軍の船のほとんどは沈没してしまいました。その結果としての海底に眠る元軍の船の遺構をじっくり観察すると、当時の科学技術水準も分かります。
 さて、この本です。主人公は河野(こうの)水軍である河野家の当主。そして、一遍(いっぺん)上人が登場します。一遍上人は、もとは河野一族に連なる存在でした。さらに、合戦屏開で有名な竹﨑季長(すえなが)も登場します。これまた、先日、テレビで、この合戦屏風を見ましたが、実にリアルな合戦状況の「再現」ですよね。描いた画師が合戦に参加したはずはないと思うのですが、その迫真さには圧倒されます。
 瀬戸内海を拠点とする河野水軍は船戦(ふないくさ)を得意とする。船戦において重要なのは、常に風上をとること。そうすると、敵に接近することも退却することも容易だし、矢の飛距離にも対応できる。風上をとるためには、船の速さが重要。大型の船は動きが鈍(にぶ)いと素人は考えがちだが、実際は逆。大型船ほど大きな帆を付けることができるし、櫓(ろ)を多く出すこともできる。
 蒙古帝国は、かつて一度たりとも侵略をあきらめたことがない。それなのに、日本侵略に2度も失敗し、3回目は企画倒れで終わってしまったのは、なぜなのか…。
 「神風が吹いた」というのは、いったいどういうことなのか…。
 いろいろ考えながら、面白く読みすすめました。
(2024年6月刊。2200円)

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